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聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか

以前このブログで、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いた。「播磨」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html
このことは、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味しているのだが、どういうわけか『日本書紀』巻二十の重要な記録が日本史の通説で取り上げられることがないのだ。そこにはこう記されている。

「(敏達天皇13年:584年)秋9月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像(ほとけのみかた)一体をもってきた。
 この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)と四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女(むすめ)、嶋(しま)を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。――年齢11歳。――善信尼の弟子二人も出家させた。その一人は漢人夜菩(あやひとやぼ)の女 豊女(とよめ)で名を禅蔵尼(ぜんぞうのあま)といった。もう一人は錦織壺(にしこりのつぶ)の女 石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんのあま)といった。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼をあがめ尊んだ。三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等に託して衣食を供させた。仏殿を馬子の家の東方に造って、弥勒の石像を安置した。三人の尼を招いて、法会の斎食(いもい:仏に備える食を盛った椀)を供した。…
馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等たちは、仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているのだが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる

百済聖明王

日本書紀』には欽明天皇13年(552)年に百済の聖明王が使者を遣わして、わが国に仏像や経典を伝えた事が書かれているが、僧侶や尼が来たわけではなくただ仏教文物が宮中にもたらされただけのことで、このことがわが国に仏教が広まるきっかけになったとはどこにも書かれていないのである。わが国の仏教の広まりは、『日本書紀』に明確に書かれているとおり、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まるのである

とは言いながら、仏教は容易には広がらなかった。翌年の敏達天皇14年(585)には排仏派の物部守屋が「蘇我氏が仏教を広めたことで疫病が流行した」と奏上し、敏達天皇はその言い分を認めて「早速仏法をやめよ」との詔を出しておられる。そこで物部守屋らは仏像と仏殿に火をつけ、さらに善信尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち:奈良県桜井市)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にしたと、『日本書紀』に記されている。

仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏との対立はその後も続いて、587年の丁未の役で蘇我馬子が武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着し、その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位(593年)してようやく仏教受容に対する抵抗勢力が消滅して、わが国に仏教が急速に広まっていくのである。

ではなぜ、仏教がわが国で広まっていない敏達天皇の時代に、播磨国に恵便という仏教の僧侶がいたのだろうか。
朝鮮半島に於いて、わが国より先に仏教が伝えられていた。、百済・高句麗には4世紀の終わり、新羅には5世紀の初めに伝わったと言われているが、わが国にはこの頃朝鮮半島からわが国に渡ってきた渡来人によって、宮中に仏教が伝わる以前から仏教が信仰されていたようである

Wikipediaに、先ほど引用させていただいた『日本書紀』巻二十の敏達天皇13年の記録に出てくる司馬達等という人物の解説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%94%E7%AD%89
それによると司馬達等は継体天皇16年(522)に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したということが『扶桑略記』という書物に記されているという。この司馬達等の孫が法隆寺金堂本尊の国宝釈迦三尊像を制作した仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)である
また司馬達等とともに仏法を深く信じ修行を怠らなかったと書かれていた、池辺氷田という人物も中国系の渡来人である。

250px-Shakyamuni_Triad_Horyuji.jpg


蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた
『日本書紀』には断片的に渡来人のことが書かれているので一部を紹介すると、欽明天皇元年(532)の8月に、「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍にいれた。秦人の戸数は、全部で七千五十三戸で、…」と書かれている。渡来人は戦火を逃れて来た人々と考えられており、5世紀末に百済が高句麗に圧迫されると、さらに多くの人々が日本に渡来してきたという

煬帝

『隋書倭国伝』を読み進むと、第二代皇帝の煬帝(ようだい:在位604-618)が608年に倭国に使者を送ったことが書かれていて、そこには倭国と他国との位置関係についてこう記されている。
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に𨈭羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)」
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、𨈭羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

この文章を普通に読めば、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあった。そして倭国の中に中国系の人々が住む地域があったと理解するしかない。
中国の正史にこのような事が書かれていることをわが国の教科書に載せないのは、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説と矛盾するからなのか。

korea_1.jpg

渡来人は中国系だけでなく百済系、新羅系、高句麗(高麗)系の人々もかなりいた。
渡来人の人口については教科書には記されていないが諸説があり、渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かったという説が結構有力なようだ。当時は統計記録があった訳ではないので詳しいことは分からないが、日本列島に住む人々のかなりの割合を渡来人が占めていた可能性が高そうだ。

そして、渡来人の中で仏教の僧侶を経験した恵便という人物がいたというわけだが、驚くべきことに、わが国に仏教を広めたこの恵便という僧にゆかりのある寺院が、今も兵庫県にいくつか残されているのである。
前置きが長くなったが、どんな寺院なのか行ってみたくなって、これらの寺を巡りながら紅葉を楽しむ旅程を組んで先日探訪してきた。

まず最初に訪れたのが加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)。

鶴林寺仁王門

上の画像は室町時代に建築された仁王門(兵庫県指定文化財)である。
仁王門の近くにある案内板にこの寺の略縁起が綴られているが、そこには
「当寺は今から千三百年余り前に物部守屋の難を逃れて隠棲していた高麗の僧恵便法師の徳を慕うて聖徳太子が来臨され、秦川勝(はたかわかつ)に命じ、太子堂を建立して釈迦三尊四天王を祀り四天王聖霊院と名付けられたのが始まりである
その後養老2年元正天皇のとき武蔵国の太守大目身人部春則が太子の偉徳顕彰のため七堂伽藍を建立し、境内二十四丁四面三百坊を有し、衛士百余人、楽人数十人、寺領二万五千石を領して反映した。
鳥羽天皇臨幸勅願寺となり、鶴林寺の額を賜り今日に至る。…」
とある。パンフレットによると創建は587年だとあり、589年という説もあるようだが、わが国で最も古いとされる蘇我氏の氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立を発願された年が用明天皇2年(587)で、推古天皇4年(596)11月に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」と『日本書紀』に記されている。鶴林寺はそれほど古い歴史を持つ寺なのである。

聖徳太子

鶴林寺の略縁起に聖徳太子の名前が出てくるのだが、聖徳太子は敏達天皇3年(574)に生まれというから、聖徳太子が13歳か15歳の頃に鶴林寺の前身である『刀田山四天王聖霊院』が建立されたことになる。
その後養老2年 (718) に武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立し、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。国宝の太子堂はこの年の建立と伝えられている。
太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったというが、江戸時代には8カ坊117石に激減し、明治期の廃仏毀釈を潜り抜け、今では3カ寺、15千坪の境内となっている。

kakurinji.jpg

minagaさんのHPに鶴林寺の古写真や古絵図が紹介されている。
文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧圖會:巻之2』に当時の鶴林寺の境内図が掲載されているが、この境内図を見ると、昔は本堂と太子堂や常行堂は回廊で繋がっていたようだが、今はそのような回廊はない。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/tou_kakurinji.htm

仁王門をくぐると、室町時代に建築された入母屋造の本堂(国宝)が見えてくる。

鶴林寺本堂

内陣には平安時代に制作された薬師三尊像と毘沙門天像、持国天像(いずれも国重文)が安置されているのだが、秘仏であるために60年に一度しか開帳されないのだそうだ。次回の開帳は平成69年なのだそうだがあと45年も待たねばならず、私のような年齢の者には観るチャンスはほとんど訪れないだろう。

鶴林寺太子堂

この本堂の東側にあるのが、平安時代に建築された国宝の太子堂。
内部は公開されていないが、堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像(国重文)は宝物館で見ることが出来る。また堂内の壁画(「九品来迎図」「仏涅槃図」)も国の重要文化財に指定されているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真でようやく壁画を見ることが出来るそうだ。宝物館で、高木かおり氏により彩色復元された壁画が展示されている。

鶴林寺三重塔

この寺には、常行堂(平安時代)、鐘楼(室町時代)、行者堂(室町時代)、護摩堂(室町時代)も国の重要文化財に指定され、三重塔(室町時代)は兵庫県の指定文化財である。仏像や工芸品にも多くの国の重要文化財があり、「播磨の法隆寺」とも呼ばれているのだが、観光客は決して多くはない。
宝物館で重要な仏像や仏画が保管され展示さているのだが、平成15年(2003)に国の重要文化財である『聖徳太子絵伝』6幅と『阿弥陀三尊像』1幅、市指定文化財『釈迦三尊十六善神像』が、韓国人に盗まれる事件があった。

阿弥陀三尊像

『聖徳太子絵伝』『釈迦三尊十六善神像』は犯人逮捕により取り戻すことが出来たが、高麗時代の作品である『阿弥陀三尊像』は、韓国の大邱市の寺で2004年に発見されたものの、その寺は盗難品とは知らずに寄付を受けたものであるとして所有権を主張し、鶴林寺に返還される見込みはないのだという。

昨年秋にも、対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれた事件があったが、韓国政府は犯人を処罰しながらもこの仏像を国宝に指定して返還しない。
この手法は、平成6年(1994)に長崎の安国寺の宝物殿から『高麗版大般若経』493帖が盗難された時も行われていて、韓国政府は国宝に指定して返却する気がない。ネットで探すと他にも多くの文化財が盗難されているようだ。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)憲章に「不法に搬出された文化財は元の所有国に戻すべき」と書かれているそうだが、わが国政府もただ韓国政府にただ調査を依頼するだけではなく、世界に事実をアピールし、返却のための本格交渉に取り組んでほしいものである。
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Comment
NoTitle
しばやんさん、おはようございます♪
いつも大変勉強になる記事を届けて下さり、ありがとうございます♪

渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かった、という説
凄く興味深いです(*^^*) 久留米の田主丸には、九千坊伝説といって
1600年前頃に、大陸からカッパの大群が八代に上陸したお話が
残っていますし・・・。 記事は以下です↓ 
http://capricorn09928.blog84.fc2.com/blog-entry-598.html

この時代のお話はマイブームなので、夢中で拝読しました。
しばやんさんの探究心、本当に尊敬します。 感謝です♪
おはようございます
面白い伝承が残っているのですね。
昔は国境という概念もなかったでしょうし、いろんな人たちが日本列島に住みついたとしてもおかしくありません。今の日本の文化は、古来の文化と渡来人の文化が融合していったものだと考えています。

特に、九州地区は半島に近いだけに、かなりの渡来人が住み着いた可能性がありますね。
渡来人に関する説はいろいろありますが、幅が広すぎるので、あとは読む人の感性で決まるところがあります。

http://web.joumon.jp.net/blog/2007/02/000146.html
しばやんさま、こんにちは
飛鳥、奈良時代の寺院の遺構で、高麗(高句麗)の工人がなした伽藍配置は、顕著なものがありますね。
私も古代三韓史、とりわけ高句麗時代の歴史や遺跡大変興味を持っておりますが、当時、渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かったという説、あながち否定できないと思いました。

最近の調査で、奈良時代以前の建造と思われていた高松塚古墳は、実は7世紀末から8世紀初頭の建造ということがわかりましたが、これは丁度高句麗が滅び、多くの高句麗人達が海を越えて亡命してきた時期にあたりますね。私の住む西東京にも近い武蔵国の高麗郡も、この時代渡来してきた高句麗人1799人の開拓した地です。

寺院とは違いますが、身分の高い渡来人の墓と思われる高松塚古墳やキトラ古墳は、四神の配置や、描かれた女官の服装の特徴が高句麗の水山里古墳、徳興里古墳のそれと同じことなどから、当時日本(倭)に渡来していた高句麗の工人(技術者)達が携わっていたことが知られており、発見当初より、墓の被葬者が亡命してきた高句麗貴族であるという説も有力視されているようです。

しばやんさまの記事を読んで、私も、わが国に仏教を広めた高麗僧・恵便ゆかりの鶴林寺を拝観に兵庫を訪ねたくなりました。
実際に行かれて、しばやんさまの目で確かめられたリポートと、学術的な知識をお分け下さり、ありがとうございます。
美雨さん、ありがとうございます
武蔵国の高麗郡のことは知りませんでした。情報ありがとうございます。
高麗郡は明治の半ばに埼玉県入間郡に編入されたようですが、関東にも渡来人が移り住んだ地域があるのは驚きです。
調べると、高麗神社や高麗家住宅など面白そうな文化財がありますね。高麗神社に「大般若経羅密多経」(国重文)があるというのも面白いです。

大阪からは簡単には行けないところが残念です。美雨さんに一度レポートをお願いしたいところです。

播磨は鶴林寺のほかにも古い伝承を持つ寺があります。次回にレポートさせていただきます。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
NoTitle
私の実家も祖父の父が 昔は、禅宗だったけどお寺がないので浄土宗に改宗したと言ってました。
禅宗でどの部類だったか親戚は、誰も知らないし 私が小さいころから浄土宗の寺の坊さんが法事に来てました。
あるところで 先祖は、禅宗だったらしいと言ったら 先祖は、中国の方なんでしょうと言われました。
大昔は、国境も関係なく交流があったんだと思います。
Re: NoTitle
面白い話をありがとうございます。

まだ文字を持たなかった日本人が、なぜ中国の難しい文字を書いたり読んだりできたかは、周囲によほど漢字の読み書きができる人間がいなければ不可能ですね。昔はかなり渡来人がいたと考えた方がすっきり理解できますね。

当時は国境などという概念はおそらくなかったでしょう。未開拓の自然のままの土地が大半だったと思います。
大陸から大量の民族移動があっても、共生することができたのだと思います。

家康も知っていた古代年号
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいと思います。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く収集し表した、「日本大文典」という印刷書籍です。
広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、古代年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の古代からの日本の歴史についての考を知ることができるのでしょうか。もう既に見ていますか。

ついでに
倉西裕子著
『「記紀」はいかにして成立したか』
日本紀と日本書紀は別物という説です。
宜しくお願いします。
Re: 家康も知っていた古代年号
情報ありがとうございます。

紹介いただいた本はいずれも絶版で、ロドリゲスの本は高い値がついていたので見送ることにしました。
古代からの年号の記載があるというのは興味深いですね。

倉西裕子さんの本はアマゾンで取り寄せます。


再度 推奨します
ロドリゲスのこの本は家康時代の 日本文化のタイムカプセル 倭国の年号にヤマト年号が続いています 大化はない ですから、ぜひご覧ください。400年前に作られた、本を目の前にすれば、ロドリゲスには尊敬を感じてしまうと思います。江戸から明治で失われてしまった、家康の知識を知ることができるはずで、絶対損はさせません。大きい都市の図書館にはあると思います。恥ずかしいことに私の県内にはありませんでした。
Re: 再度 推奨します
外で探す時間がもったいないので、なるべくネットで情報収集する方針なのですが、野口義廣という方が面白そうなことを書いているようですね。
http://yourehazauei.at.webry.info/201312/article_2.html

野口氏の論文を探して、ロドリゲスの記述部分を読むことにします。

明治時代に古代史はかなり改ざんされた可能性があると考えていますが、ロドリゲスの本が無視されているのは、明治以降の為政者にとって都合の悪い何かがあるのかもしれませんね。

倭国年号があります
522年善記からの年号があります、それに大宝より後の大倭国年号が続いています。王朝交代の証拠でしょうか。
Re: 倭国年号があります
もちろんその可能性はありえますが、通説と異なる説を主張する時には他の文献で確認できることがより望ましいでしょうね。中国の記録との整合性がとれたら面白いと思います。

No title
大宝建元については新唐書の記載が参考になりますよ。
Re: No title
新唐書に書かれている元号は日本書紀の巻二十五にも書かれていると思いますが、新唐書に書かれていて日本書紀に書かれていない元号のうち、どれとどれが通説に出てこない元号だとお考えなのですか。
いしやまんの考えておられる元号は、唐の元号ではないですか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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