「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
私がこのブログで紹介したのは、日本人が大量に虐殺された昭和12年(1937)7月29日の通州事件と、同年8月9日に日本兵が射殺されたことから始まった上海での日中の軍事衝突(第二次上海事変)であるが、この第二次上海事変は3ヵ月続き、11月9日の中国軍の一斉退却で終わっている。

そしてその第二次上海事変が終了した約1か月後、この軍事衝突を早く収束させるために日本軍は国民政府の首都である南京攻略を目指したのだが、この南京攻略の後に所謂「南京大虐殺」があったという説がある。ところが、その10か月後に出版されたウィリアムズ氏の著書においては、まだ日も浅い時期に起きたはずの「南京大虐殺」について、全く何も記載されていないのである。ここで、日本軍の南京攻略について簡単に纏めておく。

このブログで何度も書いたように、当時の国際社会が日本に対して厳しい見方をすることが多かったので、上海派遣軍司令官の松井石根(まついいわね)大将は全軍に軍規の徹底を呼びかけた上で、昭和12(1937)年12月9日に籠城する国民政府軍に対し投降勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから翌日に攻撃を開始しているのだが、こともあろうに蒋介石は20万人近くの市民を置き去りにしたまま12月7日に南京を夜間脱出しているのだ。
日本軍の攻撃開始後には、国民政府軍の唐生智将軍までが南京から脱出したために国民政府軍の戦意は衰え、12月13日に南京が陥落し日本軍が城内に入っているのだが、「戦勝国にとって都合のよい歴史」では、それから約6週間にかけて日本軍が一般市民を殺戮した(「南京大虐殺」)という説が、今も強く主張されている。

国民政府軍の責任ある地位の者が逃げて秩序ある降伏が出来なくなったために、一部の中国兵が軍服を捨て、平服に着替えて「安全区」に逃げ込みゲリラとなって抵抗したことから、日本軍がゲリラ狩りを行ない処刑を行なった事実はある。そもそもゲリラ戦は多くの無辜の市民を巻き込む懸念があることから、ゲリラをその場で処刑することはハーグ陸戦規定により認められている事であり、これを「虐殺」と呼ぶことは誤りである。
ゲリラと間違えられて犠牲になった民間人がいた可能性は否定できないという論者がいるが、それは遺憾な事故ではあっても、組織的な「虐殺」とは根本的に異なる。
蒋介石が首都攻防戦を決断しながら兵を残して逃亡したためにそのような状況になったのであり、本来その責任が問われるべきはどう考えても国民政府軍の方にある。

