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薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった

前回は、文久3年(1863)の薩英戦争は、英国艦隊が錦江湾に停泊していた数隻の汽船を拿捕したことから、薩摩軍が砲撃を開始したことを書いた。

薩摩軍が砲撃を開始したなら、英国軍も直ちに砲撃を開始すると誰でも思うところだが、英国軍がすぐに始めたのは、拿捕した汽船内に入って金目のものを掠奪することだった。その汽船は、英国が薩摩に要求していた賠償金よりもはるかに高価な汽船であったようだが、交戦命令が出ているのにもかかわらず、その船内の掠奪に1時間近くもかけているのは驚きだ。

この時に錦江湾に碇泊していた英戦艦アーガス号に乗船していたアーネスト・サトウはこう書いている。
「…正午になると、突如一発の砲声がきこえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。雨が降り、風が台風のように吹いていたのだが、提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。…
 しばらくしてから、わが方も日本側の砲火に応じた。日本側の最初の砲撃に対して旗艦の応戦が遅れた(2時間)わけは、艦上にまだ賠償金が積んであったため、ドル箱の堆積(たいせき)が弾薬庫の戸を開ける邪魔になったからだという。第9砲台の直下に碇泊していたパーシューズ号は、錨(いかり)を切って、逃げ出さねばならなかった。この錨は数カ月後に薩摩の人々が捜しだして、わが方へ返してくれた。こうした遅滞のために、パーシューズ号は戦列の最後方に位置しなければならなくなった。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

江戸幕府からせしめた賠償金が邪魔になって旗艦の弾薬庫を開けるのに2時間近くかかったというのも笑い話だが、おそらくイギリスは薩摩藩との砲撃戦は想定せず、江戸幕府と同様に薩摩藩からも、脅せば容易に賠償金が獲れると甘く考えていたのであろう。
いずれにせよ、旗艦ユーライアス号の砲撃開始が遅れたのは薩摩藩にとっては幸運であった。この旗艦にはアームストロング砲が110ポンド砲5門、40ポンド砲8門、カロネード砲16門、その他22門と、他の艦を圧倒する数の大砲が搭載されていたのである。
この旗艦がたまたま射程圏内に碇泊していたので、薩摩藩は多くの命中弾を浴びせている。
また天候も薩摩軍に味方した。台風のような雨風で波は高く、英国軍はなかなか照準が定まらなかったのに対し、薩摩軍は予てから訓練を積んで砲弾の飛ぶ距離を熟知していた上に、旗艦だけでなく他の多くの英艦船が、薩摩藩の大砲の射程圏内に入っていたようである。

KagoshimaShelling.jpg

引き続きアーネスト・サトウの文章を引用する。

「交戦を開始してから45分ばかりして、旗艦が艦首を転じたのが見えた。次いでパール号が、戦線を離脱してしまった。これは、ユーリアラス号(旗艦)のジョスリング艦長とウィルモット中佐が、第7砲台から発射された球形弾にあたって戦死したためであった。同艦は、知らず知らずのうちに、砲台と日本の砲手が平素用いていた練習目標との中間を進んでいたので、正しく先方の射程距離内に入っていたわけだ。ほとんど同時に、10インチの破裂弾が艦の主甲板でさく裂したと見るまに、7名の水兵が戦死し、1名の士官が負傷した。こうして、10インチから18ポンドの砲弾を持つ37の砲門の一斉射撃をあび、この堂々たる軍艦もすっかり窮地におちいってしまったのである。」(同上書 p.108-109)

英艦のアームストロング砲の射程距離は2kmから4kmまで諸説があるが、薩摩藩の大砲の射程距離はせいぜい1km程度しかなかったようだ。英艦は次第に薩摩藩の砲台から離れて、薩摩の大砲が届かないところから砲撃するようになり、そのために薩摩の砲台は漸次破壊されていったという。
さらに英軍は、工場地帯の沖合にかかっていた5隻の琉球船に火を放ち、鹿児島の町を焼き払うために矢箭(ロケット)を発射した。烈風が吹いていたので、すぐに火は拡がったようだ。

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両軍の損害については、Wikipediaによると英軍側は11名が戦死し、52名が負傷。艦船大破1隻、中破2隻に対し、薩摩軍は、5名が戦死したとある。
人的被害は英軍の方がはるかに大きかったが、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館*、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失し、薩摩藩の物的損害は甚大であったようだ。
これだけ多くの人家が焼失したにもかかわらず、薩摩藩の民衆の死者がなかったのは、薩摩藩が攻撃を開始する前に避難を命じていたからだという。
*集成館:島津斉彬が建設させた、近代洋式工場群。製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲や武器弾薬も製造した。

