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自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯

自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。
政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。
明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを巡り政府内の対立が深まり、政府は国会開設の勅諭を出して、明治23年(1890)に国会を開くことを約束するとともに、大隈参議を辞職させ、伊藤博文を中心とする薩長の政権が確立した。(明治14年の政変)

その直後に、国会期成同盟を母体に板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌明治15年(1882)には大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。

以上のことはどこの教科書にも書かれていることなのだが、この2つの政党の違いが、よくわからなかった。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「両党とも各地で演説会をひらき、機関誌を発行するなど、政党政治の実現をめざし、都市の知識人(おもに士族)や地方の地主・豪農・商工業者などのあいだに勢力をひろめた。その活動は、志士的気風に富み行動力の活発な自由党のほうが、イギリス流の穏健で着実な議会政治を理想とする立憲改進党よりも急進的であった。」(p.236)
と記述されている。
学生時代には「急進的」と「穏健」という言葉で自由党立憲改進党を記憶したが、2つ政党の主義・主張、活動方針がどう異なるのか。こういう肝心なことが何も書かれていない。

前回紹介した菊池寛の『大衆明治史』に、新たな政党を設立して大隈が総裁になるのではないかと言う風説が出て、藤田一郎と言う人物がその真偽を確かめた一問一答をまとめた「東京日日新聞」の記事が引用されている。ここで大隈は自由党に対して結構過激な発言をしているが、こういう文章を読むと、自由党立憲改進党の違いが見えてくる。

大隈は、政府にいても民間にいても自分の主義主張は変えないと述べたあとで、板垣退助を厳しく批判している。
大隈重信

「…彼(か)の板垣退助君の如く、征韓論を以て内閣を去りながら、数月を出でずして民撰議院設立の建白書を上るというが如き挙動は、予の敢てなすところではない。予は主義によって政府を去り、その主義を以て民間に唱う、何ぞ出所の正しからざることあらん。
予、熟々(つらつら:つくづく)近時の我が国情を考えるに、政党組織も遏む(とむ:とめる)べからず。政談演説も絶つべからず。必ずや一日は一日と多くなることと思う。これのみではない。予が兄と共に憂うべきことは、今日の政党者流の挙動である。彼等は政府といえば善悪を弁せず、郡吏、巡査さへも攻撃せんとし、民権と言えば、政府に抗すれば、得られるものと思っている。その最も甚だしきものは彼の自由党の類である。このままに放置して置けば、遂には社会を破壊するに至るであろう。これが予が不敏を省みず、自ら任じ、民間にあってこれを矯正し、国家の保安を維持して、聖天子に報い奉らんと欲する所以(ゆえん)である。予豈(あに:決して)徒(いたずら)に事を好んでこの事をなさん。」(菊池寛大衆明治史』p.99)

大隈はこの発言ののち、明治15年(1882)3月14日に立憲改進党の趣意書を発表し、16日に木挽町で結党式を挙行している。

大隈も板垣も、二人とも薩長閥が権力を握った政府と戦うために政党を作ろうと考えたのは同じだと思うのだが、大隈は、自由党のように政府のすることなすことに抵抗していたら、いずれわが国の社会が破壊されてしまうとまで述べていることは注目して良い。

菊池寛は二つの政党についてこう解説している。
菊地寛

日本の政党が、とかく主義を主としないで人を主とし、ややもすれば封建的な権力争いに浮身をやつす傾向は、既にこの頃から萌(きざ)していたのである
 自由党と改進党は、ともに立憲主義を抱き、藩閥を敵としていたのだから、共同戦線を張ったらよさそうなものだが、実際はお互いの軋轢や党争を繰り返しているのは、その主義と言うより党風の相違とその総理である板垣と大隈の性格の相違に依るものが多い。
 意気を尚(とおと)び、情熱家の板垣は、智略を事とし、品格を重んずる大隈とは合わない。だから自由党に集まる者は、燕趙悲歌*(えんちょうひか)の壮士、地方農民と不平士族が多く、改進党を支持する者は学問常識を誇る者や都会の商工業者が多かった
。」(同上書p.101)
*燕趙悲歌の壮士: 時世を慷慨する者

このようにして自由党、立憲改進党が相次いで成立したのだが、政府が約束した国会開設は明治23年(1890)であり、立憲改進党が出来た年から8年も先の話である。両党にとっても8年近く運動を継続し、支援者を増やして資金を集め続けることは容易な事ではなかったはずだ。しかも両党の党首が仲が良くないときている。そこに薩長藩閥の明治政府がつけ入る隙があった。
板垣退助

政府はまず板垣を外遊させている。
板垣退助は、岐阜で暴漢に襲われた半年後に後藤象二郎とともにヨーロッパに旅立つのだが、その外遊費用2万円は現在価値にして4億円近いとされ、こんな資金が自由党にある筈がなかった。では誰が出したのか。
通説では三井財閥が出したと言われているのだが、板垣の洋行費の出所が改進党系の新聞で追及され、自由党内でも問題になったため、板垣の分は別の人物から工面したというのが真相のようである。

以前このブログで吉野の山林王・土倉庄三郎のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html
土倉庄三郎

この土倉庄三郎が板垣の洋行費の大半を工面したとことがわかっている。
田中淳夫氏は著書『森と近代日本を動かした男』の中で、自由民権運動を経済面で支えたのはこの人物であったことを詳細に記しておられるが、その当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたという。
土倉がなぜ自由民権運動を支援したかについては、田中氏は当時奈良県が大阪府に統合されていたことと関係がある事を示唆しておられる。
森と近代日本を動かした男
以前私のブログにも書いたが、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまっていた。
そのために、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発し、「奈良県再設置」の運動が拡がった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html
土倉庄三郎自由民権運動の高まりに期待して多くの資金を支援したのだが、その資金は最終的には役に立たたず、恒岡直史・今村勤三議院らが政府に何度も陳情して「奈良県再設置」の実現にこぎつけている。

話を板垣の外遊に戻そう。では板垣は、なぜ外遊しただろうか。
板垣は伊藤博文が憲法調査のため西欧に行くことに刺激されて、自分も立憲政治の実情を知りたいと考えていたところに後藤象二郎がその計画を応援したということのようだが、この事情を調べていくと、自由党のリーダーの外遊させて自由党の弱体化を謀ろうとする伊藤博文や井上馨の意図が見え隠れするのだ。
後藤の外遊資金は政府が斡旋した三井の資金を受け取ったと思われるが、板垣の場合は改進党からその資金の出どころを追及されたために、板垣は三井の金を受け取らず土倉庄三郎の資金を頼ったことになる。
この間の事情は、田中由貴乃さんの論文『板垣洋行問題と新聞論争』などが参考になる。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0040/DB00400L001.pdf

しかし、自由民権運動が全国的に盛り上がっている時期に、自由民権派のリーダーである板垣が外遊することに反対する自由党幹部が少なくなかったようだ。板垣は後藤らに説得されて外遊を強行したのだが、そのために自由党を去った者も少なくなかったようだ。

そのタイミングで明治政府は、リーダー不在の自由党を叩いている。
ここで、前回の記事で紹介した「鬼県令」の三島通庸(みちつね)が登場する
菊池寛の文章を再び引用しよう。
三島通庸

福島県令三島通庸が、『自由党と火放け泥棒は一匹も管内に置かぬ』と嘯いたのは有名な放言であるが、藩閥官僚の面目は、この一句に躍如としている。
 藩閥政治家は、まずこの二大政党の仲の悪いのに乗じて、一層この乖離に努めた
金をバラまいて居た板垣を洋行させるかと思うと、大隈にはその糧道を絶って、その咽喉首を締め上げている。更に正面攻撃では巌法酷刑を設けて、政党員の活動を手も足も出ぬように縛り上げたのである。
 指導者を失い、酷刑に脅かされた自由党は遂に非合法的なギャング党になり、各地に武器をとって政府に反抗する暴動が頻発した。温健をもって誇っていた改進党も、次第に強硬な闘争党となって、長く反政府軍の先鋒となったのである。
 この気分が、国会開設まで残り、主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だと言って不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々がいたるとこで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

