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陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について

引き続き条約改正に関する記事を続ける。
前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。

早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日本における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。
「…当時の日本国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国辱であるとした。
日本の現状においては大隈案が最良であり、それによって改正が実現すれば、国家財政はいうまでもなく、国民の日常生活も向上し、また豊かになるという現実的利益を考えようとしなかった国権主義の陰に、具体的な国民の利益がかくされてしまったともいえよう。
 反対運動が激しくなった他の理由に、政府部内における対立があった。それは大隈案によって条約改正が実現した場合、国民の間における大隈の声望が高まり、翌年から始まる議会政治において、…立憲改進党が最大勢力となることを、かつての政敵である伊藤・井上らの藩閥政治家が危惧したのである。大隈は薩摩・長州という日本の二大派閥の出身者ではなく、それら派閥の動向に対しては常に批判的であったから、伊藤らは自分たちの政治勢力の失われることを恐れ、国家的利害を無視して大隈案に反対したのである。…」(『日本における条約改正の経緯』p.10-11)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/10153/1/43111_19.pdf

木村氏は早稲田大学の名誉教授なので大隈びいきではないかと考える人もいるとは思うが、明治14年の政変で伊藤博文らの藩閥出身者が陰謀により大隈を政府から追放したのち、伊藤や井上が極端な欧化政策を採って条約改正交渉に失敗すると、次いで伊藤は野に下って立憲改進党の党首であった大隈に条約改正を担当させようとし、黒田清隆とともに口説いて黒田内閣の外相として大隈を入閣させたのである。その大隈が、帝国議会の開催を前に条約改正をまとめそうな雲行きになって、伊藤や井上らの藩閥政治家が自らの政治勢力をを失うことを危惧したという木村氏の解説には説得力がある。

青木周蔵

大隈が失脚した後は、大隈のもとで外務次官を務め、井上馨の時代から改正交渉の実務に当たっていた青木周蔵が外相となり、条約改正を担当した。
青木は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を目指し、まずイギリスから個別交渉に入ったのだが、イギリスは予想に反して日本の提案に同意したのである。

木村氏の解説をしばし、引用する。

それは、当時アジアを含む世界情勢が大きく変化していたからである。その一つは日本が明治17年(1884)の朝鮮の動乱(甲申の変)以後にとった対策によって、東アジアにおける日本の実力をイギリスが認めたことで、第二には明治24年(1891)にロシアがウラジオストークを起点として、欧亜をむすぶシベリア鉄道の建設工事を開始したからである。これはロシアのアジア経営が積極化したことを示すもので、結果としてアジアにおけるイギリスの権益に対する脅威となった。第三に西欧における仏・独両国がロシアと連携して、アジアにおけるイギリスの権益に圧力をかけてきたからである。イギリスはアジアにおける孤立化を痛感し、改めて新興国日本の実力に依頼し、その協力によって自らの地位を維持しようとするにいたったのである。」(同上論文 p.12)

大津事件

したがって、日英間で新条約が成立するかに見えたのだが、明治24年(1891)にわが国を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライが、警備に当たっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられて負傷する事件がおきる。(大津事件)
青木周蔵は、その責任を取って外務大臣を辞任し、せっかくの条約改正交渉も中断されてしまう。

榎本武揚

青木の後任として外務大臣になったのは榎本武揚だが、明治25年(1892)の帝国議会において商法・民法など諸法典の実施延期が可決されて、条約改正よりも重要法案の修正の議論が必要との意見が多数を占め、また第2回衆議院総選挙で品川弥二郎内務大臣の選挙干渉にもかかわらず民党が多数を占めたために政局が紛糾してしまう。8月に松方内閣は総辞職したために、条約改正問題はこの内閣では進展しなかった。

明治25年(1892)、大命を受けた伊藤博文は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行ない、黒田清隆、山縣有朋の両首相経験者を入閣させ、外務大臣には陸奥宗光を迎えている。

陸奥宗光

陸奥は大隈・青木と同様、国別談判方式を採用し、まずイギリスから交渉を開始しているのだが、明治26年(1893)の12月に「条約励行建議案」を帝国議会で突きつけられている。

この「条約励行建議案」というのは、江戸幕府が幕末に結んだ条約のなかで外国人居留地の問題に着目したものである。
条約では、横浜・長崎・函館・神戸・東京・大阪の各開港地に一定の居留地が設けられ、外国人は居留地以外に住みついたり、自由に旅行することが出来ないと定められていた。
ところが、実際には外国人は、日本国内を自由に歩き回り勝手な事をしている。
そこで、民党は政府に対し、「外国人に厳しく申し入れて条約を守らせるようにせよ」と主張した


陸奥宗光外相はこの民党の主張に反対して、閣議にこのような意見書を提出したという。
「近ごろ、外人の内地雑居に反対するやからが増え、協会を作り、各地で運動し、これに付和雷同するものが増えて、猖獗(しょうけつ)を極めている。反対派にはいろいろな分子もいるが、言っていることは畢竟、攘夷ということである。
 …これは、政府が維新以来一貫してとってきた開国の精神に反するもので、断乎押さえつけねばならない。そうしないと条約改正の交渉にも大きな支障となり、維新以来の宿望たるこの大事業も達成できないかもしれない
。」(岡崎久彦『陸奥宗光 下』p.208)

しかしながら議会では、「条約励行建議案」に賛成する者が多数を占めていた。もし、このような議案が議会で可決されたら、陸奥外相が進めている条約改正の交渉にマイナスになるので、伊藤博文首相は12月30日に議会を解散させ、翌年3月の選挙、5月の議会開催まで時間を稼いだのである。
しかし英国の正式交渉がなかなか進まない。

