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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために元薩摩藩主の島津久光を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、元薩摩藩主の島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
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Comment
武士道を知らぬ大久保は武士の風上にも置けぬ慮外者なり
菊池寛も騙されているか、それ以上に時の伊藤博文山県有朋政府に迎合している。司馬遼太郎に見るごとく文筆の徒はいたずらに空虚な美辞麗句を弄して、汚い陰謀術策を用いて権力を握った心卑しい下賤の者を遊女のごとき厚化粧で粉飾して世人を韜晦し、駄文を以って阿諛追従し提灯振りの幇間に成り下がって権力者の歓心を買いその力を借りて出世して駄文を売りまくり文豪を気取って一身の名利を得ようとする、売文虚業の者である。

明治六年政変については、(以下転載http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c139
昭和59年6月30日に毎日新聞社から刊行された「決定版 昭和史 第一巻昭和前史・文明開化(幕末ー明治18年)」に毛利敏彦大阪市立大教授が「近代日本の礎となった政治家大久保利通」という論文を寄稿しています。そのなかで「西郷隆盛征韓論下野」という明治6年政変の通説の嘘を厳密な考証であばいています。

それによると明治天皇の教育係であった西郷隆盛は朝鮮国との江戸時代朝鮮通信使以来の友好通商関係が明治維新の幕府消滅で途切れたので、武士道にしたがい「相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならない」と自ら平和友好通商再開の非武装単独全権訪朝使節となることを閣議で主張してほぼ決定していたのです。これを武士道にもとる卑劣な陰謀でひっくりかえしたのが江戸時代人別非人の武士道無き忍者テロリストフリーメーソンスパイ伊藤博文でした。
前述の毛利敏彦教授の論文から抜粋引用転載します。

明治六年政変(その一)

・・・明治六年(1875)十月二十三日、ただ一人の陸軍大将で筆頭参議の西郷隆盛が、病気を理由に辞表を提出し、翌二十四日、参議を解任された。同じく二十四日、参議の板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四人も、西郷に一日遅れて、いっせいに辞表を提出した。ここに、政府首脳は真っ二つに分裂し、半数が野に下るという大事件となった。

 いわゆる「明治六年政変」であるが、従来、この事件は征韓論政変とも呼ばれ、征韓論の西郷派と非征韓論の大久保派の衝突が原因で生じた事件とみなされてきた。さらに、西郷が征韓を主張したのは、国権拡張を期すとともに、不平士族の不満を外にそらし、かつ没落士族の活路を求めたからであり、一方、大久保は、欧米先進国を視察して内治優先を痛感し、私情を超えて開戦のおそれがある西郷の主張に反対せざるを得なかった。そして、閣議で征韓論が敗れたので、西郷派はいっせいに下野した云々、というのが通説である。

 ところが、先入観を去って関係史料をよく調べてみると、この通説の根拠は意外にあやふやなのである。西郷が閣議などの公式の場で征韓を主張したとの記録は皆無であり、かれが士族のために征韓を図ったと直接に証明できる証拠もない。また、朝鮮問題に対する西郷の議論が閣議で否認された事実はないのみか、むしろ、閣議で孤立し辞表を提出したのは大久保のほうであった。征韓論政変説というのは史実と食い違う誤謬に満ちた俗説である。・・・

明治六年政変(その二)

 大久保帰国前後の明治六年初夏のころ、隣国朝鮮との間に厄介な問題が発生した。そもそも、江戸時代には日朝間に友好関係が存続していたが、江戸幕府の倒壊とともにその関係が途切れ、明治政府は朝鮮との国交再開をもくろんだものの、両国の思惑が食い違ってうまくいかず、外交上の重要懸案となっていた。そのようなときに、朝鮮国釜山所在の日本側出先機関が朝鮮現地の官憲に侮辱されるという不幸なトラブルが発生したのである。

 事態を重大視した外務省は閣議に問題をもち込んだ。強硬派の参議板垣退助は現地に軍隊を急派せよと主張したが、西郷は反対した。西郷の意見は、派兵は開戦の危険をもたらすからよくない、それよりも全権の使節を派遣して公明正大に談判すべきだというものであった。そして、みずから使節を引き受けたいと申し出た。そこで、太政大臣(首相)三條実美は、使節は護衛兵を連れて軍艦で行くのがよいと論じたが、西郷はこれにも反論し、交渉をうまくまとめるためには相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならないと強調した。

 結局、閣議は西郷の主張の線でまとまり、西郷使節の朝鮮派遣を内定したが、なお正式決定は(各国歴訪中の)岩倉帰国後とされた。ここで注意しておきたいのは、西郷の立場が、征韓論とまったく正反対の平和的道義的交渉論だったことである。むしろ、板垣や三條が征韓論に近かったといえよう。

明治六年政変(その三)

 さて岩倉大使一行が一年十ヶ月ぶりに帰国したのは、この年九月十三日であった。そのころ、一足先に帰国していた大久保は、夏期休暇をとって神戸の有馬温泉に湯治に出かけていた。俗説では、大久保が征韓論に対抗するために同志岩倉の帰国を手ぐすねひいて待ち受けていたことになっているが、実際はそうでなく、のんびり湯治に行っていたのである。

 久しぶりに右大臣岩倉を迎えた三條は、たまっていた政務の扱いを相談し、協力して処理を急ぐことになった。三條の指導力が弱かったので、岩倉の留守中に各参議や各省が勝手に活動しがちだったため、政務が混乱していたのである。そのようなわけで、懸案の西郷使節朝鮮派遣の正式決定がずるずると遅れ、棚上げ同然となっていた。

 しびれを切らせた西郷は、三條の怠慢をきびしく責めた。ここに不幸な行き違いが生じた。お上品な上級公卿育ちの三條は小心で優柔不断な人物だったといわれている。三條は西郷の抗議にすっかり動転し、自分の不手際を忘れて、西郷が朝鮮と戦争をしたがっていると信じて真剣に悩んだ。これは、三條のまったくの誤解であった。

 自分が勝手に呼び起こした戦争の亡霊に悩んだ三條と岩倉は、湯治から帰京してきた大久保に、参議に就任して助力してくれるように頼み込んだ。しかし、大久保は三週間にわたって固辞した。俗説がいうように、大久保が内治優先と反征韓論の使命感に燃えていたのであれば、この固辞について説明できないであろう。

 大久保が参議就任を固く断ったのは、実は旧主島津久光との複雑な関係のためであった。久光は廃藩を行った政府を恨んでいた。もし大久保が参議を引き受ければ、久光からの攻撃の矢面に立たされるおそれがあった。それは、大久保には耐え難いことであった。

 しかし、三條と岩倉の度重なる懇願に、とうとう大久保も断りきれなくなり、参議就任を受諾した。ただし、閣議で朝鮮使節派遣の延期を主張してみるが、それは本心からではなく、三條と岩倉に頼まれたからであること、したがって、中途で変説して二階に上げておいて梯子をはずすようなことは絶対にしてもらいたくない、ときびしく念を押したのである。

明治六年政変(その四)

 十月十四、十五両日の閣議に西郷使節の朝鮮派遣問題がかけられた。大久保は、三條と岩倉から頼まれたとおりに、使節派遣は戦争を引き起こすかもしれないから延期せよと発言した。一方、西郷は、日朝国交正常化のために平和的道義的な使節派遣の必要性を力説した。両者の議論の優劣はだれの目にも明らかであり、大勢は西郷を支持したので大久保は孤立した。

 これをみて、三條と岩倉は、あれほど固く大久保と約束したにもかかわらず、中途で変説して西郷派遣論に同調した。大久保もやむをえず大勢に従った。ここに、西郷派遣は満場一致で正式の閣議決定となった。西郷が征韓論で閣議に敗れたという俗説は、見当違いもはなはだしいのである。

 ここで、大久保が(武士らしく潔く:転記者補追)冷静な態度を保持していたならば、政局に波乱が生ずることもなく、西郷使節の朝鮮派遣が実現し、多分、日朝国交がうまくまとまって、東アジアの平和が促進されたであろう。国内の士族反乱や自由民権運動もあれほど激化せず、日本の立憲政治も、もっとスムーズに実施に移されたのではなかろうか。

 しかし、現実はそうでなかった。三條と岩倉の不誠意と手ひどい裏切りでピエロにされたと激怒した大久保は、三條宅におしかけて辞表をたたきつけた。事態を甘くみていた三條は一大ショックを受けたにちがいない。幕末以来大久保と深いつながりがあった岩倉も、大久保の予想外の(烈しい)怒りを知ってあわてた。岩倉も辞意を表明した。

