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「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。

私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。

2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。

meiji.jpg

以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。

三浦芳聖

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2

田中光顕

重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。

北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。

江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」

田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。

明治天皇肖像画

また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。

睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」

bookk1-2.jpg

明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。

たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。

この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html

以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。

この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。

ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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明治天皇
大室虎の祐説がこれまで一般的でしたが、箕作奎吾(みつくりけいご)説のほうが新説で出てきました。
https://twitter.com/honest_kuroki
Re: 明治天皇
コメントありがとうございます。

写真が似ていることだけが根拠なのでしょうか。これでは説得力が無さ過ぎます。
箕作奎吾を調べると、明治維新後に大学校に奉職、後に辞して父の三叉学舎で教鞭をとり、明治4年、隅田川で遊泳中に溺死しています(享年20)が、明治天皇と同一人物であることをどう論証しているのでしょうか。
玉には玉の務めあり
皇室はいつの時代も血を絶やさぬように務められてますね。
最高権威ではあるが、内政は権力者に任せるという2重構造
も奈良時代には成立か?これも血を絶やさぬため。分裂やむ
なし。平安時代の天皇位の幾多の変遷もそう。お陰で歴史文
化が途絶えないで続く。易姓革命の支邦との違いです。気の
なが~いお勤めですね。

Re: 玉には玉の務めあり
くすのきのこさん、コメントありがとうございます。

わが国に古い歴史文化が数多く残されているのは、皇室が継続してきたことが大きいと思います。。
血を代々絶やさずに繋いでいく仕組みは他の制度と較べて他国から干渉される可能性が低く、だから独自の文化が育まれたのではないのでしょうか。
民主主義国家は他国の工作機関の影響を受けやすいことは今のわが国を見ればわかりますね。
三浦芳聖は新宗教の教祖だった人物
その経歴はよく分かっていない
もちろん本当に田中光顕と面識があったのかも不明(裏付けなし)
そんな人の本を証拠として使うから、逆に「荒唐無稽」とされるのでは?
その他の証言も裏付けが取れないものばかり……
Re: タイトルなし
通説で説明できない事実が多数ある場合は通説に誤りがあると考えるのが自然です。そこで、通説では説明できない出来事を矛盾なく説明できる仮説が生まれたとして、その仮説が正しいかどうかは、そう簡単には断定できません。
その当時の記録や利害関係者の供述などから、仮説が正しいことを誰もが認めざるを得ないだけの決定的な事実を発見しなければ、その仮説がたとえ真実であったとしても、世の中の大半の人から相手にされないでしょう。

ネットの世界で匿名で書く世界は、書きようによっては何でも書けますが、その論拠が正しいものであるか、論理構築が説得力のあるものであるかは、読者が判断するものだと思います。結局は読者の評価に耐えうるものだけが残っていくのだと思います。

このような激動期に関しては、公式記録だけに頼る姿勢は真実の追及には結びつかないことが多々あります。
れんだいこ氏の考察なども私は必ずしも「荒唐無稽」だとは言えない部分があると判断して書きましたが、そのような仮説に立って考えたときに通説の矛盾点が解消し、同時にその仮説を裏付ける同時代人の証言などがある場合は、その仮説についても柔軟に考えてみることも必要だと考えています。

れんだいこ氏のリンクが切れているようですので、別のURLを貼っておきます。
■「大室寅之祐→明治天皇考」1~4
http://blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf41386/13809964.html
http://blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf41386/13810117.html
http://blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf41386/13810119.html
http://blogs.yahoo.co.jp/bmb2mbf41386/13810140.html
明治天皇すり替え説によく使われる「フルベッキと幕末志士」の写真は、佐賀藩校の生徒であることが物証や文献で確認されています。
あの写真は明治時代になってから撮られてもので、幕末志士ではなく、すり替えられた明治天皇でもありません。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n344006
Re: タイトルなし
「フルベッキと幕末志士」の写真のことは存じております。坂本龍馬や西郷隆盛や勝海舟が同じ場所で写っていることは、そもそもあり得ないでしょう。大室寅之祐だとする人物も私は信じていません。ですから、この写真のことはこの記事に何も書いていません。

むしろほかの証言や記録に注目すべきでしょう。
皇族が暗殺・配流になるのは珍しく無い
天皇家は嫡流が最低三度途絶えており、その都度遠縁の皇族を連れて来て継がせているので今更感がある。

仏教を日本に取り入れたのは蘇我一族であり、保護したり仏閣を建てたりしているが天皇家が執り行う神事は神道。
実際に神道を管理する名家と云われる藤原一族が存在する。
しかも藤原氏名を下賜されたのは天武天皇である事を考えれば仏教のみを信仰していたとは言い難い。

それに皇族の血筋と宣う輩は非常に怪しい。
※豊臣秀吉もホザいていた事もあるが不敬罪では無いだろうか?
※平家や源氏だって皇族の外戚にあたる。

明治天皇は急速に近代化した日本に適した人物であったと私は思う。
※戦争に明け暮れた印象が強いが、全ては朝鮮半島が起因。
明治維新に関連した人物や事象を批判している人達が多く、当時のアジア周辺の逼迫した情勢を考察に入れていない。