陸奥は明治27年(1894)3月、英国ロンドンにいた青木周蔵公使(元外相)に次のような書簡を送っている。
国内の事情は、日一日と切迫して、政府が、何か人の目を驚かすようなことをしていることを国内に見せなければ、この騒然たる状況は収まらない。理由もないのに戦争を起こすわけにもいかないのだから、唯一の目標は条約改正であり、せめて公式交渉でも始められるよう、精いっぱい働いてみてください。内政のために外交の成功を促進するのは、本末転倒のきらいがないでもないが、この際、やむを得ません」(同上書p.219)

明治27年(1894)という年は日清戦争が始まった年でもある。6月2日に清国が朝鮮に出兵し、6月4日には日本が朝鮮に出兵した。そして6月5日には大本営が設置されている。
わが国にとっては、日清戦争が始まる前に、妥結目前の日英条約を成立させて日英関係を固めることが重要であった。
また、イギリスにとってもアジアでイギリス勢力を保つために、明治維新以降目覚ましい発展をしてきた日本と手を組むとが国益に叶うと考えられていたようである


陸奥宗光やロンドンの青木周蔵の努力がいよいよ実を結ぶ時が来た。
青木公使は7月12日に最後の交渉を行ない、一旦は14日に調印の運びとなることが決定したが、朝鮮の英国総領事が日本との条約改正の調印を妨害する動きが入る。陸奥は英国総領事の主張していることが事実無根であることを確認して、青木に「条約の調印は、これとは別の問題として速やかに行ってほしい」と訓令している。すると17日にロンドンから電報が入った。

蹇蹇録

岩波文庫に陸奥宗光が著した『蹇蹇録(けんけんろく)』という本がある。
この日の喜びを陸奥はこう記している。
「越えて17日暁天に至り、外務省電信課長は余が臥床(がしょう)に就き一通の電信を手交せり。果然青木公使の来電なり。曰く『今回の困難もまた漸く排除したる上、新条約は7月16日を以て調印を了せり。本使はここに慎みて祝詞を天皇陛下に奉り、併せて内閣諸公に向かい賀意を表す』と。余は直ちに斎戒沐浴して宮城に趨(はし)り 御前に伺候し日英条約調印結了の旨を伏奏し、…青木公使に…電信を発したり。『天皇陛下は貴官の成功を嘉(よみ)し給えり。余はここに内閣同僚を代表し貴官に祝意を表す。貴官は英国外務大臣に向かい新条約締結に付き英国政府の好意を陳謝すべし』と。」(陸奥宗光『蹇蹇録』岩波文庫p.125)

150px-1st_Earl_of_Kimberley.png

わが国の謝意の表明に対して、キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだ。

政府は8月25日東京で日英新条約の批准書を交換し、27日に公布した。つづいて各国(条約国15か国)とも同様の条約を調印している。

この条約改正では「治外法権」はなくすことができたが、関税や居留地の問題については充分に解決したものではなかった。しかし、不平等条約の一部とはいえ改正が実現したことの喜びは大きかった。その頃のわが国のマスコミだけでなく議会も条約改正を高く評価している。しばらくWikipediaを引用する。

福沢諭吉

「公布直後の8月28日付『時事新報』では、福澤諭吉が『純然たる対等条約、独立国の面目、利益に一毫も損する所なきもなれば今回の改正こそは国民年来の希望を達したるものとして、国家のために祝せざるを得ず』との社説を掲げ、日英新条約に讃辞を送り、井上・大隈改正案より格段にすぐれていると評価しながらも、かれらの努力があったればこその新条約であるとして交渉担当者の今までの労苦をねぎらっている。8月29日の『東京朝日新聞』社説でも伊藤内閣が絶賛され、9月1日付『東京経済雑誌』も条約改正を手放しで喜んだ。10月18日、大本営の置かれた広島で開催された第7臨時議会では、各派各党とも政府に協力し挙国一致の体制となり、新条約に関する追及や批判はほとんどなかった。
なお、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したといわれている。日本が後顧の憂いなく戦争に突入することができたのは条約改正のおかげだったのである
。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3#.E9.99.B8.E5.A5.A5.E5.AE.97.E5.85.89.E3.81.A8.E6.97.A5.E8.8B.B1.E9.80.9A.E5.95.86.E8.88.AA.E6.B5.B7.E6.9D.A1.E7.B4.84.E3.81.AE.E8.AA.BF.E5.8D.B0

Wikipediaの解説を読むだけでは、なぜわが国と清国が朝鮮半島を舞台に戦うことになったかがピンと来ない。日清戦争については、次回以降のテーマと致したい。
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外交は内政!?
しばやんさんへ

今回も楽しく読ませていただきました。
私にはレベルが高すぎますが…。

「外交は実は内政問題」である。
ということは、今でも時々耳にしますし、
今回のしばやんさんのブログでも感じました。

「日英新条約」というのが、後の日露戦争開戦直前の「日英同盟」の先駆けになっているとしたら、日本外交にとって本当に大きなことだったのですね。

多くの苦労を重ねながら、また条約改正には時間もかかっていますが、明治政府はよく頑張ったなあと思います。
Re: 外交は内政!?
鹿児島のタクさん、いつもありがとうございます。
時の運もありましたが、私も明治政府はよく頑張ったと思います。
今の政府は河野談話の見直しすらできないのは情けないですが、政治家が国益のかかる問題に堂々と発言できないのは、マスコミが反日勢力に主導権が奪われていることと無関係ではありません。
いつの時代もどこの国でも、政治家は強い世論がなければ、強く出ることができないのだと思います。
今はマスコミの誘導する方向に靡く政治家が多すぎますね。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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