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江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。

大石内蔵助書状

次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm

「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています。」

幕府は赤穂浪士が江戸に集結をし、いよいよ吉良邸の討入りをすることについて知っていながら、その通りにさせようとしていると大石は感じているのだ。
この大石の手紙を読むと、江戸幕府が赤穂浪士の討入りを実現させようとした可能性を誰しも感じることであろう。

忠臣蔵吉良邸討ち入り

赤穂浪士の討入りは普通に考えるとおかしなことだらけである。江戸の治安に携わっていた同心たちは一体何をしていたのであろうか。
武装集団が他人の家に不法侵入して命を奪った行為が放置され、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士が吉良の首を槍に結び付けて、両国から泉岳寺まで堂々と歩いて帰れたこと自体が不自然に思えるし、取締りが何もなされなかったとについて、幕府の誰も責任が問われなかったというのも奇妙な話である。
討入りについては幕府が期待をし、そうなるように仕向けたと考える説が根強くあるようだが、その説が根拠としているのはこの手紙だけではない。

具体的に幕府が赤穂浪士の討入りを誘導したことが立証できるような文書が存在すれば話は簡単なのだが、そんな記録が残されるはずがないので確実な証拠となるものは何もない。しかし、そのことを匂わせるような話はいくつもあるのだ。

幕府の頂点はいうまでもなく五代将軍綱吉であるが、その側近ナンバーワンの柳沢吉保と他の老中達や三奉行などの上層部は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの話をかなり早い段階から聞いていたはずだ。
作家の長谷圭剛氏は、『仕組まれた日本史』(新人物文庫)の中でいくつか興味深い事実の指摘をしておられるので、この論考を参考に松の廊下事件以降の出来事を時系列で整理し、てみよう。

まず元禄14年(1701)の出来事だが、
① 赤穂浅野家の本家である広島浅野家は、松の廊下事件があった3月14日の夕刻に、老中秋元但馬守に対して、浅野長矩が庭先で切腹させられたことが五万石の大名に相応しい扱いであったかという照会をしている。そのあとで、検視役であった庄田下総守は責任を取らされて大目付を罷免されている。
それ以来広島浅野家は秋元老中となにかと接触し情報を交換している。(広島浅野家は、大石らが無謀な行動を引き起こせば責任を問われて改易などの処分を受ける可能性があり、そのために大石らの行動を監視していた。)
② 赤穂城の収公が決まった3月に大石内蔵助は江戸幕府宛に吉良上野介の処分と赤穂浅野家再興の嘆願書を出している。この嘆願書は「願いがかなえられなければ、籠城して一戦も辞さない」ともとれるような内容であった。
③ 幕府内部も含め、一般庶民においても「赤穂浪士はいつ復讐戦に立ち上がるか」と期待する空気が充満していった。
④ 3月に吉良上野介は高家筆頭の地位を退いた。8月には呉服橋の屋敷周囲の住民が赤穂浪士の襲撃を恐れて上野介の退去を願い出ており、上野介は屋敷替えとなった。幕府は都心から遠く上野介の警護を受け持つ上杉家との連携が不便な本所に吉良を移転させた。
また幕府は12月には上野介の家督を養子の義周(よしちか)に譲ることを認めた。(これで吉良家の処分がなくなった。)

次の元禄15年(1702)になると、
① 7月に幕府は、浅野長矩の弟である大学長広を藩主とする赤穂藩再興の拒否が正式に決まり、それを受けて大石内蔵助は同月に円山会議を招集し討ち入りをすることを決定した。
② 12月に吉良邸討入りを決行
という流れである。

討入り事件の後の話ではあるが
① 討入り後、勘定奉行、町奉行、大目付らが中心になって構成した「評定所」が、将軍の諮問により提出した「存寄書(ぞんじよりしょ)」によると、赤穂浪士の処分に対しては好意的であった。

② 将軍綱吉自身も、松の廊下事件の際に独断で浅野と吉良の処分を決めたことに後悔していた記録がある。徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』によると浪士の討入りの後の綱吉の言葉として、「その忠義義烈のさま、淑世にはめずらしき程のことにて、彼らそのまま助け置きたく思へども…」という文章がある

以上の事実を述べたところで幕府が討入りを誘導したことを立証できるわけではない。しかし、将軍綱吉をはじめ幕府の内部で赤穂浪士に対して好意的で、吉良邸討入りの実行を期待し、それが成就したことを評価した人物が少なからずいたことは間違いなさそうだ。

しかし幕府は吉良上野介を処分しないことを決定し、吉良を治安上問題のある場所に屋敷替えさせ、さらに大石らが念願していた赤穂浅野家の再興をも正式に拒否してしまった。
赤穂浪士にとってはすべての希望が閉ざされたが、一方で上野介は仇討の容易な場所に転居し、幕府は討ち入りを取り締まろうとはせず、むしろ自由に活動させている。
「これでは大石らに吉良邸を討入りせよと言っているのと同じではないか」と感じるか感じないかは、人それぞれの感性によって異なることになるのだろう。

また別の視点から、「赤穂浪士は江戸幕府によって匿われていた」という主張をしておられる元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏の推理も面白い。

