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東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか

前回の記事で、明治2年(1869)の「東京遷都」の際に「遷都の詔勅」が出ておらず、東京を首都とする法令も政令も出ていないことを書いた。
明治政府は京都市民らを騙して東京移転することを強行したのだが、「遷都の詔勅」が出せなかったほど京都市民らによる反対が大きかったということだろう。

a0277742_13112477.jpg

明治政府がそこまでして「遷都」を強行したことを、どう評価すればよいのだろうか。
前回の記事で紹介した故大石慎三郎氏の『日本の遷都の系譜』という論文には、もし東京遷都がなければ、中央集権的統一国家が簡単には生まれなかったのではないかと書いておられる。
「…江戸時代の日本は…金を主要通貨とする関東・東国経済圏と、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏とがあった。
 これを金経済圏に足場をおく徳川氏が力で銀経済圏をおさえこみ、統合していたというのが江戸時代の基本構図であった。幕末政争はこのような状況のなか、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏が、皇室をいただいて離反反撃したのだと経済史的には説明できる。
 とすると新しい政権の首都をどちらにおくかで、以降の日本歴史の展開は決定的に違ったはずである。もし万一大久保利通の最初の建白書の通り、明治政権の首都を大阪においていたら、あのような中央集権的統一国家は簡単には生まれなかったはずである。首都の選択は重要である。」
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/2803/2803-11oishi.pdf

大石氏は、京都がそのまま首都であった場合のことを明記してはおられないが、大阪にしても京都にしても銀経済圏であるので、論理的にはその場合も大阪遷都の場合と結論は同じで、「東国の人心が新政府から離反していた可能性は高かったろう。また経済的にも日本は東西に分離していた恐れがある」ということになるだろう。
もし大石氏の指摘が正しいとすると、もし明治期の首都が京都、あるいは大阪であった場合にはわが国の内戦が続いて、西洋諸国につけ入る隙を与えていたこともありうる話になる。
そうなると、遷都において正式な手続きがなされたかどうかは小さな問題で、結果として西洋に飲み込まれずに独立国家を維持できたことを評価すべきなのかもしれない。

しかし、京都市民にとっては、都(みやこ)でなくなるという事は大変な事である。単に千年以上続いた歴史が終わるということだけではなく、経済的ダメージは甚大なものとなる可能性が高かったはずだ。そのことは幕末の京都の地図を見ればおおよその見当がつく。

『“超検索”幕末京都絵図』というサイトで幕末の京都の地図を8分割されたPDFファイルで見ることができる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

次のURLで確認すると、わが国の首都だったから当然ではあるのだが、各藩の屋敷や宮家や公家の家があちこちにあり、またそれぞれが信じられない程の広さなのだ。

幕末京都

例えば、次のURLの地図を見ると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあった。同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があった。平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyou12_7.pdf
これらの建物やその建物に繋がる人々の大半が、首都の機能が東京に移転してしまえば京都にいることの必要性が次第に消えていくことは自明なのである。充分な対策を打たなければいずれ京都の人口は大幅に減少し、武家や宮家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、賑やかだった京都のあちこちに住人不在の屋敷が残されて、荒廃していく可能性を予想できたはずだ。実際に京都の人口は維新前の35万人から20万人に急減したのだそうだ。

立命館大学の河島一仁氏がネット上で『大学と旧制高校の立地で考える近代京都の地理』という論文を公開しておられる。その文章の中に、同志社大学の今出川キャンパスの土地を取得する際の状況が書かれている。
「同志社英学校は1875年に寺町丸太町上ルで開校され、翌年に薩摩藩屋敷跡に移転した。『同志社百年史』によると、新島襄らは、もと会津藩士山本覚馬が『所有していた旧薩摩屋敷あとの桑畑を校地として譲り受けること』になった。『山本がそれを入手する以前は薩摩屋敷といわれた』と同書には書かれている。この記載によれば、明治維新後に薩摩藩屋敷は取り壊されて、その跡地は桑畑になっていたことになる。」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/geo/assoc/journal/17129139kawashima.pdf

尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷、彦根井伊屋敷などが、明治時代の初期にどのような状態になったかはよく解らなかったが、薩摩島津屋敷とよく似た状態になっていたのではないか。
しかし、「遷都の詔勅」を出さないで京都市民を騙して遷都を強行した明治政府も、騙された京都市民も、千年の都である京都の経済基盤を瓦解させ、荒廃させていくわけにはいかなかった。

慶応3年(1867)から明治元年(1868)にかけて西谷淇水(にしたにきすい)という寺子屋経営者から数度にわたり官営の教学所すなわち公立学校の設置を建白していたそうだが、京都府はこの建白を採用し、寺子屋に代わるその新しい教育施設を「町組」ごとに創設する計画を立てて強力に推進したという。
「町組」というのは、道路を挟んで形成された「町」が地域的に連合した住民自治の組織で、16世紀ごろから京都で形成され拡大してきた歴史があったのだそうだ。
自然発生的に形成されたものであったために戸数にばらつきがあったので、京都府はまず町組を改正してそれぞれの戸数を平均化し、現在の三条通より北を「上京」と呼んで33、南を「下京」と呼んで32の町組に再編成し、その町組に番号を付した。
そして1つの番組に自治会所的機能を併せ持つ小学校を作ることとなり、明治2年(1869)中には64校の小学校が開校されたという。(町組の番号が付されていたので「番組小学校」と呼んでいた。)
これらの小学校は明治5年(1872)の、国家による学校制度の創設に先立つ、わが国で最初の学区制小学校であった。
これらの小学校の建設に必要な資金として、1校につき800円を京都府が無利子で貸与し、半額は町組が10年で返済し、残りの半額は返済不要としたのだが、その資金をどうやって京都府が捻出したのかは非常に興味深いものがある。

京都の謎

前回紹介した高野澄氏の『京都の謎~~東京遷都その後』によると、高野氏は二条城にあった幕府のものや、旧旗本等から没収された財産を転用した可能性を示唆しておられる。
「旧幕府の財産没収の手続きをしたのがだれであったか、くわしくはわからないが、責任者のひとりは槇村正直(まきむらまさなお)であったはずだ。
槇村は議政官史官試補の身分として、京都府出仕を兼ねていた。太政官の三権――立法・行政・司法――のうち立法をつかさどるのが議政官だが、槇村の例をみてわかるように、議政官は行政にも介入したのである。
旧幕府関係の没収財産はすべて政府の所有であり、京都府の小学校建設の補助金として投入されるとしても、政府の判断が前提となるべきである。
だが、京都の小学校に投じられた補助金については、この手続きは踏まれなかったのではなかろうか。というのは、明治元年12月26日付で、槇村が京都府から特別表彰をうけたのである。小学校建設の費用調達の目途がついたというのが表彰の理由だが、早すぎるのではないか。
府から八百円の補助金の件がしめされたのが12月6日。それからちょうど20日すぎた時点で府は槇村を表彰した。…学校が建てられた時点で槇村を表彰すればいいはずなのに、なぜ、これほど急ぐのか。―-―建設補助金を調達したことに格別の意味があったに違いない。


政府の金庫に入れると、そのままとりあげられるおそれがある。はやいうちに京都の小学校建設の補助金につかってしまって、功績者の槇村を表彰したばかりです――こういえばまさか政府も、返せとはいわないだろう――ということではなかったか。」(『京都の謎~~東京遷都その後』祥伝社黄金文庫p.53-54)
槇村は長州藩の出身で、後に第2代の京都府知事となり京都の復興に尽力した人物だが、要するにこのとき槇村は、京都市の小学校建設のために、明治政府に入れるべき金を流用したと高野氏は書いている。

