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アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影

前々回の記事で昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説で「砕氷船のテーゼ」と呼ばれる部分を紹介した。再掲すると、

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

という内容だが、その後の歴史は日米開戦まではこのテーゼの通りに展開し、わが国は千島や樺太を除き大部分は共産化を免れたが、ドイツの半分は共産国となり、その後東欧やアジアのいくつかの国々が共産陣営に入ったのだ。

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前回までの記事で、相戦う気配もなかったわが国と中国とがドロ沼の戦いに突き進んで行ったのは、コミンテルンの工作によるものである可能性が高いことを書いた。
ここまで書くと、なぜわが国がアメリカと戦うことになり、その過程でコミンテルンの関与があったかどうかについても書かねばなるまい。

まず、一般的な日本史教科書では日米開戦についてどう書かれているか。たとえば、『もう一度読む山川の日本史』では、

「ゆきづまった日米交渉
日独伊三国同盟の成立と日本の南進開始以後、日米関係は悪化の一途をたどったが、1941 (昭和16) 年4月からワシントンで日米交渉が始まり、戦争を回避するための努力もつづけられた。しかし、日本軍の中国からの撤兵問題などをめぐって交渉は難航した。

1941年6月、独ソ戦争が始まると、日本はドイツが優勢になればソ連との戦争にのりだす準備をするため、関東軍特殊演習という名目で、ソ連との国境近くの北満州に大軍を動員するとともに、同年7月、南部仏印(フランス領インドシナ南部)進駐をはじめた。アメリカはこれに対抗して在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して、日本に対する経済封鎖を強めた(ABCD包囲網)。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、これは大きな打撃であった。日本国内では陸軍が対米開戦論をとなえ、慎重だった海軍でも、強硬意見が大勢を占めるようになった。

日米開戦
1941(昭和16)年10月、日米交渉にゆきづまって第3次近衛内閣が退陣すると、かわって陸軍の実力者東条英機が内閣を組織した。日米交渉はなおもつづけられたが、妥結のみとおしはほとんどなくなっていた。アメリカは日本のあいつぐ南進政策に不信感をいだき、同年11月、日本へきわめて強硬な内容のハル・ノートを提示したので、日本はここに最終的に開戦を決定した。
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸するなど、東南アジア・太平洋各地で軍事行動をおこし、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。…」(『もう一度読む山川日本史』p.307)

と記述されているが、この文章では、なぜわが国が日米開戦に追い込まれたのかが今ひとつピンとこないし、戦争の原因が主にわが国にあるような印象を受ける。
そもそも国家が理由もなく他国を攻撃することがあるはずがないのだが、我が国の開戦理由についてどれだけの人がこの程度の叙述で納得できているのだろうか。

ハリーホワイト

この教科書には「ハル・ノート」が、わが国が開戦を決定するに際して極めて重要な役割を果たしたことが書かれているが、この内容を起草したのはルーズベルト政権下で財務次官であったハリー・ホワイトであったことがわかっている。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722420010-n1.htm

このハリー・ホワイトという人物は、1948年の夏の下院非米活動委員会において共産主義者であると告発を受け、その時に彼は否定したのだが直後に不可解な死を遂げている。
その後アメリカが傍受していた大量のソ連の暗号文書「ヴェノナ文書」が公開され、その文書により彼がコミンテルンのスパイであったことが判明し、1948年の下院非米活動委員会における告発が正しかったことが証明されている。

venona.jpg

ヴェノナ文書」のことは以前このブログでも書いたが、アメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号文書のことで、解読に成功したのは第二次世界大戦が終戦したあとの1946年以降のことである。
アメリカ国家安全保障局中央保安部の次のサイトから、解読され英訳された「ヴェノナ文書」のタイプ打ち原稿の一部を誰でも読むことができる。
http://www.nsa.gov/public_info/declass/venona/

この「ヴェノナ文書」の解読によって、当時のルーズベルト政権では、ハリー・ホワイトのほかに、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明しているのだそうだが、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいたという。

ジョゼフ・マッカーシー

彼らがアメリカの中枢部から排除されたのは、1950年に共和党議員のジョセフ・マッカーシー(上画像)が、当時において「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したと伝えられる演説を契機に大規模な「赤狩り」が行われた以降のことであり、それまではソ連に繋がる人脈がアメリカの政治や外交に影響を与えていたことになるのだ。

F.ルーズベルト大統領の時代にこれだけコミンテルンに近い人材がアメリカの中枢部にいて、彼等はそこで何をしていたのか。その後のアメリカは、スターリンの「砕氷船のテーゼ」通りにドイツおよび日本と戦うことになったのだが、これは果たして偶然だったのであろうか。

