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『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

マリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運ぶ航海の途中で暴風雨に遭い、修理のために横浜港に横付けされている時に、虐待されていた一人の中国人奴隷が逃亡したことが大問題となる。
この事件は神奈川県令の大江卓が自ら裁判長となって、中国人奴隷225名全員を解放したという痛快な話なのだが、このように「奴隷制度」や西洋による世界侵略など、戦勝国にとって都合の悪い史実を記された本は、ほとんど昭和21~23年にGHQによって焚書処分されていると考えて良く、西洋の世界侵略や奴隷制のことを詳細に記述した本は、今も書店で目にすることは滅多にない。

大衆明治史

このようなブログを書くようになってから時々古い本を読むことがあるのだが、平板な歴史叙述に慣らされてきたからなのか、古い本には人物が生き生きと描かれていて面白いと感じることが多いのである。
今回は菊池寛の『大衆明治史』の中から、明治時代の自由民権運動の話を紹介したい。この本の原文を読みたい方は、全文をPDFで公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

菊池寛は、明治元年に会津藩の処遇をめぐる明治新政府軍と奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた「会津の戦」に関する板垣退助の述懐から書き起こしている。
しばらく菊池の文章を引用する。(原文は旧字旧かな)
松平容保

「会津の戦いが済んだ松平容保*父子が城を出て妙国寺に退隠したある日、一人の百姓が来て、芋を藩公に献じてその不幸を慰めようとした。
 その護衛の任にあたっていた土佐の士が、美談として、これを官軍の板垣退助に語ったのである。傍らで聞いていた者は、皆その忠義を褒めないものはない。

 この時、板垣は静かに次のような述懐を洩らしたという。これは日本の憲政史でも、有名な言葉である。

『我輩先日、日光今市の戦いの時、友人にして戦死する者多く、その屍を見るたびに、身を切られるような思いをした。しかるに敵の死兵を検査すると、皆身に文身(いれずみ)をした無頼漢ばかりであった。自分はこれを見て、石と玉とを交換したような気がして、甚だ落胆痛恨した。その夜、床の中で考えたのであるが、ヨーロッパの戦争では、常に万を超える死傷者があるのに、士気は毫(ごう)も衰えぬという。その理由はどこにあるかといえば、だいたい、日本の兵士は僅かな士族だけで組織してあるから、平常の友情関係が極めて濃厚で、人員もまた少ないから、これが戦死を見て、心を痛めることが深い。これは全く封建制度の罪であって、その人情関係が狭いためである。したがって、国民皆兵の時代が来れば、こうした弊害は結局打破されるであろうと考えた。』

彼はさらに語を継いで、
『やがて兵を進めて会津に近づくや、会津の雄藩、必ず一藩を焦土と化して戦うであろうから、三千未満の官兵では、とても攻略することは出来ん。唯討死の外あるまいと秘かに覚悟を決めていた。ところが若松城に近づくにつれて、人民は家財道具を携えて、争って地方に遁(のが)れ、甚だしきに至っては、人足となって官軍の手助けをする者がある。我輩はその意外なるに驚いた。諸君は芋を持ってきてその旧主を慰めんとする百姓に感心してているが、それなら何故初めからわれわれに抵抗して、旧主を助けなかったのか。これを要するに、戦争は士がやるもの、百姓は初めから不関焉(ふかんえん:われ関せず)だからである。その楽しみをともにせざるものは、その憂いをともにせずだ。武士だけがその特権を振り廻している時代に、百姓がどうして国事を共に憂えるものか。これ程の大藩が亡びるのに、之に殉ずる者、僅かに三千に過ぎないというのはこの道理にほかならぬ。我輩は、昨日まではこれを会津のこととして、冷ややかに見ることとが出来たが、これを今後の日本に及ぼして考えれば、由々しき大事である。要するに、今日以後は、四民平等の制度を布(し)いて、国民全体が楽しみをともにし、憂いをともにせねばならぬ。』」(汎洋社版『大衆明治史』p.86-88)
*松平容保(まつだいらかたもり)第9代会津藩主。
会津若松城