上の画像が南京事件を伝えた12月10日の朝日新聞だが、国民政府軍は南京を廃墟にして出て行ったと伝えており、中国側に多くの「残忍行為」があったようなのだが、具体的な記述はないので詳しいことは分からない。この記事を読む限りでは、日本軍が問題のある行動をとったことは考えにくい。
もし日本軍による「南京大虐殺」と呼ぶべき事件があったとする説が正しいのであれば、もっと当時の記録に残っていなければおかしいのだが、前回まで紹介したウィリアムズ氏の”Behind the News in China”には一言も書かれていないし、この時期南京には日本だけではなく世界のジャーナリストが多数いたにもかかわらず、その当時の報道や記録で日本軍が虐殺行為を見たという記録は存在しないのだ。
評論家の阿羅健一氏が、当時の英米の新聞や雑誌の報道内容を調査したところによると、南京大虐殺について触れた記事や社説は皆無だったとのことである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason14.html
中国共産党も共産軍も、南京陥落について国民党のだらしなさは書いても、日本軍が大虐殺を行なったとは一言も書かれていないという指摘もある。
高木桂蔵氏が『抗戦中の中国軍事』という中国で刊行された軍事に関する刊行物を研究されたレポートを『月曜評論』(昭和24年2月27日号)に発表しておられる。
そのレポートによると中国共産党の「軍事雑誌」1938(昭和13)年6月20日、刊行第109号に南京の戦闘に関する最初の記事が出ているのだそうだが、そこには
「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京…」
と書かれているだけで、どこにも日本軍による市民の虐殺とか捕虜の大量殺戮のことが出てこないようなのだ。常識的に考えて、もしそのようなことがあったら中国共産党が黙っているはずがなかったことは誰でもわかることなのだが、何も書かれていないことに注目すべきである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason11.html
当時わが国に対して厳しい姿勢であった、英米だけでなく中国においてすら、日本軍の大虐殺があったとはどこにも書かれていない。にもかかわらず、なぜ「南京大虐殺」があったと言えるのか。
このブログで縷々述べてきたように、当時のわが国は世界の報道を牛耳る力などは微塵もなく、前回の記事に書いたように、中国の虚偽のプロパガンダに翻弄されていたのが現実だ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html
この様な史実を知れば知るほど、誰でも「南京大虐殺」という事件があったという説を疑わざるを得なくなるのだが、学校教育では戦後の長い間、「南京大虐殺」があったとして指導されてきた。
以前の教科書では、日本軍が虐殺した中国人の数は30万人とか20万人とか、人数について諸説があるような書き方が記述されていた記憶があるが、市販されている『もう一度読む山川日本史』ではこう書かれている。
「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。この時日本軍は、非戦闘員を含む多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」(p.302)
人数の議論については書かなくなったにせよ、日本軍が非戦闘員を虐殺したような書き方は今も健在である。「戦勝国にとって都合のよい歴史」においては、いくら論拠が怪しいものであっても、日本軍が虐殺に関与した点だけは、どうしても譲れないようなのだ。
しかし、何度も言うように、もし日本軍による「大虐殺」というような事件があったなら、常識的に考えて、世界中で大きく報道されてわが国が非難されていないはずがない。英米も、中国も当時の記録が残っていないということは、世界が問題にするような規模の事件では到底なかったはずなのだ。
「南京大虐殺」については、ネットでも様々な議論がなされている。当時の記録や写真を豊富に集められて、説得力のあるサイトはいくつもあるが、一度目を通していただきたいのが次のサイトである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/
上記サイトに明確に書かれているように、当時の陥落前の南京の人口は20万人であった。そして南京陥落後は難民が帰還して1か月後には25万人に人口が増えていることが公式文書で確認できるのだ。
もし日本人による虐殺があったとしても人口以上の虐殺はあり得ず、また、虐殺が今も続いている場所に人々が戻ってくるようなこともあり得ないことは誰でもわかるだろう。
難民が帰還して人口が増えたということは、常識的に考えれば南京は安全であったのだという事なのだ。
南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住しており、松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなく、放火もなかった。だからこそ、国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている。

「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason05.html
もし虐殺行為があれば、このような書状を出すはずがない。
また金陵大学病院医師マッカラム氏は、当時の日記および手記にこのような記録を残しているという。
「(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。」
「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。」
「(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。」

南京陥落に際しては、日本軍の死者だけでなく中国軍の死者も出ていた。次のURLでは日本軍が「中国無名戦士の墓」を建てたことが写真付きで紹介されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/peace.html#15
昭和12年12月24日の朝日新聞にはこう書かれている。
「抗日の世迷い言に乗せられたとは言え、敵兵も又、華と散ったのである、戦野に亡骸を横たえ風雨にさらされた哀れな彼ら、が勇士達の目には大和魂の涙が浮かぶ、無名戦士達よ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼らを思えばこそ暫し渋る優しき心の墓標だ。」
敵の無名戦士の墓標を建てる日本軍兵士が、罪のない婦女子を大量虐殺するという説は、どう考えても違和感がありすぎるのだ。
そもそも本物として通用する虐殺現場の写真は世の中に1枚も存在しないのだ。
前回の記事で『南京事件「証拠写真」を検証する』という本を紹介したが、その本の中で、日本軍による大虐殺があったという証拠写真としてよく用いられる143枚すべてを検証し、すべてが南京事件とは何の関係もない写真であることが論証されている。

上の画像は毎日新聞社の佐藤カメラマンが12月17日に南京で撮影した画像だが、実在している写真は、南京の避難民が喜んでいる姿ばかりである。中国人難民の自然な表情からみても、日本軍を怖れているとは思えない。