そもそもF.ルーズベルトは、選挙では、戦争に介入をしないと宣言をして大統領に当選しており、参戦したくても出来ない状況にあったし、当時のマスコミも世論も、アメリカが戦争に参戦することに強く反対していた。
では、なぜアメリカは、ドイツと日本の二国と戦うことになったのか、ルーズベルト政権の動きを日米の問題を中心に纏めてみよう。

前回の記事で、日中が本格的に戦う体制が出来上がったのが、1936(昭和11)年の二・二六事件と12月の西安事件の頃で、1937(昭和12)年7月に日中の最初の衝突となる盧溝橋事件が起こったことを書いたが、F.ルーズベルトはこの直後から、中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続け、さらに義勇軍「フライング・タイガース」(米国の正規兵300名)と100機の戦闘機(P40-B)、や軍事顧問の派遣を決定して実行している。
240px-Flyingtiger1.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9

また1937 (昭和12) 年10月5日、F.ルーズベルトはシカゴで日本とドイツを侵略国家として非難する演説を行っている。 (「隔離演説」)
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。…
不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体 は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている。…
宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

200px-FDR_in_1933.jpg

そして、この演説の翌日に、中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

F.ルーズベルト大統領の「隔離演説」については、アメリカ国内ではマスコミや労働界から「アメリカを世界戦争に巻き込もうとしている」との大非難を受けたのだが、その後も1941(昭和16)年に「武器貸与法」を成立させ、終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供されたという。
このように、ルーズベルトが中国に対してとった支援内容は、冒頭の「砕氷船のテーゼ」のとおりに「日米決戦」まではアメリカは蒋介石の中国が日本と戦って日本軍を消耗させるために、アメリカの正規軍と戦闘機と武器を送り込んで実質上の参戦を果たしていたのだ。

1941(昭和16)年の4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化したが、日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかったようだが、アメリカ側に交渉をまとめる意思があったのか。

そもそも当時日本の指導部は、日米の国力の差を考えて対米戦争に対しては消極的であったという。
前々回の記事で紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』によると、こんな数字が出ている。
鉄鋼生産  日本800万トン、 米国1億トン
石油生産  日本 20万トン、  米国2億トン
自動車生産 日本 約6万台、 米国600万台
倉前氏がコメントしているように、こんな圧倒的な数字の格差を見れば、わが国が米国との戦争を考えるはずがなく、庶民ならともかく、政府も軍部も財界も、米国との戦争はどうしても避けたいと考えるのが当然であろう。

そして6月に独ソ戦が開戦する。
7月2日に策定されたわが国の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」にもとづきわが国が南部フランス領インドシナ進駐をほのめかし7月28日に日本軍の進駐が実行されると、それに並行してアメリカは7月25日に在アメリカのわが国の資産凍結を行い、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。

前々回の記事で紹介した『悪の論理』によると、当時わが国の石油消費量は約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていたそうである。また、当時のわが国の石油の備蓄は600万トンだった。1年半も経たないうちにわが国の経済が成り立たなくなることが目に見えていたはずだ。

野村吉三郎

日本政府は昭和16年1月末から野村吉三郎海軍大将を特命全権大使として派遣し、同年の11月には来栖大使もワシントンに派遣し、日米関係の好転と経済制裁解除のために最後の努力を振り絞り、あらゆる譲歩を行っている。

倉前氏はこう書いている。
「日本は米国の要求をいれて、日独伊三国同盟を死文化することに同意し、ハル長官はこれに満足の意を表している。その半面、米国は依然として、中立法をおかして、英国船団の護衛を続けていたのである。つまり、米国は英国を助けるが、日本はドイツを助けるなと言う一方的要求を日本はやむなくうけ入れたのである。また仏印、支那大陸から撤退することにも合意し、中国人民が望むなら、蒋介石が中国政府の中心人物に復帰することにも同意したのである。この事実も戦後、いっさい、日本国民に知らされていない。
日本政府も、軍部も、米国との和解を心から希望してここまで譲歩した。そこへ突如として11月26日のハル・ノートが届いたのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.76-77)

わが国がここまでアメリカに譲歩したことについては、教科書や市販されている現代史の本にはほとんど書かれておらず、マスコミが報道することもないのだが、現代の日本人にはこういう史実を知られては困ると考える勢力が、未だに教育界やマスコミ・出版界にかなり存在しているという事なのか。
普通に考えれば、ここまで譲歩したのならばアメリカが我が国と戦う理由がどこにあったかのと疑問に思うのだ。アメリカはただ参戦したかったというだけで、ルーズベルト大統領にそのような決断を仕向けさせたのは、彼の周りにいたコミンテルンにつながる人脈で、もとを正せばスターリンの「砕氷船のテーゼ」と関係があるのではないだろうか。

随分長くなってしまったので、肝心のハル・ノートの内容および日米開戦については次回以降に書くこととしたい。
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