HOME   »  大正時代~第二次世界大戦~連合国占領期   »  日中戦争  »  陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か

前回の記事で、中国軍には前線の後方にいて自軍の兵士を監視し、命令無しに勝手に戦場から逃げたり降伏するような行動があれば自軍兵士に攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った「督戦隊(とくせんたい)」というものがあり、味方である督戦隊に殺された中国兵士が日中戦争ではかなりいたことを書いた。
「軍隊」と言っても、中国の兵士は無理やり集められていたことから、戦意の乏しい者が少なくなかった。
しかしながら、逃げようとしても後方に「督戦隊」が控えているために、軍服を着たままでは後退して督戦隊に射殺されてしまう。だから、敗戦濃厚な状況になれば軍服を脱いで「便衣」となり、うまく民間人になりすまして逃げて生き延びようと考えていた中国兵が少なからず存在したのだ。

挹江門

前回の記事でも書いた通り、日本軍による大虐殺があったとされる『南京事件』では、最高責任者の唐生智は12日の夜に南京の守備を放り出し、南京の西北にある挹江門(ゆうこうもん)に「督戦隊」を置いて逃亡した。
上の画像が挹江門であり、この門の近くで、味方の「督戦隊」によって多くの中国兵が命を失ったことが知られている。

300px-Attacking_the_Gate_of_China02.jpg

Wikipediaにはこう書かれている。
「日本軍が企図した南京攻略戦に対し蒋介石は南京死守を命令したが12月7日早々に南京から脱出し、12月12日南京城の中華門・光華門が陥落する数時間前には南京防衛軍司令官唐生智も明確な撤退命令を出さないままに南京城西北の港湾地区下関 (シャーカン)から揚子江対岸へ脱出した。逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。圧死などを含めた死者は、スミス記者によれば、約千名と伝えられる。高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%B9%E6%B1%9F%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「証言による南京戦史」という、南京戦を戦った兵士の証言集があり、誰でもネットで読むことができる。
これをネットで読んでいて、督戦隊に関する記録を見つけたので紹介したい。
この証言は南京城のひだり南西側から北に進んでいた第6師団の高橋義彦中尉が、南京が陥落した12月13日の早朝に敵の総攻撃を受けて戦闘開始となり、その時に督戦隊に銃撃される中国兵を目撃している。以下は高橋中尉の証言である。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

20120302113526796.jpg

「当初は軍官学校生徒が第一波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第5波、6波ごろからはやや弱くなった。9時頃からの突撃舞台はヘッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼らの味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷き詰めたように埋められ、その上を跳び或いは這いずりまわって白兵戦が続いた。

11時頃から敵は戦意を失い、裸になって揚子江に飛び込むもの、川岸の丸太材を縛りあわせた筏により、対岸に渡ろうとするものなど、あたかも平時の海水浴場のような光景を呈したが、わが銃砲弾を浴びて混乱裡に、揚子江を血に染めつつ下流に押し流されていった。 夕刻頃、47iの第三大隊が救援に駆けつけてくれた。遺棄死体約二千三百、水際付近に約千の数字は第三大隊が調査した数である。
遺棄死体の服装は区々であったが、一般住民は混入しておらず、すべて武器を持った戦闘員であった。また付近には住民は一人も居らなかった。わが方の損害は、戦死傷約八十名であったと思うが、山砲兵小隊は戦死四、重軽傷十六名であった。」

さらに督戦隊についてはこう証言しておられる。
「13日11時頃、敵の突撃部隊は便衣を着た民兵たちで、質が落ちてヘッピリ腰で押し出してくる。異様な感じがした。見れば、私たちの抵抗をうけて反転しようとする兵を督戦隊が後方から射殺している。
督戦隊は『督戦』という腕章をつけ、大型モーゼル拳銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃部隊を押し出すのが任務であったようだ。 味方撃ちで殺された敵の死体は、死体総数の約1割、三百名を下らないと観察した。」

高橋中尉が「遺棄死体の服装は区々であった」と書いている点は極めて重要である。
中国兵の死体の多くが軍服ではなかったのであれば、遺棄死体や処理のために運ばれた死体だけを見れば住民ともども虐殺されたと誤認される可能性が外見上からはありえたということなのだ。

