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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した

慶応3年(1867)12月9日に薩長両藩および岩倉具視らの討幕派は王政復古の大号令を発し、天皇親政による新政府を樹立した。新政府は幕府だけでなく摂政・関白を廃絶し、会津藩・桑名藩の宮門警衛を停止した。また同日夜の小御所会議で、前将軍慶喜に内大臣の官職と領地の一部を返上(辞官・納地)させる決定をしている。

この決定に憤激した旧幕府方や会津・桑名の二藩は、明治元年(1868)1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見で戦闘を交えた(鳥羽・伏見の戦い)が敗れ、敗戦の報を受けた慶喜は大阪城を出て江戸に向かって、朝廷に恭順の姿勢を示した。
新政府の征討軍は慶喜を朝敵とみなして江戸に迫ったが、官軍参謀西郷隆盛と徳川方の旧陸軍総裁勝海舟との会談が行われ、4月に江戸城の無血開城が実現している。

江戸無血開城

Wikipediaの解説によると、「勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である」と書いてあり、3月10日付の『海舟日記』が引用されている。

「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を進まむとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼この暴挙を進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」

勝海舟

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意しておいて、火災が起こった後に避難民を救出する計画まで具体的に立てていたことを後年語っているそうだが、それくらいの覚悟がなければ、西郷相手に譲歩を引き出すような交渉はとても出来なかったのではないか。

この時の西郷と勝の会談の場面が、勝海舟の談話集である『氷川清話』という本に書かれている。ポイントとなる部分を引用する。(原文は旧字・旧かな)

「西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかつただらうヨ。

さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいう事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引受します』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいう事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。
この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗(うかが)っている。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけている。その有様は実に殺気陰々として、物凄いほどだった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののように、談判を仕終えてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。…
この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ。」(『氷川清話』講談社文庫p.62-63)

勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だったという。内戦が長引けば、イギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される事態を避けるべきだとの考えであったようだ。
勝海舟は新政府でも海軍大輔、参議兼海軍卿などを歴任しているが、西郷が西南戦争で非業の死を遂げた頃からは表舞台から離れて、著作や旧幕臣たちの救済に力を注いだようである。

Wikipediaによると勝海舟は、「慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

新政府に江戸城を明け渡したのち徳川家は静岡に移住し、旧幕臣たちも多くが静岡に移ったのだが、徳川宗家の公称800万石が70万石に縮小されて大量の武士たちが職を失い、生き抜く術を自ら決断しなければならなくなってしまった。旧幕臣たちの中には一家が離散し、悲惨な暮らしをしていた者も少なくなかった。
そこで勝はそんな人々をなんとか助けてやろうと起ち上がったという。
勝は明治新政府や全国の大名に人材の売り込みを行なったり、旧幕臣たちが持っていた刀剣類や古美術品などを売り捌いたりしたのだそうだ。

makinohara01.jpg

静岡県の牧之原台地といえばお茶の生産地で有名だが、この土地を開墾して茶畑にしたのは、旧徳川幕府に仕えた幕臣たちである。勝海舟は開墾の為にかなりの資金を中條景昭らに支援したと言われている。
以前このブログで坂本龍馬暗殺したと言われている今井信郎のことを書いたが、この今井信郎も明治11年に牧之原台地に入植し茶の生産に携わっているという。
http://www.daitakuji.jp/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%8B%87%E5%A3%AB/

明治新政府の改革で職を失い、不満を持った士族が新政府に反乱を起こす事件が全国各地で起こったのだが、旧幕臣からは反乱がおきなかったのは勝海舟のような人物がいたからなのだろう。
勝海舟が手を差し伸べたのは、旧幕臣だけではなかった。なんと、江戸城無血開城のためにともに談判した西郷隆盛の名誉回復の為に尽力し、西郷の遺児の援助も買って出ているのだ。

勝海舟と西郷隆盛

松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』によると、西郷の死から2年後の明治12年(1879)に勝海舟は、隆盛を偲んで留魂碑を建立している。朝敵として征討された男の記念碑のことなど誰も言い出せないような時期に、海舟は独力でこの碑を建立しているのだ。
当初は東京都葛飾区の浄光寺という寺に建てられたそうだが、海舟の死後に東京都大田区の洗足池の畔にある海舟の墓域に移されたのだそうだ。
碑の表には西郷の『獄中有感』と題された漢詩が彫られ、裏面には勝海舟の隆盛に対する熱い思いが綴られている。(原文は漢文)

留魂碑

「慶応戊辰の春、君大兵を率いて東下す。
人心鼎沸、市民荷担す。
我之を憂へて、一書を屯営に寄す。
君之を容れ、更て令を下して兵士の驕傲(きょうごう)を戒め、
府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめず。
これ何らの襟懐、何らの信義ぞ。
今君已に逝たり。たまたま往時書する所の詩を見る。
気韻高爽(きいんこうそう)、筆墨淋漓(りんり)、恍としてその平生を視るが如し。
欽慕の情、自ら止む能はず、石に刻して以て記念碑と為す。
ああ君よく我を知れり、而して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し。
地下もし知る有らば、それ将に掀髯(きんぜん)一笑せんか。
明治十二年六月 友人勝安芳誌す」

