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英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本

前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。
大隈重信

しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまでして、入閣したのだろうかと誰でも思うところだ。

菊池寛の『大衆明治史』には、入閣の経緯についてこう説明されている。
寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。
 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである

 大隈は明治14年の政変で、薩長の総攻撃を受けて廟堂を逐(お)われたが、今や再び外相の印綬を帯びて、枢機に参ずることになった。明治21年2月のことである。
伊藤(博文)は黒田清隆を伴ってしばしば大隈を訪ね、過ぐる14年の不始末を詫び、その入閣を懇請したわけである。両人は大隈に『内閣に入れ』と言う。『いや入らぬ』と言う。こうして三人寄っては酒を飲み、泥のように酔っては、話がまとまらずに別れたことが数回に及んだが、結局入閣を承知したのである。」(『大衆明治史』p.145)

伊藤、黒田からすれば、自由民権運動が再び盛り上がることを阻止する意図もあったかもしれないが、井上馨外相の交渉失敗のあと、外相兼務となった伊藤博文総理大臣が外交手腕のある大隈に入閣を要請せざるを得ない程、条約改正問題について世論が盛り上がっており、寺島、井上と二代続けて失敗して、今度失敗しては政府の命取りにもなりかねないほどの重要課題になっていたようなのだ。

「条約改正」というのは、江戸幕府が外交知識が乏しいままに安政年間に結んだ条約が不平等で屈辱的なものであったために、明治政府がそれを改正させようとしたのだが、それが容易ではなかったのだ。
では、条約のどこが問題であったかについては教科書にも記されていたが、『大衆明治史』の文章が具体的で非常に分かりやすい。

「その例の一つは、最恵国条款で、ある一国に認めた特権も無条件で他の国々にも付与されることになって、甘い汁を吸われ出すとキリがないことになる
 第二には、治外法権である。日本国内で外国人が犯罪を犯しても、その外人はその本国の法律で罰せられ、日本の裁判所も法律も、これを如何ともすることが出来ないのである。しかも当時日本にあった外国領事は、多く学問も教養もない者が多く、その裁判は偏頗であり、わが国の威信を傷つける処置が少なくなかった。外人の犯罪はほとんど日本では無罪になったものである。その上、外人からは税金も取れぬのである
 その三は、関税自主権のないことで、輸入税は最低額とされたことである。しかもこの税率は、年とともにますます低下され、従来2-3種に過ぎなかった無税品も、18種の多きに上っている。
 しかも一番悪い点は、これらの条約それ自体が全く片務的で、日本にだけ義務が課せられていることであった。外国人や外国船舶が日本に来て、通商貿易を営み、または日本に居住する際の特権は認めながら、日本人や日本船舶が外国に行った時のことは、一行も書かれていないという、勝手極まる条約だったのである。
 これでは、独立国の面目丸つぶれである。…」(同上書p.141-142)
岩倉使節団

この不平等条約を改正すべきであるとの考えは、明治政府成立の初期からあった。
明治4年(1871)の岩倉具視らによる欧米視察は、各国の首脳と会って条約改正に対する意向を打診するにとどまっている。

しかし「条約改正問題」で世論が盛り上がったのは何故なのか。普通に考えると、余程ひどい事件が続かなければそんなことが起こりえないと思うのだが、いろいろ調べていくととんでもない事件が起こっている。菊池寛の『大衆明治史』を読み進んでいくと、GHQ焚書図書であるからこそ読める記述に出くわすことになる。なんとわが国に阿片が密輸されていたのである
寺島宗則

「西南戦役後、外務卿寺島宗則は条約改正に乗り出し、まず税権の改正について、米国との間に了解ができたが、英国公使の真っ向な反対を受け、せっかく調印した日米条約もフイになってしまった。
 この頃、たまたまわが税管吏が英人の阿片の密輸入を発見し、これを英国領事に引渡し、その処罰を求めたことがあるが、領事はこれに対して無罪を宣告したことがあった。もしこの時、政府にかの林則徐のような硬骨漢がいたら、あるいは第二の阿片戦争が起こったかも知れないが、この事件はうやむやの中に葬り去られたのである。しかし国論はそのままでは収まらず、囂々(ごうごう)として政府の処置を難じ、自由民権論者は、国会が開設されぬから、こんな屈辱的条約に甘んぜねばならぬのだと、攻撃してやまなかった。寺島も遂にこのために辞職のやむなきに至り、この頃から条約改正は、時の政府の命取りとなったのである。」(同上書 p.142-143)

Wikipediaによると、この阿片密輸事件は「ハートレー事件」と名付けられている。
明治10年(1877)にイギリス商人ジョン・ハートレーが生阿片20ポンド(約9.1kg)を密輸しようとして税関に見つかった。阿片は日英修好通商条約附属「貿易章程」第二則で輸入禁制品とされていて、それを根拠に税関長はハートレーを訴えたのだが、領事裁判法廷ではイギリスの法令には違反していないので無罪とした。政府は外交交渉で解決を図ろうとしたが迷宮入りとなったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.95.E4.B8.8A

清では1796年以来阿片の輸入を禁止し、それ以来も何度か禁止令が発令されていたにもかかわらず英国からの阿片の密輸入が止まらなかった。そこで、1839年に林則徐が1400トンにも及ぶ阿片を処分したことから、翌年にイギリスは清に遠征軍を送り両国の戦争となったのだ。

