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「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
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Comment
河本大作
お邪魔します。
しばやんの力作感心しました。
「張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである。
そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。」もうこれで充分じゃないですか?

2014年新年超特大号のWILLに現代史を見直すシリーズがあって、そこに加藤氏も登場し張作霖爆破事件のことを話されていました。そこで河本大佐主犯説・実行犯説は、加藤さんの論証で完全に覆されたといってもいいと思います。とありました。これですけどね、しばやんの「見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせた」ことの実行犯が河本大佐であるというのは、可能ではありませんか?河本大佐がエイチンゴンの手先となったという説は不可能でしょうか?

話変わり、トロツキーの暗殺は、まず画家のシケイロスが試みたらしいですね。それで失敗するのですが、やり方が荒っぽい。
http://blog.goo.ne.jp/laiglenoirjp/e/fc3d79a18d0cfb1d75259d39f7910070
ソヴィエト高級幹部レオニード・エイチンゴンと思っていたのですが、ナウム・エイチンゴンですか?多少違いますが、同一人物だと思います。とても荒っぽいので、類似性があるように思います。日本人はこんな方法を考えるでしょうか。ですから間違いなく計画者はエイチンゴンでしょうね。何故実行者が河本大佐だと思うか、に関して。

http://www.waseda.jp/prj-m20th/yamamoto/seiron.html
の、「反戦ロボット製作の日本人民解放連盟」にこう書いてあります。
「網走刑務所にいる日本共産党幹部徳田球一から延安の岡野に密使として派遣された岡田文吉(延安名、沢田淳)という日本共産党員がいる。彼は捕虜工作を岡野の下で行い、終戦直前に岡野よりも一足早く延安から帰国の途についた。彼は北京で足止めをくっているとき、川口忠篤なる日本軍特務機関長に帰国の便宜を求めた。岡田は「延安入りを敢行した際にも、特に軍部に顔の利く、河本大作氏の庇護をうけて、その目的を達した」という(川口忠篤『日僑秘録』太陽少年社)。」岡田文吉(延安名、沢田淳)は「延安入りを敢行した際にも、特に軍部に顔の利く、河本大作氏の庇護をうけて、その目的を達した」と言っています。河本大作氏の庇護をうけて、延安入りしているわけです。河本大佐はREDなわけで、実際エイチンゴンの計画の実行犯でも全くおかしくないと思います。このひとが「やったやった」というから日本軍のせいになるわけで、実際やったかどうかは別にして「やったやった」と言うだけで、エイチンゴンのテロ目的は達成されるわけです。そして河本大佐自身も、うまく振る舞えば、日本軍の英雄になれるわけです。それからですね、河本大佐は、取り調べの際「日本の陰謀を全部ばらすぞ」と脅迫していたらしいではありませんか。河本大佐の自白本も弟?が書いたらしいし、極めて調査も裁判も審議もいい加減です。「東京裁判で確定された判決を一直線に信じて公式の歴史にしてしまい」日本軍の名誉をドロドロに塗りたくった最初の所業ではないでしょうか。今までの昭和史が、これを真剣に調べないのは、「東京裁判」に正当性があると日本人の頭に日本人が植え付けたいからだと思います。張作霖爆破事件が日本軍の仕業なんて、インチキ東京裁判を外せば、一体どこに証拠があるというのでしょうか?
Re: 河本大作
Bruxellesさん、素晴らしいコメントと貴重な情報をありがとうございます。

河本大佐にエイチンゴンが直接指示をしたかどうかはわかりませんが、河本大佐がエイチンゴンの手先となっていた可能性は私もあると思います。
確実な証拠はあるとすればロシア側にあるのでしょうが、簡単には公開してくれないことでしょう。

わが国だけを悪者にした東京裁判の歴史観は、すべての戦勝国にとって一番居心地の都合の良い歴史観ですね。
日本は悪くなく、本当に悪かったのは第二次世界大戦に世界を導いて共産主義化をたくらんだソ連だということになると、多くの戦勝国はソ連に騙されて参戦して植民地のほとんどを失い、アメリカもソ連の工作に引っ掛かって罪のない日本人を虐殺したことになってしまいます。それでは国民は自国に対する誇りが持てません。
結局、東京裁判史観を継続することが彼らにとってはベターな選択なのだと思います。
わが国がいつまでもこの歴史観から脱却できないのは、マスコミや教育界などに左翼分子が多いこともありますが、戦勝国が歴史観の変更を変えたくないという面もあるのだと考えています。
わが国がこの自虐史観から脱するためには、世界の誰もが正しいと認める史実を広め、通説の根拠が誤りであることを世界の誰もが認める論証を拡げていくしかありませんね。
自虐史観がおかしいと思っている人に通説の誤りを納得させることは簡単ですが、自虐史観が正しいと考えている人を納得させることは簡単ではありません。通説の矛盾を様々な事件を通して何度も納得させるしかないのだと思います。
「満州某重大事件」…感想など
私は恥ずかしながら、「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」と「柳条湖事件」が頭の中でごちゃごちゃしていました。この“程度”の歴史好きです。

このしばやんさんの投稿を読ませていただいて、ソ連という国の策略・謀略すごい(ひどい)なあと感じました。

話は少し飛びますが、これよりずっと後の日本海軍の真珠湾攻撃直前までの情報収集・分析能力、権謀術数については、スターリンのソ連はもとより、チャーチルの英国、そして意外なことに…中国国民党の蒋介石も含めて、残念ながら、日本は(言葉が適切かどうか分かりませんが)、“やられた”、“騙された”、“罠にはめられた”という部分が多いことが、わが国の防衛省の史料や米国の新しく公開された機密資料で分かった来ているみたいです。(テレビで視ただけですが…。)

日本も同様に、満州の“利権”をめぐって(?)、お互いに権謀術数をめぐらしていたのではないかと、勝手に思っていますが(良い悪いはもちろん全く関係なく、帝国主義時代のこの時代は当たり前のことですから。…ちがうなあ…現代でも同様ですね。)…。

現在の高校生が使っている山川出版社の教科書『日本史』では、「(略)元老の西園寺公望の助言もあり、田中(義一)首相は、当初、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を(昭和)天皇に上奏した。しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作大佐を停職にしただけで一件落着とした。この方針転換をめぐって田中首相は天皇の不興をかい、1928年に内閣は総辞職した。」というような記載があり、…また、その前に「関東軍は中央にはからず、独断で満州へ帰還途中の張作霖を奉天郊外で列車ごと爆破して殺害した。」とあります。これを読むと主語は「関東軍」となっているわけですね。

「歴史は勝者が書き換える」…というような言葉はよく聞きますが、まあ、東京裁判(極東軍事裁判)なんて、全部とは言えないでしょうが、酷いもんです。でも、その歴史上の真相を明らかにしていくことが必要ですね。

このような重要な役割を担う人々の活躍が期待されます。



Re: 「満州某重大事件」…感想など
教科書で広められている近代史には嘘が多いという話は昔から聞いていましたが、私がそのことを納得したのは10年ほど前のことでしょうか。
このブログを書き始めた頃は、近現代史の話題を書く自信がありませんでしたが、一旦書き始めると、多くの読者の方からの励ましを得て、調べることがとても楽しくなってきました。

最近テレビはほとんど見なくなりましたが、テレビでそのような解説をしたというということは隔世の感があります。アメリカと中国との距離が拡がりつつあることの表れかもしれませんね。
中国の暴走に歯止めをかけるには、彼らが日本に押し付けている歴史が嘘である事を、アメリカやロシアなどの国々がその論拠となる史料を世界に公開すれば面白いのですが…。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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