HOME   »  古代史  »  蘇我氏は本当に大悪人であったのか

蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。

いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで書いてきた。
日本書紀』も勝者が編纂した歴史であり、真実が書かれている部分がそれなりにあるとは思うものの、一方で勝者は必要以上に美化され、反対勢力は必要以上に貶められているという視点で読むことが必要であると思うのだ。

日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で現存する最古の正史であるのだが、もっと古い史書が過去にはあった。
推古朝の600年頃に継体天皇の系図を記した『上宮記』、7世紀には記紀編纂の基礎資料となった『帝紀』『旧辞』、620年には聖徳太子蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』という書物が存在したことが分かっているのだが、最後の『天皇記』『国紀』は皇極4年(645)の6月「乙巳の変(いっしのへん)」*の際に多くを失ってしまう。『日本書紀』にはこう書かれている。
(*今の歴史教育では蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的)

日本書紀下

「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。(13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺[ふねのふびとえさか]はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。)」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.155)

『天皇記』『国記』は蘇我氏の立場から書かれた歴史であったはずであり、普通に考えれば、蘇我氏としてはその歴史書を隠してでも守ろうとすることはあっても、自ら火をつけることは考えにくい。
『日本書紀』によると、『天皇記』は蘇我氏によってこの時に焼かれ、『国記』は焼かれる前に取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に奉献されたとあるが、その『国記』も現存しない。いずれも中大兄皇子側で焚書処分された可能性を感じている。

いつの時代も、どこの国でも、一国を支配する立場に立つためには、目の前の政敵を打ち倒すことが必要になる。選挙のない国や時代においては、多くの場合は政敵を殺すぐらいのことをしなければ、のし上がる方法がないのだ。またその場合に、政敵の命を奪う自らの行動を正当化すために余程の大義名分がなければ、ただの犯罪者になってしまうだけだ。

そこで、クーデターが成功し権力を掌握できた場合には、「歴史」をどう描き、どう広めるかが重要なポイントとなってくる。歴史を編纂する立場に立つということは、どの勢力に権力の正統性があるかを明らかにし、その国・その時代の言語空間を支配するという重要な意味合いがあるのだと思う。

学生時代に、「蘇我氏」と言えば天皇家を乗っ取り国家を乗っ取ろうとした大悪人だと教わってきた。その根拠はすべて『日本書紀』にあるのだが、そもそも『日本書紀』は中大兄皇子や中臣鎌足の立場を擁護するために記述されたものではなかったのか。

普通に考えれば、中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害させて政権を奪い取ったのであり、その行動に正当性があることを主張しようと思えば、蘇我一族が余程の大悪人でなければ立論が困難であったはずだ。この点については以前にこのブログで『忠臣蔵』のことを書いたのと同じ構図にある。
とすれば、『日本書紀』における蘇我氏に関する記述をそのまま鵜呑みにすることは危険ではないのか。

『日本書紀』の文章を読む前に、蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図を確認しておこう。
蘇我氏系図

藤原家系図

上の図がネットで見つけた蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図だが、蘇我氏は古くから天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、乙巳の変が起きた当時はすでに完成の域に達しており、後は子孫さえ増えれば安泰といえる状況にあった。
一方、中臣鎌足はこの頃突然歴史に現れ、中臣(藤原)氏が天皇家との姻戚関係を結ぶのは、鎌足の子の藤原不比等の時代以降である。
結果だけを見れば蘇我氏の立ち位置を、藤原氏が奪い取ったようにも思える。天皇家を乗っ取り、国家を乗っ取ろうとしたのは藤原氏の方ではなかったのか。

『日本書紀』で、蘇我氏の専横にかかわる叙述が目立つのは皇極天皇(35代:在位642-645の女帝)の治世下からだが、『日本書紀』に記述されている蘇我氏の悪行とはどんなことなのかを拾ってみよう。

皇極元年(642)の出来事にこんな記録がある。
「(蘇我蝦夷は)また国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を召使って、双墓(ならびのはか:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来(いまき:御所市東南)に造った。一つを大陵(おおみさぎ)といい、蝦夷の墓。一つを小陵(こみさぎ)といい、入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このために上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨され嘆いていわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日なく地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに仕えたものか』と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.140)

次は皇極二年(643)の出来事だ。
「(十月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに、紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に威勢を張ったのである。 十二日、蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(ふるひとのおおえ:舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143)

その直後の11月に、蘇我入鹿は山背大兄王(やましろのおおえのみこ:聖徳太子の子)を襲撃する。斑鳩寺とは法隆寺の事である。

「十一月一日、蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。…山背大兄は…隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略) …山背大兄らは山から出て、再び斑鳩寺へ入られた。兵らは寺を囲んだ。山背大兄王は三輪文屋君を通じて、将軍らにつげさせ『自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう』といわれた。ついに子弟妃妾と諸共に自決してなくなられた。おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変わった。それで入鹿は見ることもできなかった。蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王らがすべて入鹿に殺されたと聞いて、怒りののしって『ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ』といった。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143~146) と、かなり嘘っぽい文章が続く。