英艦隊は7月4日(8月17日)に戦死者を水葬したのち、薩摩を撤退し横浜に向かっている。英軍内では、英国の要求を呑ませるために攻撃を続けるか、碇泊を続けるべきという意見も強くあったようなのだが、薩摩軍を圧倒するだけの石炭、糧食、弾薬がなかったことが退去の決断につながったものと思われる。
しかし、薩摩藩に一度も上陸を果たさないままに横浜に戻ったことは、当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめて横浜に敗退したと受けとめられたことは当然だろう。

Wikipediaにはこう記されている。
「ニューヨーク・タイムズ紙は『この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった』とし、さらに、『西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう』とも評している。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

アーネスト・サトウも、薩摩の民家への艦砲射撃を著書で非難している。
「…すでにわが方は、砲台と町の大半を撃破した。そしてリチャードソン**の殺害のことなぞ何も知らぬ多数の無辜の人々を、この砲撃で殺戮したに違いない。その結果、初めの理由は公安破壊の罪に過ぎなかったのを、開戦の理由にまで拡大してしまったのだ。そういうことをやりながら、さらに再び多数の人命を奪ってまでも贖罪を迫ろうとするのは、決して正当ではないと私には思われた。」(同上書 p.114)
**リチャードソン:生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇し、薩摩藩士に殺害された人物。

すでに記したとおり薩摩の人々は事前に避難していたので、アーネスト・サトウが心配していたように、英軍が矢箭(ロケット)を放って民家を焼き尽くしたことによって薩摩の民衆が焼死したわけではなかったようだ。しかし、英国艦隊が艦砲射撃で薩摩の民家を焼いたことは恥ずべき行為であると英下院で問題となり、成立はしなかったが、キューパー提督に対する非難決議が提出されたことは注目して良いと思う。

ところで英国艦隊は、薩摩を去って横浜に向かって最初に為したことは、再び江戸幕府を威嚇することだった。英国からすれば江戸幕府のほうが薩摩藩より交渉しやすいと考えたのだろうか。
『維新史 第3巻』には、こう記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/270

薩英戦争の結果、英国側の企画は全く失敗に帰し、薩州藩の実力の侮るべからざるを知ったが、代理公使ニールは横浜帰港後もなお、表に強硬態度を粧って、頻りに幕府を威嚇した。即ち彼は8月12日、9月9日の両度にわたって書を幕府に送り、速やかに命を薩摩に下して事件を解決しなければ、再び艦隊を鹿児島に送るであろうと虚喝*した。」
*虚喝(きょかつ):虚勢をはっておどすこと

一方薩摩藩は、英艦の再度襲来に備えるため戦争準備を開始していたのだが、今回善戦できたのは悪天候により助けられた部分が大きく、普通に戦っていたならば、射程距離が圧倒的に長い英国のアームストロング砲相手では、勝負にならなかったとの認識があったようだ。
小松帯刀、大久保一蔵らは、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると考え、藩主に薩英講和を説き、かくして薩摩藩は対英講和談判を開始することとなる。

重野安繹

第1回談判は9月28日に代理公使ニールとの間に横浜で行われている。
薩摩藩の交渉にあたったのはのちに歴史学で東大教授となった重野安繹(やすつぐ)だが、第1回、第2回交渉では、英国を相手に一歩も譲っていない。
『維新史 第3巻』をしばらく引用する。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/269

「…薩摩藩は談判の当初より、生麦事件の犯人処刑は承認するが、現在なお行方不明であり、償金の件は幕府の命に従って諾否を決すべしと言い、著しく妥協的態度を示したが、まず薩英戦争の理非曲直を明らかにしようと主張し、ここに開戦の責任について、彼我の間に議論が沸騰した。
即ち薩摩側は、英国艦隊が薩船拿捕の不法行為に出でたことを指摘して、開戦の責任を問うた。これに対して英国側は、元来幕府の了解を得て、鹿児島に回航したにもかかわらず、薩藩は敵意を示して英国の要求を拒絶した。薩船を抑留したのは薩摩の譲歩を促すための手段にすぎず、談判継続中に薩藩の砲台より砲撃を開始したのは甚だ不法であると反駁して、両々相譲らず談判は4時間余にわたって遂に決着しなかった。
 …第2回談判は10月4日に開かれたが、再び激論数刻にわたり、双方強硬に自説を固持して譲らず、ニールは更めて薩摩より犯人処刑を確約する詔書を入れることと償金支払いとの、2か条の講和条件を明示した。而してこの両度の談判にあたって、薩摩側は英国艦隊の威嚇的態度と藩船拿捕の不法行為とを指摘して、大いに開戦の責任を呼号し、終始巧みに応酬して、しばしば彼をして答弁に窮せしめたのである。」

ところが、江戸幕府は談判が決裂するのを恐れて薩摩藩を説得し、翌日の第3回談判において講和が成立することになる。薩摩藩は償金支払いと犯人捜査の承諾を与えるが、その交換条件として軍艦購入のあっせんを依頼し、償金の支払いについては幕府より借用して支払う事で決着した
重野らは島津久光に談判の経過を報告し償金支払いの許可を得たのだが、今度は江戸幕府老中板倉勝重が財政の逼迫を理由に、薩摩藩への貸出に難色を示す。

Toshimichi_Okubo.jpg

薩摩藩は大久保一蔵を江戸に送り、老中板倉勝重と交渉させたのだが、大久保は「幕府がもしこれを許さなければ、対英談判は決裂して、しいては天下の大事となるであろう」と迫り、一方英国のニール代理公使も償金支払いの猶予期限を遥かに過ぎたことに圧力をかけて、江戸幕府は双方の圧力に屈して薩摩藩に貸し出しを実行し、11月1日に薩摩藩は、幕府から借りた金で英国に償金を支払ったのである。
そして薩摩藩は、結局この借入金を踏み倒したようなのだが、江戸幕府と薩摩藩とを比較しても、交渉力は薩摩藩の方が数段勝っていたようだ。

かくして薩摩藩は生麦事件から薩英戦争と続いた大問題を、藩の資金を使わずに解決したのだが、薩摩藩内では、薩英戦争に明確に敗れた訳でもないのに、講和談判において英国に償金を支払ったことにかなり非難があったという。

しかし、薩摩藩が善戦したのは、たまたま英艦が大砲の射程距離内に碇泊していたからであって、もし再び戦うことがあれば、英艦は薩摩藩の大砲の届かない地点から、アームストロング砲を打ち込めば、薩摩藩に壊滅的打撃を与えることは確実だ。射程距離にこれ程の格差がある限りは、再び戦って薩摩藩が勝てるはずがなかったのである。そして、そのことを薩英戦争によって認識できたことが、薩摩藩にとっての最大の収穫であったのだ。

一方英国は、薩英戦争に勝利したとは思っていなかったところに、薩摩藩から講和談判の申し出があり、償金を支払うとまで言ってきたことに驚いたようだ。
アーネスト・サトウは、「驚きながらも、愉快な気持ちでこれを迎えた」(同上書 p.113)と正直に書いている。

英国からすれば、少し圧力をかければ、いつも謝罪で頭を下げて金を払って問題を処理しようとする江戸幕府よりも、筋を通してギリギリの交渉をしてくる薩摩藩の方にこそ、日本の将来を見たのだろう。この戦争の講和を機に、薩摩藩と英国は接近することになったのである。

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【ご参考】
このブログで、「戦勝国にとって都合の悪い真実」について多くの記事を書いてきました。
いくつか紹介しますので、良かったら覗いて見てください。

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html


関連記事
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初めまして
初めまして私も50歳を過ぎて初めて歴史に目覚めました。というよりも、小泉政権から民主党政権に至る政治の変遷、現在の安倍政権のグローバリズムへの転向の中で引っかかるものがあり教科書に書かれている以外の歴史に興味を持ち始めました。
インターネット世界では既に覚醒され教科書に書かれていない歴史を教えていただける方が多くなり見方が変わって参りました。
最近やっとしばやん様のブログにたどり着き少しずつ過去記事を拝読しております。
明治天皇すり替え説、黄河決壊事件、青年将校共産主義者説などびっくりの連続です。
ペリー来航以来大東亜戦争をはさんでも日米関係は結局変わっておらず、明治維新は現在進行形の状態であると最近認識しました。
さて私の最大の関心事はグローバリズムです。ユダヤ教由来のグローバリズムは共産主義と兄弟関係でソ連をほろぼし、今や本拠地のアメリカも食い尽くしつつある状況です。
顧みて我が日本は世界にも稀な縄文時代から途切れなく続く多神教国家です。先進国の中では唯一の非一神教国家です。多神教のメリットを生かし日本文化は海外文明を取捨選択して自分のものとして発展してきました。大東亜戦争は文明の衝突を余儀なくされましたが、将来的には文明の衝突ではなく日本文明が一神教世界を消化吸収してしまうことを想像しております。安倍総理も本当に転向したのではないと信じています。
長々と駄文失礼いたしました。
Re: 初めまして
ネコ太郎さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。
また、有名サイトで私の記事を紹介していただき、感謝感激です。