平石弁蔵と言う人物が大正6年(1917)に会津人の立場から『會津戊辰戰爭』という本を著して、平石はその序文を板垣退助に執筆を依頼している。
板垣は戊辰戦争で官軍の東山道総督府の参謀をつとめ、非凡な軍略の才能を発揮したと言われているが、板垣がその本の序文に記した文章は、なかなかの名文だ。次のURLにその全文と訳文が出ているが、これを読めば菊池寛が書いた板垣の述懐は、史実にかなり忠実に書かれているものであることが分かる。
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/itagaki.htm

板垣は、会津では士族出身者だけが戦っただけで、会津の他の人々はみんな知らぬふりの状態であったことに官軍の参謀として強く危機感を抱いたのである。
板垣自身の文章を紹介したい。
會津は天下屈指の雄藩也、若し上下心を一にし、戮力以て藩國に盡さば、僅かに五千未満の我官兵、豈容易に之を降すを得んや。」

官軍はわずか5千にも満たない兵力しかいなかった。もし会津の人々が心を一つにして藩に協力していたならば、官軍が会津を簡単に降伏させることはできなかったと書いている。
にもかかわらず会津の人々は戦火を避けて逃げて、藩の滅亡を目前に見ても誰もが知らぬふりをしているのは何故なのか。わずかでも藩主の恩に報いようと考えたなら、人々は生命を犠牲にして国を護ろうとするべきではないか。
板垣退助

板垣は、会津の一般の人々がこのような行動をとったことの原因について、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかったために、身分の上と下とで心が離れてしまったことにあると考えた。
この問題は会津藩だけにあてはまるものではない。もし生まれたばかりの明治日本が他国と戦うことになれば、このままではとんでもないことになると危機感を抱いたのである。

「然るに斯の如く一般人民に愛國心なき所以のものは、畢竟(ひっきょう:つまるところ)上下離隔し、士族の階級が其樂を獨占して、平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず。夫れ樂を共にせざる者は亦た其憂を共にする能はざるは、理の當に然る所、天下の雄藩たる會津にして既に然り、況や他の弱藩に於てをや。我邦にして若し一朝外國と事を構ふるあらば、其結果知るべきのみ、今や封建の勢既に蹙(ちぢ)まり、時局是より一新せんとす。此時に方り我邦にして苟(いやし)くも東海の表に屹立し、富國強兵の實を擧げんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦樂を同ふするの精神を以て、士の常職を解き、其世禄を廢し、階級の制度を撤去して、國民皆兵を實行したりき。」

明治新政府が封建的な身分制度を改革して四民平等政策をとり、士族を路頭に迷わせてまでして国民皆兵の政府軍を作ろうとした流れは、この板垣の戊辰戦争に関する感想を読めば腑に落ちる。
板垣はここでは「愛国心」という言葉を用いているが、文脈からすれば「愛郷心」に近いと思う。しかしもしわが国が外国との戦いに巻き込まれたとしたら、それに勝つためには自らの郷土を愛するだけではなくこの国を護ろうとする「愛国心」に高めて、国民にあまねく普及させることが必要である。そのためには、士族の持っている特権を国民に広く享受させる一方、兵士になって国のために戦い、死ぬことにおいてもすべての国民が平等であるべきだと考えたのだ。

しかし明治の日本は、板垣が理想と考えていた方向とは違う方向に進んでいく。
明治4年(1871)に廃藩置県が完成して「藩」は制度としては廃止されたのだが、薩長を中心とする藩閥政治が長い間わが国の政治を支配することになるのだ

菊地寛

菊池寛はこの時代の流れをこう書いている。
「しかし、藩閥政治が強大になるにつれて、この反対勢力も勢力を得てくる。藩閥が自己の利益を中心にして、団結しようとすればするほど、これに対する民間の反抗は漸次組織立っていき、自然々々の中に、これが政党という形を採ってくるのだから面白い。 
明治6年の征韓論の決裂は、土佐を政治の中心から追い出しているが、この時飛び出した板垣退助、後藤象二郎等が、後の自由党結成の中心になったのも皮肉だし、明治14年の政変で、藩閥政治は無理やりに佐賀出身の大隈参議を罷免したが、大隈は負けずに改進党を組織して、藩閥打倒の旗幟を高く揚げるようになったのだから、これもまた皮肉である。」(同上書 P.91)