少しばかり補足しておく。
三島が福島県令になったのは明治15年(1882)で自由党が結成された翌年のことである。
福島県は自由党勢力が盛んな地域であり、三島は県令に就任するや、会津若松から新潟、山形、栃木に通じる道路(会津三方道路)の開削に着手した。その手法は重税を課した上に県民を強制的に徴発して労役奉仕させるもので、それに応じない者の財産を競売に付したりしたという
三島の強引なやり方に反対して、同年の11月に数千人の住民が喜多方警察署に押しかけ、約2千人が逮捕されている。(福島事件)
また翌明治16年(1883)3月には新潟の自由党の活動家ら37余名が政府転覆容疑で逮捕されたが、逮捕された大部分が冤罪であったという。(高田事件)

同年6月に帰国した板垣は、党再建のための政治資金集めをはかるが失敗し、翌明治17年(1884)3月には総理権限を強化して党員の結集を図ろうとしたが、地方の急進派を押さえきれず、9月には栃木県令三島通庸の暗殺未遂事件(加波山事件)を引き起こしてしまう。
この事件により党内で解党論が高まり10月29日の党大会で自由党は解党したのだが、その2日後の10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方で農民が武装蜂起し、高利貸しや役所などの書類を破棄し、政府は警察隊・憲兵隊だけでなく東京鎮台の兵士まで送り込んで鎮圧するという事件が起こっている。(秩父事件)

一方立憲改進党の方はどうであったのか。
立憲改進党は自由党総裁の板垣退助の洋行費の出所を批判したが、自由党からも同様な批判を受けたようだ。
早稲田大学のホームページに、政治家としての大隈重信のエピソードを纏めたページがある。
http://www.waseda.jp/jp/global/guide/founder/statesperson.html

そこには、こう記されている。
1883(明治16)年、自由党は、大隈と三菱は結託しており、一企業の利益を優先する政党は『私党』だ、『偽党』だと、激しく改進党を攻撃しました。海坊主(三菱)と大隈を退治せよと演説し、熊の人形を引きずり出して火をつけたりして、両党の亀裂は深まっていきました。
 政府による妨害と経済界の不況があいまって、党活動は困難へと追い込まれます。1884(明治17)年11月、自由党の解党に続いて、改進党にも解党問題がおこり、党内は賛否両論に割れました。大隈は調停をはかろうとしましたが、これに失敗し、ついに12月、脱党届を提出して党を去ります。以後、改進党は都市知識人を中心とした集団運営体制へと移行し、党首を欠いたまま、1890(明治23)年の帝国議会の開設を迎えました。」

かくして自由党も立憲改進党も衰退してしまうのだが、帝国議会の開設が近づくと、後藤象二郎が自由民権運動各派を統一させようと再び動き出す。(大同団結運動:明治20-22年)
明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させている。また明治22年(1889)には、後藤象二郎を逓信大臣に入閣させて、大同団結運動から撤退させた。またその年に旧自由党のメンバーの一部が大同協和会を結成し、翌年に自由党と改称している。
明治23年(1890)に帝国議会が開催されると板垣退助を擁立する声が高まり、自由党と愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党している。
第2回帝国議会

こんな細かい話はどうでもよいのだが、菊池寛はわが国の政党の問題点をこのように簡潔に述べている。

「…主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だといって不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々が到るところで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

菊池寛が『大衆明治史』を上梓したのは昭和16年(1941)のことなのだが、党利党略を優先し不必要な摩擦を繰り返して、国家の重要な問題の解決を先延ばし、わが国の発展を阻害してきたというのは、今日の政治家も同様なのではないか。
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このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いて見てください。

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html


吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html



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Comment
組織を動かすのは難しい!
しばやんさんへ

今回も楽しく読ませていただきました。
(私にはかなり、レベルが難しいですけど…)

権力側(薩長・明治政府)も、民党の力を削ぐために、いろいろな手を打っているのですね。

それにしても、権力側にたてつく(この言葉が適切かどうか?)だけで、自由民権だと当時の人々が考えていたとしたら残念です。でも、これは現在も同じですね。…そのことは、健全な社会を運営するために必要なことでもあるのですが…。

それにしても、自由党にせよ、立憲改進党にしても、巨大になった組織を動かすというのは、難しいものだと感じました。リーダーの“力量”…大事ですね。

私は、鹿児島ですので、今回のブログを読ませていただいて、西南戦争のことと関連付けて感じました。西郷隆盛が下野した後、鹿児島で「私学校」という組織を作って、軍事訓練をしたり、農地開墾事業に取り組んでいるのですが、きっと西郷の意思とは異なり、結局のところ…いろいろあって“西南戦争”となってしまう。

大きな組織を運営するのは、難しいものだと改めて認識しました。
Re: 組織を動かすのは難しい!
鹿児島のタクさんへ

いつも読んで頂いてありがとうございます。
明治政府が帝国議会の開設を約してから、8年間も政党を維持することもまた大変だったと思います。
政党を維持するためには、出資者や寄付金を集めなければなりませんし、無理して資金を集めれば、出資者の意向にも左右されることになってしまいます。
むかし、「政治家は男芸者」という言葉がありましたが、そのように形容されるような政治家は嫌いです。ところが、今もそのような政治家が少なくないですね。
政治家たるもの、つまらぬことで信念を曲げてほしくないです。主義や信条で国民を魅了するような存在でければ、とても大きな組織は動かせないでしょう。今の政党の党首も、かくあってほしいものです。

こんにちは^^
しばやんさま、
まずは、おめでとうございます。
立派に巣立っていかれた長男さんを送り出され、感慨もひとしおでしょう。でも、一抹の寂しさもおありなのではないでしょうか。
いつか私もそのようなときが来るのでしょうか。
なんといって送り出すのか・・・ああ、なんだか今から涙が出てきます。

さて、板垣退助先生、こうして読ませていただくと謎の多い人物だったのですね。
ドラマでは敵側でしたが、あっぱれな人物で、憎みきれませんでした。
一つ前の記事に書かれた板死すとも~の台詞、命を削りながら、普通の人物ならとても口から出るものではありませんが、板垣先生なら口にされたのではにか、と私は信じられます。

岩倉具視はダークでしたが、よい影響も残していますね。乾の姓から板垣に替えた経緯は昨年八重の桜のレビュー書いていたとき知りましたが岩倉の発案だったとは・・・やはり彼は怪物ですね。
しかし、500円札が100円札に姓を替えろ、と命じる・・・可笑しかったです。
岩倉が乾(板垣)に助言したことが、後世の私達にも影響があるなんて、歴史の洒落たいたずらみたいなものを感じます。

会津戦争では敵ではあったけれどその戦争の経験から学び、下々の言葉に耳を傾け、いま私たちが生きるデモクラシーの基盤を築いてくれた板垣先生には、どれだけ感謝しても足りません。
日清戦争のころから、晩年の評価は厳しいものがあったようですね。
でも、時代の流れとともに、また彼の思想が正当に評価されるよう、願ってやみません。
Re: こんにちは^^
美雨さん、ありがとうございます。

長男は大学卒業して関東の企業に就職したので、寂しいことはないですが、とにかく結婚が決まって嬉しかったです。子供はいずれは親を離れて独り立ちしていくものですから、その時が来たら喜んで送りだすのが一番です。

Wikipediaによると、板垣の「自由は死せず」という言葉が最初に報道されたのは襲撃された5日後の大阪朝日新聞で、板垣は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事が出たということですが、後の報知新聞の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたと書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

今となっては真実の追及は困難ですが、板垣が本当に発した言葉なら、最初の記事で出てこないはずがないと私は考えています。

板垣の思想はもう少し勉強しないといけませんが、今政治家にしろマスコミにしろ、政府あるいは米中などの意向に沿おうとする人間が多すぎるのは困ったものです。板垣のような政治家が今こそ必要なのかもしれませんね。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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