明治維新が諸外国が未だに信じられない程、短期間且つ最小限の人的損耗で終結しなければ独立国「日本」はあり得なかったと私は考える。
※無論、私個人の考えであるので異論を唱える人達は多々居ると思う。

後付けの知識で「ああすれば、こうすれば」と言うのは非常に容易い。
腐敗が進んだ幕府から政権を委譲され、混迷するアジア情勢を考察し、立憲制度を確立し全ての国民に氏名を与え、日本を近代化させた明治政府の功績は否定出来ない。
勿論、あらゆる弊害も産み出したのも事実。

明治天皇から現在の今上天皇までは嫡流が途絶えていない。
現代の天皇像を観て、明治天皇が別人説・替え玉説を討論する事自体に意味ある事とは思えない。
また、解明する事は無いと私は思う。
Re: 皇族が暗殺・配流になるのは珍しく無い
ツルッぱげ さん、コメントありがとうございます。

結論は私も同じで、替え玉であるかどうかを議論する必要はないと思います。
薩長はかなり強引なやり方で政権を奪いましたが、明治維新を「短期間且つ最小限の人的損耗で終結」させ、近代化を推しすすれたからこそわが国が独立を維持することが出来たことはそのとおりで、明治維新の功績を否定するつもりはありません。


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Re: 北摂ローカルなネタなのですが・・・
茨○○子さん、コメントありがとうございます。

学生時代はどちらかというと理数系に興味を持っていたので、古典芸能の知識はほとんどありません。中学時代の担任から謡曲部の誘いを受けましたが、その世界に入っていたら多分今とは異なる世界にいたと思います。

5年ほど前に薪能を見に行きましたが、能を見たのは高校時代以来でした。というわけで、山本能楽堂のことは知らなかったのですが、初心者でも気軽に行けそうな企画がいろいろあるようですね。一度機会を見つけて覗いてみたいと思います。山本章弘さんの言葉も意味深で、詳しく聴きたいところです。

明治天皇の大喪の儀の件は、江戸時代の「かた」についての知識が無いのでよくわかりませんが、ヒントをいただいたので自分なりに調べてみたいと思います。いろいろ情報ありがとうございます。
安産の守り神
しばやんさん、はじめまして。
>「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

同感です。
明治天皇は孝明天皇の第二皇子。生母は典侍中山慶子。同じ御所内にある御実家の中山大納言家に戻って出産を迎えられました。その出産にあたっては、
「安産を祈願して、大和国永久寺子院上乗院内に祀る神璽を迎えてお産所に移した。お産所の次の間にご神体を安置して、前に小机を置き、毎朝洗米清酒をささげ、灯台香炉を備え。昼夜燈明を点じ抹香を焚くのである。」(大仏次郎「天皇の世紀」より引用。)
この事実を知りますと、いくら廃仏毀釈とはいえ、つつがなく存続した寺も半分はあったわけですから、御自身誕生の護り神となった神を祀っている寺(内山永久寺)が廃寺になるのを見過ごすというのは、個人的にはなかなか理解できないことでした。あるいはこれもすり替え説の間接的根拠となるかも知れないというのは考えすぎですね(笑)。とはいえ通説どおり御本人であれば勿論のこと、万一すり替えが本当だとしても、建前では前述の通り(自分では関係なしとは言えない)ですから、寺のほうからそれを理由にして赦免を願い出れば、皇室としてはこの寺をあだやおろそかにはできないと考えるのが普通ではないでしょうか。しかしながら、別記事でしばやんさんの引用されている同寺廃仏毀釈の余話などを読みますと、寺のほうでまったくそのような(存続の)熱意がなかったようですね。今となってはまことに残念なことでした。
なお引用「天皇の世紀」では、寺名が永文寺となっていますが明らかに永久寺の間違いであると思われます。
以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。

当たり前じゃん。その写真は伏見宮貞愛親王だし。
Re: 安産の守り神
jack77betty さん、コメントありがとうこざいます。

「(明治天皇の)安産を祈願して、大和国永久寺子院上乗院内に祀る神璽を迎えてお産所に移した」という話は恥かしながら今まで知りませんでした。情報をありがとうございます。
ブログを始めたおかげで、自分が知らないことを読者の方からいろいろ教えていただけることはとてもうれしいです。

「すり替え説」については、真実であることを断言できるような確実な史料はなさそうですが、すり替えがあったと考えたほうが自然だと思える様々な記録が残されています。幕末から維新にかけてはいろんな説がありますが、あまり通説に偏らずに様々な可能性を考えておいた方が良いというのが私の意見です。
5年ほど前に思い切ってこの記事を書きましたが、今も多くの読者に読んで頂いて入ることに驚いています。

大仏次郎の『天皇の世紀』は未読ですが、寺の名前を「永文寺」としたのは、小説だからあえて実名を用いなかったのでしょうか。
Re: タイトルなし
サイさん、コメントありがとうございます。

この記事で紹介した写真は、50年ほど前に雑誌で読んで衝撃を受けました。
サイさんが、この中央の人物が伏見宮貞愛親王であると断定される根拠がどの書物の何ページにあるのかをご教示下さい。
信頼できるサイトであれば、URLでも結構です。
伏見宮貞愛親王や、明治天皇の少年期の別の写真があれば興味があります。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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