また南京陥落の前日である12月12日に、中国兵多くが商店などからの掠奪をし、軍服を脱いでいることがニューヨークタイムズの記者に目撃されている。

先程紹介した「証言による南京戦史」にダーディン記者の記録が掲載されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

「中国防衛軍のなかには、明らかにヒステリー症状がみられはじめた。もはや袋のネズミとなって、死ぬほかないという気分が一般化しつつあった。中国軍人による市街、商店からの掠奪も、12日には一般化した。
自分の命を守るだけが精一杯で、わが家がどうなるかという心配は、もはや市民の間にはなかった。掠奪の主なものは、食糧品などの必需品だった。…防衛隊の士気は目に見えて低下していた。」
「12日の夕方、彼等は安全地帯に充ちあふれ数千の兵士は軍服を脱ぎ始めた。民間人の服を盗んだり、通りがかりの民間人に頼んでわけてもらったが、どうしても『非戦闘員』に化けきれない兵士は、最後には軍服を捨てて、下着姿となった。
持っていた武器は、軍服と一緒に投げ捨てられたので、街頭には銃や手榴弾、軍刀、鉄カブトが山積みされた。特に下関付近に棄てられた軍需品の数は驚くほど大量だった。逓信省前から二区画にわたって、トラック、大砲、バス、乗用車、荷馬車、マシンガンの類がまるでガラクタ置場のように散乱していた。
そして12日の深夜には、南京市が誇る豪華な建物の逓信省に火が放たれ、中に貯蔵されていた弾薬は、物凄い音をたてて、数時間にわたって爆発を続けた。火はやがて付近のゴミの山に燃え移り、この日は翌日も燃え続けた。…
中国軍部隊のうち、数千名は下関に辿りつくと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない『パニック』のため、揚子江で溺死するものも沢山あった。」

JAP5-25.jpg

中国兵の多くが組織的に軍服を脱ぎ、便衣のままで日本軍と戦った。そのために、戦場には多くの便衣兵の死体が残された。しかも大量の死体処理は中国人の手で行われている。
南京陥落後に安全地帯に逃げ込んだ中国兵は便衣のまま日本軍に捕まえられるのだが、処刑された中国兵もかなりいた。

前回の記事で書いたように、便衣兵はゲリラと同じであり処刑することに国際法上の問題はないのだが、便衣のまま戦場で死んだ中国兵や処刑された中国兵は、外見上は民間人と区別することは困難であり、誤って民間人を処刑した可能性がゼロであることをどうやって立証することが出来ようか。
蒋介石が初めからその点を衝いて、日本軍に民間人大量虐殺の罪を押しつけようとする方針があったということは充分あり得ることだと思う。

imagesCAYB3IGH.jpg

そもそも南京防衛戦の最高指揮官でありながら無責任にも南京から逃亡した唐生智は、多くの兵士を死に至らしめて、本来ならば蒋介石により処刑されてもおかしくないのだが、どういうわけか処刑を免れているのだ。
そればかりではない。その後、彼は栄転して中国国民党革命委員会の中央常務委員、全国人民代表大会の常務委員会委員、全国人民政治協商会議の常務委員会の委員などを歴任しているのだが、これはどう考えても不自然である。

imagesCAWIMSNR.jpg

その点について、自分なりに納得できる史料と解説が東中野修道氏の『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』の中にある。

