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「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。

蒙古襲来絵詞

「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。

たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日本史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。
元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。

「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして、集団でおしよせた。この元軍の戦法に、一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このために日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵をひきあげた。(文永の役)」(同書p.98)
と、文章のどこにも「風」が吹いたとは書かれていないのだ。

では、当時の記録ではどうなっているのだろうか。

元(蒙古)側の公式記録(「元史」日本)では文永の役について、
「至元十一年(1274年)、鳳州経略使の忻都・高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、二百人乗りの船、戦闘用の快速艇、給水用の小舟それぞれ三百艘、合わせて九百艘を擁し、一万五千の士卒をそれに乗せ、七月を期して日本に攻撃をかけさせた。冬十月、遠征軍は日本に進攻して日本軍をうち破った。しかし官軍も統率を失い、また矢も尽き、そのあたりを掠奪し、捕虜を得ただけで帰還した。」(口語訳:『倭国伝』講談社学術文庫p.331)
と書かれているだけだ。
倭国伝

元の軍隊が風で退却を余儀なくされたような情けない公式記録を残したくなかったのかなと思い、二度目の弘安の役(1281)についての記録に進んでいくと、そこには暴風が起こって舟が毀されたことが書かれており、将軍たちは部下を捨てて逃げ、残されたものは舟を作って帰ろうとしたが、日本軍がやってきて戦闘した結果全滅となり、生き残った二、三万の兵は日本の捕虜になって、元に生還できたのは遠征軍十万のうちわずか三名だったと明確に記述されている。
元史」を素直に読めば、文永の役には「神風」はなかったということになる。

高麗の正史である『高麗史』にも文永の役に関する記述がある。
船の中で軍議が行われ、高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定され、「たまたま、夜、大風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗す」と記述されている。ある程度の風は吹いたようだが、それでも約半数が帰還し、日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことなども書かれている。

では、日本側のこの当時の記録ではどうなっているのか。
この点についてはWikipediaも原典のテキストを紹介しているが、「モンゴル襲来と神国日本」(三池純正著:洋泉社歴史新書)が、原典を口語訳されており読みやすい。
モンゴル襲来と神国日本

この本によると、当時の記録として判明している唯一の文書が、京都の公家・勘解由小路兼仲(たでのこうじかねなが)の日記『勘仲記』の中の「文永十一年十一月六日付」の記事で、そこには「或る人が言うには…、凶賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、にわかに逆風が吹いて、本国に吹き帰され、少々の船は陸に上がった。」とだけ、簡単に記されているそうである。
11月6日ということは事件後17日目のことになるが、あくまでも人から聞いた話として書かれている。

『勘仲記』の次に古いとされる記録は『薩摩旧記雑録前編』のなかに収められている文永十二年の「国分寺文書」で、事件から一年後に書かれたものである。
そこには「蒙古の凶賊等が鎮西に来嫡子、合戦をしたが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈んだり、あるいは入江や浦にうち寄せられた」と書かれているそうだ。

一方で、風について何も書かれていない文書もある。鎌倉末期に石清水八幡宮の社僧が記した八幡神の寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、前日までの激しい戦闘の記録のあとで、翌朝の朝の様子をこう記しているそうだ。
「二十一日の朝、博多湾の海面を見ると、蒙古軍の船は一艘もなく、皆々馳せ帰ってしまっている。…皆、滅んでしまうのかと一晩中歎き明かしたというのに、(モンゴル軍は)どうして帰ってしまったのであろうか。ただ事とも思えない。皆、このことで泣き笑いをしたものだ。」
と、文永の役に関する日本側の記述は様々だ。

最初に、最近の研究では文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力と書いたが、最初に「神風説」を否定したのは気象学者の荒川秀俊氏で、昭和33年にが「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論考を発表され、旧暦10月20日以降に西日本が台風に遭遇することは統計的にも存在せず、『八幡愚童訓』等の資料を見ても大風雨があった記録も、モンゴル軍の難破船が海岸になかったことなどを理由に、モンゴル軍船団が一夜にして博多湾から消滅したのは予定の行動であると主張したそうだ。この説が現在では有力説になっているようなのだが、ではなぜ「神風」があったような古い記録が残っているのだろうか。

