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蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。

蒲生氏郷公像

右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。」と解説されている。
ところが、氏郷は朝鮮出兵文禄の役に参陣したのち肥前名護屋城陣中で下血し、以降体調を崩して、文禄四年(1595)に40歳の若さでこの世を去っている。

蒲生氏郷は日野に生まれ育ったのだが、日野城主であったのは天正十年(1582)から天正十二年(1584)とかなり短く、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島に転封されて日野を去ったのは28歳であった。

若くして日野を去ったにもかかわらず故郷に名を残した蒲生氏郷が、どのような人物であり、どんな人生を送ったのかを最初に振り返っておこう。

蒲生氏郷は弘治二年(1556)年に六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣であった蒲生賢秀(かたひで)の三男として近江国蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従したという。ところが、この時十三歳であった鶴千代が織田信長に気に入られることになる

『名将言行録』にはこう記されている。
信長これを見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ。天晴(あっぱれ)なる若者哉。信長が娘に合わせんとて、岐阜城に止め、弾正忠*の一字を賜わり名を忠三郎と賜う
 信長の前にて、毎度武辺の談論あり。氏郷年十三。常に座に在り、深更に及ぶといえども、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本(くちもと)を守り居たり。稲葉貞通(さだみち)これを見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉(ひとかど)勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者はあるまじきと言われけり。
 (永禄)十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四。ただ一人抜掛し、多勢の中に戦い、能き首取りて帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取りて賜わりけり。是より大小の戦功、数うるに遑(いとま)あらずや
。」
*弾正忠家:戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清州三奉行の一つに織田弾正忠家があり、織田信長はこの家系に属する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/39

氏郷は、初陣で戦果を挙げたのち信長の次女を娶って日野に帰国し、元亀元年(1570)の朝倉攻めや姉川の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなどに従軍して、数多くの武功を挙げている。

安土城絵
【安土城】

天正十年(1582)に本能寺の変が起こった時に、日野城で事変の情報を聞いた氏郷は安土城にいた父・賢秀に連絡し、城内にいた信長の一族を安土城から日野城に移動させてお守りしている。そののち賢秀から家督を継いだというが、氏郷はその年の12月に十二ヶ条の掟を日野城下に出して、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して地域経済の活性化を図ろうとしたのである。

信長亡き後は、氏郷は秀吉に付くこととなり、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際は秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務め、戦いのあとで12万石に加増されて伊勢松ヶ島に転封となっている。したがって蒲生氏郷は、日野城主としては2年程度務めたにすぎないということになる。ついでに言うと、氏郷の実子2人はいずれも早世し、長男の子も早死にしたために蒲生家は寛永十一年(1634)に断絶となっているのである。

仁正寺藩邸跡
【仁正寺藩邸跡】

一方、蒲生家の居城であった日野城は、関ヶ原の戦いののち廃城となり、慶長十一年(1606)に破却されているが、元和6年(1620)に市橋長政が仁正寺藩を立藩して日野城の跡地に藩邸を建設し、その後明治四年(1871)まで251年もの間、市橋家が日野を治めている。

日野の人々にとっては市橋家のほうがはるかに長い付き合いであったことになるのだが、「郷土の誇り」とする人物を選ぶとなると、今も蒲生氏郷の名が最初に挙がるようなのだ。
その理由は、彼の人望の高さもあるのだろうが、任期中もまた転封後も、日野商人に便宜をはかることで、日野を豊かにしたことが大きいのだと思う。

前回の記事でも紹介した通り、天正十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されると、日野商人達は氏郷を追うようにしてその地に一街区を拓いて移り住み、さらに氏郷が天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、再び氏郷に従って商圏を拡大していったことが記録に残されている。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

ところで、秀吉が氏郷を遠国の陸奥国会津に移封したのはなぜなのか。
『名将言行録』にはこう記されている。
「…秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり。勝れたる一将を撰みて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝ら遠慮なく意見を記して見すべしと言わる。細川越中守忠興、然るべしと言う者十人には九人あり。秀吉これを見て、汝ら愚かもまた甚だし。我天下を容易く得しことは理わりなり。この地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて、氏郷に90万石を賜う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

要するに、伊達政宗に対する備えとして蒲生氏郷が適任であると秀吉が判断したというのだが、『名将言行録』には秀吉が氏郷を上方から遠ざけた別の理由も記されている。

「氏郷、会津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に着せられ、自ら氏郷の袴を着らる。さて氏郷奥州へ行くことを如何存じおりしやと尋ねられければ、近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞きて、いかにも左あるべし。こちに置きては怖ろしき奴なり。故に奥州に遣わすとぞ言われけり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れて、上方から遠ざけたことは充分あり得る話だと思う。氏郷自身も、会津転封を命ぜられた際に、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では天下取りの機会が失われると悲しみ涙を流したと伝わっている。

『名将言行録』を読み進んでいくと、蒲生氏郷が毒殺されたと記されている
文中の「九戸役」とは、天正十九年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。

