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朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか

1950年6月25日の午前4時に朝鮮半島の38度線で、突如北朝鮮による砲撃が開始され、10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。

pic_20081004.jpg

米駐韓国大使のジョン・ムチオは、ワシントンの国務省に宛てて次のような報告をしている。
「1950年6月25日ソウル発
韓国軍事顧問団の資料によって、一部確認された韓国陸軍からの報告によれば、北朝鮮は今朝、韓国の領土に対し数ヵ所にわたって侵略を開始した。攻撃はほぼ午前4時に開始され、甕津(オングチン)は北朝鮮軍の砲火によって破壊された。午前6時ごろ、北朝鮮の歩兵隊は甕津、開城(ケソン)、春川(チュンチョン)各地方における38度線内に侵入し、伝えられるところによれば、東部海岸の南江陵に陸海軍による上陸が行われた。開城は午前9時、作戦を開始した10台の北朝鮮側戦車によって占領されたと言われる。また戦車を先頭にした北朝鮮軍は、春川を包囲しつつあるといわれる。江陵における戦闘の詳細はまだ不明であるが、北朝鮮軍によって主要道路は断たれた模様である。攻撃の性質、および攻撃開始の方法からみて、これは韓国に対する全面攻撃とみられる」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.232)

Korea.gif

その勢いで北朝鮮軍は勝ち進み、6月27日には韓国の首都京城(ソウル)が陥落してしまったというのだ。画像は「朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書」というサイトに豊富に紹介されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

ソウル占領

朝鮮戦争の緒戦でこんなに簡単に韓国軍が敗れたのは意外であったが、いろいろネットで調べていくと、当時の韓国軍の装備については、韓国軍は、総兵力10万、戦車ゼロ、大砲91門。一方の北朝鮮軍は、総兵力20万、戦車240両、大砲552門と北朝鮮軍の装備が韓国軍を圧倒していた。しかも韓国軍の91門の大砲は北朝鮮の戦車T34(ソ連製)の分厚い装甲を撃ち抜くことが出来なかったという。重戦車と歩兵との戦いでは勝負にならないことは誰でもわかる。
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-128.htm

またウィロビーの回顧録によると、戦闘が開始された時には、韓国軍には司令官がいなかったのだそうだ。
「…1950年6月当時、韓国軍の装備は北朝鮮側にくらべ哀れな状態であった。そのうえ戦いが開始されたときには司令官まで欠いていたのだから、押し寄せる北朝鮮軍の前に手もなくひねられ、敗走したにしても一般兵士たちを責めるにはあたらない。」(同上書 p.233)

ではなぜ、韓国軍の装備がかくも貧弱であったのか。
この点については、ウィロビーの回顧録に、当時の駐日大使でGHQ外交局長であったウィリアム・J・シーボルトの回想記が引用されている。シーボルトはこう書いている。
李(李承晩[イスンマン] 韓国大統領)は、常に好戦的な態度を見せていたので、米国顧問団は、この軍隊に戦車、重砲、軍用機などを与えるのを拒否していた。正規の攻撃兵器を与えれば、李はただちに38度線を突破して北進する恐れが十分にあったのだ。」(同上書p.234)
こんな理由で、アメリカが韓国の防衛を怠っていたとは信じがたいことである。

また1950年1月12日には米国のアチソン国務長官が「たとえ韓国が共産主義者に攻撃されても、アメリカは韓国防衛に対して消極的であろう」との演説をしたそうだが、このような発言が、北朝鮮による韓国侵略を決断させる要因の一つになったのであろう。

ウィロビーの回顧録を読み進むと、ウィロビー率いるG2(GHQの参謀第2部)は北朝鮮による攻撃が近いことを何度も国務省に報告しており、その特別報告のいくつかの内容が著書に紹介されている。それによると、北朝鮮の戦争準備の動きばかりではなく、38度線から3マイル以内に住むすべての民間人に退去命令が出ていることや、北朝鮮軍による韓国侵略が6月であることなども報告されていた
また韓国大統領の李承晩も、北の攻撃が予想される中で、戦えるだけの武器がないことをアメリカに訴えていたのだが、どういうわけかアメリカは韓国軍の装備が貧弱なまま放置していたのである
ウィロビーの記述が正しければ、朝鮮戦争は決して北朝鮮軍による不意打ちではなかったことになる。報告は受けていたのだが、何らかの理由があって動かなかったか、動けなかったのである。ワシントンの中枢部もソ連寄りの人物が主導権を握っていたのだろうか。

トルーマン

米大統領のトルーマンは、北朝鮮による侵略が開始されてまもなく、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じている。また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請し、マッカーサーが国連軍司令官に任命されている。

6月29日の早朝にマッカーサーは羽田を出発して韓国における戦場の上空を視察し、帰日後ワシントンにこうレポートしている。
「…敵の侵攻を防止するのが第一の問題である。さもないと敵が朝鮮全域を支配するかもしれない。韓国軍には反撃する能力が全くないので、北朝鮮軍がさらに侵攻する危険性は大きい。もし敵の進撃が続けば韓国は危険にさらされる。現在の戦線を維持し、さらに失地を回復するための唯一の道は、朝鮮戦線にアメリカ地上軍を投入することである。有効な地上兵力なくして、空軍と海軍とだけを用い続ければ決定的なものになりえない。…」(同上書p.242)

翌日にワシントンは米地上軍の韓国投入を許可し、マッカーサーに彼の指揮下にある兵力を使用する全権が与えられたのだが、マッカーサーが使える兵力は、北海道から九州までに散らばっていた勢力不足の占領軍4個師団とオーストラリア軍1個大隊だけで、到底敵戦力とつり合いのとれる水準ではなかったという。

ウィロビーはこう書いている。
「8月から9月初旬にかけて、米軍はもっとも苦しい戦いを強いられていた。8月15日、当時の北朝鮮首相・金日成は、あたかも勝利はわが掌中にありとばかりに、次のように語った

225px-Kim_Il-sung_1946.jpg

いま、米軍と李承晩敗残部隊は、わが共和国南半部(韓国)全地域の約8パーセントを維持しているにすぎない。わが祖国の全地域が、アメリカの武力干渉者どもから完全に解放され、自由と独立の旗が全朝鮮の津々浦々にいたるまでひるがえる日もそう遠くはないだろう。』…」(同上書p.247)
と、この時点で韓国領土の92%は北朝鮮軍に制圧されていたのである。
しかしウォルトン・H・ウォーカー中将率いる米国第8軍が釜山周辺地区で背水の陣を敷きながらなんとか踏ん張っていたという。

そこでマッカーサーは戦況を一転させるために「仁川(インチョン)上陸作戦」を計画し断行する。
今回の記事の最初に添付した朝鮮半島の地図をもう一度見て頂きたい。
北朝鮮軍は快進撃を続けて韓国領土の大半を支配したのだが、最前線の兵士に燃料や弾薬・食料などの補充を行ない続けなければ戦いを継続することが出来ないことは言うまでもない。マッカーサーのこの作戦は、北朝鮮軍の大半が釜山攻防に配置されているタイミングで、仁川を攻撃し北朝鮮軍への補給路を断つというものであった。

マッカーサー

マッカーサーは8月20日に東京の第一生命ビルで開かれた仁川上陸作戦に関する戦略会議でこう述べたという。
敵の弱点は補給にある。敵は南に進めば進むほど輸送線が伸び、それだけ危険も増大する。敵の主要補給線は、いずれもいったんソウルに集まり、ソウルから戦線のあちこちに伸びているから、ソウルをおさえれば、敵の補給網を行きも帰りも完全に麻痺させることができる
弾薬と食料の補給がとまれば、敵はたちまち手も足も出なくなって混乱し、われわれの小さくとも補給充分な兵力で簡単に圧倒することができる。作戦の成功については、私はこれを確信する。」(同上書 p.253-254)

この作戦にはなぜかワシントンでは根強い反対があったようだがマッカーサーが押し切り、9月15日に実行に移された

Battle_of_Inchon.png

マッカーサー率いる国連軍は仁川上陸に成功したあとソウルを攻め、敵軍は補給がとまったところへ挟み撃ちにあい、退却の道も断たれて総崩れの状態となった。北朝鮮軍の兵士の投降が相次ぎ、1か月以内の捕虜総数は13万人にも達したという

9月28日に国連軍はソウルを奪還し、翌日には韓国政府がソウルに入城したのだが、この時にマッカーサーは、米国首脳の考え方に不安を感じていたらしく、尊敬していたウォーカー将軍に次のように打ち明けたという。

「…犠牲を払って軍事的勝利をおさめても、それから政治的に有利な平和が導き出されるのでなければ、何のための犠牲かわからない。
 いまは北朝鮮軍を壊滅させた仁川での勝利をただちに政治的平和にすりかえる、つまり軍事的に勝ったのを機に、ここで戦争を終結させてしまう絶好の機会だ。これはなにも敗北した北朝鮮軍に、われわれの意志を強引におしつけるという意味ではない。われわれは北京とモスクワに、米国は何の野心もなく、韓国から敵兵を一掃して独立国として存在を保てるような状態にすること以外には、何の使命も帯びていないということを納得させるだけの外交的能力が必要だ
 ところが、われわれの外交陣はまことに不活動的で、この勝利を活用して朝鮮に平和と団結を回復させるための素早い、ダイナミックな外交活動を起こすということがさっぱり行われていないようだ。戦争を終結して、太平洋にもっと永続的な平和を生み出す方向へ大きく動き出す絶好の機会が訪れているのに、それをつかみ損ねるという大変な政治的失敗が犯されているような気がしてならない。われわれが政治的、外交的に不活発であるため、相手がそれをためらいや譲歩と取るだろう。こんな状態では戦争は終わるどころか、道は長引く。」(同上書p.276)

このようなマッカーサーの思いとは裏腹に、国連軍がソウルを奪還した9月28日に、米統合参謀本部は、北進攻撃の許可と詳細な指令を東京のマッカーサーに送っている。
貴官の軍事目標は、北朝鮮軍を壊滅させることにある。この目標を達成するため、貴官が朝鮮の38度線以北で軍事行動をとることを許可するものである。ただし、いかなる場合にも中国およびソ連との国境を越えてはならない。…」(同上書 P.277)

通説では、トルーマン大統領や米統合参謀本部の命令を無視して韓国軍と国連軍が38度線を越えて北上したとなっているのだが、ウィロビーの回顧録によれば、38度線を超えて北上する指示は米統合参謀本部がマッカーサーに出していることがわかる。
しかし、後日「マッカーサーは自分勝手に上層部を無謀にも無視して38度線を突破し、北朝鮮に進攻した」という作り話が新聞に載って全世界にばら撒かれたために、事実でないことが通説になってしまったのだが、どこの国でもいつの時代もこのような方法で、権力者にとって都合の悪い真実が都合の良い歴史に書きかえられて国民に広められることがよくある。

かくして韓国軍と国連軍は38度線を突破し10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧し、さらに北朝鮮軍を追って破竹の勢いで中国国境に近い鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで国連軍は中国軍の猛反撃に遭遇することになる。中国軍は国連軍をはるかに上回る規模であったのだが、その後の戦いについては次回に記すことにしたい。
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Comment
こんにちわ、ウィロビーが回顧録を出しているとは知らず思わず前のめりになってこの記事を読んでしまいました。

ただ、どうしても指摘癖が出てしまうのは私と言うか、ミリタリーと呼ばれる分野に特別の関心を抱く人間の悪い癖なのかもしれません。ウィロビーの回想録として引用されているいくつかの事実には少々誤認があった事を言わねばなりません。

>しかも韓国軍の91門の大砲は北朝鮮の戦車T34(ソ連製)の分厚い装甲を撃ち抜くことが出来なかったという。重戦車と歩兵との戦いでは勝負にならないことは誰でもわかる。

ところが、そうでもなかったのです。少なくともこの時の米軍にとってはいくつかの無反動砲(要するに映画とかでおなじみのRPGとかあんな感じの携帯式の大砲です)や砲兵の砲撃で十分対抗可能なのが戦車であるという認識でした。
さらに言えば山がちな朝鮮半島において戦車は運用に不向きであるという軍事学の常識もあったのです。

これらの認識は現代においても、時と場合によるという前置きはつきますが、この時代から変わらない不変のものであります。
ただ、この時代には「時と場合による」という前置きすらなかったわけです。

しかし、この時の米軍無反動砲は独ソ戦後の試行錯誤に改良の重ねられたT-72を撃ち抜くには低威力であり、それが初めて明らかになったのが朝鮮戦争序盤なのです。
ついでに言えば、ならば「砲兵の砲撃で対抗」と言ってもその肝心の砲兵の砲弾が不足していたのが当時の韓国軍であり米軍でした。

>北朝鮮の戦争準備の動きばかりではなく、38度線から3マイル以内に住むすべての民間人に退去命令が出ていることや、北朝鮮軍による韓国侵略が6月であることなども報告されていた。

実のところ、このあたりの部分に関しても当時は「オオカミ少年」扱いされていたことがあるのです。
当時、韓国軍は何度となく北朝鮮の挑発行為に対して守りを固めるなどの行動をとっていたのですが、毎度毎度空振り。いつしかそれらは狼少年の定例行事扱いされるようになっていったのです。それは大統領府においても同じでした。

>この作戦にはなぜかワシントンでは根強い反対があったようだがマッカーサーが押し切り、9月15日に実行に移された。

仁川上陸作戦こと、クロマイト作戦とその後の反攻、スレッジハンマー作戦は当時としては破格の『論外』作戦と言っていいでしょう。何故ならば仁川は上陸には決して向かない土地だったのです。
兵士を上陸させるための侵入口が極めて狭く、また潮の満ち引きの差が世界有数の広さを持つ地帯。
戦車にせよ歩兵にせよそういった地上兵力にとって最大の敵は行軍を邪魔する泥です。その泥ばかりのエリアであり狭い場所。はっきり言って、もしここに北朝鮮側が機雷をばら撒けばこの作戦に動員されていたアメリカ海兵隊将兵は愚か、海軍もまた莫大な損害を被っていた可能性は否定できないのです。
仮に仁川に上陸する事は成功しても、北朝鮮軍の最前線とプサンの防衛線は遠すぎて、すぐさま効果が期待できないという指摘もありました。
さらに言えば、この最前線の北朝鮮軍が秀吉の中国大返しのごとくソウルに一気に引き返せば上陸部隊は粉砕されるという分析もあったのです。
こうしたもろもろの事情からワシントンの統合参謀本部は成功の見込みがきわめて薄いと判断し、マッカーサーもその分析に関しては事実であると認めたと言われています。
しかし、マッカーサーはまるで神がかり的に「でも成功する」として強行したというのが仁川上陸作戦なのです。

では、何故ウィロビーはそういった事実を記載していないのか。実のところ、ウィロビーと言う人間は……こう言ってはなんですが、マッカーサーの忠実な下僕であり、マッカーサーが黒と言えば黒と言うタイプの人間です。
マッカーサーとワシントンの対立において、ウィロビーはマッカーサー側の論陣で「基本全部ワシントンの無策愚策が悪い」と言うように発言する人です。

ワシントンDCの政治家や官僚たちが無策であったのは確かな事実なのですが、それはマッカーサーサイドも同じでした。詰まるとこ、責任の押し付け合いなんですよね。
今回の記事を見ても、結局はその視点なんだなと。
去年の記事に今更コメントをするのもどうかと思いましたが……思わず気になったので。
2014.11.05 ( Wed ) 18:20:10 を書いた者です。
すいません、T-34と記載するべきところをT-72と誤って記載してしまいました。

このような過ちを犯した償いと言いますか、補足を少し。
韓国初代大統領、李承晩は実は軍部を信頼していなかったと言われています。
その理由は色々とあるのですが、次の3つの点から。
1.李承晩は頑固な反日主義者であり、旧大日本帝国陸軍出身者が非常に多い、軍人たちが嫌いであった事。
2.軍部によるクーデター騒ぎがあった事。
3.当時の軍部はあくまで個人単位が勝手にやっている行為とは言え、北朝鮮との密貿易が横行していたこと。
(と言っても、密貿易の横行には軍部冷遇のせいで、軍人たちの給与が……って事もあったりするのですが)

にもかかわらず李承晩は、軍備増強を盛んに唱えていました。この軍部を信用してないのに軍備増強を唱える矛盾をアメリカは彼が強固な反日主義者である事から、日本侵攻の野望でも持っているのかと結構本気で疑ったようです。
Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。

私の書き方も悪かったようですが、韓国軍の大砲91門のところはウィロビーの著書の引用ではなく、「週刊スモールトーク (第128話) 北朝鮮と韓国の戦争 ~朝鮮戦争~」の文章を参考にして付け加えた部分です。URLを記しただけでは、誤解されても仕方がないですね。

ウィロビーの見方が正しいかどうかについては、別の立場の人間の証言も読んでバランスをとることが必要ですが、個人的にはトルーマン大統領や米統合参謀本部と戦った人物の証言を軽視すべきではないと考えています。

ジオンと同じで不意打ちの奇襲は大抵成功する
しかし、相手が戦力立て直した後は大抵逆レイーブされる
ジオンも当初連邦を圧倒したが1年ほどで敗戦に追い込まれた

Re: タイトルなし
事実は小説より奇なりで、真実を探求していくと小説よりもマンガよりも面白いと思うことが多いです。

私も若い時期は、歴史の教科書や参考書にリアリティを感じず、ピンとこなかったのですが、権力者にとって都合よく書かれた歴史叙述は綺麗ごとの羅列であって面白いはずがありません。
若い方に、本当は何があったのかをこのブログでもっと伝えていきたいと思います。過去の記事も是非覗いてみてください。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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