東中野氏はこう述べている。
「次の答えしか出てこない。つまり唐生智逃亡はあらかじめ蒋介石も承認していた。蒋介石の南京死守は表向きの宣言であり、唐生智逃亡は最初から織り込み済みだったのではないか、というものである。
ではいったいそれは何のためであったのか。ここで、中央宣伝部の宣伝工作を思い出していただきたい。…極秘文書中の『編集課工作概況』が報告していたように、中央宣伝部は『首都陥落後の敵の暴行』を宣伝することに目標を定めていた。その方法としては、これを外国人に宣伝してもらうというやり方であった。
仮に唐生智将軍が逃亡しなかった場合のことを考えてみよう。日本軍の猛攻の前に、唐司令官をはじめとする中国軍が玉砕していたならば、その行動は…英雄的な振る舞いとして中国人を感動させたであろう。中央宣伝部はそれを盛んに宣伝したであろう。あるいは万が一にも死闘のあと唐将軍が白旗を揚げて降伏してきたならば、日本軍は中国軍を武装解除し、国際法にもとづいて南京を完全に占領したであろう。
このように、唐将軍が逃亡しなかった場合、中央宣伝部は『首都陥落後の敵の暴行』を宣伝することはできないことになる。それでは困るのである。
唐生智将軍は…多くの将兵を残したまま逃亡した。…当然、事態は次のように進展する。城壁に囲まれた南京で逃げ場を失った中国兵はパニックに陥り、軍服を脱ぎ捨て、市民の避難地帯『安全地帯』に逃げ込む。これは南京の欧米人が予想もしなかったことである。国際委員会もまたパニックとなり、武装した中国兵を阻止することなく安全地帯に入れてしまう。そして右往左往しながら助けを求めてくる中国兵に哀れを感じる。…
そこに日本軍が入ってくる。日本軍は南京占領を完全なものにするため、国際委員会の管理する安全地帯から潜伏中の中国兵を摘発する。そこが戦場であったがゆえ、中国兵が抵抗するかぎり、処刑も射殺もありうる。それはどの戦場においても常識となっている残敵掃討であったから、日本軍からすれば至極当然のことであった。
それを安全地帯の欧米人はどう感じていたであろうか。安全地帯は国際委員会が南京の避難民を保護するために運営していた。そこへまったく未知の日本人が占領軍として入ってくる。…新しい支配者は国際委員会が聖域視していた安全地帯から、彼らが保護ないし匿っていた中国兵を摘発する。また処刑もする。それに対して国際委員会の欧米人は、当然のことながら不安と嫌悪感と反発と怒りを感じるであろう。そのうえ、民間人にとって、摘発や処刑は生まれて初めて見聞きする衝撃的な体験であった。
こうして陥落後の南京は、戦争のルールに従いながら安全地帯を含む南京の完全占領に努力する日本軍と、他方では日本軍の南京占領と安全地帯侵入に反発する欧米人、という図式が決定的となる。…あとは日本軍の完全占領に際して日本軍の暴行があったと、外国人の誰かに宣伝してもらうことが必要不可欠であった。唐生智将軍逃亡は南京攻防戦の幕引きであり、中国情報戦の幕開けであった。」(『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』p.103-105)
と鋭い指摘だ。

日本軍は南京攻防戦には勝利したのだが、蒋介石は唐生智をわざと逃亡させて中国軍兵士をパニックに陥れ、敗戦濃厚になって逃げまくる味方の兵士を督戦隊に射殺させて戦場に多くの便衣兵の死体を残し、軍服を脱いで安全地帯に逃げ込んだ中国兵については日本軍がのちに処刑するだろうから、欧米人に対して日本人が多数の民間人を虐殺したと訴えて、欧米人から全世界にその嘘のプロパガンダを拡げさせ、世界が日本に敵対する方向に誘導しようと企んだということではないのか。このブログで何度も書いたが、少なくとも英米のスタンスは排日であり、日本軍が民間人を大量に虐殺したという情報に記者が飛びつく可能性はかなり高かったはずだ。

東中野氏によると、国民党極秘文書である『編集課工作概況』には「首都南京が陥落した後は、敵の暴行を暴き」と書かれており、その方法としては「発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果がある」と書かれているそうだが、要するに南京戦において中国軍は日本軍と戦って勝つことよりも、日本軍の暴行を、外国人記者を通じて世界に拡散し、わが国を窮地に追い込むことを狙っていたという可能性が高いのだ。

国民党中央宣伝部の工作が実ったからかどうかは定かではないが、南京陥落後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いている。しかし、この時に世界の報道機関は二紙に追随しなかった。
もし二紙の報道内容が真実であることの裏付けが取れていたならば、世界の報道機関は当然ながら二紙に追随し、国民党政府は「緊急記者会見」を開催し、国民党政府だけでなく世界各国がわが国に抗議していたはずだったが、何もなかった。
国民党政府は米紙の報道があったことを根拠に、一度だけ国際連盟における顧維鈞の演説で2万人が日本軍に虐殺されたことを世界に向けて公言したのだが、これも世界の反応がなかった。