 相棒岩倉の態度が急変したので、小心な三條は懊悩のあまり、高熱を発して卒倒してしまい、執務不能に陥った。政局は大混乱状態となった。

 ここに登場したのが、長州派の策士(非武士:転記者補追)伊藤博文である。かれは、かねてから、初代司法卿の参議江藤新平による長州派の同僚山県有朋や井上馨の汚職摘発を食い止めようと苦心していたが、三條卒倒の椿事につけこんで、一気に江藤追い落としを謀った。伊藤の策略は、岩倉を太政大臣代理につけて強引に西郷使節派遣を葬れば、江藤を含む参議連中が抗議の辞表を出すにちがいないから、逆手を取って辞表を受理すればいい、というものであった。

 伊藤は、この陰謀を大久保に吹き込んだ。怒りに平素の冷静さを失っていた大久保は、まんまと伊藤の策略に乗せられた。大久保は、薩藩以来の同志で宮内省の高官になっている吉井友実(よしいともざね)に手をまわし、岩倉を太政大臣代理に就けることに成功した。

 そこで、岩倉は、無法にも閣議の正式決定である西郷使節派遣を否認するようにと天皇に上奏した。若い明治天皇は岩倉の言いなりになった。岩倉の行為は、太政官職制や正院事務章程などの政府の基本法規に違反する暴挙であった。

 ここにドンデン返しが生じ、西郷や江藤は抗議辞職するほかはなかった。まんまと罠にはめられたのである。(非武士伊藤博文発案どおりの:転記者補追)大久保のクーデターは成功した。これこそが明治六年政変の真相である。いうまでもなく征韓論云々とは無関係であった。

 わたしはかねてから征韓論政変説が不自然であるのに気づき、政変の学問的解明に努めた結果、以上の結論に到達した。詳しくは、拙著「明治六年政変の研究」(有斐閣、1978年)、「明治六年政変」(中公新書、1979年)を参考にしていただければ幸いである。

・・・
抜粋終わり


大久保については稿を改めて武士として弾劾する。
Re: 武士道を知らぬ大久保は武士の風上にも置けぬ慮外者なり
毛利敏彦氏の著作は読んだことがないですが、面白そうですね。維新の十傑の江藤新平は縁戚にあたる方らしく、相当古い史料を読み漁られたのだと思います。

明治6年の政変は個人的には腑に落ちない部分があるのですが、読めばちょっとスッキリするかもしれません。「明治六年政変の研究」は簡単に手に入りそうにないですが、「明治六年政変」なら手に入れやすそうですね。
鹿児島生まれとして一言
コメント失礼します。

いつもブログで勉強させていただいています。ありがとうございます。

鹿児島生まれとして一言申し上げたいのですが、西郷隆盛と大久保利通は喧嘩はしていないです。大久保利通が西郷隆盛を追い落とすために西南戦争を仕掛けたという俗説が、流布していますが、これは、昭和維新の時に大久保の息子の牧野伸顕を追い落とすための口実に作られたコミンテルンによるプロパガンダであり、全くの間違いです。

薩摩は、薩英戦争の後、イギリスと同盟関係になります。これを薩英同盟と言います。薩英同盟は当然西郷隆盛も知っています。この薩英同盟に従ってイギリスに留学生を送ります。これは、島津久光候の命に従ってのことです。この薩英同盟が後に日英同盟へとつながり、日露戦争の勝利につながります。ちなみに貴ブログでは、薩英戦争は偶然薩摩の撃った大砲がイギリス艦隊に当たり、イギリス艦隊を追い返したと書かれていますが、あの戦いは島津伝統の戦い方の釣り野伏を応用して戦ったものであり、決して偶然ではありません。当てるべくして当てています。ですので、薩摩は焼け野原になりましたが、実質的には勝ちに等しいものでした。

本題の大久保と西郷の関係ですが、大久保と西郷は、幼い頃から、兄弟同然に育った間柄であり、この程度のことで心から喧嘩をするとはとても考えられません。それを証拠に、本当に明治新政府を潰すつもりならば、自分の弟の西郷従道、従兄弟の川村純義、大山巌、それから、同郷の東郷平八郎、山本権兵衛といった、日露戦争で活躍する人物を一緒に連れて帰るはずです。当時の新政府はそれだけで潰れるほどの脆弱なものです。しかしながら実際には、彼らを新政府に残して帰郷しています。