三池純正氏は先程紹介した著書の中で、非常に興味深い指摘をしておられる。

「…モンゴル・高麗軍との戦いはわずか一日の戦闘だったものの、日本軍は明らかに敗北していたのだ。…ところが、事件後、幕府を糾弾する声はどこからも上がってこなかった。それはなぜであろうか。

翌日…の光景を、遠征軍が勝利の中で撤退したと心底思わない人々が見たとしたら、十中八九同軍が一夜の暴風雨のせいで壊滅したと思うのは無理もないことである。
しかし、これは歴史上の大きな錯覚であり、勘違いであった。だが、この歴史的勘違いは幕府にとって、幾重にも幸運をもたらした。

幕府はこの戦いでは九州を中心とした御家人・武士たちを博多湾岸に派遣し、その一方全国の主要な社寺に命じて『蒙古調伏』の祈祷を熱心にさせていた。幕府に対する非難の声が止んだのは、その幕府が行った祈祷が功を奏して暴風雨=『神風』を吹かせ、モンゴル軍を壊滅させたと認識されたからであった。」(「モンゴル襲来と神国日本」p.96-98)

「(歴史学者の海津一朗によると)当時の考え方では、モンゴル軍との戦争で原動力となって活躍した神々は現場で同軍と戦った武士同様に恩賞をもらう権利があるとされていたという。
文永のモンゴル襲来からほぼ一年後の建治元年(1275)11月、薩摩国の天満宮と国分寺の神官・僧侶は『蒙古退散』の祈祷の成功、すなわち『神戦』への恩賞として、荒れ果てた建物の修理を朝廷に訴え、それが翌月認められたという文書が残っている。同じ理由で京都の東寺も寺の修理や僧侶の待遇改善を朝廷に訴えている。

記録には残っていないものの、全国各地の多くの社寺はこうして朝廷や幕府に『神戦』への勝利の恩賞を求めていったことは間違いない。また幕府も、伊勢神宮や宇佐八幡宮に実際にモンゴルと戦った現場の武士たちに与える恩賞そっちのけでいち早く所領を寄進している。」(同書:p.101)
わかりやすく言うと、幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かったという事なのだ。当時はテレビもラジオもない時代だ。事実でなくとも都合のよい情報を流布させた方が強い世界ではなかったか。 先程紹介した『勘仲記』はともかく、『薩摩旧記雑録前編』『八幡愚童訓』にせよ、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人物が書いているという点がポインである。

ちょっと意外に感じたのだが、江戸時代文政十年(1827)に書かれた頼山陽の『日本外史』も文永の役について「風」のことは一言も書いておらず、敵将を倒したことで敵兵の統制が乱れたことが書かれているだけだ。
天皇中心の国家体制を築こうとした明治政府も、文永の役の「神風伝説」に飛びついて、わが国が「神国」であるとのイメージを国民に広めようと考えたのではないだろうか。

叡尊像

前回の記事で荒れ果てていた奈良の西大寺が、鎌倉時代に叡尊によって復興され、今ある文化財の多くがこの時期に造られていることを書いたが、この叡尊は文永10年(1273)に伊勢神宮、文永11年(1274)に枚岡神社、住吉大社、広田神社、四天王寺、で大規模な『蒙古調伏』の祈祷を行い、それ以降も伊勢神宮、石清水八幡宮などでも祈祷を行って名声を得た僧侶である。その時に恐らく得たであろう祈祷料や恩賞が、鎌倉期の西大寺復興と大いに関係がありそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html

しかし、寺社には多くの恩賞が与えられた反面、よく戦った御家人たちにはほとんど恩賞がなかったらしい。
学生時代に学んだときは、外国との戦いでは没収地があるはずもなかったので、御家人に充分な恩賞を与えることが出来なかったという説明を聞いた記憶が残っている。しかしよくよく考えると、外国からの侵略を防いだとしても没収地がないことは初めからわかっている話だ。祈祷に参加した社寺には金銭等の恩賞を実施したのであるから、蒙古軍と戦った御家人たちにも同様の恩賞を実施してもおかしくなかったはずだ。

竹崎季長

肥後国御家人の竹崎季長(たけざき・すえなが)は文永の役の恩賞が何もないのを不服として、建治元年(1275)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴し、同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たして、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられたそうだ。彼が作成させた 『蒙古襲来絵詞』には安達泰盛と交渉している姿が描かれているが、このようにして恩賞を得た御家人は例外的だったようだ。
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蒙古襲来
中国大陸は民族が入り乱れて構成されてますから、王朝ごと異民族が主導権争いしてきたわけです。また、民族ごとにまとまっているのは少数民族だけで、大きな集団の民族は混血が進んでいて峻別できないため、王朝交代は民族的には大雑把でしょうね。
Re: 蒙古襲来
中国については、中華人民共和国しか知らない世代ですが、ソ連の様にあの国が崩壊する時が意外に近いかもしれません。その場合は、天安門事件以上に多くの血が流れるような気がしています。
昔から
昔から「大本営発表」ですね

今もTVやマスコミは嘘を平気で垂れ流しているし権力側のいいように仕向けて行くのは昔も今も変わりはしない

国民全員が真実を伝えろ、と声を大にしないと無理なのかな


Re: 昔から
ご指摘の通り、今も同様だと思います。

ただ、昔とは異なるのは、ネットと言う情報伝達手段があるということです。

マスコミが、権力者に阿って報道しても、真実がネットで画像などとともに流れれば、一気に世論が動くことがあり得ます。マスコミを正常化させるためには、真実をネットで拡散させることが一番有効です。

嘘ばかり報道しているマスコミは、そうすることによって一気に国民から信頼を失うことでしょう。
「日本軍は勝利してますよ。不慣れだとかは理由になりません。弓の射程や騎馬戦闘でも勝利して敵が逃げ帰っただけですね。乱れたのも散々に打ち負かされたからです。敵は略奪すらロクにできていません。」
明治政府は取り上げましたが、同時に鎌倉武士の奮戦も記述しています。戦後になると神風だけになりました。
二回目も結局終始優勢で戦闘を進め、台風が来て敵が逃げました。
鎌倉幕府の滅亡もこのこととは関係ありません。
蓋を開けてみればこんなものです。
Re: タイトルなし
戦後になってから歴史が書きかえられたのではありません。蒙古軍に勝つことを祈祷をした社寺は祈禱の効果があったとして、武士よりも多く恩賞を与えられましたが、この祈禱が『神風』を吹かせたとする歴史叙述が広められました。
「神風」の解釈が間違ってるのです
「神風」の意味を間違って解釈されているので少しばかり。

そもそも「神風」とは伊勢国の枕詞です。和歌には「神風の伊勢」という語句が記紀万葉の時代から使われています。

そこで、中世の万葉集の解説本「萬葉集註釈」を見ると、伊勢国風土記からの引用として(伊勢風土記は現在失われているため逸文と呼ばれる。)神武天皇東征の折、伊勢の国津神「伊勢津彦」が神武天皇に国譲り(!)を行い、船に乗って大風とともに海の向こうに去っていった、故に「神風の伊勢の国、常世の浪寄する国」と呼ばれることになった、とあるのです。

つまり「神風」とは、分かりやすく言えば「賊の船が神のような速さで遠ざかること」なのです。暴風雨のことではなかったのです。

文永の役の折、一夜にして忽然と敵船団が消えた姿を目の当たりにして「神風が吹いた」というのは、気象学的な「大風」によって敵船団が撤退した、ということを意味するのではなく、文学的修辞として「神がの為したかのごとく賊が去った」ことを表現しているのです。

昭和の神風特別攻撃隊の「神風」も、明治の熊本・神風連の乱の「神風」も同様の意味です。(神風連は自ら神風連と名乗ったことはなく自称はあくまで敬神党であったーつまり明治人は、宗教的にストイックな排外主義者に「神風」との仇名を奉っていたわけで、そこに「暴風雨」の意味はないのであります。)

「神風」が暴風雨になっちまったのは、記紀万葉から遠ざかった戦後日本人が、弘安の役の印象の強さによって「神風」の言葉の意味を変化させつつあるためなのです。


西大寺の僧・叡尊についてですが、彼の祈祷は上皇からの勅命であります。さらにこの国難に際して神仏習合の両部神道を編み出し、普及させ、神道界・仏教界の統合に成功しました。西大寺に恩賞が過剰なのは、鎌倉幕府の朝廷対策の文脈も見逃せません。
上記の参考リンクをURL欄に貼りました。
國學院大學の「万葉神事語辞典」です。
Re: 「神風」の解釈が間違ってるのです
貴重なコメントありがとうございます。

このような解釈があることを初めて知りましたが、一理ありますね。

しかしながら『近代デジタルライブラリー』で戦前の歴史書を紐解いても、文永の役で「暴風雨」という表現が必ず出てきます。戦後になってから「暴風雨」という解釈になったわけではなさそうです。遡って頼山陽の『日本楽府』でも「恨むべし東風一駆大濤に付し」とあり、江戸時代も「暴風雨」が吹いたと考えられていたと思われます。


暴風雨はあった
高麗史が「会夜大風雨」と言っている以上、暴風雨はあったでしょう。
しかしそれは撤退の原因ではなかった。なぜなら暴風雨は元軍が軍議で撤退を決めて博多湾を出航した後に吹いたからです。
暴風雨の証拠としては「安国論私抄」に、難破船が津々浦々に漂着したことが述べられています。なかでも壱岐に集中的に漂着しており、百隻以上を数えています。
恐らく、元軍が博多湾を出航した一日目か二日目の夜、壱岐周辺で暴風雨に遭った、というのが真相と思われます。
Re: 暴風雨はあった
ノロさん、コメントありがとうございます。

『安国論私抄』の記録は知りませんでしたが、次のURLに比較的詳しく紹介されていますね。
https://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/53553393.html

文永の役については神風(暴風雨)が原因でなかったことは拙記事に記したとおりですが、上記のブログ記事では、高麗軍は博多に上陸せずに壱岐で退却を命じた可能性を示唆しておられます。その可能性も考える必要があるかもしれません。
その説は撤回されています。
しばやんさん、コメント有難うございます。

「壱岐から撤退」説は成り立たないと思っていますし、そのブログ作者自身が下記ページで撤回しています。
https://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/56175927.html
「『金綱集』によって、これまで曖昧にされていたモンゴル艦隊の遭難が、10月20日の夜、博多湾内の出来事であったと特定されたことになります。
残念ながら前回このブログに書いた説は、『金綱集』の出現によって成立しなくなりました。」

壱岐撤退説をやめて、新たに博多湾内遭難説を出しているわけですが、新しい説もまた文献の解釈誤りに基づいていると思われます。

結局、暴風雨は博多~壱岐間の航海中、あるいは壱岐に到着して停泊中に起こったと考えるのが最も妥当だと思います。
Re: その説は撤回されています。
ノロさん、コメントありがとうございます。

たまたま検索で見つけた記事ですが、続編で撤回されていたのですね。

日蓮の弟子の日向が記した『金綱集』のことは知りませんでしたが、かなり具体的に書かれていますね。なぜこのような史料が無視されてきたかが不思議です。
この記事で「幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かった」ということを書きましたが、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人々にとっては、博多湾から蒙古軍が撤退した後に大風雨があったとする『金綱集』の記録は面白くなかったのかもしれませんね。
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「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1 - しばやんの日々 当時の船は帆船ですので、帰ろうと思ったときに帰れるわけではありません。 忽敦は「次に南風が吹くまで、日本軍と戦いながら風待ちできるか」を考えたでしょう。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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