幡や絹笠の話は論外だが、多くの論者が指摘するように、山背大兄王が戦えば勝てる状況下でありながら、一族全員を集めて自決してしまうというのはあまりに不自然である。
しかもこれだけの事件が法隆寺を舞台に起こったのであれば、法隆寺に聖徳太子の子である山背大兄王の墓があってもおかしくないのだが存在しないし、法隆寺が上宮王家を祀った気配もないというのだ。そもそも、山背大兄王の墓が国内のどこにあるのかすらはっきりしていないのだそうだ。
それよりももっとおかしなこととして、山背大兄王の滅亡に関与した人物が、蘇我氏滅亡後に栄転していることを指摘しておきたい。
蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃させた巨勢徳太は、孝徳天皇の御代の大化5年に左大臣に任命されているのだそうだ。
また『聖徳太子伝補闕記』にはこの事件の後、山背大兄王の息子弓削王を大狛法師という人物が殺したと書かれているのだが、この大狛法師は大化元年8月に仏教界の最高指導層である「十指(とたりののりのし)」の筆頭に任じられているのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
最大の政敵である蘇我蝦夷・入鹿親子がこの世に存在しない中で『日本書紀』が編纂されているのだから、すべての悪事を政敵に擦り付けることは容易であろう。山背大兄王一族を襲撃させたのは、中大兄皇子、中臣鎌足に近い人物の可能性を感じるのだ。

話を『日本書紀』の文章に戻そう。
この山背大兄王一族が滅亡する事件の翌(皇極4年[645])の6月に、飛鳥板葺の宮大極殿で中大兄皇子らの手によって蘇我入鹿が斬られることになる。これが「乙巳の変」である。 当初の打ち合わせでは、入鹿を斬りつけるのは佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田の2名であった。『日本書紀』にはこう書かれている。

乙巳の変

「…中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れてたじろいでいるのを見て、『ヤア』と掛け声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落しむ、頭をふって『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるか、そのわけを言え。』といった。
 天皇は大いに驚き中大兄に、『これはいったい何事が起ったのか』といわれた。中大兄は平伏して奏上し、『鞍作(くらつくり:入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか』といった。
…古人大兄は私宅に走り入って人々に、『韓人(からびと)が鞍作臣を殺した。われも心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとはしなかった。…」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.154~155)

この中大兄皇子の奏上を読めば、入鹿暗殺の大義名分は山背大兄王一族の滅亡事件にありその延長線上に蘇我氏による天皇家乗っ取りを挙げている。しかし、山背大兄王の事件に蘇我入鹿が関与していなかったとすれば、乙巳の変は単なる暗殺事件で、中大兄皇子・中臣鎌足はただの暗殺者にすぎず、英雄になるようなことはあり得ないことになる。
この事件の後に中大兄皇子は皇位継承権を持つ古人大兄皇子(母:蘇我馬子の娘)を殺害し、蘇我氏でありながらクーデターに協力した蘇我倉山田麻呂を自害に追い込んでいる事実をどう読めばいいのか。
また古人大兄皇子が『韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。われも心痛む』と言ったのはどういう意味なのか。この点についても諸説があり、中臣鎌足が百済人であり百済人に蘇我入鹿が殺されたという解釈や、混乱する半島情勢の考え方の行き違いで殺されたという解釈があるようだが、いずれにしても蘇我氏の専横や天皇家を乗っ取ろうとしたから殺されたという多数説とは違うことを言っていることになる。

加藤謙吉

最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっているらしく、歴史学者の加藤謙吉氏は蘇我氏こそが律令政治の推進役で改革者であったと主張しておられるという。
律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説のようだ。
その説が正しいとすれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になることも考えられないこともなさそうだ。

関裕二

また作家の関裕二氏は、大化二年(646)の「改新の詔(みことのり)」の中には、後世になって使われるようになった用語が混じっており、『日本書紀』編纂者が後世に書き加えた可能性を指摘しておられる。(宝島社『捏造だらけの日本書紀』p.38-39)

さらには蘇我氏が天皇であったという説もネットではかなりヒットする。
蘇我氏天皇説は、前回紹介した『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということから考えるとなかなか説得力があるのだ。

今後もし『天皇記』『国記』の写本が発見でもされれば、日本の古代史は全面的に書き換えられることになると思うのだが、古代史には同時代に残された史料が少なく『日本書紀』に頼りすぎることが真実の解明を難しくしているような気がするのだ。

子供の時から聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教わり、長い間そのように考えてきたのだが、よくよく考えると、聖徳太子を英雄に描けば描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリに、長い間騙されていたのかも知れない。

どこの国でもいつの時代でも、正史というものはそれなりに真実が書かれてはいるのだろうが、当時の権力者を擁護するために真実が捻じ曲げられ、反対勢力は必要以上に貶められる傾向が強いことに留意して読む姿勢が必要だと思う。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル