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養命酒駒ヶ根工場見学ののち、秘境・遠山郷の素晴らしい文化と絶景を楽しんで

翌日の望岳荘の朝は快晴で、美しい日本アルプスが遠くまで見渡せた。旅行2日目は、細い山道をかなり走る旅程なので良い天気に恵まれたことは有難い。

最初の訪問地は養命酒駒ケ根工場なのだが、養命酒は、慶長7年(1602)信州伊那の谷・大草(現在の長野県上伊那郡中川村大草)の塩沢家当主、塩沢宗閑翁によって創製されたと伝えられている。養命酒発祥の地は望岳荘にかなり近い場所で、現在石碑が建てられているようなのだが、一般公開されていないようなので行くのを諦めた。

養命酒駒ヶ根工場2

宿から30分程度で養命酒駒ヶ根工場(駒ヶ根市赤穂16410 ☎0265-82-3310)に到着する。
この工場は標高800mに位置し、36万㎡もあるという敷地の約7割が自然の森林に覆われている。

養命酒駒ヶ根工場散策マップ

工場見学は次のURLで10時に予約をとっていたのだが、早めに到着したのは鳥の囀りを聴き、中央アルプスから流れてくる清怜なせせらぎの音を楽しみながら、緑の木々に囲まれた工場の敷地の散策を先に楽しみたかったからである。
http://www.yomeishu.co.jp/komagane/study/

養命酒 健康の森

駒ヶ根工場は昭和47年(1972)に新設されたのだが、昭和45年(1970)に敷地内に縄文時代の遺跡が発見され、翌年の発掘調査で縄文早期、縄文前期、縄文中期、弥生式早期、古墳時代の遺物や住居跡などが相次いで発見されたという。

養命酒 健康の森 縄文式住居

そのうち縄文式中期住居、弥生後期住居、平安時代初期の住居が敷地内に工場復元され、散策者の目を楽しませてくれる。上の画像は約4000年前の縄文式中期住居跡である。

養命酒創始者 塩澤宗閑像

水芭蕉の池の近くに養命酒の創始者である塩沢宗閑の像がある。

養命酒のホームページによると、塩沢宗閑が養命酒を創製した経緯についてこう記されている。
「慶長年間のある大雪の晩、塩沢宗閑翁は雪の中に行き倒れている旅の老人を救いました。その後、旅の老人は塩沢家の食客となっていましたが、3年後、塩沢家を去る時、『海山の厚きご恩に報いたく思えども、さすらいの身の悲しさ。されど、自分はいわれある者にて薬酒の製法を心得ている。これを伝授せん。幸いこの地は天産の原料も多く、気候風土も適しているから・・・』とその製法を伝授して去りました。
薬酒の製法を伝授された塩沢宗閑翁は“世の人々の健康長寿に尽くそう”と願い、手飼いの牛にまたがって深山幽谷をめぐり、薬草を採取して薬酒を造りはじめ、慶長7年(1602年)、これを『養命酒』と名付けました
江戸時代、塩沢家では、養命酒を近くに住む体の弱い人や貧しい人々に分け与えていましたが、医術が十分に行きわたっていなかった山村のため、大変重宝がられました。…その評判が高くなるにつれて、養命酒の名は伊那谷の外へも知れわたり、5里も10里も山越えをして求めにくる人が次第に多くなってきました。」
http://www.yomeishu.co.jp/sp/health/beginning/

養命酒が造られた慶長7年は天下分け目の関ヶ原の戦いの2年後であるから、今から415年も昔のことである。それ以来今日まで、「養命酒」というブランドで製造され続けてきたということはすごいことである。

養命酒 展示物

予約していた時間が近づいてきたので、管理棟の2階の受付に向かって受付を済ませる。
今年の4月11日に見学者用のスペースをリニューアルオープンしたとのことで、建物は美しく、ガラス窓からは雄大なアルプスが望めてとても気持ちの良い空間であった。
待合室に、大正時代からの養命酒が展示されていたが、今から50年前頃のボトルは何となく見覚えがあって懐かしく思えた。

養命酒 原料

最初に養命酒の歴史や健康の森についての映像を見たのち、製造工程の説明をして頂く。
画像は養命酒の原料となる14種類の生薬の現物だが、誰でも手に取ってその香りを確かめることが出来る。

ラインの見学は写真撮影NGで、また土曜日なので機械は稼働していなかったのは残念だったが、案内の方に丁寧に説明して頂いて、結構楽しく見学することができた。

最後に養命酒社の製品を試飲できる時間があるのだが、車を運転するのでアルコールの入った製品を飲むわけにいかず、酢飲料などを試飲させていただいた。最後に同社製品のお土産までいただけるのは有難い。

カフェヒーリングテラス

80分程度の工場見学を終えて、敷地内の養命酒記念館に向かう。この白壁の建物は、実際に養命酒が造られた酒蔵をここに移築したものだそうだ。
そのなかに養命酒の歴史や生薬に関する展示物やショップがあり、ランチもできるカフェが併設されている。

カフェヒーリングテラス 昼食

昼食は信州十四豚ブラウンシチューというメニューにしたが、信州十四豚というのは薬用養命酒の生薬残滓を餌に与えて育てた豚なのだそうだ。デザートも体にやさしいこだわりメニューばかりなのが嬉しい。
https://www.yomeishu.co.jp/komagane/cafe/

ショップで買い物を楽しんだ後、次の目的地である「まつり伝承館天伯」(飯田市上村上町753 ☎0260-36-2005)に向かう。養命酒工場からは52kmほどの距離があるので、1時間以上はかかる。

まつり伝承館

上の画像の建物が「まつり伝承館天伯」で、ここには地域の歴史や伝統の祭りであり国の重要無形文化財である霜月祭り(しもつきまつり)などの展示がある。

遠山郷

このあたりは長野県の南端に近く、天竜川の支流である遠山川に沿って拡がる山深い谷間の地域で、遠山郷と呼ばれていて日本の秘境100選のひとつに数えられている。

中央構造線 1
上村を通る中央構造線

むかし学生時代に日本列島最大の断層である「中央構造線」を学んだ記憶があるが、南信州ではこの断層が南アルプスと伊那山地を二分するV字谷が南北に走っていて、遠山郷はそのような深い谷間の隔絶された場所であったために、独特の文化が育まれた。
毎年12月になると、かつて柳田国男が「日本の祭りの原型」と書いた霜月祭りが、遠山郷の各地で執り行われている

まつり伝承館内部

この祭りは、湯を煮えたぎらせた釜の周りを神様や農民などを模した面(オモテ)と呼ばれる仮面の被り手たちが舞い踊りつつ、釜湯かけを行なうものなのだが、信州遠山郷観光協会公式サイトに、この祭りの意味がこう解説されている。

「祭りは夜間におこなわれますが、これにも重要な意味があります。
神は昼間でなく夜に迎えてまつるというのが日本の祭りの古い形でした。
太陽が沈む夕刻の頃に神々を迎え、一夜を徹してもてなし、夜明けに神々を返すのです。
祭りを終えて迎える日の出は、新たな太陽のよみがえりを意味します。
祭りをつとめ上げた村人たちは、それを拝むことで自らの活力のよみがえりを実感するのです。

遠山の霜月祭りは、湯立てが何度もくり返されますが、これは天竜川流域の、とくに信州側の霜月神楽に共通した特徴です。
神社の中に設けられた竈(かまど・湯釜)を中心に、湯立てなどの神事や舞がおこなわれます。
湯釜には聖なる水と火によって聖なる湯が立てられます。
この湯を神々に捧げ自らも浴びることで、命を清めてよみがえりを願うのです。
また、湯釜から立ち上る湯気は天上への架け橋となり、これを伝って全国66ヶ国の一宮をはじめ、地域の神々までを湯の上飾りに招き寄せる
ということなのでしょう。」
http://shimotsukimatsuri.com/about-shimotsuki-festival/

「霜月」は旧暦の11月で、1年で最も日照時間の短い冬至は「霜月」にある。
「霜月祭り」は太陽光の弱い季節の夕刻以降に神々を迎えてもてなし、太陽の活力を取り戻してもらうことで翌年が豊作になることを祈る人々の気持ちが込められているのだろう。

霜月祭りの面

Youtubeで祭りの画像を検索するといくつかヒットするが、遠山郷の集落によって面の種類や舞の動きや囃子の仕方に違いがあるのだそうだ。次の動画は飯田市南信濃和田の諏訪神社の霜月祭りだが、祭りの雰囲気が良く伝わってくる。
https://www.youtube.com/watch?v=2vllGeCYs6s

この祭りがいつ頃から始まったかについては詳しいことはわかっていないという。平安時代の終りとも鎌倉時代との説もあるが、江戸時代にこの地を治めていた遠山氏を鎮魂する儀礼が加えられたという伝承があることは注目して良い。実際に、霜月祭りには「遠山八幡社」などと呼ばれる遠山氏をかたどった御霊面が登場するのだそうだ。

『伊那民俗叢書 第1輯 山の祭り』

国立国会図書館デジタルコレクションに、昭和8年に出版された『伊那民俗叢書. 第1輯 山の祭り』が公開されていて、誰でもPCなどで全文を読むことが出来る。
そこには、地区別の霜月祭りの伝承などが纏められていて、この祭りで遠山氏を鎮魂するようになった経緯について、下栗集落の祭りの解説の中でこう記されている。

「元和*年間当時三千石を領していた遠山藩は、非常に取立てが厳しく、二升の桝を以て一升とするというような悪政を行なったために、領内の百姓どもの恨みを買い、参勤交代の帰路、大河原峠において一揆の土民の為に石打ちにされて殺された。…一揆の勢いは土佐守を石こづめにすると同時に、和田城を襲い、土佐守の妻子一族はもとより、三人の家老も四天王と言われた侍大将などもともに虐殺してしまった。すると三年間飢饉が続き、悪病が流行し、それがなかなか熄まないので、百姓どもはこれは必定主君遠山様をはじめ罪なき人々迄殺したため、その祟りが飢饉悪病となって我々に報い来るのであろうと、遠山氏一族を八社の神として祀り、死霊祭をしたのがこの祭りの起こりであると言っている。但し一揆のために殺されたのは遠山土佐守ではなくて、その弟の新助景道で、元和八年*四月七日であるという(遠山氏史蹟による)。いずれにせよこの祭りが死霊祭であるという説明は誰からも必ずきかされることである。」
*元和(げんな):1615~1624年。 元和八年は1622年。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463976/42

遠山郷ロードマップ

「まつり伝承館天伯」をあとにして、「日本のチロル」と呼ばれる秘境・下栗の里に向かう。
山の狭い道を走ることになるので、対向車が来るときは注意が必要だ。カーナビは高原ロッジ下栗(飯田市上村下栗1250 ☎0260-36-2758)にセットしておく。参考になる地図は「まつり伝承館天伯」で入手するか、次のURLにある『遠山郷(上村+南信濃)ロードマップ』のPDFをダウンロードして印刷しておくことをお勧めしたい。
http://page.shirabiso.com/?cid=5

「まつり伝承館天伯」から下栗の里の駐車場までは25分程度だが、ここから下栗の里を望むことが出来る『天空の里ビューポイント』までは細い山道をひたすら歩くことになる。

下栗の里

山の中を25分近く歩いただろうか。急に視界が開けて下栗の里が見えたときは本当に感動した。下栗の里は標高1000m前後の斜面にあるのだが、こんな山の上に集落があるということが凄いと思う。

駐車場の近くの店で休憩したのち、最後の目的地である旧木澤小学校(長野県飯田市南信濃木沢811)に向かう。

旧木澤小学校校舎

昭和7年(1932)に建てられ、平成12年(2000)に廃校となった木造校舎なのだが、廃校後17年も経つのに、ついさっきまで先生や生徒がいたと錯覚を覚えるように工夫がなされて、その状態が維持されているのが良い。

旧木澤小学校教室

机や椅子の配置が昔のままに残され、黒板にチョークの文字が残され、生徒の作品が教室の後方の壁に貼り出されていて、教室の中にしばらくたたずんでいると、小学校低学年時代に木造校舎で学んだ懐かしい思い出が甦って、ほっこりとしてしまった。
南アルプスの資料の展示や木澤地区の霜月祭りの展示なども参考になるが、私にとっては木造の校舎が、地元の人々の手で今も管理されて、現役の小学校のように美しく残されていることが嬉しい。

予定していた観光を終えて、予約していた下條温泉の月下美人に向かう。
静かな温泉宿で、料理もおいしくいただけただけでなく、夕食後には社長の独唱と女将さんのピアノと息子さんのギターのミニコンサートがあり、そのあとで、玄関前に敷かれたござの上に寝転がって星空を観察する会があって、宿泊者全員がひとつになれる企画に感動した。ドライブの疲れを癒すのに、とても良い宿だった。
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【ご参考】
夏の暑い時期に、こんな歴史散策はいかがですか。新しい記事を書きながら、ブログの記事を以前のブログから手作業で移していたため、この時期の記事のエントリー番号はバラバラになっていますが、「大原騒動」と「廃仏毀釈」の故地と、日本百名城の岩村城を訪ねて4年前に岐阜県を旅行した記事です。

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-154.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html



関連記事

飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える

南信州旅行の3日目は、月下美人の精算を済ませたのち天竜川の舟下りにいく予定を組んでいた。

飯田市の天竜川下りは弁天港から出発する「天竜舟下り」と天龍峡温泉港から出発する「天龍ライン下り」の2つがある。
旅館の人に聞くと景色は天龍峡を通る「天龍ライン下り」の方が良いかもしれないが、「天竜舟下り」の方が上流なので流れが速くて水しぶきを浴びるスリルが味わえるとのことだった。
いずれも伝統的な木造船の造船技術および操船技術を継承していて、川下りの観光船としてはおよそ100年の歴史を有していることから、昨年の6月、両方同時に飯田市の民俗文化財の指定を受けているようだ。
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/20160715.html

初めてなのでどちらに乗船してもよかったのだが、川下りの後は飯田城跡を巡る予定なので、「天竜舟下り」を選択して、旅館から割引券を頂いた。

天竜舟下りマップ

天竜舟下り」の乗船場である弁天港(飯田市松尾新井7170 ☎0265-24-3345)に向かう。
出発時間が迫ると2階の待合席でライフジャケットが配られて、全員それを着用してから船に乗り込む。
待合列の先頭に並んで船の先頭に近い席を確保して迫力ある写真を撮るつもりだったのだが、後ろから順に座るように指示されたので座席が後方になってしまった。しかしながら、乗船しているうちに、船の前の方が特等席ではないことが誰でもわかるようになる。
船の先頭は水しぶきを何度もまともに浴びる可能性が高く、「濡れにくい」という観点からは後ろの席の方が良い。しかしながら、いい写真を撮るためには、せめて中央よりも前の方に座りたいところである。

天竜舟下り 1

出港してしばらくは川幅が広くて船はゆっくりと進むのだが、最初の橋である水神橋を過ぎたころから次第に流れが速くなり、上の画像の南原橋を過ぎたあたりから川幅が狭くなって、いよいよ川の流れが一段と速くなってくる。
水しぶきがかかる可能性が高い場所が何箇所かあり、危険な場所に近づくと、船頭から座席の後ろにあるビニールシートを乗客全員で持ち上げる指示が飛ぶので、指示どおりにしていれば衣服が濡れずにすむと思いきや、後ろの席でもたまに横波を受けて、シートを乗り越えて水を被ることがある。

天竜舟下り 2

南原橋から最後の天龍橋までは鵞流峡(がりゅうきょう)と呼ばれていて、深いところでは水深が8mもあるのだそうだ。県立公園に指定されている場所でもあり、紅葉を迎える11月ごろはきっと素晴らしい景色が楽しめることだろう。
約6kmの35分の船旅だが、スリリングなだけでなく景色も楽しめて結構満足できた。

天竜舟下り 4

宣伝するつもりはないのだが、Youtubeで「天竜舟下り」の動画があったので紹介しておこう。この流れの速い川で、設計図のない手作りの木造船で、手漕ぎと舵取りで川を下る伝統の技術はすごいことだと思うのだが、こういうことは言葉で説明するよりも動画を見た方がわかりやすい。
https://www.youtube.com/watch?v=cIC6KiF3QBk

無量の送迎バスで弁天港に戻り、飯田市の中心部の観光に向かう。

飯田市を訪れるのは今回が2回目で、前回観光しなかった飯田城跡に向かう。駐車場は市立美術館の近くに無料のものがある。

飯田城は13世紀初めにこの地で勢力を持つようになった坂西(ばんざい)氏によって築かれたのだそうだが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡したのちは目まぐるしく城主が替わっている。
Wikipediaによると、武田氏滅亡の後「信濃伊那郡は織田家家臣・毛利長秀に与えられ、長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行う。同年6月の本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、三河国徳川家康の支援を得た下条頼安が飯田城を掌握し、後に菅沼定利が入城した。徳川勢の関東移封後には、再び毛利秀頼が入り、その娘婿の京極高知に継承され、この頃に近世城郭としての姿が整えられた。江戸時代になると小笠原氏1代、脇坂氏2代と続き、寛文12(1642年)堀親昌が2万石で下野烏山より入封し、以後明治維新まで飯田城に居を構えた」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)

飯田城図

国立国会図書館デジタルコレクションに『信州飯田城図』が公開されている。二の丸跡地には飯田市美術博物館が建っていて、本丸は神社境内となっているようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286697

明治4年(1871)7月の廃藩置県で飯田藩は飯田県となり、11月には第一次府県統合が行なわれ、近隣の6つの県が統合して筑摩県が発足し、この城内に筑摩県の飯田支庁が置かれたという。その後明治9年(1876)の第2次府県統合に筑摩県は長野県に合併されたのち、この城の大半は壊されてしまった。

飯田城桜丸御門

上の画像は、「赤門」と呼ばれる桜丸御門だが、建物としては城内で残された唯一の遺構である。

長姫のエドヒガン

二の丸の周囲には飯田藩重臣の屋敷があったそうだが、代々の家老であった安富氏の邸址には樹齢450年以上とされる長野県天然記念物の「安富桜」がある。
ネットでは満開の安富桜の画像が多数紹介されているが、次のURLによると飯田市近辺には見事な一本桜がほかにも多数あるようなので、春になって近くの桜を巡る旅も面白いかもしれない。
http://www.pixpot.net/articles/u_d_view/234/iida-sakura/

柳田国男記念館

さらに東に進むと橋があり飯田城本丸跡の看板がある。上の画像は柳田国男で、東京都世田谷区成城にあった柳田国男の書屋『喜談書屋』を移築し、平成元年(1989)に開館したものである。レトロな建物に興味を覚えたので中に入ってみた。

柳田国男記念館 内部

民俗学者の柳田国男は明治8年(1875)に儒者で医者の松岡操の6男として兵庫県に出生し、東京帝国大学卒業後農商務省に勤務したのち明治34年(1901)柳田家の養子として入籍した。養父の柳田直平は東京在住ながら旧・飯田藩士で、国男は入籍して3年後に直平の四女孝と結婚し、以来、昭和17年(1942)年まで本籍は柳田家祖先の地である飯田にあったという。上の画像は柳田国男館の書斎である。

川本喜八郎人形美術館外観

飯田城跡散策の後、川本喜八郎人形美術館(飯田市本町1-2 ☎0265-23-3594)に向かう。駐車場はすぐ近くにトップヒルズ本町駐車場(市営)がある。

いいだ人形劇フェスタ

飯田市は『人形の街』と形容されることが多いようだが、毎年8月初旬に飯田文化会館などで日本最大の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」が行なわれている。

黒田人形浄瑠璃 下黒田諏訪神社境内の人形専用舞台

人形劇が盛んな土地柄は、300年以上にわたる人形浄瑠璃の歴史を抜きに語れない。
この地域に人形浄瑠璃が伝わったのは江戸時代半ばなのだが、飯田市の黒田地区では人形浄瑠璃は熱狂的に受け入れられ、村人は浄瑠璃の舞台や人形の為に田畑まで売り払ったと伝えられている。そして、300年以上の歴史を持つ黒田人形、今田人形の人形芝居を含めて四座が今も活動を続けているという。

そんな伝統を持つ飯田市で昭和54年(1979)に全国の人形劇人が集まって『人形劇カーニバル飯田』が始まり、平成11年(1999)からは『いいだ人形劇フェスタ』と名称が変更されたのだが、今年は通算第39回目のイベントが8月1日から6日まで行われたようだ。
http://www.iida-puppet.com/thisyear/index.html

年配の方は御存知だと思うのだが、今から35年前の昭和57年(1982)にテレビで『三国志』の人形劇を放送していた。その人形制作を担当した川本喜八郎氏が平成2年(1990)の夏の『人形劇カーニバル飯田』に人形劇公演のために初めて飯田市に訪れ、人形に情熱を傾ける飯田の人々に感激して、「人形が生きている」この飯田こそが「人形たちに一番ふさわしい場所」として、川本氏が制作してきた「三国志」「平家物語」などの人形を飯田市へ寄贈されたという。その人形が展示されているのが川本喜八郎人形美術館なのである。

川本喜八郎人形美術館

上の画像はエントランスにある『三国志』の諸葛孔明の人形である。
ギャラリーには59体もの『三国志』の人形が展示されていたのだが、いろんな人形の表情を見ているだけでも楽しい。

近くのレストランで昼食を済ませて、今回の旅行の最後の目的地である満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村駒場711-10 ☎0265-43-5580)に向かう。道がわかりづらいので、次のURLから近隣地図をダウンロードされた方が確実だ。
https://www.manmoukinenkan.com/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9/

満蒙開拓平和記念館地図

なぜこんな場所に「満蒙開拓平和記念館」があるのかと誰でも思うところだが、簡単に説明しておこう。

かつて中国東北部に13年間だけ存在した「満州国」に、日本全国から27万人の農業移民が渡って行った。これを「満蒙開拓団」とよぶのだが、この時に送りだされた農民の出身地は長野県が3.3万人と全国で一番多かったという。二番目に多かったのは山梨県で1.7万人というから、長野県の人数の多さが際立っていたことがわかる。当時の長野県の農民は養蚕業の衰退による経済的に困窮していて、耕地面積も狭かったことから新天地に夢を託したのであろう。

満蒙開拓平和記念館パンフレット

記念館の展示室の中に満蒙体験を経験した人の体験談が読めるコーナーがある。
購入したパンフレットにもそのいくつかが紹介されているが、大正12年生まれの小木曽さんの証言を引用させていただく。

「村で満州移民の話が出て、村の偉い人たちが家に来てしきりに『お前さんたちこそ満州へ行くべきだ』って勧めてくれた。日本じゃ仕事がない。満州へ行ったら20町歩の田畑をくれるんだから、20町歩の大地主になれるんだって。そんな大地主になれるんならこんなに苦しむことはない。それじゃあ満州に行こうってことになった。
母親はいやだったけどね、あの時はああするしかなかったんだな。日の丸へ寄せ書きしてくれて、兵隊さん送ってくれるみたいに盛大に送ってくれた」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

この「満蒙開拓団」を発案したのは、移民を増やすことによる満州国維持と、対ソ兵站地の形勢を目指す関東軍であったのだが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)8月9日にソ連が満州国に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして朝鮮国境まで撤退してしまう
以前このブログで紹介したとおり、関東軍は開拓移民だけでなく、民間人のほとんどを見捨てているのだ。
満州国の首都・新京には当時14万人の日本人が居留していて、8月11日未明から正午までに18本の列車が出で38千人が新京を脱出しているのだが、優先的に脱出したのは軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族で、民間人はわずかしかこの列車に乗っていなかったことがWikipediaに書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

満蒙開拓平和記念館で購入したパンフレットで、満蒙開拓平和記念館専務理事の寺沢秀文氏はこう記しておられる。
「開拓団を守るべき関東軍はと言えばもうその姿は無かった。関東軍は早い時期からソ連軍侵攻時には南満州方面の『作戦地域』に南下し、開拓団が暮らすその他の大半の地域のほとんどは『放棄地域』とすることを密かに決定しており、その作戦通りに関東軍は『敵に知られるから』と開拓団に知らせることなく密かに南下してしまった。守るべき軍隊もない開拓団員たちの悲惨な逃避行、さらに集団自決により多くの犠牲を出すところとなった。また越冬時の苦境の中から多くの残留孤児や残留婦人が生まれることにもなった。」(『満蒙開拓平和記念館』p.58)

開拓団員のうち成年男子は4.7万人が軍に召集されていたために、残る22.3万人の大半が老人、女性、子供であった。そんな男手が少ない状態で始まった開拓移民たちの逃避行はとんでもなく悲惨なものとなった。侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例もある。

大正14年生まれの中島多鶴さんはこんな悲しい記録を書き残しておられる。
「湿地ばっかりで、膝までつかるような所で、足はもう履物もないの。それでも必死で一週間くらい歩いて行ったら牡丹江があって、大きな川でね、幅が200メートルもあるの。それを渡ったら向こうはすごい原生林なの。…そうしとるうちに、もう行けないって川に子供を捨てちゃう人がでてきた。もうどうしようもないもんで、子供を流したんです。私も七人くらいまで流れて行くのを見たんだけど、止めてやることもできん、助けてやることもできん。」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

生き残ることが出来た者も極寒の収容所などに送られ難民生活を過ごし、開拓移民の約8万人が死亡し、生き残ることのできた者も、多くは残留孤児や残留婦人となったというという悲惨な話なのだが、このような史実が戦後のわが国ではほとんど伝えられていないのである。

「満蒙開拓平和記念館」のある阿智村からは175名もの開拓団を送り込んだのだが、戦後帰国できたのはわずかに47人であったという。

山本慈昭

長岳寺住職で国民学校の教員であった山本慈昭氏も開拓団員として家族や教え子とともに満州に渡った人物だが、ソ連侵攻時には妻子と引き離されてシベリアに抑留される身となり、昭和22年(1947)にようやく帰国すると、妻や幼い2人の娘の死と、阿智開拓団の8割が死んだと聞かされて愕然とする。

悲しみの中、山本氏はせめて仲間たちの遺骨を拾おうと昭和39年(1964)に訪中し周恩来との面会を果たしているが、遺骨収集は認められなかったという。
しかしながら、その翌年に中国黒竜江省在住の中国残留日本人から、日本にいる肉親を捜してほしいとの手紙が届き、中国残留孤児が存在することを知る。山本氏は孤児たちの帰国運動を開始しようと当時の厚生省をはじめ各省庁に残留孤児の調査を訴えたが、良い返事は得られなかったようだ。

その後昭和44年(1969)に阿智開拓団の生存者の一人が、死去する2日前に、子供達の命を救うために中国人に引き渡し、後に帰国できた自分たちは口裏を合わせて全員死んだと嘘をついたことを告白し、山本氏の長女や教え子15人が生存しているはずと発言した。
山本氏は孤児探しの使命感をさらに強めて活動を強化し、新聞やテレビでも孤児たちの存在が、次第に報じられるようになっていく。

昭和47年(1972)の日中国交正常化を機に「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本氏を会長として、中国の孤児たちの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始されるようになる。それ以降次第に孤児たちの身元が判明して、多くの家族が再会を果たすことになる。

しかしながら、ここまでくるのに終戦後あまりにも長い年月が経ちすぎていた。
身元が判明しても、家庭の事情で親族による永住帰国の承諾が得られないケースや、残された養父母が生活困窮となるケースが少なくなかったようだ。
また帰国しても、ほとんど中国語しか話すことが出来ず、言葉の壁や生活習慣の違いによって孤立するケースが多く、平成11年(1999)の調査で、生活保護に頼る世帯が66%も存在したという。

中国残留孤児国家賠償訴訟

平成14年(2002)に、国は中国残留孤児に対して速やかな帰国支援や帰国後の自立支援を怠ったとして中国残留孤児による国家賠償訴訟が提訴された。全国15の裁判所で訴訟が起こされ、残留孤児として帰国した人の9割にあたる2211人が原告として参加したという。
裁判は原告の敗訴が続き、平成19年(2007)に国は年金の満額支給と特別給付金の支給を約束する新たな支援策を提案して和解を持ちかけ訴訟は取り下げられていったのだが、損害賠償金が支払われることはなかったのである。

ここで、原告に参加した中国残留孤児にとって、わが国はどんな国家であったかを考えてみたい。
彼らは国策として家族と共に満州に送られたのだが、ソ連侵攻時に日本軍に見捨てられ、戦後長い間中国に置き去りにされてきた。そしてようやく夢がかなって帰国できたのだが、わが国は彼らが自立できるような支援すら与えることのない冷たい存在であったのである。

希望を抱いてようやく祖国に戻れたにもかかわらず、彼等の9割もが国を提訴するに至ったことは、政府や地方の行政機関や彼らの親族や故郷の人びとが想定外に冷たかったことを意味している。しかしながら、国を提訴することで多くの国民の関心を集めることができれば、世論の後押しで裁判に勝訴し賠償金を勝ち取ることは不可能ではない…。彼等の誰もが、わずかでも生活改善が図れることを期待していたと思うのだが、期待していた世論の盛り上がりはなく、裁判では敗訴が続いて、彼らは日本の国民も冷たい存在に感じたのではないだろうか。

ではなぜ、日本国民は彼らに対して暖かい支援の手を差し伸べることができなかったのだろうか。
その理由は、戦後の長きにわたりわが国の教育機関もマスコミも、「終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて」来なかったし、訴訟が起きてからマスコミがこの問題を充分にとりあげなかったことが大きいのだと思う。

満蒙開拓平和記念館

「満蒙開拓平和記念館」は、国や長野県などの出資はなく、民間の人々が出資して入場料と寄付金や会費で運営しておられる施設である。
リーフレットの表紙には「前事不忘、後事之師―前事を忘れず、後事の教訓とする―」と記されていたが、わが国では旧ソ連や中国、および朝鮮半島で起きた過去の出来事を国民にありのままに伝えるということをさせたくない勢力が確実に存在して、マスコミなどで流される解説の多くは真実をありのままに伝えていない。史実でないことを教訓とするわけにはいかないのだが、わが国では「前事」について、確かな資料に基づいて正しく学ぶ機会が乏しすぎることが問題だ。

この記念館は小さな施設ではあるが、戦後のわが国でほとんど伝えられてこなかった満蒙開拓の歴史をしっかり学ぶことのできる良い施設である。
この小さな記念館が、広島の平和記念資料館のように多くの人々を誘い、世界に向けて平和を発信する日が来ることを祈念して、3日間の南信州の旅行を終えることにした。
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【ご参考】
シベリアや満州の事を調べて行くと、なぜ中国やわが国の左派勢力がこのような史実を隠蔽しようとするのかを垣間見ることが出来ます。よかったら覗いてみてください。

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html



関連記事

長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話

シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。

原子爆弾保管の件

その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「特別緊急指定」で送られた機密電報がある。
上の画像がその機密文書のコピーであるが、ここにはこう記されている。

原子爆弾保管の件 長崎より東京に持ち帰りたる不発原子爆弾を速やかに『ソ』連大使館内に搬入保管しおかれたし」

この電文を素直に読めば、長崎に落とされた原爆は2つあり、1つが不発弾であったということになる。その不発弾を終戦の日から12日後の日付で、速やかにソ連大使館に運んでほしいと大本営の河辺次長に指示しているのである。

瀬島龍三
瀬島龍三

この電報の主任の欄には「瀬島」と書かれているが、当時大本営参謀であった瀬島龍三のことである。若い世代の方はこの人物を御存知ないかもしれないが、戦後は伊藤忠商事の会長や、中曽根康弘元首相の顧問などの多くの要職に就任し、長い間わが国の政治経済界に大きな影響力を持った人物なのだが、平成19年(2007)に95歳でこの世を去った。
瀬島は終戦直前の昭和20年7月に関東軍作戦参謀として満州に赴任し、わが国が降伏した4日後の8月19日以降、ジャリコーウォで行われたソ連軍との停戦交渉に参加している。

長崎に落とされた原子爆弾の1つが不発弾であったという話はにわかには信じがたいところだが、旧ソ連軍の通訳であったチタレンコの手記に「不発原子爆弾」についての記述があるという。

沈黙のファイル

共同通信社社会部記者が著した『沈黙のファイル』に、その手記の該当部分の概要が紹介されている。
不意に日本軍の大本営の代表がソ連軍司令部を訪れてきて、チタレンコは司令官から30分ほど相手をするようにと命じられ、相手が退屈しないように広島と長崎に落とされた原爆を話題にしたところから話が始まっている。チタレンコの手記では交渉した相手の名前を失念したために、文中では『彼』と記している。

「応接室でチタレンコは彼に尋ねた。
『あなた方、日本の最高幹部では米軍の新兵器をどう評価しているのか? また、それは日本の降伏にどんな役割を果たしたのか?』
『原爆は実に強力な兵器だ。本当に想像を絶する破壊力だ』
『彼』はそう答え、原爆の犠牲者を挙げた後で続けた。
『降伏の原因となると、主な役割を果たしたのは原爆でなく、関東軍の急激な敗北だった。これで日本は後方を奪われ、抵抗不能となった……米国は日本に原爆を3個投下してストックを使い果たしてしまった。』
『日本に落とされた原爆は3個ではなく、2個だ。1つは広島に、もう1つは長崎だ』とチタレンコ。
『いいや』と『彼』は首を振った。
『米国は日本に3個投下した。広島に1つ、長崎に2つだ。うち1つが爆発しなかった。
 チタレンコが興味をそそられ『その不発弾はどうしたのか』と聞くと、『彼』が答えた。
『われわれの現状で何ができるのだ。不発弾はあるが、米軍が来て持ち去る。それですべてが終わる』
『彼』はチタレンコを見詰め、一呼吸置いて付け加えた。
われわれは喜んでそれをあなた方に渡すのだが
チタレンコは大笑いした。信じられない話だった。
『なぜ日本は急にわれわれに原爆を渡そうとするのか? しかも、喜んで』
『彼』が真剣な表情で言った。
『われわれの国を占領するのは米軍だろう。もし米軍が原爆を独占したら、われわれはおしまいだ。われわれをひざまづかせ、隷属させ、植民地にして日本は二度と復興できなくなる。もし原爆がソ連にもあれば、われわれは近い将来大国間でしかるべき地位を占めることができる
 チタレンコは手記に『この論拠は非常に説得力があるように思えた』と書いている。
…私と彼は話がついた。直接電話で東京都連絡を取り、原爆を我々に渡すという確証を得て、受け取りに東京に飛ぶだけだ。私は彼に提案の礼を言い、その提案を司令部に報告すると言った。『報告してください』と彼は言った。『どうかわれわれにはもう何日ではなく、何時間しか残っていないことを考慮してください。ソ連がわれわれから原爆を受け取ることを決定したら、なるべく早く行動しなくてはいけない。米国人が日本人に上陸する前、原爆がわれわれの支配下にあるうちに
 大本営代表の『彼』が出て行った後、チタレンコはすぐ執務室にいた政治将校フェデンコに報告した。
 説明を聞き終えたフェデンコはすっと立ち上がり、窓辺に向かった。チタレンコの耳につぶやきが聞こえた。
信じられない。日本がわれわれに原爆譲渡の提案をするとは。これはとてつもないことだ。』」(『沈黙のファイル』p.169~172)

