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赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。

当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。

綱吉

将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。
綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹に処されたのは、将軍綱吉が朝廷との大事な儀式を浅野のために台無しにされたことに激怒し、直ちに切腹させることを命じたからである。

しかしながら松の廊下事件の時は、浅野内匠頭の切腹を即日に執行させた将軍綱吉が、吉良邸討入りの時は赤穂浪士の処分の決定に四十日近くかけてしまったのは何故なのか。
普通に考えれば、綱吉が松の廊下で吉良を斬りつけた浅野内匠頭の行為を許せないのであれば、浅野の家臣が吉良を討ち取った行為を直ちに厳罰に処す裁断がおりなければ辻褄が合わないのだ。

将軍綱吉の考えが明確に文章で残されているわけではないが、裁断を下すのに四十日近くかかったという事は綱吉が厳罰説ではなかったことを意味する。
幕府の公式的な考え方は大学頭の林信篤が唱えた助命論と考えるべきであろう。
林信篤の説は、「天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。」と、赤穂浪士のように家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがないという考え方で、「もしかかる忠義の精神を一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却することになり、御政道の根本が覆ってしまう。」と、四十七士を直ちに無罪とすべきと論じている。

しかし、幕閣の中には赤穂浪士を厳罰に処すべきとの意見もあり、幕府は当時の学者に意見を求めたところ、同様に死罪とするか、切腹させるか、助命するかの意見が分かれたが、法の権威を維持すべきとの荻生徂徠の説が採用され、全員切腹と相成った。

死罪説と切腹説との違いは、赤穂浪士を単なる犯罪者として処刑するか、武士の体面を保つ方法で処刑するかの違いで、赤穂浪士を義士と認めるかどうかにポイントがある。また助命説は、赤穂浪士を義士と認めて助命させようとする説であり、結論は異なるものの討ち入りを義挙と考える点では切腹説と同じである。

忠臣蔵討ち入り

赤穂浪士の討入りを普通に考えれば、徒党を組んで他人の家に押し入って主人を殺すという犯罪行為である。吉良上野介は、処刑された浅野内匠頭が恨んでいたという理由で殺された被害者であったにもかかわらず、吉良を殺した赤穂浪士の行為を幕府が「義挙」とした判断を、吉良の関係者にとっては容認し難いものであっただろう。

この赤穂浪士の討入りを義挙とすることにこだわった幕府の判断に、問題はなかったのだろうか。
幕府は、大学頭である林信篤の「家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがない」の考え方で赤穂浪士を義士として認めてしまったのだが、この判断は幕府の大失敗で、後に幕府を滅ぼすことにつながったという説があることを最近になって知った。

今回の記事のはじめに将軍綱吉が儒学(朱子学)を重んじたことを書いたが、そもそも江戸幕府は徳川家康の時代に武家政治の安定のために朱子学を公式学問として採用している。その理由は朱子学が主君への絶対の忠誠を説くものであったからだ。

しかし、朱子学において忠誠を尽くすべき対象は「覇者(武力をもって統治する者)ではなく王者(徳をもって統治する者)である」とされており、その解釈において山崎闇斎(やまざきあんさい)のように「天皇こそが王者であり、この国を統治する者は幕府ではなく天皇家であるべきだ」との考えを持つ学者が当時は少なからず存在した。

山崎闇斎

山崎闇斎の提唱した朱子学は崎門(きもん)学と呼ばれて、水戸学・国学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E

山本七平

評論家の山本七平氏が、山崎闇斎の門下生である浅見絅斎(あさみけいさい)こそが明治維新の招来者であると主張しているのだが、浅見絅斎は赤穂浪士を完全な義士と高く評価した人物であり、主著の『靖献遺言(せいけんいげん)』は尊王思想の書で幕末の志士達の必読書となり、明治維新の原動力の一つとなった書物だと言われている。

井沢元彦氏の『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で山本七平氏の文章が紹介されている。
「…浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)

「…対象が天皇で、幕府が天皇に対して吉良上野介のように振舞ってこれを悩ませ、天皇が幕府を怨んでいると思い込んだ人間が『靖献遺言』を読んだらどうなるであろうか。何しろ死んだ浅野長矩に対して心情的にこれと一体化できるなら、勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。いわば処刑されても殉教者のような評価を受けることになるのである。…」(『現人神の創作者たち』)

赤穂浪士の討入りはただの殺人事件として処理すべきであったのだが、幕府は事件を起こした浪士を犯罪者とはせず義士であることを認めてしまった。
そのために、この事件は『忠臣蔵』として歌舞伎や人形浄瑠璃で繰り返し演じられ、赤穂浪士の討入りは義挙であるとの考えが人々の間に定着していった。
さらに、天皇が国を統治するべきであるとする山崎闇斎浅見絅斎の思想が、幕末時期に倒幕思想として急激に広まっていった。

このように幕末に倒幕運動が盛り上がった背景をたどっていくと、幕府が赤穂浪士を義士と認めてしまった事から始まったという説にはかなり説得力がある。

井沢元彦

井沢元彦氏が『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で指摘している通り、明治天皇の父である孝明天皇はあくまで幕府の力による鎖国維持を望んでいたのだが、多くの「勤王の志士」は「倒幕こそ天皇の意志」と勝手に考え、倒幕運動をすることが正義であると考えて行動していったのである。
この点については昭和の『2.26事件』を起こした陸軍将校についても同様で、武力を以て元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗や、農村の困窮が収束すると考えて昭和天皇が信頼していた政府の重臣達の殺害に及んだのと良く似ているのだ。

山本七平氏の言う「勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる」と信じたメンバーが、実際に日本の歴史を動かしていったことになる。
朱子学の「忠義」なるものを重視して国の統治を行うという考え方そのものが、一歩誤れば危険な方向に進む要素があることを知るべきである。

江戸幕府が赤穂浪士を義士と認めたことは、言い方を変えると、幕府の法よりも超越する正義があることを幕府自身が認めたということである。幕府は自ら墓穴を掘ったと言うこともできるのだ。

もし幕府がこの時に赤穂浪士を直ちに打ち首にしていればどうなっていただろうか。
赤穂浪士はただの殺人犯であるので『忠臣蔵』という物語は成立せず、山崎闇斎浅見絅斎の説が全国に広がることもなかっただろう。とすれば幕末の倒幕運動があれほどに盛り上がることもなく、明治維新で天皇中心の国に生まれ変わることもなかったかもしれないのだが、無能な江戸幕府がペリー来航以降の対応を誤って近代国家への脱皮ができずに、列強にもっと多くの国富を奪われていたことも考えられないわけではない。

わが国の歴史を見ていると、何度も大きな危機に遭遇しながらも様々な偶然に助けられたり、新しいリーダーが現われたりして、結果としてベターな方向に進んでいくことがよくある。
昨今のわが国の情勢は決して楽観できるものではないが、過去の歴史がそうであったように、様々な難題を抱えながらも、なんとかうまく乗り越えていって欲しいものである。
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