当時の写真は数多く残されているが、一度次のURLで確認されればよい。普通の人はこれらの写真を見て、日本軍により「大虐殺」があったと誰も思わないだろう。
http://www.online-utility.org/image/gallery.jsp?title=Battle+of+Nanking
虐殺の証拠となる記事もなければ、写真もない。日本人が多数虐殺された通州事件とは違い、「南京大虐殺」には死亡者のリストも作成されていない。
そもそも、その直前まで中国軍は、とんでもない嘘のプロパガンダで日本軍を貶めてきたのだ。普通に考えれば「南京大虐殺」は作り話としか考えられず、また作り話であるから「虐殺者数」がコロコロ変わっている。
あまり話題にならないが、この事件の直後の1938年2月に中国が国際連盟で「南京で日本軍による中国民間人2万人の虐殺があった」と発言しているが、この発言すら当時の世界のマスコミはほとんど採りあげなかった。当時は世界の記者が南京にいたので、デマだと即座に判断される内容だから報道されなかったと考えるのが自然だろう。
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shincho0738.pdf
他にもいろいろ論拠はあるがこれくらいにして、普通の人が普通に考えれば「南京大虐殺」はなかったか、もし一部の中国民衆が便意兵と誤認されて巻き添えを食ったとしても、日本軍が組織的に虐殺したことについてはありえないと考えられる程度のものであったと思われる。そのことは、南京にかなりの自国人がいたアメリカもイギリスもソ連も当然分っていたはずである。
「南京大虐殺」という話が公式の場に登場し広がっていくのは、実は昭和21年の5月3日に始まった「東京裁判」以降のことなのである。では、なぜ占領軍は東京裁判で日本人による30万人の大量虐殺の話を、唐突に持ち込んだのだろうか。

このブログで何度も「いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者が書き換えてきた。歴史とは単なる史実の叙述でなく、勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものに過ぎない。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は『戦勝国にとって都合の良い歴史』と考えて良い。」と書いてきた。
そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」を書くためには、戦勝国が参戦することに崇高な目的と、勝利したことに意義があるものでなければならないのだが、そのストーリーを成り立たせる為には日本が余程「邪悪な国家」でなければないことは誰でもわかる。
しかし戦勝国のアメリカはわが国に2つの原爆を落とし、東京や大阪などの大空襲で無辜の民を大量虐殺した。ソ連も我が国のポツダム宣言受諾後に日本を侵略し多くの日本兵をシベリアに抑留し、極寒の地で強制労働に従事させて死に至らしめた。また中国共産党は、日本を戦争に引き摺り込むために多くの日本人を虐殺し、その背後にはソ連共産党がいた。アメリカの2つの原爆の死者だけでも21万人、ソ連のシベリア抑留時に死亡した日本人は29万人とも言われている。
それらの戦勝国の戦争犯罪を打ち消すためには、それ以上に酷い事をわが国が行っていれば好都合なのだが、わが国の方が「邪悪な国家」であることを全世界が納得するような事実はどこにも存在しなかった。ならば捏造するしかないではないか。
史実の捏造なら中国人の得意なところである。そこで戦勝国は、日本軍が「30万人」もの中国人民衆を虐殺したということにして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が完成した。
それまで中国の公式発表では日本軍による虐殺は2万人で、その数字ですら世界は信憑性を疑ったのだが、それをとんでもない数字に膨らませたのだ。「30万人」という数字は、アメリカやソ連にとっては自国の戦争犯罪を打ち消すために、こだわる理由のある数字ではなかったのか。

東京裁判は戦勝国のリンチ裁判のようなものである。判決文の多くは真実ではない。そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」の解釈に基づき、7人の被告が死刑に処せられている。
その上でわが国に存在する「戦勝国にとって都合の悪い史実」が書かれた書物を徹底的に焚書処分し、同時にあらゆる出版物や放送原稿や私信までを検閲し、「戦勝国にとって都合の悪い」ことの一切を書いたり放送したりしないようにした一方、「戦勝国に都合の良い歴史」だけを広めて、日本軍が諸悪の根源であるイメージを日本人に洗脳した。
そして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」を固定化させるために、中国・韓国・北朝鮮には「反日史観」を、わが国には「自虐史観」を広め、領土を曖昧にして、東アジアに紛争の種を残したということではないのか。そして中国・韓国・北朝鮮およびわが国の左翼が、「戦勝国にとって都合の悪い歴史」を封印して日本人の歴史認識の洗脳状態を維持する役割を、今も担っているようにも思えるのだ。
アメリカにとってもロシアにとっても、黄色人種同士が領土問題や歴史認識で対立したり、同様の問題でわが国内で対立があることは好都合であるはずだ。対立がある限りは、何もせずとも、自国の戦争犯罪が話題に上ることがないという都合の良い立ち位置に留まることができる。またアメリカにとっては、それらの国のいずれかがアメリカの経済的地位を脅かす国に成長しそうな勢いであったとしても、その対立関係をうまく利用すれば、すぐにその芽を潰すことが可能である。
領土問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、日中や日韓の諸問題にアメリカが介入してくれて解決を図ることについて過度な期待することは誤りではないのか。アメリカがそれらの問題にわが国のために介入することの方が、アメリカの国益を損なう可能性がありうるとの視点を持つことも重要だと思う。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
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同上 電子書籍
同上 自由選書版
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落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました
この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました
南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版