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西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった

前回の記事で、明治6年に征韓論争が決裂して西郷らが下野して鹿児島に戻ったことを書いた。その後の西郷が薩摩でどのような生活であったのか、菊池寛の文章を読むと驚くべきことが書かれている。しばらく引用してみる。(原文は旧字・旧かな)

西南戦争の原因は、発展していく中央政府と、古きを守ろうとする西郷党との間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発した結果にほかならない。
言葉を換えて言うなら、明治六年の征韓論の対立が、明治十年の西南戦争によって、結論がついたとも言えるのである。
村田新八の言葉を借りるなら、西郷と大久保の征韓論の論争は、横綱の立会いのようなもので、どっちに軍配を上げてよいものかわからぬと言うのである。
なるほど、形の上では、西郷が廟議に敗れて、鹿児島に引っ込んだのであるから、西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは、九州の一角において、文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。」(『大衆明治史』p.51-52)

廃藩置県によって、てっきり中央政府が地方の官吏の任免権を手中に収めたものとばかり考えていたが、鹿児島県は例外であったというのである。菊池寛の文章を読んでいると、鹿児島県は別世界で「西郷王国」のような状態であったことがよく解る。
中央政府が当たり前のことを実行しようとしても、鹿児島県に対しては随分苦労していることが書かれていて面白い。

ooyama.jpg

「これが爆発の直接原因は、内務省の発動による、鹿児島県の役人の転免である。つまり中央政府が封建的最後のものとしての薩摩をその統制下に据え直そうとしたことによる。
明治九年七月初旬、大久保は鹿児島県令、大山綱紀に上京を命じた。県令は当時奏任官だから、内務卿の一断で自由になるであるが、それを呼び寄せて相談を図らねばならないところに薩摩の特殊性があるわけである。
大山は十七日に入京、病中の大久保は、大山に向かって、
『近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭をやるが、宜しく頼む』
と語った。
大山は西郷派の一人であるから、とてもこんなことが出来るわけはない。一方地方長官としての苦しい立場もあり、
『それでは辞職させていただきます』
と辞任を申し出た。
大久保は強いてこれを宥めて、内務省林友幸を同行させて、鹿児島へ帰らせた。
林は十年正月四日、登庁して様子を見たが、とても手がつけられないと直感して、帰京することになった。」(『大衆明治史』p.52-53)

しかし鹿児島県では、中央政府が鹿児島県の西郷系の官吏を一挙に更迭しようとしているという話が一気に拡がって行ったのである。

私学校跡

征韓論争の後鹿児島に帰った西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設し、西郷とともに下野した不平士族たちを統率し、県内の若者の教育に力を入れていた。
その私学校党の青年たちが暴発してしまうのである。その経緯を菊池寛はこう書いている。

「血気に速る私学校党の青年たちは、公然銃器を携えて鹿児島城下を横行し、喋々として政府の挙措を誹謗し、まさに一大変動勃発の徴があった。
この形勢に更に火を注いだのは、中央から発せられた密偵であった。中原尚雄以下二十三名の鹿児島県出身者は結束して帰省し、正月六日頃から、鹿児島各方面をスパイして歩いた。これを発見して捕えた私学校生徒たちは、これを西郷への刺殺者であると憤怒する。形勢は刻々に暗澹たるものになっていった。
二月九日の郵便報知新聞は
『この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬことと控えておりましたが、あまり噂が甚だしくなりましたからちょっと述べます。
三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島県着三十一日同所にあるところの弾薬二千個を滞りなく積み入れ、本月一日に千八百個を積み入れる手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、この囲みを出るものは切殺すぞと脅し、この弾薬を悉く持ち去りたり。よつて鎮台士官も赤龍丸に乗組み、ただちに出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡回中なりしが、直ちに引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるるよし』
火薬搬出は要するに、事実上の挑戦であった。しかもこの火薬に火は点ぜられたのである。」(同上書 p.53-54)

中原尚雄以下23名の鹿児島県出身者が帰省したのは明治9年1月11日の事だ。その目的は、西郷隆盛私学校幹部の偵察や旧郷士族の私学校からの離間工作が目的であったと言われているが、私学校の学生たちが警戒して当然だ。
そして1月29日に政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行おうとした。それを私学校学生が奪い取る事件が起きている。
Wikipediaによると、「鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた」こともあり、私学校学生にとっては「中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために」奪い返そうとしたのは心情的には理解できる。しかし私学校学生が奪い取った武器と弾薬は、旧式のものであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

1月30日に私学校幹部は中原尚雄等を内偵し、中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としているという情報を入手している。
Wikipediaによると、中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったとされ、これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされて、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられ、厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白したという。その結果、私学校生徒の暴走に歯止めが効かなくなってしまったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E9%9B%84
中原が「西郷らを視察する」と言った言葉が「刺殺する」と誤解されたという説もあるようだが、今となっては知る由もない。重要なのは、彼等が西郷らの刺客として中央政府から送り込まれたと私学校生徒が判断した事実である。

西郷隆盛に1月29日の武器弾薬略奪事件の情報が届いたのは、2月2日のことだった。隆盛は大隅で漁をしているときに、弟の小兵衛からその報告を受けている。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

「『おはん達は、何たることを仕出かしたか』
と大喝したが、しばらくして、
『それでは、おいどんの身体を上げまっしょう』
と言ったのは、誰でも知っている話である。
一万三千人の愛する私学校生徒の為に命を投げ出す、その心情は美しいが、同時に征韓論決裂以来押さえに押さえてきた鬱屈が、子弟1万余の動揺を前にして、一時に爆発したのではなかろうか。
ことに西郷を怒らせたのは、彼に刺客を向けたということであろう。政府の考えでは、恐らく単なるスパイのつもりであったのだろうが、これがいつしか暗殺者と言われるようになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのであろう。

西郷隆盛

維新以来、国家のため犬馬の労を尽くした、自分を殺させるという法があるか。これが西郷の戦争の理由のポイントである。だから、刺客を寄こした木戸、大久保を朝廷から一掃する、その為の精鋭三万の大挙東上なのである。
暗殺ということは、現在のわれわれにはあまりピンと来ない。しかし、維新の動乱時代に様々の暗殺の経験を経てきている西郷などには、われわれの想像以上に生々しく切実な感じがしたのであろう。
だから西郷が征韓論に敗れた時、逸早く身を隠して、政府の眼をくらましたのは、気持ちの上のいろいろな複雑なものがあったであろうが、その一部分には、暗殺の危険というものを、実に素早く感じたには違いないのである。 …
…中原尚雄らを刺客として、ハッキリ眼前に見た時、西郷は遂に最後の肚を決めたのであろう。
大山綱紀の名で、征討将軍に奉った一文に、西郷は断乎として述べている。
『隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候。此の上は人民憤怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀、千載の遺憾此の事と存じ奉り候』」(同上書 p.55-57)

西郷隆盛が戦う肚を固めて、その準備が進んでいく。

SumiyoshiKawamura.jpg

時局収集の任を帯びて、薩摩出身の海軍大輔川村純義が急遽鹿児島にやって来たのだが、この時は川村は上陸すらできなかったという。菊池の文章を読むとその時の鹿児島の異常な空気が伝わってくるようだ。

「『それ西郷先生が軍艦へ行く。危ないからお供をしろ』
と私学校の若者たちが殺到して物凄い光景を呈した。川村は危ないとみて艦をずっと沖合に移動させる。艦長伊東祐享が、撃ってもよいかと川村に聞いた程、この私学校党の勢いは凄まじいのであった。
西郷は近衛都督の時分、この私学校系の兵士の駕御の困難を譬えて『破裂弾上に寝る』と言ったことがあるが、今やその統制は全く西郷一人の力では、如何ともすることが出来ない状態である。
私学校徒にとって、郷党大先輩であり、西郷の親戚であり、然も温かい手をさしのべようとしてやってきた川村中将に対してすら、政府の一員、敵の一人として以外に見ることが出来ぬ程、偏狭になり、陰悪になっているのである。
何故であろうか。想うに、南隅なるが故に、最後まで取り残されたこの古い一団は、新時代の寒風が吹き募るにつれ、互いに団まり合い、抱き合い、今では互いの体温を温めあうところ迄追い詰められていたのである。薩摩の天地に人無きにあらずだ。しかし時代のわかる連中は中央へ出きってしまい、古さと人情だけで生きる人たちだけが残って、その不満と反抗だけが固まって出来上がったものがこの西郷王国だとしたら、その最後は飽くまで悲劇的ならざるを得ないではないか。」(同上書 p.58-59)

Wikipediaによると、鹿児島の私学校は明治7年4月に旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が設立され、「幼年学校」の設立に当たっては西郷隆盛が二千石、大久保利通も千八百石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出しているが、「銃隊学校」「砲隊学校」は鹿児島県の予算によって設立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1

桜島

重要なことは、大山が県令を務める鹿児島県は西郷が下野した後は、驚くべきことに新政府に租税を納めていなかったようなのだ。その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈していたという。さらに大山は西南戦争の際に官金を西郷軍に提供していたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF

前々回の記事で西郷隆盛がいなかったら廃藩置県の大改革が出来なかったことを書いたが、西郷のお膝元の鹿児島県だけは例外で、むしろ独立国の様相を呈していた。政府の命令を無視して地租改正も行わず、旧士族は刀を差し、銃や弾薬を蓄えて戦いに備えての訓練をしていたというのである。
今までこのような史実を学ぶ機会はほとんどなかったのだが、こういう史実を知らずしては、なぜ西南戦争が8か月も続く大変な戦いになったかを理解することが難しいのではないか。

西南戦争のことは次回に書くことにしたい。

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Comment
興味深い記事をありがとうございます
しばやん様
菊池寛の文章、大変興味深く拝見いたしました。
これからも明治維新に関する、検証の継続を期待しております。紛れも無い一種の革命ですから、資料が偏っている、史実を見る目にうろこが付着している可能性は消せませんね。
Re: 興味深い記事をありがとうございます
Bruxelles さん、お久しぶりです。お元気ですか。

明治政府にとって都合の良い歴史ばかり何度も聞かされてきたので、私も「史実を見る目にうろこが付着している可能性」がかなりあるのですが、通説と違う記録を追ってバランスをとりながら、実際に何があったのかを考えることが必要なのだと思います。

戦前には、結構いろんな観方が紹介されていますが、戦後はあまりにワンパターンですね。


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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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