朝枝繁春と周恩来
朝枝繁春(左)と周恩来(中央)と辻正信(右)[1957年に国交のない中華人民共和国を訪問]】

『沈黙のファイル』によると、この時にチタレンコに対して不発の原子爆弾提供を申し出た人物は瀬島龍三ではなく、大本営参謀の朝枝繁春だったという。
朝枝は、8月18日に東京から満州国の首都・新京に出発する前に、羽田空港で長さ1.5m、直径約30cmのジュラルミンの円筒状の物体を見て、長崎の原爆の不発弾との話を聞いている。飛行機の中で、もしこの不発弾をソ連に渡したらどうなるかと考え、電報用紙に文案を書いて、権限のある瀬島に頼んで打電してもらったと証言しており、冒頭の電文はその時のもののようである。

この電文で記されている通り不発弾が存在しそれがソ連に渡ったために、ソ連は随分短期間で原爆開発に成功したと考える人もおられるようだが、ネットでいろいろ探してもソ連にその「不発弾」を入手したという記録もなければ、アメリカが長崎に2発の原爆を落として一つは失敗したという記録もない。

元全国紙社会部記者であった新恭(あらた・きょう)氏のブログ『永田町異聞』によると、朝枝繁春は、冒頭の機密文書が斎藤六郎氏が持ち帰った大量の書類の中から発見された時に、メディアのインタビューに対し「それは原子爆弾と違う。ラジオゾンデである」と答えたという。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10157993563.html

「ラジオゾンデ」というのは原爆投下と共に落下傘で投下され、爆風や熱線の威力を計測してそのデータを自動送信する装置で、実際に長崎では3個が投下されている。
『永田町異聞』によると、平成19年12月7日の衆議院外務委員会で、衆議院の松原仁議員がこの機密電報のコピーを出席者に配布して、「(ラジオゾンデは)わずか200gや300gのものであり、不発原子爆弾と間違えるだろうか」と朝枝証言に疑問を投げかけたそうだ。
衆議院の議事録で確認すると、松原議員は「原子爆弾の技術というのは極めて重要でありますから、恩義を売ることによって日ソのいわゆる終戦交渉を有利にしようという、瀬島さんの一つの判断があったと思う」と述べ、斎藤六郎氏が持ち帰った膨大な文書を精査し、国立公文書館に資料を移管すべきではないかと提案している。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000516820071207005.htm

長崎に落下したラジオソンデ

今日のラジオゾンデはかなり軽量化が図られていて今では100g以下になっているようだが、当時のものはかなり大型であったことを松原議員は御存知ではなかったようだ。長崎の原爆資料館にその現物が展示されていて、ネットでその画像を見ることが出来る。
画像だけでは正確な大きさはわからないが、説明板の活字の大きさから推定して、朝枝証言の「長さ1.5m、直径約30cm」に近く、彼が羽田空港で見たのはおそらくこのラジオゾンデと同一のものであったと思われる。この大きさなら、知識のない人間は「原爆の不発弾」だと考えてもおかしくないと思う。次のURLにその画像がある。
http://ichyamada.jugem.cc/?eid=716

ネットでいろいろ探していると作家の檜山良昭氏の『閑散余録』というサイトに、8月6日の広島原爆の時にこのラジオゾンデの1つが広島の北に位置する亀山村の山林に落ちて、村では「不発弾が落ちた」と大騒ぎになり、陸軍が回収して陸軍の有末調査団に送られ、団員である新妻清一技術中佐によってすぐにラジオゾンデであることが認定されたことが書かれている。
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200708090922-9592430.html

原子爆弾用ラジオソンデ落下地点
【ラジオゾンデ落下地点(旧戸石村上川内)】

長崎でも同様なことが起こったようだ。
長崎のラジオゾンデ落下地点の1つである旧戸石村上川内に長崎市が制作した説明版があり、その解説文が次のURLの画像から読める。文中の「田結」、「江の浦」は残りの2つが落下した地点である。
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54075559.html

「ここに飛来した落下傘は谷間の柿の木にかかり、ラジオゾンデはその下の水田の中に落ちた。
谷間の上にあった民家9軒は、この不意の飛来物を新型爆弾の不発弾と思い、村では半鐘を打ち鳴らし大騒ぎになった。同じような騒ぎは隣村の田結、江の浦でも起こった。その後、落下物は海軍等によって調査のため持ち去られた。」

現地で「不発弾」だと騒いでいたものを海軍等が回収し、羽田空港から調査団に引き渡される前に朝枝がそれを見て、「不発弾」との説明を受けて、そう思い込んだままソ連との交渉に向かっただけのことではなかったか。

そのあとでこの物体は、陸軍の専門家によってラジオゾンデであることが判明し、朝枝が瀬島に送らせた機密電報に対して大本営からは、「原爆の不発弾ではなく、ラジオゾンデである」との返事が届いたことと思われる。
おそらく朝枝はその時初めて「ラジオゾンデ」という名の測定機器の存在を知ったのであろう。そう理解すれば、戦後になってこの機密電報が発見された際に朝枝がマスコミのインタビューに対してこの機器の名前を即座に答えることができたことが納得できるのである。

結局、ソ連に不発弾を譲渡する話は朝枝の事実誤認が判明して流れてしまったのだが、今回私が問題にしたいのは、朝枝繁春にせよ瀬島龍三にせよ、ソ連に対して有利となるような情報を積極的に提供しようとした姿勢である。

実はこの時のソ連との交渉で、朝枝がソ連に有利な提案をしたのはこればかりではなかった。
再び『沈黙のファイル』の文章を引用させていただく。

「(朝枝は)終戦12日目の45年8月26日、新京のソ連軍司令部で朝枝は政治将校のフェデンコにこう申し入れた。
米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ
 フェデンコは朝枝の提案を極東軍総司令官ワシレフスキーに極秘で報告した。その報告書がモスクワの公文書館に残っている。
 
 本日、参謀本部のアサダ(朝枝)中佐と会談した。…彼の報告内容は次の通りである。
『…ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ、対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなく、ソ連がこのとおりに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。…この参謀本部と軍中枢部の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。日本は完全に敗北した。大陸に残された約200万人の軍隊は抵抗の力がない。』」(同上書 p.173~174)

8月24日にソ連軍は朝鮮半島の平壌を占領したばかりで、米軍は太平洋を北上中であったようだが、大本営参謀とは言えわずか33歳の朝枝が、国防大臣、外務省、天皇側近の意向を確認することもなく、軍を代表する立場でソ連と重要な交渉が可能であったのはなぜかと誰でも思う。

日本が共産主義に降伏
【2013年8月11日付の産経新聞の記事】

このブログで何度も書いてきたが、終戦の少し前には共産主義者が日本軍の枢要な地位を占めていたことをまず知る必要がある。上の画像は昭和20年(1945)6月にスイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに保管されていたことを伝える新聞記事である。

また、昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言をしたという。
その11名のうち氏名が判明しているメンバーには、朝枝繁春瀬島龍三のほか、現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父の志位正二や、終戦工作の原案である『今後の対ソ施策に対する意見』で、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書いた種村佐孝がいたことが分かっている。朝枝も瀬島も志位も種村も、ソ連お墨付きの共産主義思想の持主であったことを知るべきである。

なぜ日本軍の中枢部に共産主義者が多数入り込んだかについては、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を読めば見当がつく。

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

レーニン

このような考え方はレーニンが最初に考案したもので『敗戦革命論』と呼ばれているのだが、わが国の軍隊はこの決議通りに、わが国で共産主義革命を成功させるために多くの若者が入隊し、日本政府の方針を無視して暴走して戦争に突入させ、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛け、ソ連が参戦すると国境周辺の領土をソ連に差し出し、あわよくばわが国の共産主義国化をはかろうと考えていたのだと思う。

少し考えればわかる事だが、いつの時代もどこの国でも、ある国家を転覆させることを狙っているような勢力にとっては、情報収集や世論誘導のためマスコミや政治家、労働者などの工作も重要だが、武器と兵士を合法的に使える軍隊の工作が最も重要かつ不可欠である。

昭和3年10月19日の国民新聞の記事

第6回コミンテルン大会は1928年(昭和3年)7月17日から9月1日までモスクワで開かれたのだが、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブで新聞記事を検索すると同年の10月19日付の国民新聞にソ連の日本軍工作について書かれた記事を見つけることが出来る。
その記事には、その年の6月以降ソ連がハルピンで露骨な日本軍工作を始めたことが書かれているので、ターゲットは明らかに関東軍である。終戦の17年も前から、関東軍はソ連の赤化工作に曝されていたことを知らねばならない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=HTML_FILE&POS=1

前回の記事で、ソ連参戦後に関東軍が満蒙開拓団をはじめ多くの在留邦人を見捨てて朝鮮国境付近まで一気に退却したことを書いたが、このような関東軍の行動は、ソ連軍にわが国土を存分に占領させ、いずれわが国を共産主義国家たらしめようとした思想の持主が、この時期に日本軍の主導権を握っており、また関東軍に対してソ連が重点的に工作活動をしていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのである。

鳩山謝罪

「ソ連などの共産主義国家にとって都合の悪い」史実はその気になって探せばいくらでも出てくるのだが、戦後の長きにわたり左寄りの学者や日教組やマスコミや官僚がこのような史実を徹底的に隠蔽して、「わが国だけが悪かった」とする「自虐史観」を固定化させる役割を果たしてきた。彼らにとってはそういう歴史をわが国民に広めることが好都合であったのだろうが、こんな歴史観に国民がいつまでも洗脳されていては、わが国の富はいつまでたっても反日国家から毟り取られ続けることになる。

今年2017年はロシア革命からちょうど100年にあたる年である。
ロシア革命が成功した後、レーニンは世界革命を遂行すべくコミンテルン(共産主義インターナショナル)を結成し、世界各国の軍隊、マスコミ、政治家、労働者などに工作員を送り込んでいる。
20世紀の歴史はソ連やコミンテルンの活動を抜きには語れないと思うのだが、そういう観点からわが国や世界の近現代史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

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【ご参考】
学生時代には張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は関東軍が仕掛けたと学んだのだが、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家がGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書に基づいて、張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルンの工作員であったことを明らかにしている。当時のイギリスの外交文書においてもこの事件はソ連の犯行であり日本軍が共謀したと結論付けている。そうだとすれば、関東軍の一部は、昭和3年の時点でにすでにコミンテルンの工作に協力していたことになる。
関東軍に限らず、日本軍はかなりソ連の工作にかかっていたと思われるのだが、このような視点からマスコミなどで報じられることは皆無と言って良い。良かったら、他の記事も覗いてみてください。

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html


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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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