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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか

シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。

エンゲンベルト・ケンペル

エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されている。

ケンペル江戸地図

上の画像は『日本誌』に掲載された江戸の地図だが、大英博物館には彼が持ち帰った日本地図もあるようだ。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/zn/zntop.html

カール・ツンベルク

またカール・ツンベルク(1743~1828)は1775年(安永4)にオランダ商館付医師として出島に赴任し、1776年には江戸参府を果たし徳川家治に謁見している。わが国に滞在したのはわずかに1年だったが、帰国後に『日本植物誌』『江戸参府随行紀』などを著している。 次のURLで、『江戸参府随行紀』の内容の一部が紹介されているが、そこにわが国の地図の話が出てくる。
「測量術については、(日本人は)かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm

このように、ケンペルの時代もツンベルクの時代も、わが国の地図は幕府の禁制品であったはずなのだが、二人とも持ち帰っていることがわかる。
ケンペルやツンベルクの時代の地図はそれほど精度の高いものではなかったにせよ、鎖国していたわが国において、外国人がわが国の地図などの禁制品を国外に持ち出すことについて、厳重なチェックがなされていなかったことは注目して良い。

では、シーボルトの時はどうだったのか。
シーボルト事件」の通説では、シーボルトの荷物を積み込んだオランダ船が台風で座礁したために、シーボルトの荷物の中に御禁制の地図が出てきたという話になっているのだが、この噂話を読み解くと、シーボルトの時代も外国人の積荷を充分にチェックしていなかったことにならないか。

しかし、前回にも書いたように、座礁した船から禁制品が見つかったという噂話は真実ではなく、座礁したオランダ船にはシーボルトの荷物は積まれていなかったことが今では明らかになっている。
では、なぜシーボルトに、御禁制の日本地図などの品々の持ち出しが疑われることになってしまったのだろうか。

間宮林蔵

樺太が島であることを発見したとして教科書にも名前が記されている間宮林蔵(まみやりんぞう)という人物がいる。彼は探検家でもあり江戸幕府の隠密でもあった。
間宮は文化5年(1808)に幕府の命により樺太に渡り、翌年に樺太が島であることを確認し、樺太人とともに海峡を渡って黒竜江下流を調査したというのだが、国境をこえるという行為は鎖国の禁を冒すことであり、幕府の隠密であったからこそ許されたのであろう。

この間宮林蔵が命がけで探索して制作した樺太の地図がシーボルトにより持ち帰られ、現在オランダのライデン大学の図書館に保管されているという。
ではその貴重な樺太地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。また、教科書に必ず書かれている伊能忠敬の地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。

文政11年のスパイ合戦

この経緯については、シーボルト研究家の秦新二氏が著した『文政11年のスパイ合戦』に詳しい。

最上徳内

簡単に要約すると、文政9年(1826)にシーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、江戸では多くの学者がシーボルトと交流している。
探検家・最上徳内(もがみとくない)からは、樺太が島であり、その地図(『黒龍江中之洲并天度』)が「江戸城紅葉山文庫」にあって、そこにはほかにも江戸幕府に献上された機密性の高い資料が納められているとの情報を入手する。
そして4月23日、「紅葉山文庫」を管轄する江戸幕府書物方の高橋景保が訪ねてきたときに、江戸城に登城する際に「紅葉山文庫」を見せてほしいと要望し、意外にもその2日後に高橋景保がそれを承諾したという。

シーボルトは高橋の返事に驚いて、この日のことをこう記録している。
「私は驚いた。作左衛門(高橋景保のこと)は江戸城内の文庫に私を連れてゆき、将軍のコレクションを見せるというのだ。私は信じられなかったが、あえて平静をよそおって日時を聞いた。最初の登城(5月1日)の際に、自ら文庫に案内すると、彼は言った。」(秦新二氏『文政11年のスパイ合戦』文春文庫p.173所収)

高橋景保がこの話に乗ったのは、シーボルトの交換条件が良かったからだ。

5月1日は高橋景保が文庫の当番の日で、シーボルトは彼の案内で多くの貴重な資料を閲覧している。そして5月4日にシーボルトは、訪ねてきた高橋景保に、伊能忠敬の『大日本沿海與地全図』や『江戸御城内御住居之図』などの写しを要望し、代わりに高橋景保が欲しがっていた、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』、『蘭領印度の地図』『オランダの地理書』などを手渡すことを約束したという。
そして高橋景保は悩んだ挙句、翌日にシーボルトを訪れ、すべての要求を呑むとの回答をしたという。高橋景保にとっても、『世界周航記』などは何が何でも手に入れたい資料であったようだ。

しかし、最上徳内から情報を得た間宮林蔵の樺太の地図(『黒龍江中之洲并天度』)は「紅葉山文庫」にはなかったらしい。シーボルトは江戸参府を終えて5月18日に江戸から長崎に向かうのだが、肝胆相照らす仲となった探検家・最上徳内は、自らのコレクションの9割方を小田原でシーボルトに内密に手渡し、その中に『黒龍江中之洲并天度』があったという。

一方、高橋景保はシーボルトに渡すことを約束した機密書類の写しを作らせねばならず、その後何度もシーボルトの間で頻繁に手紙などのやり取りが続いた。ある日シーボルトから高橋に届けられたものの中に、間宮林蔵宛の手紙と更紗一反が入っていたので、高橋はそれを間宮に渡したのだが、この間宮への手紙が「シーボルト事件」の発端になったと言われている。

前掲の秦氏の著書のp.272に、シーボルトが間宮に送った手紙の訳文が紹介されているが、意外と簡単な内容である。
「拝啓
江戸滞在中はたった一度しかあなたと親交を深めあう幸運に恵まれず、また後になってあなたの業績を数多く耳にし、大変残念に思っております。そこで今、ささやかな敬意の証をお送りしないではおられず、ここに贈り物として、花柄入りの布を同封させていただきます。私が無事オランダに戻った時には、諸外国の地図をお送りいたします。」

シーボルトは江戸参府の際に何度か最上徳内と会っているが、一度だけ最上が間宮林蔵を連れてきたことがあったという。
先述した通り間宮林蔵は幕府の隠密であった。間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封しないまま上司に提出し、更紗はシーボルトに返却されたそうだ。

幕府はその後シーボルトとの交友関係を調べはじめ、高橋景保がシーボルトの為に国禁の地図の写しなどの書類を送ったことを突き止める。江戸で高橋景保が逮捕され、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされて、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索を受けることとなる。シーボルトは訊問の際に、科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、自ら日本に帰化し、残りの人生を日本に留まり人質となることさえ申し出たという。

この事件の関係者の判決文が次のURLで読める。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main2.html
高橋景保は死罪の判決が出ているが、「オランダ人へ渡し国禁に背くとは不届であり、その上以前から役所の費用について私用ではないが、不明朗な処理を行い、その上身上に慎みがない事等もある」と書かれている。また、景保が地図を写しを作らせた下川辺林右衛門の娘を、景保が妾同様にしたということも書かれている。高橋景保という人物の評判はあまり芳しくなかったようだが、おそらくシーボルトとの取引の件で密告のようなものがあったのだろう。

シーボルト自身がこの事件の顛末を記した文章が、前掲の秦氏の著作に紹介されている。 ポイントになる部分を一部引用すると、
「江戸参府中に私が集めた品物は、すべて押収されたが、のちに大部分が返されることとなった。幕府が、コレクションを輸送することを知っていながら公然と見逃していたこと、正式に我が政府(オランダ政府)に一切抗議していないことは、事件の性格からして摩訶不思議である。
となると、取り調べの際の尋常ならぬ厳しさと深刻さは、いったい何だったのだろう。…」(同上書p.333)

と、シーボルト自身が訝しがっているのだが、この事件を仲裁した人物がいることを書いている部分がある。この人物がなぜ、この事件の仲裁に動いたのかと誰しも疑問に思うところだ。
シーボルトはこう書いている。
「将軍の義父にあたる薩摩守を始めとする日本の有力者(原註:彼らの支援のおかげで、私は今までやってこれたと信じている)の仲裁により、(オランダ)政府の疑惑を少しずつ晴らすことができ、客観的に事件を判断できるようになってきた。」(同上書p.332)

島津重豪

シーボルトが「将軍の義父にあたる薩摩守」と書いている人物は、11代将軍・徳川家斉の義父である島津重豪(しまづしげひで)のことなのだが、ここになぜ島津重豪の名前が出てくるのだろう。

秦氏の著作によると、島津重豪は将軍の義父という立場を利用して何かと幕府に要求を突き付けて薩摩藩独自の貿易権などを認めさせるばかりか、堂々と密貿易をも行っていたという。1825年に中国から長崎奉行所宛にこのような嘆願書が届いたという。
「長崎会所で買い入れた品物と海産物を持って中国に帰ると、すでにもっと良質の品物や海産物が出回っていて商売になりません。調べてみると、琉球を通じて薩摩藩が本土に密売していることが分りました。どうかこの抜荷(密貿易)を取り締まっていただきたい。」(同上書p.308)

徳川家斉

将軍家斉としても、いつまでも重豪の横暴を放置するわけにもいかず、また重豪やその配下の者がオランダ商館長やシーボルトと何度か接触しており、オランダとの独自貿易をも企んでいることを掴み、シーボルトを捕えて国外追放することで重豪の動きを牽制したというのが秦氏の説だが、豊富な資料をもとに記されていてすごく説得力があるのだ。
実際にシーボルト事件の後、重豪の幕府に対する要求がぱったりと止まり、天保4年(1833)年に重豪がこの世を去った後は、江戸幕府は薩摩藩の密貿易の禁止令を乱発しているのだそうだ。

秦氏はシーボルト事件についてこう纏めておられるのだが、みなさんはどう思われますか。
「家斉にとってこの事件は、将軍としての地位を確固たるものにすべき第一段階であり、これまでの古い関係から脱却するためのものでもあった。その上、家斉は私的な面でもお美代の方と後台所茂姫の間にはさまれ、かなり悩まされていた。公私両面で薩摩にはほとほと嫌気がさしていた。家斉は『シーボルト事件』によって、重豪の行動に大きな釘を打ちつけたのだ。そして、その目的が達成されると、すべてを作左衛門(高橋景保)とシーボルトのせいにして、事件を闇の中に葬り去ったのである。」(同上書p.326)
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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