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日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した

前回の記事で、わが国が日清戦争で勝利して清国勢力を朝鮮半島から追い出すと、今度はロシアが介入してきたのでわが国は日露戦争を戦って勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したことを書いた。わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について、アメリカやイギリスは干渉しなかったことは重要なポイントである。もしこのような大国の干渉があれば、今までと同様にこの国は強いと思った国に靡いていたことであろう。

第二次日英同盟

日露戦争中の明治38年(1905)8月12日に、わが国はイギリスとの間で第二回日英同盟協約が締結されているが、その第三条で明確にイギリスはわが国の朝鮮半島保護国化をいち早く承認した。本文中の「大不列顛國」とは、グレート・ブリテン国、すなわち英国のことである。

「第三條 日本國ハ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルヲ以テ大不列顛國ハ日本國カ該利益ヲ擁護増進セムカ爲正當且必要卜認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓國ニ於テ執ルノ權利ヲ承認ス但シ該措置ハ常ニ列國ノ商工業ニ對スル機會均等主義ニ反セサルコトヲ要ス」
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001743561

小村寿太郎

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』によると、日露戦争後のポーツマス講和会議に参加した全権大使の小村寿太郎に対し、米大統領、英外相はこう述べたという。
「…日露戦争が日本の勝利に終わるや、もはや韓国保護化をさえぎる一物とてなかった。ポーツマス会議を終えた小村にルーズヴェルトは言った。『将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし』と。ランズタウンの如き『英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する』とまで言い切った。11月、第二次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、韓国の外交権は日本の掌握するところとなった。」(『大東亜戦争への道』p.125)

イザベラ・バード

イギリスもアメリカもこの国がわが国の保護国となることを希望した点については、このブログで何度か紹介したイザベラ・バードの『朝鮮紀行』の最後に意味深なことを書いている。
イギリスは見当がつかなくもない理由から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない。」(講談社学術文庫『朝鮮紀行』p.571)

こういう書き方になるのは、欧米の列強はこの国に関わっても何のメリットもないと判断していたと理解するのが自然であろう。
この半島を植民地にしたところで、物を運ぶ道路も鉄道も港湾も橋もない。山は禿山で河川には堤防が無く、洪水の危機に曝されていたし。学校はわずかしかなく、しかも文人階級の子弟に漢文を教えていただけで、ほとんどの国民は読み書きができなかったのである。
植民地化の「うま味」を得るためには最初に莫大なインフラ投資を行わなければならないのだが、欧米列強がこの半島に関心を示さなかった理由はそのあたりにあったと思われる。

では、なぜこの国は前近代的で貧しい状態が長く続いたのであろうか。その理由を知るためには、この国の身分制度を理解する必要がある。次のURLに李氏朝鮮時代の支配階層の画像が沢山出ているので参考にされると良い。
http://hinode.8718.jp/photo_korea_yangban.html

李氏朝鮮時代の身分制度は、良民(両班[ヤンバン]、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられていて、支配階層が両班であったのだが、李氏朝鮮時代末期には相当多数が戸籍上は両班であったという。京城帝国大学の四方博教授は、1858年には大邱、慶尚道の総人口の48.6%が両班であったと発表しておられるが、支配階層がこんなに多くてはまともな国が成立するとは思えない。
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10718895994.html

実態は、納税を回避するために常民や奴婢の数字が統計上は少なめに出ていたのではと考えるのだが、両班身分の割合がかなり高かったことは、当時の記録を見ると納得せざるを得ない。イザベラ・バードは1894年から1897年にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮を訪れているが、この国の身分制度の問題点について前掲書にかなり具体的に記している。

韓国では、特権階級の両班は働いてはいけなかった。この絵でも、農民を働かせ、自分は寝そべっている姿が描かれている。
【韓国では、特権階級の両班は働いてはいけなかった。この絵でも、農民を働かせ、自分は寝そべっている姿が描かれている】

「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」(同上書 p.137)

笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。
【笞刑 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた】

非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎日笞〈むち〉で打たれる。あるいは捕らえられ、金が用意されるまでは両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである。」(同上書 p.138)

1903年 漢城(ソウル)両班の男性

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、ほんとうの意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈〈ばっこ〉していた。
 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階級が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じてのならわしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(同上書 p.343-344)

両班

「地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道(ド)に44人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2400ドルかかる。総勢1万7600人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に『搾取』するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭100枚を要求した。郡守はそれを200枚に、また郡守の雑卒が250枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭250枚のうち50枚を雑卒が、100枚を郡守が受け取り、知事は残りの100枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川(トクチョン)の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。」(同上書 p.423-424)

こんな連中の支配する国が豊かになるはずがないのだが、わが国はこのような国の抜本改革に当初から取り組もうとした。しかしながら、それを実行すべき官僚たちの大半は因習と慣例の両方から堕落していたために改革は困難を極め、イザベラ・バードも述べているように、「朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねば(p.563)」ならなかったのである。

わが国は朝鮮半島に人的および財政的支援を実行するだけでなく、前近代的な身分制度や慣習を次々と撤廃していったのだが、この急激な改革に旧支配層が抵抗したことは当然のことである。
では、これまで両班に搾取されていた人々や知識人は、わが国が主導した改革をどう受け止めたのであろうか。