グローバリズムについては私もネコ太郎さんと似た考えを持っています。
投資家にとって都合の良い制度環境にすることは、大量の敗者を生み、多くの国や地域を干上がらせてしまいます。いつの時代も、単一の価値観を推し進めることが危険な状態を生むきっかけになったことを忘れてはいけません。

日本文明が一神教世界を消化吸収する時代は簡単には来ないでしょうが、せめてわが国でグローバリズムの進行を止めることは、地方の生産者が、大手流通ルートを排して、都会の消費者とネットなどで直接繋がることが広がっていけば、可能ではないかという考えを持っています。
地方で生まれ育った人が、地元で、普通の努力をして普通の生活ができる世界を取り戻すことができれば、きっと次の世代に日本の良さを残し、伝えることができます。その思いを、これからも、このブログで綴っていきたいと思います
ご返信ありがとうございます
しばやん様の歴史解説は明快で的確ですね。私ももっと(正しい)読書をしなければいけないと反省しております。
ネット世界では圧倒的に保守系の歴史認識が人気を博しています。保守系論客には昔の軍人は立派だった、大東亜戦争は正義の戦争だった、という意見の方が多いようです。また保守系論客は軍部の暴走という言葉に否定的です。
私も戦争で亡くなった先人を「無駄死に」呼ばわりすることに不快を感じていましたのでおおむねは同調しておりました。しかし、それでも、あれほどの犠牲者を出す必要はなかったのではないのか、満州で軍人が先に逃げ出したのは本当だったのか、など引っかかることが多くありました。
しかし当ブログを読んで疑問が氷解いたしました。確かに軍部は共産主義者に暴走させられていたんですね。
薩英戦争と無関係なコメントで申し訳ございません。これからもブログ楽しみにしております。
薩摩藩の砲台跡…
私が住んでいる近くに薩摩藩の砲台跡(祇園洲)があります。英国艦隊からの砲撃で破壊されたとの郷土歴史家の話を聞いたことがあります。砲台の礎の一部だけが残っています。

薩摩半島の反対側の大隅半島には現在でも砲門が残っています。

それにしても、英国艦隊の戦艦にアーネスト・サトウさんが、乗っていたとは…。
Re: 薩摩藩の砲台跡…
アーネスト・サトウはアーガス号に乗船していましたが、確か3発ほど薩摩藩の砲撃が命中したような記録がありました。すごい雨風だったので、薩摩藩の方では、撃った大砲がどの程度英艦に命中したのか把握してなかったようです。

薩摩藩が圧倒的な武器の力の差を考慮して、英国に謝罪し賠償金を支払ったので、薩摩藩が負けたという解釈になるのはやむをえないですが、悪天候に助けられたこの戦いに関しては薩摩は決して負けていなかったと思います。また、こういう判断を下した小松帯刀や大久保一蔵は大局観のある人物ですね。

WW2の時と同じ態度の英国
WW2が終わり英軍と対面した日本陸軍
英軍に謝罪をしたが
英軍は君たちは祖国の為に勇敢に戦った
戦死した友軍も祖国の為に戦った
情けない謝罪は友軍の死を無駄にする行為だと

民族の魂は100年、1000年でも変わることなし!
Re: WW2の時と同じ態度の英国
nemoさん、コメントありがとうございます。

「情けない謝罪は友軍の死を無駄にする行為だ」と英軍がわが国に言ったというのは知らなかったのですが、参考までに、出典をご教示いただけるとありがたいです。

わが国の政治家や外務省は、戦後の長きにわたって「情けない謝罪」を繰り返してきたことになりますが、そろそろ、その姿勢が誤りであったことを、多くの国民が気がついても良いのではないでしょうか。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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