10008183343.jpg

なぜ世界が国民党政府の主張に反応しなかったかは、南京陥落直後の写真や動画を見ればおおよそ見当がつく。一般大衆は明らかに日本軍を怖れていないし、むしろ国民党軍がいなくなって平和が訪れたことを喜んでいるようにも見える。現地で取材した他国の記者たちも、日本軍が残虐行為をしたという彼らの主張が、事実と異なることが判っていたということだろう。

dec20-1.gif

もし国民党中央宣伝部が、自らの主張が正しいと信じていたとしたら、中国人ならば何度も繰り返し抗議しなければおかしい。そうしなかったということは、中央宣伝部の期待に反して日本軍は全体として統制がとれていて、わが国が世界から非難されるような事件には発展しなかったことを、彼ら自身が認めていたと考えるしかない。
もちろん、日本軍にも少数の不届き者はいたであろうが、全体としては世界の報道機関が日本軍を批難するべきレベルではなかったと考えるのが自然だと思う。

真相箱

ところが、一旦は失敗したかに見えた国民党政府のこの情報工作を、終戦後にGHQが日本人に自虐史観を植え付ける目的で利用するに至る。
南京陥落時に日本軍による大虐殺があったという作り話を多くの日本人に知らしめたのは、GHQが日本人を洗脳する目的で昭和20年12月9日からNHKに毎週放送させた『真相箱』であり、翌年の5月3日から審理が開始された「極東国際軍事裁判(東京裁判)」なのだが、多くの日本人にとっては「寝耳に水」であったという。

戦後67年を過ぎた今も、この年にGHQによって押し付けられた『南京大虐殺』があったという話が未だにマスコミや学校で伝えられ、多くの本に記述されていて、本当にあった話だと考えている人がまだまだ大多数を占めている。
このブログで何度も書いているように、わが国の近現代史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、戦勝国にとって都合の悪い史実が封印されて、史実と異なる記述がかなりあることを知るべきである。
これから学ぶべきなのは、戦後GHQが隠そうとした「戦勝国にとって都合の悪い史実」の方だろう。何も戦前の皇国史観に戻れというのではなく、過去の史実や史料を丹念に追っていけば、「本当は何があったのか」を知るヒントとなるものが、世界史の流れの中から見えてくるのだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事
Comment
乳児に牛乳を挙げる松井大将?
御紹介と検証をありがとうございます。

『南京事件-国民党の極秘文書から読みとく-』(此の本も、なかなか解り難い文献が発見された貴重な資料として拝読させていただいています)の本の写真の下の写真の件。

どこかで見掛けた説明によると、(?うろ覚えで失礼)状況は、牛乳を配って居たら皆が欲しがったけれど、乳児を抱えていた婦人が居たので彼女に挙げた、との事。

よく見ると、牛乳を挙げている男性は、松井大将の様に見えます。馬で入城したので、手袋を持っていて其れを手に嵌めている。
松井大将は大の中華人好きで、余りにも中華人に可愛がり危害が及ばない様にと警告が厳しくて、兵隊さん達の間でも、「松井大将は、俺達よりも中華人の方が可愛いんだ」などと不満の冗談が出た程だったとか。

中華人にもそれが伝わっていたのか、とてもリラックスした嬉しそうな表情をしていますね。直前の、中華軍の恐怖から解放された安堵感も有ったのでしょう。

日付順に、<大日本帝国軍1937南京大屠殺の日々:東京裁判訴訟の6週間>なんていう、偽証無しの写真集が出来るといいですね。
Re: 乳児に牛乳を挙げる松井大将?
この写真は久保有政さんのサイトRemnantの「『南京大虐殺』は捏造だった」によると、1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊に掲載されたもので、表題は「日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族」となっています。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/nankingmj.htm

確かに松井大将に似ていますが、もし本人だったら、この写真の表題に「日本兵から…」と書かれることはないでしょうね。

どんな出来事でも言えることですが、あった事の証明は容易でも、なかったことの証明は容易ではありません。日本人の歴史洗脳を解くのに時間がかかるのは仕方がないですが、戦勝国にとって都合の悪い史実をネットなどで広めていき、学校やマスコミで拡げられている歴史に多くの人が疑問を持つようになることが一番の近道だと考えています。
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル