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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺

下の画像はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「清水寺」の絵である。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_171.html

seisuiji100.jpg

下の画像が現在の伽藍配置である。「都名所図会」では上方向が北東で、現在の配置図は上方向が東に描かれていているのに注意して見て頂きたいのだが、「都名所図会」で左下に描かれている「子安塔」が、今では国宝・本堂(清水の舞台)の南方に移転していることがわかる。

清水寺境内図

昔は仁王門のすぐ近くにあった「子安塔」の明治期の写真が今も何枚か残されている。 s_minagaさんが、「がらくた置場」という自身のホームページに、古寺の塔に関する膨大なデータを残しておられる。
このホームページの中にご自身が集められた古写真などが貼られていて、つぎのURLが清水寺の「子安塔」のページである。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_seisuiji.htm

s_minagaさんの「リンクフリー」の言葉に甘えて明治5年の「子安塔」の写真を掲載させていただく。この写真の右側に写っている道は「清水坂」で、今では多くの土産物屋が立ち並んでいるところだ。

明治5年koyasu_11

この「子安塔」を清水寺の「仁王門」あたりから写している写真も残されているのだが、この仁王門はかなり傷んでいることが見て取れる。屋根の檜皮葺の傷みもひどいが、そもそも屋根そのものが垂れ下がっていて、二層部分と屋根につっかえ棒が何本か立てられて支えられていたことが画像で分かる。

kiyomizu仁王門

この写真が撮影された時期は幕末から明治16年までの間だとs_minaga氏は書いておられるが、現在では京都の観光地人気No.1の清水寺においてすら、明治の初期はこのような状態を修理することすらできなかったのである。それはなぜなのか。

その理由は、明治元年三月に明治政府が発令した「神仏分離令」で神仏を分離し、「上知令」で寺有地のかなりの部分を強制的に国有化し寺院の収入源を激減させたことと、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が吹き荒れたことにあるのだが、このことは清水寺だけの問題ではない。この時期にわが国の多くの寺院が経済基盤を失って廃寺となり、同時にわが国は多くの文化財を失ったのだ。

梅原猛氏は、「もし明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝と呼ばれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるようだが、この時にわが国の寺院の半数以上が廃寺となった史実は、ほとんどの歴史書にはキレイごとを書き連ねているだけで何も書かれていないのが現状だ。
東大寺、法隆寺、興福寺など古い有名なお寺が今も数多く残っているのだが、このような有名寺院ですら明治初期という時代を乗り越えるために大変な苦労があったことをこのブログでいろいろ書いてきた。
興味のある方は、次の「にほんブログ村」の次のトラコミュに私の有名寺院の廃仏毀釈に関する36の記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

明治までのわが国の宗教は、日本古来の神祇信仰と仏教とが混然一体となった「神仏習合」という状態が当たり前であったのだが、江戸時代後期に平田篤胤らを中心に尊王復古を唱える国学が盛んとなり、それが尊王倒幕運動の思想的バックボーンとなり、明治維新を迎えると神道を国教化しようとする流れから「神仏分離令」が布告されたのである。
彼らの考えでは仏教も異国のものであり、神仏習合によって古来の神道が穢されてしまった。したがって仏教は排除すべき対象であるというものであった。

清水寺の謎

清水寺学芸員の加藤眞吾氏が書かれた『清水寺の謎』という本が祥伝社黄金文庫にある。そこに清水寺の廃仏毀釈のことが記述されている。

「『清水寺史』によると、江戸時代を通じて幕末までは、二十いくつかの塔頭(たっちゅう)があった清水寺だったが、現在は八つしかない。
同時に行われた上知が、決定的な打撃だった。上知は土地をとり上げること。清水寺もさまざまな寄進、寄付から幕末までは、洛中などに領地を保有していた。そこから上がる年貢などの上納が、寺の経済を支えてきた。これを根底からくつがえされては、寺の経営が成り立たない。
上知は二度にわたって行われた。まず第一回目の上知で、かつて十七万坪からあった境内地は、十五万坪強となった。追い討ちをかけた第二回目の上知で、さらに減らされた。一気に一万三千四百坪強になった。十五万坪に対し一万三千坪。なんと九%にまで激減したのである。(後に、明治末期近くなって、常置された土地の払い下げ願いが実現し、旧境内地の23%にあたる三万六千坪強まで回復した。)
本来、檀家を持たない清水寺は、参詣者の寄進と祈禱寺院としての収入、公家などの朝廷関係者の後援、領地からの年貢などで成り立っていたのに、公家は東京へ移り、さらに参詣者寄進はともかく、収入の大半を占めていた年貢収入などの部分が完全に断たれたのである。」(『清水寺の謎』p.127-128)

「塔頭」というのは禅宗において高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)、または、その敷地内に建てた小さなお寺のことをいうが、昔の塔頭の配置図を見ると、今の門前の参道にも、境内にも多くの塔頭が点在していたことがわかる。ところが、明治に入ってその多くが運営できなくなって廃院のやむなきに至ってしまったために、境内の南側の多くが空き地になっていった。
下の図が加藤眞吾氏の著書の中にある江戸時代の清水寺の伽藍配置だが、この中で今も残っているのは、成就院、宝性院、慈心院随求堂、延命院、来迎院経書堂、真福寺大日堂、善光寺堂 (旧地蔵院:移転)、泰産寺(移転)の八つだけである。冒頭に写真を紹介した「子安塔」は清水寺門前にあった泰産寺の三重塔だ。

江戸時代の清水寺

また清水寺は幕末以来住職不在が続いていて、明治8年(1875)になってやっと成就院住職であった園部忍慶が清水寺住職(貫主)就任を認められているという。
園部忍慶貫主らの努力と多くの信者の支援の結果、廃仏毀釈で荒廃した建物の修繕がなされていったが、明治政府が文化財の保護に動くのは、明治30年に古社寺保存法が制定された以降のことである。その時に清水寺本堂は特別保護建造物(国宝)に指定され、ようやく本堂と舞台の大修理が行われ、35年(1902)6月に、本堂修理の完成に伴う落慶法要が営まれたという流れだ。

京都府庁文書に『寺院境内外地』という明治36年に作成された文書がある。その文書は、上知令で取り上げられた土地を返還・払下げしてほしいと清水寺が官に願い出たものなのだが、その文書の中に払下げ後の堂宇の再配置構想が書かれているという。
実際に実施されたのは泰産寺とその子安塔を南に移転しただけだったが、その構想では「縁結びの神」で有名な「地主神社」を門前の子安塔の跡地に移転するほか、阿弥陀堂や朝倉堂、経堂なども南苑に移転する計画だったそうだ。もしこの計画が着実に実行されていたならば、境内の様相は現在とは随分異なるものになっていたはずだ。

地主神社

加藤眞吾氏によると、明治時代の清水寺は一部の堂宇が修復されたとはいえ、厳しい状態であることには変わりなかった。荒廃した清水寺が復興していったのは大正時代以降で、大西良慶和上が中興の祖だと書いておられる。
大西良慶和上は明治8年に生まれ、大正3年(1914)に奈良興福寺の住職と兼務で清水寺の住職として晋山されているが、その当時の清水寺はどんな状態であったのか。

加藤氏はこう書いている。
「和上が晋山された当時の清水寺は、明治維新からかれこれ50年、諸堂の修繕や境内の整備に努め、廃仏毀釈や上知の打撃から少しずつ立ち直りつつあったとはいえ、せっかく残った塔頭でも無住のところもあり、僧侶の住む諸院や子院は荒廃しきっていた。和上が晋山した際の挨拶状に、『法務の都合上、当分、清水寺本坊成就院に留錫(りゅうしゃく)する』とあり、成就院に居を置いたが、この成就院ですら『内玄関から入る間でも、雨が降ったら、傘をさして廊下歩かな、裸足で歩けんほど雨漏りした』(和上回顧談)といった状況だった。」

大西良慶

良慶和上は、なおざりにされていた清水寺の年中法会を、厳重に奉修することから始められ、明治期には禁止されていた伝統行事を復活され、全国各地に布教のための法話をされて、信徒組織の充実にも努められたという。
また廃寺、廃院になった清水寺の塔頭の仏像や法具は収蔵する場所がなく、境内に長らく散乱していた時期があったようで、その後長期間にわたり経堂が収蔵庫代わりに使われていたのだが、ようやく昭和59年(1984)に大講堂が建てられ、そこに宝物殿が付設されて、仏像などは安住の地を得ることができたのだという。
残念ながら大西良慶和上は大講堂や宝物殿が完成する前年の昭和58年(1983)に109歳という長寿で世を去られたが、廃仏毀釈で衰退した寺を見事に復興させたことで、墓碑には「中興開山 良慶和上」と刻まれているのだそうだ。

明治初期の「廃仏毀釈」を調べていくと、直接的な破壊活動の影響も寺院によっては大きかったが、「上知令」などによって経済的基盤を奪われたことの影響が特に大きかった。さらに宗教者としての誇りを奪われたことによるダメージもかなりあったことが分かる。

佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』という本にはこう書かれている。

「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者から布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職という名の乞食でした。生活の保証はなかったのです。しかも明治二十二年六月以来被選挙権は奪われ、同二十七年二月には選挙運動を禁止され、同三十四年十一月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。一夜にして神職は国家官吏となり、住職は剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧といわずして何と言えるでしょう。寺院から菊の紋章を取りはずし(明治二年)、寺領を没収し(同四年)、僧侶に肉食妻帯させて(同五年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同五年)、傍らで神職に給料制度をしき(同六年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同六年)、学校から神道以外の宗教教育をしめ出し(同三十九年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。」(『廃仏毀釈百年』p.23-24)

清水寺2

現在残されている古い寺院の建物や文化財は、貴重なものであると認識されていたからこそ、長い歴史の中で僧侶と信者が力をあわせて、何度も危機を乗り越え護られてきたものであり、明治国家の神道原理主義的な圧力にも抗して現在まで残されてきたものであることを、決して忘れてはならないのと思うのだ。

今では清水寺を訪れる観光客は年間1000万人を超えるとも言われている。このように観光客の多い寺社はまだ何とかなるだろうが、このような寺院はごくわずかだけであり、素晴らしい文化財を持ちながらも観光収入がほとんどなく、檀家からの収入も先細りになっている寺院の方がはるかに多いことだろう。古い歴史を持つ神社も同様である。
あらゆる事業に損益分岐点があるように、お寺や神社にも一定以上の収入がなければ文化財の維持どころか、僧侶や神官の生活も厳しくならざるを得ないのはいつの時代も同じなのである。

規制緩和が進んで大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊し、地方に定住して生計を立てることが困難になって、多くの若い世代がやむを得ず地元を離れて、都心に職を求めて生活をするようになって久しい。
しかし長い目で見れば、若い世代が地元に残らなければ、その地域にある歴史ある寺や神社を支える人がいなくなってしまう。同時に地域の伝統文化や行事も担い手を失い、いずれはその地域の観光地としての魅力をも失うことになっていく。
数百年以上続いた地方の文化や伝統が、経済合理主義のためにこれ以上破壊されていくのを何とか押しとどめたいといつも思うのだが、私にできるのはせいぜい地方の社寺を巡って地元に僅かばかりのお金を落として帰ることだけだ。

清水寺成就院石仏

清水寺成就院参道の右手には様々な石仏が立ち並んでいる。これらはかつて京都の各町内でお祀りされていた「お地蔵さん」で、これらは廃仏毀釈の際に捨てるには忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民によってここに運び込まれたものだそうだ。
平成時代の市場原理主義的施策が、明治時代の神道原理主義的施策と同様な結果を招くことがないことを祈るばかりである。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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