ハートレーはこの事件の直後にも、吸煙阿片12斤を密輸している。もし、このような密輸が拡がってわが国にも中毒者が増えていけば、1840年の阿片戦争と同じことがわが国で起こってもおかしくなかったのだ。

Wikipediaで条約改正の世論が高まる原因となった事件を調べていると「ハートレー事件」の前に「ヘスペリア号事件」という事件もあったことがわかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
わが国では明治10年にコレラが大流行しその翌年も流行したのだが、当時はコレラ菌も未発見で特効薬がなかったので、明治政府は検疫規則を作って検疫の実施を図ろうとした。
ところが、西洋の一部の国は検疫の実施に反発したのだ。例えば、駐日英国公使であったハリー・パークスは、イギリス人が日本の法規を破ったとしてもイギリスの法規を破ったのでなければ犯罪の要件を構成しないとして、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張したそうだ。かくしてコレラはますます拡大していく。
明治12年(1879)には中国大陸から伝わりコレラが西日本で大流行した。7月に明治政府は検疫停船仮規則を作成して検疫実施を各国公使に伝えたが、その直後にドイツ船ヘスペリア号がコレラ流行地の清から日本に直航してきたので神戸港外で停船させた。しかしこの船が、その後神戸から東京湾に入ろうとしたので神奈川県に設けた検疫場に回航させたが、結局わが国の数度の検疫要請を無視して砲艦ウルフの護衛のもとに横浜入港を強行したという事件である。
この年(明治12年)はコレラが西日本から関東地方にも大流行し、この年だけでコレラによる死者が全国で10万4千人も出たそうだ。こんな不平等条約があれば国が守れないことに誰でも気づくことになる

Wikipediaにはこう解説されている。
「ヘスペリア号事件に対して、日本の国内世論は沸騰した。日本の知識人の多くが、この事件やハートレー事件等により、領事裁判権の撤廃なくば国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを理解するようになった。世論は、日本の経済的不利益の主原因もまた、日本に法権の欠如していることが主原因であると主張するようになった。実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然だったのである。」

教科書や通史を読んでもあまりリアリティを感じないのは、このような史実がきちんと書かれていないからである。ところが「日本だけが悪かった」という歴史を描きたい国内外の人々が、「西洋にも悪い側面があった」という史実を書こうとしない。これでは本当の歴史を学べない。
そもそも「条約改正」のような対外交渉を必要とする問題は、余程世論が沸騰しなければ政治家が動かないのだから、国民が悲憤慷慨するだけの出来事がいくつもあったことを無視してはならないのだと思う。
井上馨

寺島宗則に代わって条約改正の担当となったのは、外務卿・井上馨である。しばらく、菊池寛の文章を引用する。

伊藤や井上は、欧米諸国をして条約改正を承認させるのは日本が欧米と同じ文明国であると信ぜしむる必要ありと考えて、極端な欧化政策を採ることになった。西洋建築、洋装、洋食が奨励されて、ダンス、仮装舞踏会などが盛んに行われて、国粋主義者の猛烈な反発をかったのであった。鹿鳴館は明治16年に竣工し、内外人の饗宴場に充てられたのである。
 こうした準備をもって進められた井上の改正案も、まず外国の了解を得る前に、その条件のあまりに国辱的であるとの理由の下に国内からの攻撃によって、中止となった。
 殊にこの6月帰朝したばかりの農商務大臣谷干城は、意見書を奉ってその中止を迫り、その容られざるを知って一人で辞表を出してしまった。…
 よほど鹿鳴館の猿芝居が、疳にこたえたのだろう。世人も多くこの谷干城の態度を高士と称して軟弱外交の政府に迫ったのである。」(同上書p.143-144)
鹿鳴館浮世絵

菊池寛が「国辱的」だと書いた、井上馨の改正案とはどのようなものであったのか。
それは領事裁判権を撤廃し、関税率を5%から11%に引き上げることを了承するかわりに、
「1.条約実施後2年以内に日本は内地を開放し、外国人に居住権・営業権をあたえ、2年以後は内地居住外国人は日本裁判所の管轄に属すること。
2.条約実施2年以内に日本は「泰西ノ主義ニ従ヒ」、すなわち西洋を範にとった刑法・民法・商法等法典の整備をおこない、施行16ヶ月前にその英文を諸外国政府に通知すること
3.外国籍の判事・検事を任用すること
4.外国人が原告もしくは被告となった事件については、直接控訴院(第二審)に提訴することができる。その際、控訴院および大審院の判事は過半数を外国人とし、公用語として英語を認めること。
を、日本側が受け容れるというものであった

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3#.E6.9D.A1.E7.B4.84.E6.94.B9.E6.AD.A3.E4.BC.9A.E8.AD.B0.E3.81.A8.E4.B8.96.E8.AB.96.E3.81.AE.E6.B2.B8.E9.A8.B0
ボアソナード

明治政府の法律顧問であったフランス人のボアソナードは、井上の改正案は日本の法権独立を毀損するものだと述べ「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度をつくりだした政府を非難するようになるだろう」と進言したという。

井上馨は交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、その後は内閣総理大臣の伊藤博文が外相を兼務することになる。また国辱的な井上案の内容を知った民権派が一斉に政府を批難するようになり、反政府運動が高まりを見せる。明治政府は保安条例を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外に3年間追放し政情の安定と、秩序回復を図ったという。

そこで冒頭の話に戻る。
伊藤博文が大隈重信に条約改正の交渉を託したのは、こんな事情があったのである。
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