朝鮮の悲劇

日露戦争初期に朝鮮北部を訪れたカナダの新聞記者であるF.A.マッケンジーはこう述べている。
「北部の住民たちは、ロシア人に好意を持っていなかった。ロシア人には規律と自制が欠けていたからである。彼らはとくに、しばしば起こるロシア軍兵士と韓国女性との衝突によって不和を来した。私は、戦争の初期に、主として北部地方をずっと旅行したが、その最初の数週間の間、私はどこでも、韓国の国民からは日本軍に対する友好的話題ばかりを聴かされた。労務者や農民達も友好的であった。彼らは、日本が自国の地方官僚どもの圧政をただしてくれるようにと望んでいたからである。また、上流階級の人びとの大部分、とくになにほどか外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は外国の援助なしには遂行しがたいと確信しており、そのため日本に心を寄せていた。」(東洋文庫『朝鮮の悲劇』p.107~108)

李容九
李容九

日露戦争が始まった1904年の秋李容九(りようきゅう)は、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであり、さらに日本と韓国が軍事同盟を結ぶことがロシアに対抗し韓国の富国強兵を図る方法であると主張し、一進会を設立してその会長となっている

その頃の韓国政府のスタンスはわが国に非協力的であったために、わが国が満州に兵を送り込むために計画した鉄道建設が遅れていたのだが、一進会が京城から新義州までの鉄道建設に立ち上がり、北進隊を組織して日本軍に協力したという。

1910年 日韓併合までに完成した路線
日韓併合までに完成した路線】

中村粲氏はこう解説しておられる。
ちなみに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は、黄海道、平安南道、平安北道を合わせて十五万人に上った。また北鮮から満州へ軍需品をチゲ(荷物を背負う道具)で運搬するのに動員された会員は十一万五千人で、この鉄道建設隊と輸送隊を合わせると、百万会員のうち二十六、七万人が動員されたことになる。そして鉄道工事の費用は領収雇金二万六千四百十円、会員自費金額十二万二千七百四円という数字が残っており、大部分が会員の自弁であったことを窺わせる。
 戦争の危険、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など、様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と憂情あってこそ、はじめて可能だったのである。」(『大東亜戦争への道』p.124)

一進会は「日本が朝鮮侵略のために作った御用団体」などと書かれることが多いのだが、もしそれが事実であったならば、会員の自弁で鉄道建設の為に働いたりはしないと思う。
わが国がこの国のインフラ整備のための建設工事を順調に進めることができたのは、一進会の会員でなくとも親日的な韓国民が少なくなかったと理解するしかない。
もちろん反対する勢力もあった。「義兵運動」と呼ばれる反日的な活動が激しくなったのは明治40年(1907)に韓国軍隊が解散された以降だという。

中村粲氏の解説を続けよう。
「解散した軍隊が義兵に合流し、ここに義兵運動は武器と組織を得て、各地で激しい反日抗争を展開するに至った。…
 1907年から日韓併合翌年の1911年までの間に、我軍と交戦した義兵は14万人を超え、交戦回数も2850回、死亡した義兵は1万4千名以上にのぼる。…
 だが民衆のエネルギーだけでは、国家の近代化や独立が達成できるものではない。民衆のエネルギーは、正しい時期に、有力な指導者を得て、正しい方向に健全な形で結集されるのでなければ、決して民族独立の原動力にはなりえないのである。」(同上書 p.127~128)

義兵運動
【義兵】

「義兵」といっても組織化されたものではなかったようだ。F.A.マッケンジーは自ら「義兵」と接触して取材した時のことを著書に記している。

「彼が私に語ったところからすると、彼らはじっさいなんら組織されてはいないということが明らかであった。ばらばらの各一軒のいくつかが、きわめてルーズなつながりで一緒になっていたのである。各地の富裕な者が基金を提供し、それを、彼が、一人二人と散開している義兵にこっそりと渡し、彼らがそれぞれ自分のまわりに味方を集めるのであった」(前掲書 p.202)

義兵運動」の資金源は明確には書かれていないが、旧支配層から出ていたことはおおよそ見当がつく。武器は朝鮮軍の旧式のもののほかに中国製の銃があったことが前掲書に記されているが、外国の関与があった可能性がありうる。彼らはただわが国に対して抵抗しただけで、彼らが目指す国家像のようなものは見えてこない。

在朝鮮「一進会」李容九会長による日韓併合希望の電報:訳文
【「一進会」李容九会長による日韓併合希望の電報:訳文】

一方、一進会には彼らの理想を実現させようとする意思が明確にあった。
一進会が目指していたのは日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であった。一進会は1909年に伊藤博文がハルビン駅で暗殺された後、『韓日合邦を要求する声明書』を提出しているのだが、Wikipediaにそのポイントとなる部分の翻訳が出ている。

日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。…今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E4%BC%9A