明治6年に征韓論が決裂し板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が下野し、板垣、後藤らは、明治7年(1874)に「愛国公党」を結成したが、世の注意を惹かずに自然消滅となる。
板垣は同年故郷の土佐に帰り立志社を設立し、明治11年(1878)には大阪に出て同志を糾合して愛国社と改称してその勢力を拡大し、全国的な運動団体となる。
そして明治13年(1880)には国会期成同盟と改称し2府22県、8万7千人の署名を集めて政府に国会開設を請願したという。

このあたりのことは教科書にも書かれていたのだが、学生時代に学んだ時に、なぜこんなに自由民権運動がこの時期に国民に広まったかについては腑に落ちなかった。教科書には薩長の藩閥政治がいかなるもであったかがほとんど何も記されていないから、わからなかったのだと思う。
菊池寛の文章は、そういう疑問点をスッキリ理解させてくれるのでありがたい。

自由民権論がこれほどまでに全国民にとって魅力的となったのは、1つには当時の官僚たちが、封建大名以上に威張り散らしたことに対する反抗であった
 当時の知事が地方巡回をするときは、人民に対して土下座を強要した者があった程である。地方の多少でも、気骨のある有志が、こうした役人の横暴を実際に見て、大いに怒り、自由民権の叫びを挙げるのも当然だったのである。
 これに対して、自由党の板垣でも後藤象二郎でも、かつては参議までした人物が、一般人民と膝を交えて政治論を闘わせたのであるから、その人気が益々高くなったのは無理もない。…」(同上書p.95-96)

三島通庸

当時の知事(県令)で悪名高い人物としては薩摩出身の三島通庸(みしまみちつね)が有名で、山形、福島、栃木の県令時代に住民の反対を押し切り土木工事を進めて住民に増税や労役賦課、寄付金強要を行ない、批判に対しては弾圧一辺倒であったという。藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』の次のページには、三島通庸と戦った田中正造の活躍が描かれている。
http://www.ashikagatakauji.jp/tanaka/tanaka06.html
また宮武外骨は『明治奇聞』の中で、「圧制三県令」として「明治十五年頃、政府が民権家を敵視して圧迫加えた当時、最も辛辣を極めた地方官中の三酷吏」として、福島県令・三島通庸、岡山県令・高崎五六、愛媛県令・関新平を挙げているという。調べると高崎五六も薩摩出身、関新平は肥前出身だ。
http://blog.svp2.com/?eid=938821
以前このブログで書いた、廃仏毀釈で奈良の寺院の文化財などを収奪し財を成した堺・奈良県令の税所篤(さいしょあつし)も薩摩出身である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html


このブログで何度か書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは為政者にとって都合の良いように編集され、為政者にとって都合の悪いことは書かれないものだと考えて良い。教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官製史料を重視するスタンスで叙述される傾向が強いと思うのだが、それでは何回読んでも、為政者にとって都合の良い歴史を読むことになって、真実が見えてくるとは限らない。
真実を追及していくためには、同じ時代を生きた人々の記録と読み比べて、その上で本当は何があったのかを考える姿勢が不可欠なのだと思う。

ところで先ほど紹介した藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』には、田中正造に対して三島通庸が刺客を送り込んだという記述がある。
もしかすると、明治15年(1882)に板垣退助が岐阜で刺客に襲われたのも、同様な背景があったのかもしれない。板垣を襲った相原は北海道に向かう船上で行方不明となっており、板垣襲撃を計画した者に殺害されたという説もあるようだ。