この帰郷も、西郷は軍人であり元々政治にさほど興味がなかったこと、軍人は政治に口を出してはいけないと久光候に言われていたことから、帰郷しただけに過ぎません。帰郷後は南下する気配を見せるロシアの動向を探るために、満州に密偵を送っています。要は、イギリスとの同盟関係を背景に南下するロシアを迎え撃つという戦略は当時既にあったのであり、それを実行するために役割分担をしていたに過ぎません。

西郷も大久保も、島津もいずれも親英米派です。大久保の息子の牧野伸顕は、226事件後、宮中を追われましたが、後に吉田茂、樺山愛輔らと供にヨハンセングループを結成し、終戦工作を行いました。

西南戦争は、別の目的を持っていた人が西郷の力を利用して新政府を潰す目的で謀略として起こしたものであり、このことが、後々に大東亜戦争へとつながっています。西郷は利用されたのです。




Re: 鹿児島生まれとして一言
コメントありがとうございます。

教科書を書いているつもりではないので、いろいろ反論はあると思いますし、いろんな見方があることも承知しています。
歴史叙述にはプロパガンダがよくある話なので、貴兄の見方にも興味がありますが、論拠とされている史料や論文などのURLをご教示いただければ幸いです。特に昭和維新から終戦工作に関連する部分は知りたいところです。

薩英戦争で薩摩が戦果を挙げたのは、旗艦ユーライアス号の砲撃開始が遅れたことや、台風のような嵐で波が高かったために英国艦の照準が合わせにくかったことや、薩摩藩の大砲の射程圏内に英国艦が碇泊していたことなどラッキーな面がありました。もちろん薩摩藩の訓練で鍛えられていたことは理解しています。
RE:参考になるかは分かりませんが。
お返事ありがとうございます。

論拠ということですが、端的に言いますと、宮崎龍介と毛沢東の関係です。

http://sengonoowari.blog61.fc2.com/?m&no=55

こちらのホームページに、宮崎龍介と毛沢東が仲良く記念撮影をしている写真が掲載されています。(上記ブログは最初から読むとかなり衝撃的な内容が書かれています。)

宮崎龍介は、宮崎滔天の息子で、共産主義者の巣窟とされている、東大新人会を作った人物です。この宮崎滔天の兄が、西南戦争に従軍した宮崎八郎でして、宮崎八郎は、西郷に新政府を倒させて、その後政府を乗っ取るつもりだと中江兆民に語ったとされています。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/miyazakitoten.htm

宮崎八郎は、同じ新人会の佐々弘雄を通じて、尾崎秀実にもつながってますし、孫文を通じて、朝日新聞記者だった、中野正剛、緒方竹虎らとつながっています。彼らは、西南の役につながりのある人物たちです。


西南戦争では、傷ついた投降した西郷菊次郎を保護したのが西郷従道です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E8%8F%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E

また、大久保と西郷の銅像を建てるときに大久保家、西郷家が名を連ねています。
http://www.h4.dion.ne.jp/~kjm/newpage14.html
大久保が、西郷を追い落とすつもりがあれば、遺族がこのようなことをするでしょうか?

昭和維新からの終戦工作については、
薩長因縁の昭和平成史
http://www.asyura2.com/07/senkyo29/msg/544.html  (このページがまとまっています。)
などを、参考にしています。
1次資料ではないところが残念ですが。ただ中川八洋先生も5・15事件を境に、日本は共産主義国になったと論じていますし、間違いとまでは言えないと思います。

なお、薩摩とイギリスの結びつきは、
http://www.shuseikan.jp/word/factory19.html
ここをご覧ください。

なお、ユーライアス号の砲撃開始が遅れたのは、薩摩が奇襲攻撃を仕掛けたからです。また、薩摩の大砲の射程内にイギリスの艦船が入ってきたのは、射程内に薩摩の蒸気船をわざと停泊させていたからで、イギリスの艦船が拿捕しに来るのを想定してのことです。
Re: RE:参考になるかは分かりませんが。
情報頂きありがとうございます。

論拠を示して頂いて嬉しいです。

『戦後の終わり』は私の知らないブログですが、良く調べておられて史料も明示しておられるので、これから近現代史を書くときに参考にさせていただきます。ブログ更新が止まっているのが残念ですね。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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