かくして、明治2年(1869)5月21日に上京27番組小学校が富小路通御池の片山町に完成したのを皮切りに、同年12月のうちに64すべての番組小学校が完成した。
これらの小学校は町組会所を兼ねていただけでなく、校内に見廻り組や火消し役の詰所なども設けられていて、町組の中心施設であったというのがおもしろい。

ryuchi.jpg

上の画像はわが国で最初に開校された学区制の小学校である上京27番組小学校の写真だが、明治6年に「柳池校」と改称され、平成15年(2003)には京都市立柳池中学校と京都市立城巽中学校とが統合され、御池中学校となっている。

当時の小学校は義務教育ではなかったので、京都府からの補助金の年賦返済と学校の運営費を町組の人々が平等に負担しなければならなかったが、負担能力は家によって異なるので、貧窮者に対しては支払いを免除するようなこともあったようだ。また、商売に行き詰った者に資金を貸付するようなこともあったという。
そして、町組ごとに出資金を募ってそれを貸し付けに回し、その運用利息によって小学校の運営費を賄おうという計画が生まれて、「小学校会社」と名付けられたこの基金運用方式を示唆したのは、先程紹介した槇村正直なのだそうだ。
それぞれの番組で小学校会社が設立されて京都市民から総額1万両を超える出資金が集まり、町組の結束を強めることに大いに役立ったという。

明治天皇が明治2年に東京に行幸され、これが実質上の遷都であることを知って京都の人心は動揺したが、京都府は学校設立ばかりではなく様々な勧業政策・開化政策を推進し、それに京都の商工業者が呼応し、官民の協力により京都の近代化が進んでいったという。
明治時代の初期に様々な施策実施されたが、そのほとんどに先ほど紹介した槇村正直が噛んでいる。

槇村正直

槇村が京都府知事時代を離任した明治14年までに起こった京都の出来事を拾うと、
明治2年(1869) わが国最初の学区制小学校の開設
明治3年(1870) 舎密局(せいみきょく、理化学講習所:京都大学の前身)の開設
明治4年(1871) 勧業場(産業振興センター)の創設、製革場の設立、京都博覧会の開催*

京都博覧会場図

*わが国最初の博覧会が西本願寺で行われ、それを機に京都博覧会社が京都府と民間によって創設され、明治5年(1872)に西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として第1回京都博覧会が開催され、それ以降昭和3年(1928)まで毎年開催されたという。そのうち第2回から第9回までの会場は京都御苑であったというのがおもしろい。

つづいて、
明治5年(1872)  新京極の建設、牧畜業の開業、わが国で最初の女学校である「新英学校女紅場」が旧九条殿河原町邸(上京区土手町通丸太町下ル)に設立。(京都府立鴨沂(おうき)高等学校の前身)
明治8年(1875) 同志社英学校(現 同志社大学)が開学。日本初の幼稚園(幼稚遊嬉場)が京都・上京第30区(柳池)小学校内に開設。
明治12年(1879) 京都府の「療病院」に医学院(現 府立医科大学)を開設。西本願寺大教校(現 龍谷大学)が開学
明治13年(1880) 京都府画学校が開学(のちに 京都市立芸術大学美術学部)
など、驚くほど多くの出来事が集中して起こっている。

京都は大阪よりも人口が少なく経済規模も小さいのに、なぜ大きな大学が沢山あるのかと長い間不思議に思っていたのだが、東京遷都の後の京都を復興の歴史を学んでようやくそのことを理解した。
教科書では「東京遷都」と、わずか4文字で書かれているだけなのだが、「遷都」を行なえば良質な消費者が大挙して京都を離れ、生産者や流通に関わる業者は大幅に売り上げを失って衰退していくことが避けられず、連鎖倒産や廃業が続いて人口が減りさらに荒廃していくというスパイラル現象が避けられなかったと思うのだが、当時の京都府は官民が協働して、東京遷都の後の京都を復興させたことをもっと評価すべきではないだろうか。規制緩和至上主義的な経済施策で地方を疲弊させ、地方の経済基盤を台無しにしているどこかの国は見習うべきだと思う。
東京遷都あとの京都で、このような官民あげての努力がなされなかったとしたら、京都の文化財がこれほど多く残されることはなかったであろう。
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