石田三成
石田三成

「九戸役の後、石田三成、都へ帰り、ひそかに秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候わず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然るに一人も軍法を犯す者候わず、この人殿下の御為に、二心を懐かざらんには、かかる御固また餘にもあるべからず、心得させ給いて然るべき人なりと申ししかば、密に毒を与えられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/49

氏郷は天正十八年(1590)十一月にも葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中で伊達政宗から誘いを受けた茶席で毒を盛られ、帰って急いで毒を吐いたことが『氏郷記』に記されている。この書物も国立国会図書館デジタルコレクションに公開されており、誰でもPCで読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/91

先ほど紹介した『名将言行録』の記述は『氏郷記』の次の部分を参考に書かれたものと思われるが、重要な部分なので引用させていただく。

「爰(ここ)に石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時に越えたる讒臣*なり。ある時潛(ひそか)に太閤へ申されけるは、…会津宰相こそ謀も勝れ、能き侍をも数多持ちて候え。先年九戸一乱の砌罷下りて、彼が計略を見候に、軍勢を七日路に続け、その人数仕い法度の品々、目を驚かし候いつる。かかる良将を愛して置かせ給わば、養虎の愁、踵(きびす)を廻(めぐら)すべからずとぞ申しける。太閤相国秀吉公も、常々訝(いぶかし)く思召しけるに、かく言上しければ、彼氏郷を失わん談合評定取々なり。…氏郷は、錐袋にたまらぬ風情にて、一言の端も、人に指を指されじと嗜まれしかば、太閤斯様に思召すも、余儀なくぞ覚えし。されどまた忠功第一の人なれば、如何ともすべきようなかりけり。然れば唯人知れず害毒せよとて、ある時毒を飼い給いしとかや。此毒や祟りけん、去朝鮮征伐の頃も、下血を病まれけり。猶それより以下(このかた)、気色常ならず、面黄黒にして、項頸(うなじ)の傍ら肉少なく、目の下微(すこ)し浮腫(はれ)しかば、去りし秋の頃、法眼正純を召して、養生薬を用いられしが、其後腫脹弥(いよいよ)甚しかりければ、去年名護屋にて宗叔が薬相当しけるとて、又彼を召して、薬を用いられしかども、更に其験なかりけり。同十二月朔日、太閤如何思召しけん。江戸大納言加賀中納言へ仰付けられて、諸医を召し、氏郷の脈を見せよとありければ、両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め、脈を見せられけるに、各大事にて候とぞもうしける。明くる文禄四年正月迄、宗叔薬を盛りけれども、氏郷次第に気力衰えしかば、それより道三の薬を用いられけり。されども早叶わずして、同二月七日、生年四十歳と申すに、京都にて朝の露と消えられけり。」
*讒臣(ざんしん):讒言して主君におもねる臣下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/123

肥前名護屋城
【肥前名護屋城】

『氏郷記』は『名将言行録』よりかなり具体的に記されていて理解しやすいのだが、この記述が正しいとすると、石田三成が秀吉に讒言して氏郷に毒を盛った時期は、「九戸役」が終結した天正十九年(1591)の秋から朝鮮出兵(文禄の役)が起きた文禄元~二年(1592~3)までということになる。
そして、その毒が原因となって、文禄の役に参陣した氏郷が肥前名護屋で下血し、その後、外見からも重病であることが窺える症状が出たという。

屈強な武士が40歳という若さで体調を崩して命を落とすことは考えにくく、毒殺されたとする説があっても何も不思議なことではではないのだが、氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)二月なので、石田三成に毒を盛られたにしては結構長く生きていることが気になるところである。

では、通説ではどうなっているかを調べると、氏郷は毒殺ではなく、病気で死んだことになっているようだ。
一般的に事実の不存在の立証は『悪魔の証明』とされて難しいものなのだが、何を根拠にして毒殺説を否定しているのだろうか。

Wikipediaには、こう解説されている
豊臣秀吉(『氏郷記』)や石田三成(『石田軍記』、『蒲生盛衰記』)などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。
秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、3年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7

曲直瀬玄朔
【曲直瀬玄朔】

秀吉が氏郷の治療の為に文禄三年十二月に名医を集めたことは、先ほど紹介した『氏郷記』にも出ていたが、曲直瀬玄朔は幼少の頃両親を失い、母の兄である曲直瀬道三に育てられて医者となった人物である。かなりの名医であったらしく、『医学天正記』には正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼ほか、毛利輝元、加藤清正などの治療が記録されているという。
http://kenblog1200.at.webry.info/201305/article_15.html

国立国会図書館デジタルコレクションに『医学天正記』があり、ネットで全文が公開されている。
『医学天正記』の原文は漢文なのでやや読みづらいが、書いていることは何となくわかる。次のURLに氏郷のカルテがあり、この記述が氏郷病死説の根拠とされているのだが、簡単に内容をまとめておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433/236

『医学天正記』の該当部分
【『医学天正記』の蒲生氏郷についての記述部分】

氏郷は文禄の役に参陣し肥前名護屋で下血した際には、堺の医師である宗叔(そうしゅく)が主治医を務めていた。
文禄3年に曲直瀬玄朔が氏郷を訪問した際には顔色が黄黒で首筋の肉がやせ衰え、目の下に浮腫があったとあり、秋に再び訪問した際には氏郷の腫れがひどくなり、むくみも増していたとある。そして12月に入って秀吉は、徳川家康と前田利家に命じて9人の名医を招いて診察させている。曲直瀬玄朔は「十中九は大事(危険)」と診断したが、他の医師はそこまで危険と考えず、特に主治医の宗叔は難しいのは十のうち一と診断したそうだ。
前田利家は曲直瀬玄朔に氏郷の治療を頼んだのだが、主治医が手を引かないので治療は出来ないと断った。その後も宗叔の投薬が続けられて、3カ月後に氏郷はわずか40歳でこの世を去ったのである。

毒を盛られてから三年も経ってから死んだ場合は、その死因を「毒殺」とは言わないのかもしれないが、『氏郷記』が記しているように毒を盛られたことをきっかけに体調を崩し、衰弱して死んでいったということならばあり得る話だと思う。

冒頭の蒲生氏郷像は文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中で歌を詠む氏郷の姿なのだが、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』と詠んだ時の氏郷は重い病に冒されていたのだろうか。名護屋の陣に着く直前か、陣の中で毒を盛られたから下血したということではないのだろうか。

豊臣秀次
【豊臣秀次】

ところで、氏郷の死後に驚くような出来事が起っている。
氏郷が亡くなった年である文禄四年(1595年)六月末に、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀吉によって七月に切腹を命じられ、八月には秀次の家族や側室・侍女ら39名が処刑されている。
驚くべきことに、先ほど紹介した『医学天正記』を著した曲直瀬玄朔も流罪に処せられている。曲直瀬玄朔は秀次の喘息の治療のために秀次邸に出入りしていたことが引っ掛かったようである。

この時代は、秀吉の後の天下を狙っていた人物が少なからず存在した。蒲生氏郷も豊臣秀次も、将来のライバルとなる人物を消すための何者かの工作にかかった可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。しかしながら、もしそのような工作があったとしても、それを裏付ける証拠となるものが残されることはほとんどないと言って良い。

このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は、勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を編纂して広めようとするものである。この種の工作が行われた場合は、特にその工作に将来の為政者が関与していた場合は、記録は改竄されるか封印されるのが常ではないか。

蒲生氏郷
【蒲生氏郷】

最後に氏郷の辞世の歌を記しておく。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
(風など吹かなくても、花の命には限りがあるのでいつかは散ってしまう。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
春の山風とは氏郷を早死にさせた運命を意味すると思うのだが、氏郷はこの言葉の中に、誰か具体的な人物が関与していることを匂わせようとしたのかもしれない。

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【ご参考】豊臣秀吉の死後の覇権争いについてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-426.html

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-427.html

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-429.html

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-430.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html



関連記事

古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて

『続日本紀』によると、神亀元年(724)2月に即位した聖武天皇は、その年の10月に紀州に行幸された際に、次のような詔を出されたという。
「山に登り海を眺めるのに、このあたりは最も良い。わざわざ遠出しなくても遊覧に充分である。それ故、弱(わか)の浜という名を改めて、明光浦(あかのうら)とし、守戸(もりべ)を設けて、荒れたり穢れたりすることのないようにせよ。また春と秋の二回、官人を派遣して、玉津島の神と明光浦の霊に供物を供え祭らせるようにせよ」(講談社学術文庫『続日本紀(上) 全現代語訳』p.264-265)

紀伊和歌浦 広重画

【紀伊和歌浦 広重画】

この行幸に同行していた山部赤人は、この景観の魅力を万葉歌でこう伝えている。
若(わか)の浦に 潮満ち来れば
潟(かた)をなみ 葦辺(あしべ)をさして
鶴(たづ)鳴き渡る
」(万葉集 巻6・919)

国指定の名勝である「和歌の浦」は和歌山市の南西部の玉津島と片男波を結ぶ砂嘴とその周辺を指し、もともとは「若の浦」と呼ばれていたという。
平安中期に高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、多くの歌人がこの景勝地を訪れて作品を残し、この地名を歌枕にするようになって、次第に「和歌の浦」と呼ばれるようになったという。

「和歌の浦」で最も著名な景勝地は玉津島で、昔は葦原だった内海の干潟に6つの小島(玉津島六山)が浮かんで、潮の干満で陸と続いたり離れたりしていたというのだが、現在は多くが陸地化して、妹背山一つを海上に残しているだけである。

玉津島六山

上の画像はGoogleマップによる近隣の航空写真だが、この画像で玉津島六山がどのように並んでいて、和歌の浦の規模がどの程度であったかがおおよそわかる。
画面中央の海上に浮かぶ島が妹背山で、鹽竈(しおがま)神社のある山が鏡山。玉津島神社のある山が奠供(てんぐ)山で、さらに北に雲蓋山、妙見山、船頭山がある。

玉津島を詠んだ万葉歌を2つ紹介しよう。
 玉津島 見れども飽かず いかにして
 包み持ち行かむ 見ぬ人のため (藤原卿 万葉集 巻7・1222)

 玉津島 磯の浦廻(うらみ)の 真砂にも
 にほいて行かな 妹も触れけむ (柿本人麻呂 万葉集 巻9・1799)


和歌の浦は歌人の聖地とも言える場所であったのだが、風光明媚なゆえに毎年多くの観光客が訪れてホテルや旅館が次々と建てられ、道路が拡張され宅地造成も進んだために歴史的景観の多くを失ってしまった感がある。

昭和25年(1950)には年間宿泊者350万人を記録したそうだが、今はその面影はない。
観光客が少なくなって、2008年6月にようやく和歌山県が和歌の浦を県指定文化財(名勝および史跡)に指定し、その2年後に国の名勝に指定されて、ようやく和歌の浦の景観が保全されることとなったのだが、こんなに対応が遅れたのは、観光投資による経済の活性化を優先してきたためなのだろう。

玉津島保存会 和歌の浦 干潟

しかしながら、『名勝和歌の浦 玉津島保存会』のサイトを見ると、地元の人々の尽力によって和歌の浦の自然が随分回復していることがわかる。上の画像は同サイトの干潟の写真だが、昔はこのような干潟に玉津島六山が連なっていたのだろう。
http://wakanoura.exblog.jp/i7/

和歌の浦を調べているうちに実際に訪れたくなったので、天気の良い5月の週末に早起きして近くの名所を巡ってきた。

和歌の浦は市販の観光ガイドにはあまり詳しく書かれていない場所なので、観光される方は、次のURLにある観光地図を印刷して訪問されることをお勧めする。
http://www.kankou.wakayama.jp/images/02_info/map/map.jpg

玉津島神社 鳥居

最初に訪れたのが玉津島神社(和歌山市和歌浦中3-4-25 ☎073-444-0472)
稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫(おきながたらしひめ)尊、衣通姫(そとおりひめ)尊の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀し、古来玉津島明神と称されて、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けてきた神社である。

社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあるが、Wikipediaによると玉津島が描かれた最古の絵画は『慕帰絵詞(ぼきえことば)』巻7で、そこに描かれているのは絵馬が吊り下げられた松であるという。

慕帰絵詞 巻七

国会図書館デジタルコレクションで、その絵の写しがみつかった。確かに絵馬だけが描かれていて社殿らしきものがなく、中央で僧侶が参拝しているところが面白い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590854/9

また、江戸時代後期に出版された『紀伊名所図会』には、「又東野州の書に、玉津島には社一つもなし、唯漫々たる海のはたに、古松一本横(よこたわ)れり。これを玉津島の垂迹のしるしとするなり。然るを『続拾遺』のとき、為氏卿洛中より御社を作らせて、玉津島に社壇を立つべきよし存ぜられて参詣あり。則ち彼所に社壇を立てらるる其夜、あらき浪風立ちて、一夜の中沙中に埋れりと云々。それよりのちはもとのごとく、古松ばかりなりといえり。」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/162

玉津島神社拝殿

玉津島神社に本格的な社殿が造営されたのは江戸初期のようである。
上の画像は玉津島神社の拝殿で、平成4年に修復されたという。中に神輿が保管されていて、奥には立派な本殿が建っている。

玉津島神社 根上り松

拝殿の左に天然記念物の根上松(ねあがりまつ)が展示されている。大正10年に旧和歌山大学付近にあった枯死状態のものを移したのだそうだが、和歌山市内には紀ノ川が運んできた砂が砂丘を造り、そこに生えていた松の木の根元が雨風に流された結果、根が露出した松(根上松)が多く見られたという。『紀伊名所図会』にその絵が描かれているが、現在では枯死したものが多いという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563483/4

玉津島神社の拝殿の右を進むと、奠供(てんぐ)山の頂上への登り口がある。
冒頭に記した聖武天皇の和歌の浦行幸の時は、天皇はこの山の上から和歌の浦の景観をご覧になられたはずである。ゆっくり歩いても5分もすれば登れる程度の山の高さなのだが、頂上には『望海楼遺址碑』と記された石碑が建っている。『望海楼』は天平神護元年(765)に行幸された称徳天皇が和歌浦湾の眺望を楽しむために造営された建物の名前で、この石碑は文化10年(1813)に建立されたという。
手前に建物が建ちすぎた観があるが、それでもこの山の頂上からの景観は素晴らしい。昔はもっと美しい景観を楽しめたことだろう。

和歌の浦

左下に和歌の浦のシンボルとされてきた石造りの不老橋が写っているが、その後ろにあしべ橋という大きな橋が架かっていて車が走っている。この橋が完成したのは平成3年(1991)だが、地元では根強い反対運動が出たにもかかわらず、当時の自治会の大半は新橋建設推進に回ったという。
http://www.nwn.jp/old/kakokizi2014/20140712/hanseiki/4.html

