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正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える

京都に生まれ育ったこともあって、京都御所の一般公開には何度か行った。
京都御所は毎年春と秋の2回一般公開が行われ、紫宸殿や清涼殿などが公開されるのだが、公開日数がそれぞれ5日程度と短く、期間中は大勢の観光客が訪れる。

京都御所・植物園・西本願寺 037

上の画像は3年前の春に公開の時に撮った紫宸殿だが、この建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」の一部が見える。

高御座

この時は「現在の高御座は古制に則って、大正天皇即位式の際に造られたものです」との解説板をあまり深く考えずに読んだだけだったのだが、最近になって、「高御座」が東京の皇居には存在せず、京都御所に常設されていることを知った。

高御座」が京都に常設されているために、明治天皇のあとの大正天皇、昭和天皇の即位の大礼はいずれも京都御所で執り行われている。今上天皇の即位の際には、この「高御座」を東京の皇居まで運んで大礼が行われたそうだが、終了後にはもとの京都御所紫宸殿に戻されたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7
何も「高御座」を京都御所に戻さなくても、そのまま東京の皇居に置いておけば良いではないかと誰でも考えるところなのだが、それが出来ない歴史的事情がどうやらあるようなのである。

『帝国電網省』というサイトの「歴史再考」に書かれている「73. 東京は首都ではない!?~異例中の異例だった『東京遷都』」という記事にそのヒントがある。一部を引用させていただく。
http://teikoku-denmo.jp/

tokyo_tento.jpg

「明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる『東京奠都』(東京遷都)ですが、この京都から東京への『遷都』の際、明治天皇は『ちょっと(東京へ)行って来る』と言って、京都を出たと言います。『ちょっと行って来る」と言う以上、当然、『暫くしたら(京都へ)帰って来る』と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への『遷都』では無く、せいぜい『行幸』程度にしか考えていなかったと言えます。又、『東京遷都』に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、『何時いっか何処々々に都を遷す』と宣言するもので、いわゆる『遷都の詔勅』と呼ばれるものです。この『遷都の詔勅』は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、『東京遷都』に際して、明治天皇は『遷都の詔勅』を発してはいないのです。
更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ『遷都』したにも関わらず、東京を『首都』とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への『遷都』は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は『遷都の詔勅』と言う『お墨付き』の無い中途半端な都だと言えるのです。」

「本当かな」と思っていろいろネットで検索して調べてみたのだが、「遷都の詔勅」が出ていないことは間違いがない。

一部の人が、慶応4年(1868) 7月17日に、明治天皇が発した『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』を『東京奠都の詔』と呼んでいるようだが、この詔書の内容を普通に読むと、『東京奠都の詔』と理解することは誤りであることがわかる。Wikipediaに現代語訳があるので引用させていただく。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%B2%E7%A7%B0%E3%82%B7%E3%83%86%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%88%E7%82%BA%E3%82%B9%E3%83%8E%E8%A9%94%E6%9B%B8

上記の詔書の原文では「因テ自今、江戸ヲ稱シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶、此意ヲ體セヨ」となっており、都を遷すとは何処にも書かれておらず、ただ江戸の呼称を「東京」と変えただけのことなのだが、江戸をわざわざ東の「京」を意味する「東京」と変え、さらに「衆庶、此意ヲ體セヨ」と書くあたりに、東京を「みやこ」にしたいとの意がある程度読み取れるのだが、この詔では東京に都を遷すことを宣言したことにはなっていない。

この『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が出された翌月の八月二七日に明治天皇は京都で即位され、即位の宣命には「掛けまくも畏(かしこ)き平安京に御宇(あめのしたしろしめ)す倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)が宣りたまふ」と書かれており、この時点ではまだ京都が都であることは明白だ。

rokugou_ten.jpg

ところが、同年九月八日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月二〇日には東京へと「行幸(ぎょうこう)」される。「行幸」とは天皇が一時的にご旅行されることで、ご旅行が終われば、当然京都へ還幸(かんこう)されることを意味する。明治天皇は京都に正式に還幸されないまま崩御されたという事になるのだ。

学生時代に歴史を学んだ時は明治2年(1869)に「東京遷都」があり、首都が京都から東京に遷されたと学んだ記憶があるのだが、たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(p.218)
と、本文では「遷都」という言葉を使わず、巻末の年表では1869年の欄に「東京遷都」と書いている。この書き方では、誰でも明治2年に京都から東京に遷都されたと単純に理解するであろう。

調べていくと当初は東京遷都論ではなく大阪遷都論が唱えられていたようだ。
近世日本史の権威であった故大石慎三郎氏の『日本の遷都の系譜』という論文を読むと、大久保利通が大阪遷都案を唱えたが、公家達が「この計画は薩長の陰謀であって、その私権を拡張するためのものだ」と猛反対をし、議論に決着がつきそうになかったそうだ。そこで東京遷都論が出てくる。しばらく大石氏の論文を引用する。
「このようにして議論が定まらないうちに閏4月になって徳川将軍家に一度没収していた領地を与えようという話が出てくると、福井の松平慶永は江戸の地を徳川家に賜うよう運動を始めた。これをみた大久保利通と木戸孝允は先の大阪遷都論を撤回、京都を首都、大阪を西京、江戸を東京とし、天皇は便宜これらの首都を巡行すればよい、というあたらしい案を提案した。これにたいし江藤新平と大木喬任の佐賀藩出身者は、東国地方の民心を得るためには、速やかに天皇が行幸してこれを東京とし、京都を西京としてこの間に鉄道を敷設して両者を結ぶのが最良という案を提出した。これについても賛否両論があり公家達は強硬な反対論、また山口藩士たちの中にも反対を唱えるものもあったが、結局木戸孝允、広沢眞臣を説いて遷都に同意させ、木戸が岩倉具視と密議して同12日天皇から木戸に江戸行幸の内意を伝えることで、江戸を明治政権の首都にすることが決まった。」
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/2803/2803-11oishi.pdf

このように東京遷都が朝議で決定されたのではあるが、今度は公家だけではなく、西国四国の藩士や京都市民も大反対したようだ。

歴史作家の高野澄氏が、京都市民が反対したことをこのように書いている。
「明治天皇が明治2年3月、東京に二度目の行幸をしてからも、皇居は京都に残っていた。この二度目の行幸が事実としての東京遷都になったのだが、皇后が残留しているのは、京都市民のこころに、
――ことによると――
東京遷都の噂が根も葉もない虚説に過ぎないのだという、万が一の僥倖を期待する気持ちをうえつけていた。
だが、ついに皇后の東京行啓が発表されたのである。行啓は十月だという。

s902bd02513.jpg

九月二十四日、石薬師門に数千人の市民があつまり、旗をおしたて、皇后の東京行啓を中止してもらいたいと嘆願した。いまの京都御苑の築地塀の、東北の一角にあるのが石薬師門である。
嘆願の群れは門から奥にははいれなかったが、京都府は動揺した。上京と下京の町組(ちょうぐみ:京都の自治自衛の組織)の代表者を呼び出し、懇切な言葉によって説諭した。説諭のうち、もっとも力点がおかれていたのは大嘗会について、である。
天皇自身がみずからの即位を神に告げる神聖な儀式を大嘗会(だいじょうえ)という。明治天皇は慶応三年(一八六七)一月九日に践祚(せんそ:天皇の地位をうけつぐこと)し、即位の礼も上げたが、目まぐるしい政変のため、大嘗会をおこなうことができなかった。
説諭はいう。
大嘗会をなされぬまま、天皇は二度にわたって東京にゆかれた』
『それは、大嘗会を東京ではなく、この京都で行われるお気持ちであるからだ。大嘗会は帝都でなければおこなえない定めであって、もしも東京で大嘗会をおこなわれるであれば、その前に東京遷都の詔(みことのり)が発布されはずだ。ところが、今日まで、遷都の詔は発布されていない。これこそ、天皇が東京には遷都なされないお気持ちであるしるしなのだ』(意訳)
しかし、このころすでに、政府の政策としての東京遷都は動かしいがたいものになっていた。政府と京都府は、東京遷都による京都の市民が味わう喪失感をやわらげなければならないとの認識で一致していた。」(祥伝社黄金文庫『京都の謎 東京遷都その後』p.24-25)

meijitenno.png

大嘗会についてもう少し補足すると、天皇が即位の礼の後で初めて行う新嘗祭(にいなめさい:天皇がその年の収穫を祝う宮中祭祀)であり一代一度限りの大祭である。しかし、その大嘗会は明治4年3月に東京で行う事が発表され、同年11月17日に東京で行われたのだそうだ。

同志社女子大学教授の山田邦和氏は著書『京都』にはこんな記述もある。この文章はGoogleブックスで誰でもネットで読むことが出来る。
「…明治天皇は京都を離れて東京へと遷り、翌年には太政官もそれを追った。しかし、この時もついに遷都の詔は発布されなかった。遷都に反対する京都市民を前にして、新政権は幾度となくこれが遷都ではないことを説明する。天皇東幸は臨時の行幸であって遷都ではない。東国鎮撫のために江戸を「東の京」とするが、正都はあくまで京都である。天皇は必ず京都に還幸される…。
 京都市民はこの欺瞞にまんまとだまされた。しかし、約束は約束だ。いまだに日本の首都は京都であり、東京は行在所(あんざいしょ)にすぎない。市民はずっとこう信じてきた。明治の一時期、東京に対して京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶことがはやったが、市民はこの名も拒否する。そりゃそうだ。東京なんかと対等に並べてほしくはない。なにせ本家本元はこちらなんだから。
 とにかく、恐るべきプライド、『中華思想』がこの町にはある。…」(カラーブックス「京都」p.105)
http://books.google.co.jp/books?id=OnQAj0EqMNwC&printsec=frontcover&dq=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%92%8C&hl=ja&sa=X&ei=cXmHUcsnieaQBdrpgJAH&ved=0CDoQ6wEwAA

皇居

「御所」という言葉は、本来は今上天皇の住まいのことを意味するはずなのだが、天皇陛下が実際居られるわけではないのだから、今も「京都御所」と呼ぶことを長い間不思議に思っていた。天皇陛下が戻ってこられないのであるから、「京都御所址」とか「元京都御所」などと呼ぶべきではないのかと。
ところが「東京遷都」を実施しようとした明治政府が京都市民らの強烈な反対運動に遭遇して、京都市民らに「行幸」だと騙して東京移転を強行したことから、辻褄を合わせるために「遷都の詔勅」を出すタイミングを失したまま長い年月が経ってしまった。「遷都の詔勅」が出ていない以上、「京都御所」という呼称を変えるわけにはいかなかったということなのだろう。
紫宸殿に高御座が残ったのもおそらく同様の理由によるものだと思う。高御座まで東京に移したら、明治政府が京都市民らを騙したことがいよいよ明白になってしまう。言葉は悪いが、高御座は天皇陛下の身代わりのようなものとして「京都御所・紫宸殿」に残されてきたということではないのか。
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