板垣退助遭難の図

有名な『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、板垣が岐阜で襲われた時に発したとされているのだが、右胸、左胸を刺された本人が刺客に対して言う言葉としては芝居のセリフのようで、どうも不自然だと思う人は私だけではないだろう。
本人は別の言葉を発したとかいろいろな説があるようだが、事件後の報知新聞の取材では、刺客の相原を抑え込んだ内藤魯一が事件時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」を、内藤が、板垣が叫んだことにしたという説がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この内藤魯一は、明治17年(1884)民権運動を弾圧した三島通庸や大臣たちを爆殺しようとした加波山事件に連座して2年の獄中生活を送った人物だ。

菊池寛は、この板垣襲撃事件を自由党が党勢拡大に利用したことをうまく書いている。
「明治15年3月、自由党総理、板垣退助は東海道の遊説に赴き、静岡、名古屋を経て、4月6日に岐阜において大演説をなした。
 将に玄関を出ようとするところを愛知県の小学校教員、相原某に襲われた。傷は浅かったが、この報が全国に伝わるや自由党員はこぞって岐阜に集まり、これ政府が手を廻して板垣総理を殺さんとしたのであると慷慨激越、意気正に天を衝くの慨があった。
この時板垣は刺客を睥睨して、
『板垣死すとも自由は死せず』
と一喝したとの挿話は、殉教者の様な響きを以て、全国に伝わったのである
。」(同上書 p.96)

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Comment
No title
おじゃまいたします。
板垣退助の「8万7千人の署名を集めて政府に国会開設を請願」の政治的手続き(形式)は誰から(何から)聞いた(知った)のだろう?という疑問が湧きました。
Re: No title
あまり詳しいことまでは知りませんが、政府に対する要望書の手続きは昔も今もそれほど変わりはないと思います。
江村栄一氏の研究によると1879年(明治12)7月24日の『朝野新聞』雑報に,千葉県の一地方民権家桜井静という人物が起草した「国会開設懇請議案」が掲載されたそうです。
http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/064314.htm
1880年の1年間だけでも全国で起草された国会開設請願・建白の数は75件を教えあげることができるそうで、それらの署名を取り集めたものなのでしょうか。
土佐と自由民権運動…
しばやんさんへ

恥ずかしながら、「GHQ焚書図書」というのがあることを、このブログを見るまで知りませんでした。
やっぱり、勝者というのは、こんなことをするのですね。

板垣退助は、会津戦争の頃から「国民皆兵」のことを考えていたのでしょうか。

自由民権運動と土佐の歴史を考えると、戦国時代までは、土佐は「長曾我部サムライ」が中心だったところ、関ヶ原の戦いで功を得た山内一豊が転封された土地柄ですよね。山内家は長曾我部氏の時代の侍層を採用せず、進駐軍のように土佐に入り、長曾我部サムライを「郷士」として身分を低いものとして扱い、正式の山内サムライとの差別がすごかったようだとのことを本で読んだことがあります。

・・・道で会えば、膝を地面につけて挨拶をせねばならないとか、斬り捨て御免だったとか…。

土佐が、維新後このように民権運動の走りになったのは、このような歴史的な背景もあったのでしょうか。
Re: 土佐と自由民権運動…
鹿児島のタクさんへ

西尾幹二さんが「GHQ焚書図書開封」シリーズを上梓されてすでに8巻まで出ています。
この本には「戦勝国にとって都合の悪い史実」が満載で、1冊でも読めばわが国で広められている歴史がいかに歪んだものであるかが誰でもわかります。
シリーズの第1巻の付録P.18に著者別冊数ランキングがありますが、それを見ると、共産主義者やプロレタリア作家の本は焚書処分されていないことがわかります。そのことは、GHQが何を隠したかったということと無関係ではないはずです。

鹿児島のタクさんの、土佐が民権運動の走りとなった考察、面白い見方だと思います。
No title
詳しく調べてくださって恐縮です。
明治初期に活躍された桜井静という方についても興味を持ちました。
ありがとうございました。
Re: No title
あまり知らない人物なので調べてみました。
次のURLで写真付きで比較的詳しく書かれています。

http://www3.ocn.ne.jp/~minken/sakurai.html
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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