画像の右に長く伸びている砂州が片男波でこの場所も万葉集で詠われている場所だが、1970年代に片男波は観光客を増やすために人工海岸に改造されてしまう。あしべ橋の建設に賛成する自治体が多かったのは、片男波の海水浴場に向かう車の渋滞解消が地元の悲願だったという事情があったようだが、そのような過剰な観光開発が和歌の浦の歴史的景観やその情緒の多くを失わせてしまった。
その後、観光客が減少したため多くのホテルが廃業し、多くの廃墟物件を抱えていた和歌の浦は「廃墟の聖地」と揶揄された時代があり、2005年5月にはこれらの廃墟物件の多くが軒並み撤去されたというが、今でも少なからず空き物件があるようだ。
http://againstars.blog20.fc2.com/blog-entry-279.html

和歌浦天満宮

玉津島神社から和歌浦天満宮(和歌山市和歌浦西2-1-24 ☎073-444-4769)に向かう。
上の画像は国の重要文化財に指定されている楼門である。慶長10年(1605)に再建されたものだという。

和歌浦天満宮 本殿

急勾配の石段をまっすぐ登っても良いのだが、左に折れて緩やかな坂道を登って本殿に行くことも出来る。中門の奥に本殿(国重文)が建っている。この神社の主祭神はいうまでもなく学問の神様・菅原道真公で、沢山の合格祈願の絵馬が懸っている。境内には末社の多賀神社本殿、天照皇大神宮、豊受大神宮本殿があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。

和歌浦天満宮から片男波方面を眺める

楼門から眺める和歌の浦の景色も良い。遠くに見える砂浜は前述した片男波海水浴場だ。
楼門の案内板には、こう記されていた。
「天正十三年(1585)年四月に紀州を平定した豊臣秀吉は、吹上北側の岡山の地に城を築くことになりますが、その名を、築城の地である『岡山』に『和歌浦』を合成して『和歌山』城にしたとされ、和歌山という地名は、この時以来のものである。」

「和歌山城」は「和歌山」に在るからその名前があるのではなく、「和歌の浦」が近くにあるので、「岡山」という地名にある城を「和歌山城」と呼ぶようになり、それ以来「和歌山」が地名になったというのは面白い。

和歌浦天満宮から紀州東照宮(和歌山市和歌浦西2丁目1-20 ☎073-444-0808)に向かう。
和歌浦天満宮も紀州東照宮も雑賀(さいが)山の中腹にあるのだが、山の中に両社殿をつなぐ道はなく、いったん下まで降りて250mほど東に車を動かしてから、再び階段を登らなければならない。

紀州東照宮 侍坂

楼門(国重文)に向かう石段は108段あり、「侍坂」と呼ぶのだそうだ。
毎年5月に挙行される「和歌祭」には、この石段をかけ下るのだそうだ。Youtubeでその動画を見ることが出来る。
https://www.youtube.com/watch?v=fNKJK0DSQl0

左に折れて、この急坂を避けて楼門の正面に行く道もある。この楼門を抜けると唐門(国重文)の奥に拝殿(国重文)と本殿(国重文)がある。

紀州東照宮 本殿

上の画像は唐門と拝殿で、その奥に本殿がある。
祭神は徳川家康と家康の10男で初代紀州藩主の徳川頼宣である。

紀州の日光」と呼ばれているので、拝観を申し出て唐門を抜けて拝殿と本殿を外から見学したが、写真撮影禁止なので彫刻などを紹介できないのは残念だ。日光東照宮や滋賀の日吉東照宮では、内部にも入り、撮影もできたので、少し物足りなさを感じた。

紀州東照宮 紀伊名所図会
【紀州東照宮 『紀伊名所図会』】

『紀伊国名所図会』に江戸時代後期の紀州東照宮の絵が描かれている。昔は三重塔や本地堂、鐘楼などが存在したのだが、明治5年7月に神仏分離でいずれも取り壊されてしまったという。

養翠園 1

紀伊東照宮から車で5分ほど走ると、国名勝に指定されている養翠園(ようすいえん:和歌山市西浜1164 ☎073-444-1430)がある。
養翠園は紀州藩主の別邸として第2代藩主の徳川光貞が造営した西浜御殿を、第10代藩主徳川治宝(はるとみ)公が文政二年(1819)に隠居所として改修した池泉回遊式の大名庭園である。

養翠園

入口を入って左に折れるとすぐにあやめ池がある。ちょうどあやめの花の見ごろを迎えていた。

養翠園 2

さらに進むと大きな池があり、左に天神山、右に章魚頭姿山(たこずしやま)を借景とし、山の姿を水面に映している。
養翠園の敷地は約1万坪あるのだそうだが、池は3500坪とかなり広く、海水を引きこんでいるので潮の干満に応じて水面が上下するのだそうだ。
地図で確認すると養翠園は海に隣接していることが分かるのだが、池の周囲には松ヶ枝堤と呼ばれるクロマツの並木が茂り、そんなに近いところに海があるとはとても思えない。

今回は訪問しなかったが、妹背山には海禅院があり徳川頼宣公の母・養珠院を供養するための多宝塔がある。紀三井寺もすぐ近くにあり、和歌の浦には歴史遺産は充分にある。
また、『万葉集』にも詠まれた古くからの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされてきたのだが、天橋立が昭和27年に国の特別名勝に指定された一方、和歌の浦の県名勝指定は平成20年、国名勝指定は平成22年で、観光客が激減して多くのホテルが廃墟化した時期以降のことなのだ。追加観光投資があり得ない状況になってからの名勝指定は遅すぎたというしかない。

観光客を呼び込むために多くの投資がなされてきたが、レジャー施設に集まるのは近隣からの観光客が大半でほとんどが日帰り客である。宿泊客を増やしたいところだが、宿泊客はそこにしかない価値を求めて宿泊当日と翌日の目的地のアクセスを考慮して、魅力のある場所を選んで宿泊するものだと思う。

玉津島神社 紀伊名所図会
【玉津島神社 『紀伊名所図会』】

江戸時代の旅行案内書である『紀伊名所図会』を読むと、たとえば玉津島神社には56もの歌が紹介され、和歌の浦も146もの歌が紹介されている。こんなに多くの歌が文中に紹介されていることは珍しく、昔からこの地は風光明媚で和歌の聖地であることが人々を惹き付けてきたことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/154
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/180

歴史遺産のある旅行地としての情緒はやや失われたものの、歴史遺産そのものは健在であり、海を眺める景色も素晴らしく、和歌の浦の自然環境も地元の人々の努力によって随分改善してきているようだ。
時間はかかるかも知れないが、昔の人々がその美しさに感動して歌に詠み込んだ景観を少しずつ取戻して、「和歌の聖地」としての和歌の浦に興味を覚えて、多くの観光客が訪れる日が再び来ることを祈りたい。

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【ご参考】
古くからの景勝地や文化財を護ることは、いつの時代も、いずれの地域においても容易なことではありません。
よかったら覗いてみてください。

鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html

日本三景「天橋立」の楽しみ方~~~二年前の「天橋立」カニ旅行 その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-215.html

伊勢神宮より古い神社と伊根の舟屋を訪ねて~~二年前の天橋立カニ旅行②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html


関連記事

日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

日露戦争でロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこのように記されている。

「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。
 しかし日本は、列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約をむすんだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
 韓国では、韓国軍の解放に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国総監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺される事件がおこった。日本政府は1910(明治43)年、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた。この後、はたらき口をもとめて日本内地に移住する朝鮮人が多くなった。」(p.253)

わが国は西洋列強をまねて韓国を植民地支配したと書いてあるだけで、この教科書で韓国の事は1950年の朝鮮戦争まで何も書かれておらず、これではわが国の韓国統治がどのようなものであったかさっぱりわからない。
ただ、多くの朝鮮人が日本内地に移住したと書かれていて、多くの読者は、西洋列強が植民地を搾取したのと同様に、わが国も韓国を搾取したような印象をもつことだろう。

わが国の韓国統治について述べる前に、わが国が併合する前の「李氏朝鮮」という国がどのようであったかということから述べることにしよう。

1895年の首都ソウルの南大門
【1895年の首都ソウルの南大門】

次のURLに当時の李氏朝鮮の写真が紹介されているが、このいくつかを見ればこの国がいかに貧しく、日韓併合後に近代都市に生まれ変わったことを瞬時に理解できる。上の画像は1895年の首都ソウルの南大門である。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)

併合前の敦義門
【併合前の敦義門】
上の画像はソウルに存在した敦義門(とんぎもん)の画像だが、ソウルの中心部においても人々が「地べた」で生活していたことがわかる。

撤去前の敦義門
【撤去前の敦義門】

この門は老朽化と道路建設のために、日韓併合後の1915年に撤去されたのだが、たまたま撤去される前の敦義門の写真がWikipediaに出ている。短期間のうちに古い住居が撤去され、道路に鉄道が敷かれていることに驚かざるを得ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E7%BE%A9%E9%96%80

併合前ソウル全景

このような都市改造は都心部の一部だけに行われたものではなさそうだ。ソウルの全景写真を見比べれば、ソウル全体が短期間の間に近代都市に生まれ変わったことが誰でも理解できる。

併合後のソウル全景
【併合後のソウル全景】

なぜ李氏朝鮮が貧しい国であったのかについて、加耶大学客員教授の崔基鎬氏はこう解説している。
「1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂が、明との戦いで遼東地方奪回に出陣し、秘かに敵と通じて、威化島(鴨緑江下流の島)で軍を翻し(回軍)、逆にときの高麗王(禑王[ぐおう])と上官の崔瑩(さいえい:総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪した結果によるものである。
 敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し明の属国として堕落が始まった
 このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。」(『歴史再検証 日韓併合』p.19~20)

朝鮮銀行前
【朝鮮銀行】

貧しかった韓国の首都が近代化するために莫大な建設投資がなされたことは、当時の画像を見れば明らかなのであるが、ではこの国の近代化のための資金はどうやって捻出されたのか。

「わが国が韓国から搾取した」という説がまことしやかに教育機関やマスコミなどで広められているのだが、併合前と併合後の写真を見れば、「こんな貧しい国から搾取して、これだけの近代化が可能であるはずがない」と、誰でも疑問を感じるところであろう。

京城郵便局
【京城郵便局 「京城府勢一斑」(昭和13年 京城府庁)より】

しかしながらこのような写真がマスコミなどで紹介されることは皆無と言って良く、ほとんどの国民は、学校やマスコミなどが垂れ流す歴史叙述に洗脳されてしまっている。
韓国の近代化は、わが国の莫大な資金援助や民間投資がなければ不可能であったのだが、このような「韓国にとって都合の悪い真実」は、戦後の長きにわたりわが国ではタブーにされていると言ってよく、そのことは今も変わらない。

では、わが国の巨額の財政支援がいつの時期から始まったのかというと、1904年の第一次日韓協約による目賀田財政顧問の着任以降だという。

目賀田種太郎
【目賀田種太郎】

中川八洋氏の著書にはこう解説されている。
「朝鮮はもともと予算の編成能力すらなく、目賀田顧問の指導監督で初めてできた予算では、その歳入は1906年度で748万円しかなかった。これで韓国を近代国家として運営するに必要な3千万円以上の予算を組むには、日本から差額すべてを持っていくほかなかった。1907年度には合計2700万円を日本政府は朝鮮に支出した。1908年度はさらに増えて合計で3100万円という巨額な支出を日本は強いられた。
併合後の1911年度以降は『補充金』と呼ばれる日本政府からの持ち出し(=日本人の税金)は同年度の1235万円とそれ以前の平均2500万円の半分となったのは、残りの半分を日本で発行した公債や日本からの借入金で補えるようにしたからであり、日本から約2千万円前後を調達した状況は変わらなかった。それは、朝鮮人の税・印紙収入の倍に及んでいた。
つまり朝鮮は、…その財政の過半から3分の2を日本に支出・調達させた
。」(『歴史を偽造する韓国』p.15~16)

当時の1円の現在価値については諸説があるが、次のURLによると「明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらい」で、今の1円の2万倍程度の重みがあったようだ。とすると、現在価値にして毎年4千億円程度を支援し続けていたことになる。
http://manabow.com/zatsugaku/column06/

そればかりではない。わが国の領土となれば、国を護るために軍隊を駐留させることが必要となる。
大正3年に出版された山県明七氏の『財政十年』に明治39年から44年の軍事費が記されているが、当時のお金で毎年8~15百万円を別途支出していたことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951877/134

中川八洋氏はこう解説している。
日本持ちの駐留日本軍の費用はすべて無視するとして、…立替金、日本政府の直接支出、補充金、公債未償還だけでも21億円になる。日本で調達した公債の未償還額は、発行した公債(1910~1944年)21億6566万円から、償還分7億2595万円を差引いた額である。朝鮮は約3分の1しか償還していない。この未償還の約14億4千万円は、敗戦と同時にすべて、朝鮮側の『もらい得』となった。日本にとっては一方的な巨額損失である。」(同上書 p.16~17)

建設中の水豊ダム
【建設中の水豊ダム

一方で、わが国の企業による投資も朝鮮半島で積極的に行われた。たとえばダム建設には莫大な資金が注ぎ込まれている。
「朝鮮の電力が飛躍的に伸びたのは、その第1期ともいうべき、赴戦江(鴨緑江の支流)の4つの発電所のうち3つが本格稼働した1930年であった。この3つの発電所だけで、19万kWの出力であった。4つあわせて20万kWの工事・建設費は5500万円(1926~32年)で、むろん日本の私企業が負担した。第2期の飛躍年は、同じく鴨緑江の支流の一つ、長津江で4つの発電所のうち2つが本格稼働した1936年であった。2つあわせて26万kWもあった。4つの発電所全部(33万kW)の工事・建設費は6500万円であった
第3の飛躍期が、…水豊発電所(70万kW)と、4つの虚川江発電所(合計34万kW、7000万円)の建設であった。…
 朝鮮に遺した日本の私企業の水力発電所の遺産がいかに桁はずれかは、戦前日本のベスト4が、千住発電所の12万kW、信濃川発電所の16万5千kW、黒部川第三の8万1千kW、奥泉発電所の8万7千kW、であったことで一目瞭然である。…
 水豊ダムは、幅900m/高さ106m/容量323万㎥という巨大ダムであった。その人造湖の表面積は345㎢で琵琶湖の半分を超えた。…工事費は1940年12月末現在で2億3700万円であった。」(同上書 p.38~40)
少し補足すると、水豊発電所の発電規模は当時の世界最大級であり、1940年当時の日本国内の水力発電規模は280万kWであったのでその4分の1に当たる規模になる。

京城駅
【京城駅 「朝鮮写真画集 第一輯」(昭和4年 朝鮮写真画集社)】

ダムだけではない。鉄道も建設している。
「朝鮮の鉄道は、1899年9月18日に『仁川―鷺梁津』間(32km)に開通したのが始まりである。この鉄道は、朝鮮が『京城(ソウル)―仁川』間(73km)の鉄道敷設権を1896年に米国人モールスに与えたのを日本の『京仁鉄道合資会社』が買い取ったのである。そして1900年7月8日に、京仁鉄道は全線が開通した。日本で『新橋―横浜』間(31km)の鉄道が開通してから28年の後であった。
『京城(ソウル)―釜山』間の京釜鉄道については、日本が1901年に国策会社の『京釜鉄道株式会社』を設立して敷設することとなった。1905年1月1日には全線が開通した。…この京釜鉄道株式会社は、先述の京仁鉄道合資会社も、1903年に買収して、両線は同一の会社で運営されるようになった。そして日本政府は1906年にこの京釜鉄道株式会社と京仁鉄道合資会社のすべてを買収したのである。その額は建設費を厳格に計算して約3500万円となった。この買収のすべての財源はまた、日本本土の日本人の税金であった。この1906年の朝鮮一国の税・印紙収入は全部で784万円であった。朝鮮がどんなに逆立ちしてもこのような巨額の資金はどこにもなかった。」(同上書 p.24)
他にも日本陸軍が建設し1906年に開通した京城と新義州を結ぶ京義本船や1905年に開通した京城と馬山浦を結ぶ馬山浦線があり、両線の建設費は3138万円だったという。

京釜線工事

上の画像は『鹿島の軌跡』第10回に掲載された京釜線の建設工事の写真だが、山に木がないのが気になる。実は、日本統治以前は朝鮮半島の山はほとんどが「禿山」であったようだ。
http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki10/index-j.html
わが国は、その植林事業にも多くの投資をしているのだが、植林をする前に、山の土砂が崩れないように砂防工事が必要となる。
総督府は、例えば、1933年から42年の10年間で。152千町に砂防工事を施して、木を5億本も植えた。この砂防工事費に、4274万円を投入している」(同上書 p.34)のだそうだ。
禿山が多かったのは、焼き畑農業も原因の一つだが、人々がオンドルで薪を燃やして暖を取ったことが最大の原因と言われている。日本が禿山にしたという説もあるようだが、李氏朝鮮時代から朝鮮半島の山々に木がなかったことは多くの西洋人が書いているようだ。
たとえば、1885年から86年にかけて朝鮮半島を旅行した複数のロシア人が記した『朝鮮旅行記』にはこう書かれている。
「谷間および山の周辺の植生は貧弱である。…極めて稀には灌木や草も目につく。この地方はほぼ全域にわたり地表が露出している。草さえも、燃料のため刈り取られるからである。」(『朝鮮旅行記』p.29)
「到るところ禿山と砂質土壌で、所により小川の畔に疏らな灌木の茂みも見かけるが、これとても朝鮮人は刈り倒している。」(同上書 p.58)

伊藤博文

また学校も建設した。金完燮(キム・ワンソプ)氏の『親日派のための弁明』には、こう解説されている。
「1906年、初代統監として朝鮮近代化の基礎を築いた伊藤博文は、教育事業に多大な関心を寄せていた。朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育が始まったが、伊藤が就任した1906年まで、11年たっても全国で40にもみたないというのが実情だった。
これを知った伊藤は着任早々、大韓帝国の官僚を集めた席で、「これまであなたがたはいったいなにをしていたのか」と叱責し、学校建設事業を最優先して改革をすすめた。その結果、1940年代には1000を超える各種学校ができていた
。」(『親日派のための弁明』p.104)

校洞尋常小学校
【校洞尋常小学校 「京城府勢一斑」より】

ソウルに京城帝国大学が設置されたのは1924年に設置されたことだが、わが国の旧制大学としては6番目*に設立された大学であることはもっと広く知られて良いと思う。
*東京帝国大学(1886)、京都帝国大学(1896)、東北帝国大学(1907)、九州帝国大学(1911)、北海道帝国大学(1918)についで建設された。

京城帝国大学
【京城帝国大学 「恩頼 朝鮮神宮御鎮座十周年記念」(昭和12年 朝鮮神宮奉賛会)より】

ほかには橋や港湾や道路などをと建設しているが、そのような話はいくらでもあるので割愛しておこう。

たとえば英国のインド統治では、インドから本国費(ホーム・チャージ)という名で、インド人から徴収した税金の25%程度をイギリスに貢納させ、英国は本国からの財政支出は一切行わなかったのだが、わが国は全く逆で、税収をはるかに上回る財政援助を韓国に与え続けたのである。

今回の記事の冒頭に『もういちど読む 山川の日本史』を引用したが、わが国の韓国統治が欧米の植民地支配をまねたものであるという記述は、どこかの国に忖度して書かれたものとしか思えないのだ。

しかしながら、せっかくわが国の政府や民間企業が朝鮮半島の近代化ために莫大な投資してきたものの、敗戦後はこれらの投資に対するわが国の請求権を放棄させられたうえに、巨額の資金支援を要求されることとなったのである。
その点については、次回に記す事と致したい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-307.html

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-328.html

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html


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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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