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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて

前回の記事で、苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われて、藩内の15ヶ寺全てが明治の初期に廃寺となったことを書いた。

今までこのブログで廃仏毀釈のことを何度か書いてきたが、苗木藩廃仏毀釈は相当激しいものであったことを多くの人が指摘している。なぜ苗木藩のような小さな藩で、徹底した廃仏毀釈が行われたのだろうか。まずそのことについて考えることとしたい。

遠山友禄

12代藩主の遠山友禄(ともよし)は慶応3年(1867)6月まで幕府若年寄を勤めて江戸にいた人物である。帰国を願い出て苗木に戻ったが、東征軍はすぐそこまで進軍していた。つい最近まで幕府の若年寄だったというだけで朝敵と見做される可能性があったことから、友禄は東山道鎮撫軍の総督に面談を求め、勤皇の誠意を示し恭順の意を伝えたという。

また幕末期の苗木藩は財政が厳しかった。そこで友禄は、思い切った人材登用と大胆な藩政改革を断行して財政を建て直し、さらに新政府の施策を率先して行うことで生き延びようと考えたようだ。
ここで重要な役割を担ったのは青山景通(かげみち)・青山直道の父子であった。
苗木藩の下級士族であった青山景通は、 江戸で平田派の国学を学び、嘉永5年(1852)東濃地方で最初に平田篤胤の門人となり、慶応4年(1868)の5月には新政府の神祇官の高級官僚となっていた。
苗木藩主・遠山友禄は、新政府と苗木藩との関係を良くするために青山景通を重んじ、さらにその長男の直道を藩職の最高位である大参事に抜擢し、その結果平田篤胤国学思想が苗木藩の中枢に拡がるようになっていった。
そして明治3年(1870)には藩主自らが平田国学に入門し、藩の政治と諸改革が、国学者によって運営されるようになったという。

神々の明治維新

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)にはこう書かれている。
「慶応4年7月、苗木城の守護神竜王権現は高森神社と改められ、本尊大日如来像の撤去などがおこなわれた。その後、地域での神仏分離や平田門人の神葬祭改宗などがあったが、苗木藩の廃仏毀釈が本格的に進行するのは、明治3年7月に知事(旧藩主)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされるようになってからである。ついで8月には、村々の辻堂や路傍の石仏・石塔などを毀(こぼ)ち、神社の神仏分離も徹底することが命ぜられた。苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(15か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものであった。」(『神々の明治維新』p.99-100)

そして、藩知事(遠山友禄)自らが率先して廃仏毀釈を徹底させたのである。安丸氏は続けてこう書いている。
「3年閏10月、廃仏毀釈を督促するために領内を巡視していた藩知事遠山友禄は、加茂郡塩見村の庄屋宅に一泊した。そして、庄屋の後見役柘植謙八郎を召しだし、過日、神葬祭に改めるといったのに、仏壇がそのままになっているのはどうしてか、と詰問した。謙八郎が、伯父(庄屋?)は七十余歳で、日夜あまりに廃仏を歎くのでやむをえず『等閑』にすごした、と答えた。友禄は、明朝、仏壇を庭前にもちだすように命じた。ついで病気の組頭市蔵に代わって倅為八が呼び出され、同家の仏壇も明朝もってきて、おなじく庄屋宅の庭前におくように命じられた。翌朝、両家の仏壇から本尊と脇仏六幅がとりだされ、一つ一つ土足で踏みにじられ、火中へ投げこまれた。仏壇も焼き捨てられた。これを見た市蔵の妻は、狂乱のようになって本尊とともに身を投じて焼死しようとして、まわりの者から抱きとめられた。
こうして、塩見村の人々は、恐怖と不安にかられながらも、結局は神葬祭を受けいれるほかなかった。…」(同上書 p.100)

藩知事が平田国学に心酔し、自ら廃仏毀釈を推し進めていたのであるから、結果は推して知るべしである。

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページに、苗木藩の廃仏毀釈の通達などが紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

「明治3年8月15日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 『一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中』

明治3年8月27日、達
 『一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。』

明治3年9月3日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し
 『今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。』
住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。」

苗木藩の廃仏毀釈は、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」という強引な薩摩藩の廃仏毀釈とはかなり異なるのだが、かくして苗木藩の寺は収入源が断たれて全てが廃寺となり、仏像・仏具類は破壊されたり売却されたりしたようだ。旧苗木藩の領地であった場所には、廃仏毀釈の痕跡が今も何箇所か残されている。

旅行の3日目は、午前中に苗木藩の廃仏毀釈の史跡などを訪ねる旅程を立てていたが、該当の場所は、地元の方も良く知らない場所であることが多く、初めて訪れる旅行者がカーナビで辿りつける場所はわずかしかない。

最初に訪れた場所は東白川村役場(岐阜県加茂郡東白川村神土548)である。
岐阜県内には「村」が白川村と東白川村の2つしかないというのは意外だったが、東白川村はわが国で唯一、域内に寺のない自治体なのだそうだ。要するに東白川村では、明治の廃仏毀釈のあと仏教が復活することなく現在に及んでおり、ここでは冠婚葬祭の全てが神式で執り行われているという。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑

この村役場の敷地は、廃仏毀釈以前は「常楽寺」という寺の境内であった場所で、この役場の脇に「4つ割りの南無阿弥陀仏碑」が建っている。この碑は正面から見ても、真横から見ても、縦に見事に割られている。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑2

こんなに綺麗に割れているのは、常楽寺の住職がこの名号塔を制作した高遠の石工・守屋伝蔵を呼び寄せ。石の節理に沿って割らせたことによるのだそうだ。割られた石は畑の石積みとして利用されたそうだが、昭和10年(1935)に有志の手により掘り起こされて再建されたという。

東白川村役場で『美しスポットマップ』という案内地図を入手して、次に東白川村五加大沢の「蟠龍寺跡」を目指す。村役場から白川街道を西に6km程度の距離なのだが、これといって目印になるものはなく、簡単な地図だけを頼りになんとか辿りついた。

蟠龍寺跡

東白川村の特産品であるお茶は、約600年ほど前に蟠龍寺の住職が京都の宇治から茶の実を持ち帰り、里人に茶の栽培を薦めたのが始まりなのだそうだが、その蟠龍寺はすでになく、茶畑と石垣とお墓だけが残されていた。

次に中津川市苗木609にある「穴観音」を目指す。住所は昨日苗木遠山史料館で教えて頂いたのだが、次のURLで地図がでている。近くまで来ると大きな岩があるのでわかると思う。
http://jimy1700.blog62.fc2.com/category8-1.html

穴観音

この巨岩の下のお堂が「穴観音」で、中にはにいくつかの石仏などが安置されていて、この史跡全体が中津川市の文化財に指定されている。
明治の廃仏毀釈の時に、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがあるのだが、中津川市教育委員会による案内板には「広さ約10㎡の堂内には、明治2年(1869)に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置され、また穴観音の周囲には破壊された石仏約8体が集められている」と書かれている。

穴観音の内部

この穴に石仏を隠したのか、難を逃れた石仏がこの穴に安置されているのかは大違いなのだが、地元では廃仏毀釈の蛮行があったことを、あまり思い出してほしくないような意図を感じさせる文章でもある。
格子戸越しに中を覗くと、首を切断された跡のある石仏もあるようだ。

次に、昨日苗木遠山史料館でもう1か所教えて頂いた、「くろぜ道地蔵」を訪ねる。
穴観音から裏木曽街道に戻り、高山という交差点を右折し高山大橋で付知川を渡り、すぐ右折してさらに左折した場所に「くろぜ道地蔵」が建っていた。この地蔵も中津川市の文化財に指定されている。

くろぜ地蔵

高さ2メートルを超える大きな石仏なのだが、首がきれいに切断されている。もちろん背面まで切断されているのだが、教育委員会の案内板には「…尊像の傷跡は明治初年の廃仏毀釈によるもので、村人の厚い信仰により一時期、山中に匿われていたが、その後この地に再建されたものである。」と書かれている。
首が切断されているのを「傷跡」とさりげなく書くのは、地元の人々にとっては「苗木藩の廃仏毀釈」は触れたくない史実であり、忘れてしまいたい歴史ということなのだろう。 だから地元の人に聞いても知っている人は少なく、知っている人も詳しくは語りたくないようなのだ。

地元にはすでに歴史ある寺もなければ文化財もない。廃仏毀釈の真実を詳しく知ることは、仏教を捨てた先祖が為したことを否定することにもなり、現在の神道を中心とした生活をも否定することにも繋がってしまう。それでは、地元で生きることに誇りが持てないだろう。
地元の人にとっては、苗木藩の廃仏毀釈は「触れたくない歴史」であり、できれば、そっとして欲しいというのが本音なのではないだろうか。

苗木遠山史料館で教えて頂いた史跡の場所は、どちらかというときれいに切断された仏像や石碑であったのだが、ネット探すと激しく破壊された仏像などが結構出てくる。このような史跡は、地元の人々からすれば「人に見せたくない史跡」なのだろう。

次のURLに詳しいレポートが写真付きで出ているのだが、住所がよくわからないので、どうやって行けばよいかがよく解らないのは残念だった。
http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/cb370b833fc2c394791a25cc43ea37e4
その多くは中津川市が史跡に指定しているようだが、経度や緯度は書かれていても住所で場所を示している史跡はほとんどない。
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/wiki/%E5%8F%B2%E8%B7%A1

廃仏毀釈は明らかに明治政府が主導したのだが、このブログで何度か書いているように、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実が通史などには書かれることはほとんどない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(p.231)
と、自然発生的な運動が全国に広がったような書き方がされ、政府が関与したとはひとことも書かれていないのだが、例えば奈良県の廃仏毀釈を推進したのは、明治政府が地方に派遣した役人であり、伝統寺院などを破壊し寺宝を収奪して財を成したと言われている税所篤(さいしょあつし)のような県令もいたのである。しかしそのような史実は、為政者にとっては都合の悪い真実であり、教科書に記述されることはないのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

苗木藩は、明治政府の神仏分離の施策を先取りし徹底して実行したばかりに廃仏毀釈で目立ってしまったのだが、本当の悪玉は、施策の誤りを最後まで認めずに、「一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた」と教科書に記述させて、地方に責任を擦り付けて固定化させようとした明治政府の中心勢力ではなかったのか。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述で幕末から明治の歴史が描かれることが多いのだが、このような叙述を鵜呑みにするのではなく、薩長閥がどれだけわが国の歴史を都合よく歪めてきたかという視点から、本当は何があったかを考えることも必要だと思う。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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