前半の部分は言うまでもなく、二人で会談した江戸城無血開城のことである。 また最後の方で、誰よりもこの海舟が西郷のことをよく理解していたという意味のことを書いているが、この点は注目して良い。当時薩摩藩出身の者は数多く生存していたにもかかわらず、西南戦争直後に新政府軍に反旗を翻した西郷を褒め称えることが出来る雰囲気ではなかったことが考えられる。

そして勝海舟は西郷の七回忌の頃に、当時明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟への書状の中で、西郷の罪科を取り消し、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを提案したという。
この書状は明治天皇のもとに届き、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、隆盛が徳之島に遠島されていた時代に愛加那との間に生まれた菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務が決まった。
隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、勝海舟は徳川家から借金までして、寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡したそうだ。

西郷寅太郎

西郷寅太郎は13年間ドイツで学んだ後帰国して明治25年(1892)陸軍少尉に任じられている。明治35年(1902)には父・隆盛の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任している。この日に徳川慶喜も公爵を授けられている。

西郷菊次郎

また西郷菊次郎は外務省勤務の後、日清戦争で日本が台湾を得た明治28年(1895)に台湾に転じ、台北県支庁長、宜蘭庁長(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任に就いている。

また西郷隆盛は明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布大赦により過去の罪が赦されて正三位が贈られている。またその年に西郷隆盛像の建設の話が持ち上がる。高村光雲らの制作による西郷隆盛像が上野公園に完成したのは明治31年(1898)年だった。

saigou.png

しばらく松浦玲氏の著書を引用する。

「…12月18日、いよいよ上野の西郷隆盛像の除幕式である。午前10時開会で建設委員長樺山資紀の報告、除幕委員長川村純義の挨拶、内閣総理大臣山縣有朋の祝辞と式次第が進む。
次いで川村純義がまた立って海舟の和歌を代読し、南洲(西郷隆盛)と海舟の功績を讃える演説を追加した。代読した歌は次の三首である。

せめつゞみ みはたなびかし たけびしも 昔の夢のあとふりにける
咲花の 雪の上野に もゝつたふ いさをのかたみ たちし今日かな
君まさば 語らんことの沢なるを 南無阿弥陀仏 我も老いたり

… 川村は追加演説で、いまや幽明界を異にするけれども両雄が一場に会したのだと、本日の意義を強調した。「幽」の西郷が銅像となり、「明」の海舟と「一場に会した」というわけである。当人の演説はないけれども、海舟がもう一人の主人公なのだった。」(『勝海舟と西郷隆盛』p.192-193)

この除幕式からわずか1ヶ月後の明治32年(1899)年1月19日に勝海舟は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったという。

勝海舟という人物が明治の時代にいなければ、明治の歴史は随分異なったものになっていたことだろう。
徳川慶喜が処刑され、東京が火の海になってもおかしくなかったし、幕臣による士族の叛乱が長く続いたことであろう。わが国が長い間分裂状態にあれば、諸外国がわが国につけ入る隙はいくらでもあったと思うのだ。
明治という時代は国内が分裂する危機が何度かあったのだが、旧幕臣が明治という国家の不安要因とならなかったのは勝の尽力によるものが大きかったと思う。
西郷の名誉が回復され、徳川慶喜と天皇との和解の儀が成功し、西郷の銅像の完成を見届けて、勝海舟は自分の使命を終えたことを自覚したかのように77歳の生涯を終えたのである。
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すごいな、勝海舟!
私は、鹿児島市内に住んでいますが、西南戦争の最末期、西郷さんらが立てこもった「城山」の洞窟近くと、西郷さんを祀る南洲神社に、次の勝海舟の和歌が巨石に彫られているのを知っています。

ぬれぎぬを 干そうともせず 子どもらが
なすがままに 果てし君かな

この「子どもら」というのは、桐野利秋や不平薩摩士族たちをさすものと思われます。

「君」はいうまでもなく、西郷隆盛です。

元の東京都知事の石原さんが「上野公園には、(西郷隆盛ではなく?)勝海舟こそふさわしい。」との発言をしたことがありましたが、確かに勝海舟という人物はすごいですね。
Re: すごいな、勝海舟!
西郷隆盛と勝海舟がいなければ、幕末から明治にかけてのわが国の歴史は随分違ったものになっていたでしょうね。内乱が続いて、外国の干渉を受けてもおかしくなかったのを、この二人のおかげでわが国は救われたような気がしています。どちらもすごい人物ですね。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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