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日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う

前回の記事で、明治27年(1894)3月28日に金玉均が暗殺されたことを書いたが、4月2日にはロンドンで英国との条約改正の交渉が始まり、7月16日には英国外務省において日英通商航海条約が調印され領事裁判権が撤廃された。また8月1日には日清両国が相互に宣戦布告し日清戦争が開戦している。
このように明治27年という年は、わずか5ヶ月の間に随分大きな事件が相次いでいることに驚いてしまう。今回はその5ヶ月間について、日清戦争が始まるまでの経緯を中心に纏めてみることにしたい。

1884年に甲申事変が起き、その翌年に結ばれた天津条約で、日清両国は互いに朝鮮から撤兵し、今後もし派兵する必要のある時は互いに報告し合うことを定めたのだが、最初に朝鮮半島に出兵したのは清国の方である。

東学党の乱

その時の派兵理由は金玉均暗殺の翌月に起きた「東学党の乱」(「甲午農民運動」とも言う)と呼ばれる大規模な農民の反乱の鎮圧であった。

朝鮮八道図

菊池寛の文章をしばらく引用する。
「明治27年4月、朝鮮全羅道古阜県に乱民蜂起し、国政改革を名として、殺戮を逞(たくま)しうし、忠清、慶尚道に及びその勢い猖獗を極め、最早朝鮮の軍隊では、どう手の下しようもなくなった。
 この徒を東学党と称し、東学という一種の教派から出た宗教団体であって、…その教えは、儒、仏、道教を折衷混合したものであった。
 …
 東学党の勢いいよいよ熾(さか)んになり、いたるところ官兵敗れ、京城(ソウル)も危険に瀕して来たので、朝鮮政府は清国に援助を求めることになった。
 この時の支那の駐韓公使は怪傑袁世凱(えんせいがい)であって、彼は日本の退嬰政策を機として、韓廷内において縦横の権を揮っていたが、朝鮮政府の求めに応じ『属国の難を救う』と称して、直隷提督葉志超をして兵を率いて、朝鮮に入らせた
しかし、天津条約の取り決めがあるので、出兵の理由を日本に通知してきた。その文中、
『朝鮮政府の来文を覧(み)るに、その情詞切迫なるのみならず、兵を派して援助することは、我が属邦を保護するの旧慣に有之候』
と、相変わらず、朝鮮を属国扱いである
。…」(『大衆明治史』p.168-169)


しかし、なぜこのタイミングで朝鮮半島に農民暴動が起こったのだろうか。閔妃一派打倒の機を窺っていた大院君か、あるいは清国が裏で繋がってはいなかったかと誰でも考えるところだ。

国立公文書館アジア歴史資料センターの公開資料に『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録』という文書がある。この文書は臨時代理公使であった杉村濬(ふかし)氏が記録したものである。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B03030197800?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006092114020180873&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

最近見つけたのだが『きままに歴史資料集』という凄いホームページがあって、わが国の元寇の頃から明治期までの重要な外交資料が多数収集されており、そこに『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録』のポイントとなる部分を現代語で書き起こしておられるのはありがたい。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi057.html

杉村濬

そのHPに、杉村濬氏によるこのような記録が紹介されている。
「当時、全羅道の東学党の勢いは益々盛んであって、西南部一体に蔓延し、その地方の韓兵の力では鎮圧することが出来ず、急報頻繁なるにより、朝鮮政府は兵使洪啓薫を以って招討使となし、京城の兵八百を引率し、同月五日に於いて京城を出発せしめた
 これより先、勢道閔泳駿*は東学党の蔓延の急報に接するや、直ちに京兵を発し、これを討伐せんと企てたが、諸大臣中に不同意の者多く、
 『東学党は良民である。地方官の悪政に堪えられずに蜂起したもので、むしろこれを招撫すべきであって、討伐すべきではない』
と言って遂に出兵を拒んだことにより、閔泳駿も政府内では頼みがいもないと思ったのか、密かに清使袁世凱と謀るに至った。
 袁世凱は最初から、韓兵の脆弱と出兵準備不足の為めに、その成功は覚束ないと悟り、一度官兵が敗れた後に乱徒が北上して京城に侵入する時には、必ず外国と面倒を引き起こしかねないと気遣い、よって韓廷を援助して早く鎮圧せねばならないと思い込んだ
[このことは、余が直接に袁氏から聞いた]。且つこの機に乗じて一つの巧名を立てんことを期し、一時は自ら自国の巡査と商人を引率して出馬せんとまで申し出た程であった。」
*閔泳駿(ミン・ヨンジュン):漢王室の外戚(閔氏一族)。当時は閔氏一族が李氏朝鮮の権力を独占していた。

乱民と言ってもさしたる武器はなかったはずだ。にもかかわらず招討使洪啓薫の軍は野戦砲4門、弾薬140箱を所持して京城を出発したのだが、なぜか武装した兵士の方があっさりと敗れてしまったのである

アジア歴史資料センターにある公文書『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻』の『朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事』に、閔泳駿が袁世凱に援兵を打診する会話が出ていて、『きままに歴史資料集』の先ほどのURLで口語訳が読める。

袁世凱

袁世凱は招討使洪啓薫の軍の動きを部下に観察させていたのだが、閔泳駿にこんな軍隊では討伐できないと述べたという。
「決死敵対する賊ですら討伐するに足る。それを、まして戦おうともしない者等ならいよいよ打ち滅ぼすのは簡単なことではないか。自分は、討伐の挙があると聞いて、それが京城を出発するという日に人を遣ってその動静を観察させた。しかし(朝鮮軍には)威令もなく兵に規律もない。その上陸の日[群山浦上陸の日をいう]に白衣[白衣は通常人が着る(昔は兵士も白衣であったが、この頃の朝鮮軍は青色の制服を纏っていた。)]も軍中に混じっていた。また兵士も気ままに座ったり寝そべったりしており、みだりに(隊列)を出入りしていた。将官たる者も終日相手の力を不安に思い、恐れて兵を進めない。ただそこに陣を留めるのみである。また朝から晩まで恐れていることは、一に、兵士が命令に従わないこと、二に、賊徒と相対することにある。そして道の先十里内に賊がいると聞くと、止まって行こうとしない。このようなものがどうして討伐であろうか。」

確かに、こんな軍隊を派遣しても、乱の鎮圧など出来るはずがない。5月31日に全州城陥落の報が入り、朝鮮政府もついに清に援兵することを決断した、という流れである。

清国がこの時期に朝鮮に兵を送り込んだのは、当時のわが国の内情を観て朝鮮半島に出兵する好機と判断した可能性が高そうだ。しかしながら、わが国は清の予想に反して迅速に反応したのである。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

官民反目の極、議会は解散また解散、予算は毎度不成立に終わったから、海軍拡充計画など、固より円滑に行われるわけはない。(明治)26年の第四議会など、歳出8375万円の予算は884万円の削減を加えられ、殊に軍艦建造費は悉く削られている。清国が日本組みし易しと、朝鮮に乗り出してきたのは、無理はないのである。
 しかし、朝鮮の独立は、多年わが国の生存問題として擁護主張してきたところである。朝鮮半島に清国の覇権が確立する日は、即ちその利刃が日本帝国の脇腹に擬される日である。
 ここに至って、国民の敵愾心は俄然として昂騰し、一戦辞せずの気運は全国的に高まって行ったのである。
 『伐てやこらせや支那兵を、彼は正義の敵なるぞ』
 の歌とともに、まだ戦争もはじまらぬ中から義勇兵を志願する者、各地に続出した

 当時の新聞はこれを伝えて、高知市の練武館800名の官員が義勇兵を志願したこと、旧水戸藩復権士族280名が抜刀隊を組織し、従軍願を陸軍省に出したなどを報じている。」(『大衆明治史』p.170)

新聞は開戦を支持し、国民の世論が燃え上がって、いつのまにか官民の軋轢は消えてしまう。では、なぜここまで、国民世論が日清開戦に向けて昂揚したのだろうか。

朝鮮半島がわが国の生存の問題にかかわる重要な位置にあるという地政学上の問題は重要であることは誰しも理解できるが、そんな理由だけで従軍志願者が続出することはないだろう。当時の国民が心底から清国を嫌い、こんな国は朝鮮半島から追い払ってしまえと思わなければそういうことは起こらないと思うのだ。

国民世論が開戦に向けて昂揚し従軍希望者が続出したのは、前回の記事で書いた金玉均の暗殺の後で死体の首と四肢をバラバラにして、京城その他各地に梟(さら)したこともあると思うが、それよりも前々回の記事で書いたとおり、壬午事変と甲申事変で多くの日本人居留民が惨殺されたことが大きいのではないか。特に甲申事変では多くの女性が清兵に凌辱された上にとんでもない殺され方をしているが、こういうことがなければ国民大衆レベルまで開戦を支持することにはならなかったと考える。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-307.html

またこのブログで2回に分けて、アメリカがハワイ王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇について記事を書いたことがあるが、この出来事も日清戦争直前の話である。
アメリカは、1887年に欧米人に選挙権・被選挙権を与えながらハワイ人にはごく一部の人間しかその権利を与えない憲法を押し付けて、米国人が議会の多数派となって政治の主導権を握り、1893年には軍事力で恫喝して君主制を廃止させようと米海兵隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧し、1894年の7月4日にはハワイ共和国の独立を宣言してハワイ王家を廃絶させている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-180.html
このように、スキあらば軍事力を用いて他国の国土を奪い領土を拡大しようとする意図を持つ大国がわが国の周囲で活動していて、わが国が植民地にされないために必死の思いであったことがわかっていないと、この時代を正しく理解することにはならないのだと思う。

では、当時のマスコミはどんな論調であったのか。
福沢諭吉は時事新報紙上に連日社説を掲げて
「(清国の)陸軍に至っては何百何十万と号するが、一部の外は依然たる旧式軍隊で、新式精鋭なる日本軍に対しては、百姓一揆のようなものである。日支戦争は文明と野蛮との戦争であるばかりではなく日本人の義勇奉公の精神を世界に示す好機会である」と論じ、
徳富蘇峰は国民新聞に於いて
我々の戦うは、維新興国の業を大成せんがためなり。即ち日本帝国統一自衛の道を盡し、外に向かって大日本を膨張せしむるなり。朝鮮の独立、清国の膺懲、ただこの大目的に到着する一手段に過ぎず。即ち吾人は国家自衛のために戦うなり。国民雄飛のために戦うなり。」と書いたという。(菊池寛『大衆明治史』より)

世論の支持が強ければ、政治家の決断が速くなるのはどこの国でも同じである。この時の明治政府の決断は早かった。6月6日の閣議で、日本人居留民保護を理由に朝鮮への派兵が決定している。6月12日には先発隊が仁川(じんせん)に送られ、さらに8千人余りの軍隊が続々と朝鮮半島目指して出発している。
ところが、日清両国軍が朝鮮に出兵してみると、東学党の乱はとっくに鎮められていて、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れたのだが、両国は受け入れずに両軍の対峙が続いたのである。

そこからどういう経緯で開戦に至ったのか。中村粲(あきら)氏は著書でこう解説している。

npnhmrdn.jpg

「我国が大鳥公使を通して朝鮮国王に内政改革を勧説したのは6月26日であった。内政改革は朝鮮政府の改造であるから、それは支那勢力の失墜を意味する。朝鮮政府は袁世凱の後援を得て、強硬に反対した。
 大鳥公使は7月3日、5項26条の内政改革案を朝鮮政府に提示し、20日には清韓宗族関係の廃棄と清国軍の撤退を要求、その回答期限を7月22日と指定した。この間、過去10年に亙って朝鮮属邦化政策を推進してきた袁は、日本の強硬策を察知するや密かに京城を脱出して天津に引揚げた(7月18日)。朝鮮政府は、袁の後を引継いだ唐紹儀と協議し、急場逃れの回答を行なったが、大鳥公使は不満足を表明し、満足な回答なき場合は兵力を行使する旨警告、23日、日本軍は景福宮内の朝鮮兵を駆逐した。閔氏一族は逃走し、長らく政権から遠ざかっていた大院君李是応(りしおう)が日本公使の要望で政権を引受けた。
 政権の座に復帰した大院君は直ちに7月25日、清韓宗族関係の廃棄を宣言し、牙山駐屯の清兵駆逐を我国に要請した。…」(『大東亜戦争への道』p.48)

朝鮮改革談判図

我国が提示した5項26条の内政改革案は、普通の国なら当たり前のことをやれという程度のものだ。その5項は具体的にはこう書かれていた。
「一 中央政府の制度并(ならび)に地方制度を改正し、并に人材を採用する事。
二 財政を整理し富源を開発する事。
三 法律を整頓し、裁判法を改正する事。
四 国内の民乱を鎮定し安寧を保持するに必要なる兵備を設くること。
五 教育の制度を確立する事。」
細目についても、できていないことがおかしいようなことが縷々述べられているだけだ。紹介すると長くなるので引用はしないが、次のURLに全文が出ている。これを読めば、当時この国が腐敗していて、国家の体をなしていなかったことが見えてくる。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi060.html

わが国が要求した改革は、朝鮮国の支配層にとっては痛みを伴う改革であった。朝鮮の民衆には歓迎されたようだが、支配層には改革する意思はなかったという。
日英の条約改正が調印された7月16日以降は、わが国はさらに強気となり、7月20日には清軍の撤退と、清朝間の宗主・藩属関係の解消を要求している。
しかし22日に届いた朝鮮の回答は
①改革は自主的に行う
②乱が収まったので日清両国の撤兵を要求する
というものであった。

大院君

7月23日に日本軍は景福宮内の朝鮮兵を駆逐し閔氏一族を追放して、再び大院君を担いで新政権を樹立させている。そして政権に復帰した大院君は7月25日に清韓宗族関係の廃棄を宣言し、さらに牙山の清軍掃討をわが国に要請した。

日清開戦わが軍大勝利・読売新聞

その7月25日に、日清両国の海軍が朝鮮西岸の豊島沖で遭遇し我が艦隊が清国艦隊を撃滅することになるのだが、日清戦争について書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

桜の咲く古民家の風景を求めて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

開国・維新後のわが国の近代化の礎を築いた津山の洋学者たち
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津山の文化財を訪ねた後、尾道の桜を楽しむ
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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