一進会
【一進会】

このように一進会は日本に協力することで韓国の近代化を推進しようとし、日韓が対等の立場で合邦することを求めたのだが、当時の総理大臣であった李完用はこの上奏文を大韓帝国第2代皇帝に純宗にも上げずに握り潰したという。
また、この声明に対して大韓協会、西北学会などがただちに反対を表明し、伊藤博文の後を継いだ朝鮮統監の曽禰荒助は、両派の衝突が起って治安が乱れることを懸念し、一進会の集会・演説を禁止して活動を弾圧した。

一方、日本政府は二国間の国力の差を考慮すると、対等の合邦は国民の理解を得ることは難しいとの判断から一進会の請願を拒否し、その後わが国が韓国を飲み込む形で併合することとなる。

日韓併合は明治43年(1910)のことだが、韓国統監府は親日派・非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、朝鮮の全ての政治結社を禁止し解散させている。一進会もこの時に解散を命じられたのだが、元会員の間には失望が広がり、その後三・一運動に身を投じる者も少なからずいたという。

わが国は、朝鮮半島を貧しくさせた身分制度を廃止し、この国の近代化のために莫大な投資をし多大な犠牲を払ってきたのだが、日露戦争後に旧支配層だけでなく一般の民衆レベルにまで反日運動が拡がって行ったことはなぜなのか。

おそらく日本側にも原因があるのだろう。F.A.マッケンジーは前掲書にこういうことも書いている。
「上流階級の人びとの大部分、とくになにほどかの外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は、外国の援助なしには遂行しがたいと確信しており、そのために心を寄せていた。ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて、日本軍の態度はしだいに懇切さを減じて行った。日本軍についてやって来た日本人商人どもはかなりの数にのぼり、彼らには軍隊のような自制心はさっぱり見られなかった。…軍隊自身もまた、しだいに、韓国民に対して横柄な態度をとるようになってきた。北方の住民たちにとっては、自分がロシア人と交際があると疑われることは、ただちに死を意味した。」(『韓国の悲劇』p.107~108)

伊藤博文

以前このブログで、伊藤博文暗殺事件のことを書いたが、伊藤の体内に残っていたのはフランス製騎馬銃の弾丸で、犯人とされた安重根が保持していた拳銃のものではなかった。安重根が使用した拳銃はロシア陸軍に納入されていたベルギーのクンフト社製のもので、普通に考えると暗殺の真犯人はロシア側にいる可能性が濃厚だ。
当時のウラジオストックには多くの韓国人が住んでおり、ロシアの特務機関の影響下にある「韓民団」という組織に参加している者がいて、安重根はその一人であったという。

その後中国やアメリカで反日運動が拡大する動きがあるが、どの国がどういう意図でその運動を広めたかについても、戦後の歴史叙述では完全にタブーにされてしまっている。
わが国の朝鮮半島統治の歴史については、このようなタブーを打ち破って世界史的視野で考えないことには、いくら議論をしても真実に辿りつくことは難しいと思うのだが、このような視点から史実に基づいて朝鮮半島の歴史が広く議論される日が来ることを祈りたい。

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【ご参考】このブログで伊藤博文暗殺事件、中国の反日運動に関してこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

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関連記事

日露戦争後に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最新朝鮮事情』を読む

前回の記事で、この時期に朝鮮半島を訪れたイザベラ・バードが、この国には内部からみずからを改革する能力がなく、外部からの改革が必要であると書いたことや、米国も英国も日露戦争の後で韓国に関与するつもりはなく、日本が保護国とすることを希望していたことを書いた。

最新朝鮮事情

ではこの時期に朝鮮半島を訪れた日本人の記録はないのだろうかと思って探してみると、当時衆議院議員であった荒川五郎氏が朝鮮半島を訪れてレポートした、『最近朝鮮事情』という本が明治39年(1906)5月に出版されていることがわかった。
Kindle版も出ているが『国会図書館デジタルコレクション』に公開されているので、PCやタブレットがあれば誰でも無料で全文を読むことが可能だ。この本に書かれている韓国の状況を現在と比較すると、この国が今も基本的に変わっていないと思うところがあって興味深い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869

京城 独立門
【迎恩門の柱礎(左側の2本) 右側の門は1897年に作られた独立門】

荒川氏は、日清戦争でわが国が勝利し。清国の勢力を追い出して独立国の体裁を整えた以降のこの国のことをこう述べている。

「●以前から朝鮮は殆(ほとん)ど支那の付属国と言うても可(よ)い有様で、無論支那はその政策をとって居たので、朝鮮に於ける支那の勢力と云うものは実に非常なものであった。
●ところが日清戦争で全くその勢力が転倒し、迎恩門を倒して独立門を建てるという仕誼(しぎ)となり、朝鮮の内政も大改革が行われ、朝鮮の国は大韓国と云う豪義な国となり、国王様は大韓国皇帝陛下と御立派にならせられ、皇太子様が立てられる、大韓国大皇后様も定められると云う、エライ有様になった。

●ところがこの大韓国は他の国とは違うて、その王室は決して国民とその休戚*を共にすると云うことは無く、只(ただ)貴族のみは王室と利害を共にして居るようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益も享(う)けるが、その他はそうで無い。であるから、誰も彼も国王に取入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、隨(したが)ってその間に立って次女や宦官、官妓、巫女(ふじょ)などが旨いことをやるのである。
常民に至っては気の毒なもので、税を納めたりその他尚義務と云うものはあるけれども、権利と云うては更に無い、王室の普請やその他慶び事や弔い事など、その入用を割りつけられたりなど色々虐められることはあるが、更に王室の恩沢を蒙(こうむ)ると云うとは無い、それは実にあわれのものである。
●だから常民共が王室を見ると旅人も同様で、王室に大事があろうが一向平気なもの、更に気にもかけない。かの二十七年の王宮の事変**の時も、又三十七年、今の王宮である慶運宮が焼けたときでも、京城の人民等はガヤガヤ王門の外に集まって来て、例の長煙管で煙草をふかしながら、互いに笑いあい語り合うて面白そうに見物して居ると云う有様である。
かく云う風で上のものも下のものも、皆唯(ただ)自身の事ばかりを考えて、更に国家という観念は無い。朝廷ではドンドン租税も取り立てるが、それは国家の用にするのでは無い。国王も大臣も観察使も郡守も、皆自身の為のみを思い、吾が家を富まそうと勉めるのみである。
常民もまた国の為など云う観念は毛頭も無いので、余計に儲ければそれだけ又余計に取り立てられて手元には残らないからというので、惰(なま)けられるだけは惰け、遊ばれるだけは遊び、田や畑や山や林やなど、これを仕立てたり、手をかけて、確実な財産を作ろうなどという考えは無いらしい。この点が即ち朝鮮の今日の有様を致す所以であろうか。
●…朝鮮では階級の制度が厳格で、それは王族宮家を別にして、両班、常民、奴婢の三種に分かれて居って、己(おのれ)より以下の階級の者に対しては圧政をしても別にあやしみもせず、これを当然の事と心得て居る
両班とは朝鮮の貴族で、東班西班の両族からなって居る。東班は即ち文班で、西班は武班である。両班とも生まれながら官吏となる特権を有し、納税の義務もなく、窮すると即ち常民から衣食の料などを取り立てる権利がある。今は武班よりも文班が重んぜられて居る。」
*休戚(きゅうせき):喜びと悲しみ。幸と不幸。
**二十七年の王宮の事変:明治27年(1894)に起きた閔氏政権を倒すクーデター。大院君が日本に協力を得て政権を握るも、近代化政策を拒否し1ヶ月で摂政の座を下ろされ、東学党の農民兵を呼び込んで日本を追い払おうとしたことが日清戦争に発展した。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/43

支配階層も民衆も自分の事ばかり考えて「国のため」という観念はなく、また王室に仕える貴族はともかくとして、民衆は王室に無関心であったという。
支配階層には納税の義務がないだけでなく、資金が不足するといつでも民衆から取り立てる権利を有していた。常民たちはいくら努力して富を蓄積しても支配階層に持って行かれてしまうので、仕事に精を出すことをしなくなってしまっていた。人々が働かないようでは、国が貧しくなることは当たり前のことである。
この国の近代化のためには、この国の身分制度にメスを入れなければならなかったのだが、この国の支配層が腐っていたのだから、このことを自力で成し遂げることは到底不可能であったろう。

では、この国の政治や外交については、当時においてどういう仕組みで動いていたのであろうか。
荒川氏はこう記している。

1903年 漢城(ソウル)両班の男性
【1903年 漢城(ソウル)両班の男性】

「●…王権が振るわず、紀律が紊(みだ)れて居るものであるから、ただ表面の組織がよいのみで、その実内面は全く秩序もなく、国を外国に開いてからは外務省にあたる外衙門を置き、次いで内務省に当たる内務衙門を置いて、議政六曹も空名となり、のち軍国機務所というを設けたが為、外衙門も内務衙門もまた空名となるという有様で、何が何やら更に分からないのである。
●法典でも六典條例や大典会通という成分律があって、これを誠実に実行したなら、世運の進歩に伴うて文明の政治に進むことが出来るのに、国王の意のままに勝手無紀律の事を行い、国王の一言即ち法典という有様で、この成文律は全く死文となって居る。ことに王言即ち法典というても、その実奸細の徒が賄賂を持って国王の歓心を買いなどして、以て其私勝手を為すので、真実は王言も其の精神ではないのである。

●…地方政府もまた似寄ったもので、…中央政府が腐敗するものであるから、これら地方官はただ人民の膏血を絞る道具となり、賄賂請託(せいたく)大に行われ、官職は公然売買せらるる有様で、随ってその弊を受ける人民こそ、実に天に号泣するの外訴える道も無く、憐(あわ)れの有様に陥って居るのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/45

また法律や条約を作っても守らないというのは今も同様で、これまでわが国が条約や合意内容をどれだけ無視されてきたかは説明するまでもないだろう。
内務・外務を司る役所は存在しても名前ばかりで、国王が勝手気ままな政治をなしていたのだが、政策決定には賄賂がおこなわれていたという。その点については地方政府も同様に賄賂がおこなわれ、官職が公然と売られていたのである。

笞刑
【笞刑】

また裁判については次のように記されている。

「●朝鮮の裁判は地方の小役人や郡守県令などが賄賂を取りあげる第一の方法で、悉(ことごと)く皆、賄賂の多少で民事の勝ちまけも刑罰の軽い重いもきまると謂(い)うてよいので、総て刑事は明律及び特別に定められた法令により、又民事は大典会通並びに裁判先例によりて処断するというのは殆ど只表面のみの有様である。
●殊に小役人が賄賂をとる弊害は実にお話にならない程で、全く無罪の人でも時に捉え来たりて賄賂を責め、もし思うように賄賂を出さなければ、これを実刑に処することがある。又怨みを結んだ者に対しても時としてはこの忌まわしい手段をとることがある
●近年になってはこれらの役得を測って、その金額を前納して、その賄賂のおかげで郡守県令になる者が多く、従って彼等はその償いを得る為に、罪も無い人民をヒドイ目に遭わす者があるようになった
●処罰ばかりでは無く、朝鮮では審問も一種の刑罰であることは、丁度我が旧藩の時の通りで、疑わしいと思えば証拠は無くてもスグ捕え来りてこれを審問し、疑うて居る通りに服罪しないと、酷い拷問をして、為に死に至る者が段々ある。そこで朝鮮では一度び捕らえられたら即ち刑罰を受けたと心得、審問も裁判も拷問も刑罰と同じ事に思うて居る位である。
●もし党派争いから裁判になるというと、拷問して拷問してその敵党をして服罪するか拷問死に死ぬるの他は無い有様に陥らしめるのである。又無罪と知りつつ只賄賂をとる目的で裁判にかけられた者がその賄賂を出さない時でもまた同様の呵責に逢い、酷い拷問を受けるのである。
●又裁判中捕らえ置くその牢獄も一種の処刑で、朝鮮の監獄は朝鮮の普通民家よりも一般に狭ま苦しく汚くて、空気の流通は悪しく、家族などが差入れをしてやらなければ、一粒の食を与えられないのが常で、たとい食物を与えられることがあっても、それは極少しでとてもそれで生命を繋ぐことはできず、少し長く繋がれると、大抵は病気にかかったり死んだりするのである。
●殊に驚くべきは民事の被告人でもこれを獄に繋ぐのである。何人でも大いに賄賂を使わねばこれをゆるして貰うことは出来ない。もし賄賂を促しても出さぬ時は、親類の者を捉えて来て賄賂の引き当てにすることがある。もしどうしてもその意に従わない時は、訴訟には勝つべき者でも、永く牢屋の中で月日を暮らさねばならぬ。
●こういう有様で、罪ある者も賄賂を納ればこれを逃れることが出来、罪の無い者でも賄賂を納めねば残酷な目に逢い、理があって勝つことが出来ず、無理無法をやっても太平で横行することが出来るという有様で、これではとても国力の伸張は望むことは出来ないのみか、日に益々萎靡(いび)するのみであるから、この今王三十五年の改革に、裁判制度も日本式に改めることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/47

李氏朝鮮時代の監獄
【李氏朝鮮時代の監獄】

日本人や西洋人は「賄賂」に関して嫌悪感を抱くのだが、韓国や北朝鮮や中国は今も賄賂が横行しており、賄賂がないと何事も動かないとよく言われる。
ネットで「韓国 賄賂」をキーワードに検索すると膨大な事例がヒットするが、学校教員が保護者から受け取る包み紙だけで家が建つとか、お金があれば有罪が無罪になるというような話から、ゼネラルモーターズの正社員の地位を売るために480人が賄賂を支払っていたことが昨年末に発覚したことなど、日本人なら誰でも驚くような話がいくつも出て来る。
この国のエリート層には、昔の両班のように働かずに金が入る生活を理想とするような考え方が今も根強く残っていると考えれば良いのだろうか。

韓国W杯審判買収

その裏返しで、韓国の人びとは、賄賂で人を動かすことが出来ると考える傾向が強いようだ。
2002年のサッカーワールドカップで審判を買収したり、アメリカグレンデール市に従軍慰安婦像を置かせるために、市議を買収した話などは氷山の一角であろう。

セウォル号事件
【セウォル号事件】

2014年にフェリー船のセウォル号が転覆して300名以上の死者が出る痛ましい事件があった。この船はそもそも就航基準を満たしておらず本来は就航できない船であったのだが、海鎮海運側から約5千万ウォン(約5百万円)の賄賂を受け取った監督官庁の幹部が運行許可を出したことが問題となったという。
この事件がきっかけとなって韓国では2016年9月に「不正請託および金品授受の禁止関係法」という法律が施行されて、賄賂や接待文化が禁止されるようになったのだが、国会議員については対象外とされたことは理解に苦しむ話である。
もともと法律を守らない国なので、このような法律ができて賄賂や接待がなくなるかどうかは疑問が残るが、少しはこの国の悪弊が改善されることを期待するしかない。
http://toyokeizai.net/articles/-/130213

荒川五郎
荒川五郎

話題を荒川氏の『最新朝鮮事情』に戻そう。荒川氏はこの著書でいろんなことを観察して詳細に記録しているのだが、「朝鮮の党派」について書いているところは、今の韓国もその通りだと思った。

「●朝鮮には公党らしい党派は無いが、私党の類は沢山ある。…
●日本党とか、支那党とか、露国党とか、時により色々の名をつけるのだけれども、此れも、一時の便利都合の上からのことで、日本党とて永久の日本党でもなく、支那党とて何時までも支那党というワケではなし。
彼等の事大根性というも、別に根底のある根性でも無く、只(ただ)大国にたよって居れば自分の地位が安全であると云う所から、その時々の勢力ある、自分の都合のよいような方にたよるので、一定した主義では無い
●日本が一番勢力があれば、彼等はこれ迄の縁故や関係には拘わらないで日本について来る。しかし日本についても、そのうちで公使について居るのが地位が安全であるか、駐在軍司令官の機嫌をとった方が地位を得るによいかと、種々に思いを砕き、小策を弄し、お世辞追従をふりまくのである。もし彼等の追従お世辞でうまくおがみ倒されると、ツイ公使党とか司令官党とか云う党派ができるので、各国が互いに勢力を振えば各国党が出来、一国がその勢力をとっても、そのうちで種々の人党が出来るのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/48

韓国の告げ口外交

国が貧しくて、為政者も民衆も国を護る気概も無く武器もなかった当時なら、生き延びるためには強いと思う国に従属する以外に選択肢がなかったということは理解できるのだが、世界第11位のGDPの国に成長した今も、大国の権勢を笠に着て実力以上の国に見せようとする外交スタンスが続いていると考えるのは私ばかりではないだろう。

ティラーソン
【ティラーソン米国務長官と尹炳世(ユン・ビョンセ)韓国外相】

「虎の威を借る狐」のような外交を繰り返すことはつまるところ自国の価値を貶めることであるし、そんな国が嘘で固められた歴史で自国の立場を大声で主張し続けても、いずれその主張の嘘が露呈して、世界から相手にされなくなる日が来ることになると思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
学校やマスコミで拡散されてきた歴史叙述のどこまでが正しいのか、考えるきっかけになれば幸甚です。

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html

朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-266.html

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-272.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html

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伊那市の古い寺社と、250年以上続いた中尾歌舞伎のこと

久しぶりに信州に行きたくなって、先日伊那方面を旅行してきた。

早朝に自宅を出て、約4時間で最初の訪問地である仲仙寺(ちゅうせんじ:長野県伊那市西箕輪羽広3052 ☎0265-73-5472)に到着した。
仲仙寺は平安時代に慈覚大師によって創建されたと伝わる天台宗の名刹で、伊那路と木曽路とを結ぶ峠の麓にある。古くから「馬の観音様」として有名で、昔は田植えが終わる6月ごろに諏訪・木曽・飯田方面から多くの参拝客が愛馬を連れて訪れて賑わったという。
伊那路から仲仙寺まで続く「羽広道」には一丁(約109m)ごとに石仏が建てられて、今も三十数体が残されているのだそうだ。

仲仙寺仁王門

上の画像は仲仙寺の仁王門で、仁王像は長野県の県宝に指定されている。
この門をくぐると、左手に伊那市考古資料館があり、旧石器時代から江戸時代までの出土品が展示されていたようだが、7年ほど前に閉館となってしまった。

仲仙寺本堂

坂道と階段からなる参道を登ると本堂に至る。
毎年1月の中頃にこの本堂で、伊那市無形民俗文化財に指定されている「羽広の獅子舞」が演じられるのだそうだが、この獅子舞は江戸時代から今日まで続いているというのはすごいことである。次のURLにその動画が紹介されている。
http://www.kagakueizo.org/create/visualfolklore/477/

仲仙寺 絵馬

本堂の外陣に多くの絵馬が掛けられているが、「馬の観音様」だけに馬を描いた絵馬が数多く掲げられていた。江戸時代に描かれた十三面の絵馬が伊那市宝に指定されているのだが、どれが市宝に指定されているのかよく判らなかった。

仲仙寺石仏

本堂の内部は一般公開されていなかったのは残念だったが、鳥のさえずりを楽しみながら美しい境内を散策するのは楽しい。上の画像は本堂の裏に並べられている石仏群である。

境内は自然の宝庫で、樹齢数百年のスギ・ヒノキなどが茂り、薬草やヒカリゴケなどの群生地もあって、これらの植物群が天然記念物の指定を受けている。珍しい植物があるだけではなく、秋の紅葉が非常に美しい寺であるようだ。次のURLにこの寺の紅葉写真がでているが、こんな静かな寺で紅葉が楽しめるなら、また訪れてみたいと思う。
http://rv9084.blog38.fc2.com/blog-entry-238.html

高遠そば 壱刻

仲仙寺の散策を終えて「高遠そば」を目当てに高遠町に向かう。高遠町には蕎麦屋はいくつもあって、私は「壱刻」という店を選んだが、この町に「高遠そば」の店が出来たのは比較的最近のことのようだ。
江戸時代初期の高遠藩主・保科正之公は無類のそば好きであったと伝えられ、後に山形最上藩、福島会津藩に転封するさいに高遠のそば打ち職人を連れて行ったのだそうだ。
会津では「高遠そば」と呼ばれて地方に根付いたのだが、肝腎の高遠町では「そばの打てない女性は嫁にはいけない」と言われるほど蕎麦が日常食となっていたので、蕎麦屋は商売として成り立ちにくく、以前は町内に蕎麦屋はほとんどなかったらしい。
平成9年に、高遠町の人々が会津若松市を訪れて「高遠そば」なる蕎麦が名物として定着していることを知り、信州そばの発祥の地とも言える高遠町の活性化の為に、この地で「高遠そば」を復活させる取り組みが翌年から始まったのだそうだ。

遠照寺 山門

美味しい蕎麦で腹ごしらえをしたのち、近くの遠照寺(おんしょうじ:伊那市高遠町山室2010 ☎0265-94-3799)に向かう。
寺伝によれば弘仁11年(821)に最澄がこの地に薬師堂を立てたのがこの寺の始まりとされ、以前は天台宗の寺であったそうが、その後火災により荒廃したのち、文明5年(1473)に身延山久遠寺の11世法主の日朝がこの寺を再興し、日蓮宗に宗派を変えている。
ネットで画像を検索すると、美しいボタンの花が咲き乱れる写真が多数ヒットする。この寺は、「ぼたん寺」と呼ばれて5月中頃から6月上旬頃には多くの観光客で賑わうようだ。

遠照寺 亀島庭園

本堂と庫裏と渡り廊下に囲まれた30坪ほどの空間に、伊那市の名勝庭園に指定されている「亀島庭園」がある。誰が作庭したかは明らかではないが、小堀遠州の作風を踏襲したものと考えられており、江戸時代初期から中期にかけて造られたものと考えられている。

遠照寺 釈迦堂

釈迦堂は天文7年(1538)の建立で、和様主体の入母屋造に唐様と大仏様を組み合わせた折衷様式で、国の重要文化財に指定されている。

遠照寺 多宝塔

そしてこの釈迦堂の内部に文亀2年(1502)に制作された多宝塔が収められている。この多宝塔も国の重要文化財に指定されているのだが、保存状態は極めて良好で、制作されてから500年以上経過しているものとは思えない。

遠照寺 七面堂

この釈迦堂から続く道を進み、紫陽花の咲く階段を上ると江戸時代の元禄11年(1698)から享保3年(1718)の間に再建されたという七面堂がある。この建物の内部は一般公開されていないが、堂内の極彩色の欄間彫刻と絵天井が有名で、伊那市の指定文化財となっている。

遠照寺から熱田神社(伊那市長谷溝口宮之久保1993-1)に向かう。

今は無人の神社のようなのだが、本殿が国の重要文化財に指定されているので旅程に入れていた。カーナビでは位置が特定できなかったが、近くまで来ると杉の巨木が林立しているのでここだとわかる。

黒御影石に刻まれた案内板にはこう記されていた。
「…現在の本殿は宝暦12年(1762)溝口村百数十戸の氏子が300両という大金を出し合って建築したものである
 この建築には宮大工であった当溝口村高見善八が棟梁となり、多くの職人とともに精魂をこめて仕上げたもので、規模といい造作といい、近隣に比類のない豪華なものである。
 特に彫刻師は上州(現群馬県)勢多郡の関口文治郎、彩色は武州(現埼玉県)熊谷庄の森田清吉である。竜 象 唐獅子 花鳥などの彫刻は実に巧妙華麗で見飽きることがない。それで名声が響きわたり『伊那日光』と呼ばれるようになった。
 またこの本殿を風雨から防ぐため、明治21年(1888)天覆(かやぶき屋根)を再建し、次後幾たびかの屋根替えが行なわれ現在に至っている。」
少し補足すると、彫刻師の関口文治郎は榛名神社、妙義神社などの豪華絢爛たる彫刻を手掛け、「上州の左甚五郎」と呼ばれた名匠だという。

熱田神社社殿

上の画像が熱田神社の拝殿だが、国重要文化財の本殿はその後ろの茅葺・入母屋造の覆い屋の中にある。

熱田神社 本殿覆屋

覆い屋は本殿よりかなり大きめに作られているのだが、こんなに大きな屋根を支えるのに一本の筋交いもなく、土壁で塗りかためられている部分が全く存在しないことはすごいことだと思う。そのおかげで、柱の隙間から本殿の彫刻を覆い屋の外から隅から隅まで観賞することが可能なのである。

熱田神社 本殿彫刻

細部まで精緻に作られた本殿を観ていると、先人たちが後世に一流の社を後世に残そうとした強い熱意が伝わってくるのだが、カメラのレンズを覆い屋の柱と柱の間に入れて画像を撮ろうとすると、自由なアングルでカメラを構えることが出来なかった。上のような画像しか紹介できないのは残念だが、次のURLの画像が『伊那日光』の魅力を比較的良く伝えていると思う。
http://www.omiyasan.com/south/ina/post-7.php

熱田神社の舞台

熱田神社の境内に舞宮(伊那市文化財)がある。以前は熱田神社拝殿の前にあったのだそうだが、昭和11年(1936)に現在地に移転されたという。
ネットで調べると、この舞宮でつい最近まで中尾歌舞伎の定期公演が行われていたようだ。

熱田神社より2km程南に中尾という集落があり、江戸時代の明和7年(1767)頃に旅芸人がこの地を訪れ、上中尾の山の神様を祀ってある神社の前庭で歌舞伎を演じたのが中尾歌舞伎の始まりで、それから山の神祭りにあわせて歌舞伎が演じられるようになり、天保年間(1830~44)から明治時代がその最盛期であったという。
太平洋戦争のあと長い間中断してしまったが、先人の残した遺産を復活しようとする地元の若者たちの熱意によって昭和61年(1986)に復活を果たし、平成9年(1997)には「長谷村伝統文化等保存伝習施設――中尾座」が竣工し、翌年には伊那市の無形民俗文化財にも指定されて、それ以降その中尾座で春と秋の定期公演が行われ、他にも多くの活動を続けてきたという。
しかしながら、今年の3月に会員数の減少と役者不足と資金不足から、突然活動を中断することとなったそうだが、非常に残念なことである。
http://www.nagano-np.co.jp/articles/14071


5年前に大阪府豊中市にある「日本民家集落博物館」の香川県小豆島の農村歌舞伎舞台であった建物で、香川県の中山農村歌舞伎保存会の皆さんが演じる歌舞伎を観賞しにいったことがある。

中山農村歌舞伎
【中山農村歌舞伎2012.11.4日本民家集落博物館にて】

一流の歌舞伎役者がスポットライトを浴びて演じる都会の大きな舞台とは異なり、小さな舞台ながらも太陽の光を浴びて汗をかきながら保存会の人たちが地声で演じる歌舞伎を観て、そのすばらしさに感動してしまった。
江戸時代から人々が親しんできた歌舞伎は、聴衆の目の前で役者が演じて迫力もあったのだが、今の歌舞伎でそのような距離から観賞しようとすれば2万円近い料金を支払わねばならないし、2階席でも1万4千円程度は必要だ。正直言って、役者の顔もよく判らないような座席から観るくらいなら、農村歌舞伎の方がはるかに楽しめる。

全国にある農村歌舞伎は、地元の観客を相手に無料か少額の料金を取って活動してきたのだが、過疎化の進行とともに大半が衰退していった。
有形文化財は適宜補修する費用さえ捻出できれば、その価値を落とさずに後世に伝えることが可能だが、無形文化財は何度も練習を重ねながら若い世代にその伝統を受け継いでいかなければ、いずれその価値を失ってしまうものなのである。
伊那市の無形民俗文化財に指定された伝統ある歌舞伎をこのまま衰退させてしまうのはあまりにも惜しい。なんとか次の世代に繋げることはできないものだろうか。

中尾歌舞伎
【熱田神社の舞宮で中尾歌舞伎の開演をまつ人々】

全国には歌舞伎や伝統芸能に興味を持つ人は相当数存在するのだが、歌舞伎を観る機会が少ないのはチケットが高価であることが大きいのだと思う。ならば、全国のそういう人達を農村歌舞伎に誘って、旅行者を対象に少しでも収入を増やす方法を考えてはどうだろうかと思う。

地域の貴重な伝統文化は「無形民俗文化財」に指定されたところで、役者が喜んで演じることのできる環境が維持されなければ、伝統文化を守ることは難しいだろう。中尾歌舞伎が中断のやむなきに至った主たる理由は、演じる側の金銭的な負担が少なくなかったことにあるようなのだが、ならば旅行者を歌舞伎に誘導して、演じる人々がある程度の収入が得られるようになれば多くの問題が解決することになると思う。
伊那地方にかぎらず地方を観光する人々にとっては、その地域の伝統文化は極めて興味深いものであり、もし中尾歌舞伎を毎月1回でも2回でも観賞できる機会があるのなら、その日に合わせて舞台を訪れ、あわせてこの地をゆっくり観光したいと考える人は多いと思う。そうすることでこの地域の地域活性化にも資することになれば、伊那市にとってもいい話ではないだろうか。

会場が狭いので観客が多すぎても困ると思うが、例えば地元の旅館とタイアップして宿泊とセットしてネットで予約できるようにしてはどうだろうか。旅館の宴会場で演じるのでも悪くはないが、観光客としてはできれば地元の小さな舞台で観賞したいものである。
宣伝はそれほどコストをかけなくても、SNSなどで歌舞伎好きに情報を広めれば、はじめは少数しか集まらないとしても、評判が良ければリピーターが次第に新しい客を呼び込んでくれることになるだろう。

私も、伊那の美しい自然を背景に伝統芸能を後世に残そうと力を尽くしてきた人々の歌舞伎を、中尾座か熱田神社の舞宮で観賞したいと思う。
伊那市長谷の人々が250年もの長い間代々守ってきた貴重な伝統文化をこれからも継承されていくことを祈念し、私も微力ながらこのブログやSNSなどで応援していきたい。

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【ご参考】
このブログで無形民俗文化財のことをテーマにいくつか記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-184.html

桜の咲く古民家の風景を求めて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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