土地の文明

今では絶版になっている『土地の文明』という書物に書かれている内容だが、この全文を次のURLにアクセスすれば Google bookで拝読することができる。
http://books.google.co.jp/books?id=hSsot1rfoT0C&pg=PA29&lpg=PA29&dq=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&source=bl&ots=ZZw57j4cbT&sig=g3QGmNoQbyomzskkhNazRULB7v4&hl=ja&sa=X&ei=boMFT-jQHcqamQXT8bmAAg&sqi=2&ved=0CDcQ6AEwBA#v=onepage&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&f=false

竹村氏の指摘で初めて気が付いたが、赤穂浪士の内16名は江戸城の半蔵門に近い平河天満宮近辺に潜伏していたそうだ。

江戸城地図

半蔵門は橋がなく土手を進んで江戸城内に進むことができる場所であり、この付近には、徳川御三家や親藩らの重要大名の屋敷が立ち並んでいた。江戸で最も警備が強固な場所であったような場所に赤穂浪士が潜伏していたというのは、竹村氏の言葉を借りると「指名手配の過激派が警視庁内部の空き部屋をアジトにした」ようなもので、確かに不自然なことである。

幕府には赤穂浪士に吉良を討ち取らせたい理由があったからこそ、赤穂浪士を自由に動かして吉良を討ち取らせたのではないかというのが竹村氏の仮説である。
竹村氏の著書によると、徳川家には吉良家を抹殺したい理由が徳川家と吉良家との100年にわたる歴史から論証されていくのだが、結構説得力があり面白い。詳しくは上記のURLの第三章に書かれている。

竹村氏の説も興味深いが、幕府が裏で討ち入りを工作したにせよ、討ち入りが決行されるまでに世論の強い後押しがあったことは見逃せない。なぜ赤穂浪士の討入りを期待する世論がこれほどまでに盛り上がったのだろうか。
ひょっとするとこの赤穂浪士人気も幕府が裏で工作したのかもしれないが、このような物語に民衆が飛びつく素地がなければ始まらない。

綱吉

この点については、綱吉の政治は一般大衆にほとんど支持されていなかったことを知る必要がある。
「生類憐みの令」が特に有名だが、実際に処罰された事例などを読むと、綱吉の評判が悪くなるのは当然だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

たとえば、
元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪。
元禄8年(1695年)10月29日:元禄の大飢饉(1695年〜1696年)の最中、中野に16万坪の犬小屋が完成。住民は強制的に立ち退きとなった。犬の食費は年間9万8千両。犬小屋支配、犬小屋総奉行、犬小屋奉行、犬医師などを置き、犬金上納金として府民から毎日米330石、味噌10樽、干鰮10俵、薪56束などを納めさせた。
元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
など、動物を守ることが庶民の生活を守ることよりも優先する判断は庶民の支持を得られるはずがなかった。

そこに浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介を斬りつける事件が起こる。幕府は赤穂藩の要望をすべて拒否し、吉良はお咎なしとしたことから、多くの一般大衆が赤穂藩を支持して間接的に幕府を批判した。

討ち入りの起きる前から歌舞伎などで松の廊下事件を模した歌舞伎や浄瑠璃が演じられていたことは注目に値する。

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews09/news288.htm
上のURLによると、
(1)刃傷事件の1年後(元禄15年3月)に、江戸で『東山栄華舞台』が上演され、
(2)討入りの翌月(元禄16年1月)、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されたが、幕府はすぐに上演を禁止している。
(3)討入り2カ月後(元禄16年2月)、江戸で『曙曽我夜討』が上演されたが、すぐに幕府は上演を禁止している。

赤穂浪士に切腹が命じられたのは元禄16年の2月4日(上のURLでは切腹の日付が3月24日となっているが、誤りである)だから、討ち入り後の赤穂浪士の処分が幕府でなかなか決まらないうちに、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されているのだ。
一般庶民の間では、赤穂浪士の討入りが大変な評判であったことは間違いがなく、赤穂浪士を義士とし討ち入りを義挙とする物語が、幕府の結論が出る前に出来上がっていたのだ。

ただでさえ評判の悪かった幕府が、赤穂浪士に討ち入りを成功させてその義挙を讃えることで幕府の人気を回復しようというストーリーを描いた人物がいた可能性を感じるのだが、処分の意見がまとまらず幕府の結論が遅れたうえに、最後は四十七士の切腹という結論に世論は納得しなかった。

鳩山由紀夫

世論に迎合しようとした幕府は、結局のところ、かえって評判を落としただけの結果となってしまった。この点はどこかの国の政府とよく似た話でもある。
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Comment
赤穂浪士討ち入りの真相
幕府が評判回復のため、討ち入りをバックアップしていた、という説はなかなか面白い。小説にしたいものだ。

真実は意外なものだ。
Re: 赤穂浪士討ち入りの真相
私のブログのある記事を参考にされて小説を書かれて同人誌で発表された読者の方がいましたが、市販されているものではなかったので買うのをあきらめたことがあります。
市販されていたら、喜んで買いますが…
八切止夫氏の話を読むとよくわかります。柳沢が黒幕で、吉良が悪者なのは、当時の朝廷を徳川家の公武合体で強引に押し切った人物で、贋金の金貨づくりにも絡んでいたそうです。つまり吉良が柳沢を裏切ろうとしたので、口封じです。
Re: タイトルなし
八切止夫氏の本は読んだことがないですが、面白い説ですね。しかし、根拠はあるのでしょうか。
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