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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し強硬な態度で幕府に開国を迫り、翌年にその圧力に屈して日米和親条約を締結し、寛永16年(1639)以降200年以上続いた鎖国体制は終りを告げた。
その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。

ハリス

この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼は自らの政策を推し進めるとともに反対派を大弾圧し、徳川斉昭、松平慶永らは蟄居させられ、吉田松陰や橋本左内らの志士は刑死させられた(安政の大獄)のだが、その後も国内に反幕府勢力が燎原の火のごとくに広がっていく理由が教科書を読んでもわからなかった。
私の感覚だと、国家の最高権力である徳川幕府が大弾圧を加えたのならば、普通の国なら反対勢力はそれ以降は下火になっていくのではないかと思うのだが、そうとはならず、むしろ公然と広がっていった。
しかしながら、反幕府勢力が無秩序に広がって国論が四分五裂することもなかった。もし国論が割れていれば、欧米列強による分裂離間策でインドやインドネシアと同様に植民地化への転落すらあり得たと思うのだが、なぜ出身地も立場も考えも身分も異なる者同士が力を合わせて、独立国家を堅持することができたのか。
誰かが強力なリーダーシップをとらないとそのようなことはありえないと考えていたのだが、一体どういう経緯があったのだろうか。

学生時代に歴史を学んだ時は、「尊王攘夷」というのは偏狭な排外運動だったとイメージしていたのだが、以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、攘夷の急先鋒であった水戸藩主徳川斉昭は、終局的には開国・通商はやむなしと当初から考えており、国民の士気を鼓舞し充分力を蓄えてから開国に転じるという考え方であり、頑迷固陋なものではなかったようだ。

西郷隆盛

また西郷隆盛も「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれているわけじゃ」と、有馬藤太に語った記録が残されている。(『有馬藤太聞き書き』)
つまり「尊王攘夷」は愛国心を鼓舞して、開国路線をとった幕府を倒すためのスローガンとして使われたという側面もあったのだ。

以前、私のブログで孝明天皇のことを書いたことがある。孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

教科書には、孝明天皇の妹の和宮を将軍徳川家持の夫人として迎えて公武合体を推進し、幕府の権威の回復を図ったことと、強固な攘夷論者であったことくらいしか書かれていない。

孝明天皇

ずっと長い間、私も孝明天皇は偏狭な攘夷論者のイメージが強かったのだが、勝岡寛次氏の著書に紹介されている孝明天皇ご自身の勅書を読んで考え方が改まった。誰でもこの勅書を読むと、維新に至る幕末の志士達を多く輩出させた背景には、孝明天皇の存在が大きかったことに気が付くのではないだろうか。

しばらく勝岡寛次氏の解説を引用する。

「孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書[所謂「御述懐一帖」、文久二年(1862)五月十一日付]は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書[元治元年(1864)正月二十一日付]は、明示して余りあるからである。

…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ:外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍(ふくてつ:二の舞)を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲(ようちょう)の師[懲らしめの軍隊]を作(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ。(時局御軫念の勅書)

…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる勅書、同上)

明治維新とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。

文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。

将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。」(勝岡寛次:『抹殺された大東亜戦争』p.101-102)

竹田恒泰

学習院」については、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の「皇室のきょうかしょ」に詳しいが、位の高い公家の子弟が学ぶ学校として京都御所内に設立され、文久2年(1862)の尊皇攘夷運動が盛んな折、学習院は公家衆と武家衆、そして草莽の志士たちが集う政治的な会合の場所となり、そこで攘夷決行の策が議論されたとある。
当時、公家と草莽の志士が接触することは堅く禁止されていたのだが、学習院という学問の場だけが、公家と志士が公然と会合することができる唯一の場所だったのだそうだ。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu64.html

身分の異なる者同士を一堂に集めて、わが国の進むべき道を議論できる場を「学習院」に作られたということは画期的な出来事だと思うのだが、こういう史実がなぜ広く知らされていないのだろう。
孝明天皇の国を愛する気持ちが伝わり、国を守り独立を堅持するという目的が共有されてはじめて、身分を超え藩を超えて、人々が繋がっていったということではないのか。
「草莽の志士」と呼ばれた下級武士達がなぜ身分の高い公家らとともに明治維新を為し得たか、なぜ下級武士たちが明治政府の中心勢力になりえたかは、孝明天皇の存在を抜きには語れないことだと思うのだ。

勝岡寛次氏の著書に、GHQの検閲によって抹消された論文が掲載されている。
(西谷啓治「現在における民主主義の問題」昭和21年11月『ひょうご』)

「明治維新は、萬民がその一君の赤子として、國家の全體性へ直結するといふ形で成就されたのであり、それが…各人が『国民』となったことであった。…他の諸國では、概ね、人民が貴族階級を顚(くつが)へし、力を以て政権を自らに奪ふといふ『革命』によつて、民主主義が實現され、近世國家への移行が行はれたのであるが、日本では、國家統一の肇(はじ)めから國家的な『一』の象徴であった天皇への歸一といふ仕方で行はれたのである。…
この様にして日本では、近世國家への移行は、諸外國に見られたやうな大きな擾亂(じょうらん)や流血を經ずに、短日月の間に圓滑に行はれた。その意味で明治維新は世界史の上でも稀有な出来事である。…

列強地図

言ふまでもなく當時は、列強の膨張政策が頂點に達し、南方からは英佛の勢力が、北方からは露國の勢力が、日本まで延び、日本を終點としてそこに渦巻いていた時代であつた。亜細亜の諸國はその植民地又は半植民地と化し、日本も存亡の岐路に立つたといつてよい。その際最も緊要なことは、新しい政治的中心のもとに國家全體が眞に強固な統一を形成し、國内の結果が根本から打ち建てられることであつた。といふのは、國家の滅びる場合は、概ね一方に諸外國の相對立する勢力の干渉があり、他方には國内に相對立する勢力の分裂があつて、然もその國内の對抗勢力がその敵對關係のために、共通の地盤である祖國と同胞性とを忘れ、政敵を倒すために互ひに外國の勢力と結合し、かくして外國勢力の間の闘争と國内の闘争とが一つに聯環して來る場合である。その際、諸外國のひとつが勝つ場合には、國家はその國に征服され、諸外國の間に協定が成立する場合には、國家は分断される危険がある。後の場合の適例は、曾てポーラーン[ポーランド]が三度の分割によつて滅亡した場合である。その時は国内の親露的、親普的等の黨派が夫々に諸外國と結びついて、國家を分裂させ滅亡に導いたのであつた。かかる危険の兆しは明治維新の際にも現はれてゐた。特に一方に英國と佛蘭西(フランス)の間の勢力爭い、他方に薩長と幕府との闘爭があつて、それが複雑に絡み合つてゐたのである。かかる事情のもとでは強固な統一國家の態勢を、然も長い内爭や動亂なしに出来る限り短期間に調(ととの)へることが、何よりも緊急事であつた。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.104-105)

引用部分の内「言ふまでもなく當時は…」以降の文章がすべてGHQの検閲で削除されているのだが、要するにGHQは日本人が欧米列強の世界侵略の手口やわが国が短期間で統一国家の態勢を整えたことについて学ぶことを許さなかったし、幕末に欧米列国の植民地にされる可能性があったことを考えさせたくもなかったのだろう。

孝明天皇の攘夷論は「倒幕」ではなく「公武合体」の考えであったのだが、天皇親政を復活させようする過激な尊王攘夷派が多数派となり、天皇は八・一八の政変で尊王攘夷派を朝廷から一掃したのだがそのために朝廷は勢いを失い、天皇は失意の中で孤立していく。
慶応二年(1866)に将軍家茂が亡くなる頃から、対幕府強硬派が力をつけて倒幕の勢いが加速する。それでも、公武合体への信念を枉げなかった天皇の存在は倒幕派にとっては最大の障壁となってしまうのだ。

以前私のブログで孝明天皇が暗殺された可能性が高いことを書いたが、真相は闇の中だ。ただ倒幕派にとっては非常に都合の良いタイミングで崩御されことだけは事実である。
結果として孝明天皇が望んだ方向には歴史が進んだわけではないのだが、幕末から明治維新で活躍した数々の人材を輩出させるきっかけを作った天皇であったことは間違いがないと思う。

幕末維新期の和歌がいくつか残されているが、わが身を捨てても国を守るということの思いが伝わってくるものがある。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかかる異国(とつくに)の船[孝明天皇(1831-1867)]
君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとも思はざりけり[梅田雲浜(1815-1859)]

吉田松陰

かくすればかくなるものと知(しり)ながら已むに已まれぬ大和魂[吉田松陰(1830-1859)]
わが霊はなほ世にしげる御陵(みささぎ)の小笹の上におかむとぞおもふ[伴林光平(1813-1864)]
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけりわが年月の大和魂[真木和泉守(1813-1864)]
もののふの大和ごころを縒りあわせすゑ一すぢの大縄にせよ[野村望東尼(1806-1867)]

平和な国や侵略する側の国にはこのような思いは不要であろうが、侵略される側の国には、国を愛する強い心と愛する国を守り愛する人を守るためにはわが身を犠牲にしてもいいという覚悟が大半の国民に存在し、かつ強力なリーダーシップと戦略がなくては、国を守れるはずがないである。
このことはどこの国でもいつの時代にも言えることだと思うのだが、このようなあたりまえの事が戦後の日本で充分に伝えられていないのではないだろうか。

ペリー来航2

以前私のブログで、ペリーの来航の真の目的は、アメリカが日本を奪い取ることであったことを書いたが、そのことをしっかり理解できれば、幕末から明治以降の歴史の見方が変わらざるを得ないだろう。

先ほど紹介した竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』という著書の中で、孝明天皇を「封印された天皇」としたうえで、こう記されている。

「孝明天皇の崩御がもし少しでも前後していたら、おそらく今の日本はない。皇室も幕府もともに倒される対象とされていたろう。王政が打倒され、共和国が成立するのは世界史の大勢だった。
 もし崩御がより早ければ、倒幕の原動力となった尊攘派が育つことはなく、もし崩御がより遅ければ、天皇親政による新政府構想は成立するはずもない。孝明天皇は生きて国を守り、そして死して国を守ったことになろう。」(『旧皇族が語る天皇の日本史』p.205)
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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