HOME   »  地方の歴史と文化を訪ねて   »  大阪府  »  「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1

「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1

ゴールデンウィークに、阪急沿線の水無瀬駅から大山崎駅近辺の名所を中心に歩いてきた。わずか一駅を歩くだけなのだが、水無瀬駅は大阪府で大山崎は京都府になる。この2つの駅の間に京都府と大阪府の境界線があり、古くは摂津国と山城国の国境があった。
この摂津国と山城国の2つの国を結ぶ道はいくつかあったが、唯一山越えをしない「西国街道」が通っているこの地域は、古くから交通の要衝として栄えた地域である。
観光地としてはあまり知られていないのだが、このあたりには国の史跡や、文化財を持つ寺社が少なからずあることを紹介したい。

阪急水無瀬駅で下車してJR島本駅に向かって進むと、国史跡の「櫻井駅跡」がある。
「駅」というのは、大化の改新以降に、中央と地方の情報伝達の為に設置されたもので、幹線道路に原則として30里(現在の16km)ごとに作られ馬を配置したと言われている。
『続日本紀』の和銅4年(711)1月2日の記録に、都の近くにいくつかの「駅」が設置され、「摂津国嶋上郡に大原駅」を設けたとの記録があるが、この「大原駅」が「櫻井駅」のことだと考えられているようだ。

楠公父子訣別之所

この「櫻井駅跡」には立派な「楠公(なんこう)父子訣別之所碑」が建てられていて、この題字は陸軍大将乃木希典の書だと案内板に書かれていた。

楠公父子子別れの石像

またこの碑の近くには「楠公父子子別れの石像」というものもある。この石像の下に彫られている「滅私奉公」の題字は近衛文麿の書だという。もっとも以前は銅像であったそうだが、太平洋戦争への協力で供出されて、今ではコンクリート像になっている。

明治天皇御製碑

さらに、明治天皇がこの地区を行幸された時に詠まれたという歌が彫られた「明治天皇御製碑」もあり、この碑の題字は東郷平八郎海軍元帥だという。この碑に彫られている歌は、
「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて
       昔をしのふ さくらゐのさと」
で、裏面には頼山陽の漢詩「頼山陽翁過櫻井驛詩」が彫られている。

戦前は教科書にも掲載され、唱歌にも落合直文作詞・奥山朝恭作曲の『櫻井の訣別』という歌があった。私も子供の頃にどこかで聴いたような気がする。


戦前の教育を受けた方はこの「櫻井の別れ」の話を良くご存知なのだろうが、戦後教育で育った私には、これだけ多くの顕彰碑があることがどうもピンと来なかったので、自宅に戻って「櫻井の別れ」とはどのような話であったのかを調べてみた。

しばらく、この時代の歴史を振り返っておこう。

375px-Emperor_Godaigo.jpg

元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が京都で天皇親政を目標とした新しい政治を始められた (建武の新政)のだが、公家を重んじた急激な改革が政治の混乱や経済的矛盾を生んだようだ。

建武2年(1335)に足利尊氏が、武家政治の再興をはかって新政府に反旗を翻して京都に攻めのぼり、建武3年(1336)1月には入京を果たして、後醍醐天皇を比叡山に退かせている。
しかしながら、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞が尊氏を攻撃し、尊氏は京都を捨てて九州に敗走した。
ところがその尊氏が、九州でたちまち勢力を盛り返し、光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集め、数十万の軍勢を整えて、再び京都に向かったのである。

345px-Kusunoki_Masashige.jpg

楠木正成は、少ない兵士では尊氏方の軍勢を迎撃できないとして、後醍醐天皇に対し、尊氏との和睦か、一旦比叡山に引き上げて足利軍を都に引き入れた後これを兵糧攻めにすることを進言したが、いずれも聞き入れられなかったという。

楠木正成は死を覚悟し、わずか5百余騎で湊川の戦場に赴き、新田義貞軍に加勢することになる。そして、京都から湊川の戦場に向かう途中で、この櫻井の駅にさしかかった。
正成はここで11歳の嫡子・正行(まさつら)を故郷の河内に帰そうとし、正行に武門の道を諄々と説く名場面が『太平記第十六巻』の「正成兵庫に下向の事」に記されている。これが「櫻井の別れ」である。

0623_3.jpg

次のURLに『太平記』の口語訳が出ているので、該当部分をしばらく引用させていただく。(原文は旧字旧かな)
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html

「正成は心中、これが最後の合戦であると思ったので、今年十一歳になる長男の正行を櫻井の宿から河内に帰すことに決め、さて正行に向っていうには、
『獅子は子を産んで三日たつと、数千丈の石壁から其子を投げ落す。其子に獅子の意気込みがあるならば、教えなくとも跳ね返って死ぬる事はないという。ましてお前はもはや十歳を過ぎている。一言耳に留まったならば、父のこの誡めに違ってはならぬ。今度の合戦は天下の分れ目、今生(こんじょう)でお前の顔を見るのはこれが最後だと思う。正成がもはや討死をしたと聞いたならば、天下は必ず尊氏のものとなったと考えてよい。ではあるが暫しの命を惜んで多年の忠義を失い、降参するような事があってはならぬ。一族の者や若武者達が一人でも生き残っている間は、金剛山に立籠り、敵が攻め寄せて来たならば、命を養由*の矢さきに託し、義を紀信**の忠に比べよ。これがお前の第一の孝行だ。』
と、泣くなく言いきかせて、各々東西に別れた。」
*養由:支那の楚の国の将、弓の名人。命を惜しむなという事にたとえたもの
**紀信:漢の高祖の忠臣で、高祖の命に代わって死んだ人。義を重んじて忠義をつくせよという事にたとえたもの。

こう諭して楠木正成は正行と別れ湊川の戦場に赴くのだが、この別れが楠木父子の今生の別れとなったのである。
5月25日に正成は湊川で足利勢と戦ったのだが、圧倒的な兵力の差は如何ともしがたく、楠木軍の兵士も70余人を残すばかりとなって、正成は弟の正季と兄弟互いに差し違えて自決したと『太平記』には記されている。

重野安繹

前回の記事で薩英戦争のあとの対英講和談判で活躍した重野安繹(やすつぐ)は、後に東大の歴史学の教授となった人物だが、明治初年に『櫻井の別れ』を創作であると主張したことがWikipediaに書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

また作家の井沢元彦氏も『逆説の日本史7 中世王権編』で、同様に、この話を創作だとしているが、確かに11歳という年齢は元服前であるから幼名でなければならないという指摘はその通りだと思う。また元服前の子供は母親と暮らす時代であったし、足手まといになる子供を戦場に連れて行くということは、普通に考えると不自然だ。ただ、正行の生年月日などの記録は残されていないので、正確な年齢については分からない。

またこの話は『太平記』には書かれているが、同時代に書かれた『梅松論(ばいしょうろん)』には、正行のことは何ひとつ書かれていないのだ。
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/baishouron.html

しかしながら、その後の正行の戦いぶりを知ると、父が子供に諄々と諭して別れた場面がどこかにあってもおかしくないと思うほど、亡き父の遺志を継いで南朝のために奮戦している。

正成の死後4年が経過して、正行は楠木家の棟梁として、河内・紀伊の兵を集め、摂津国天王寺・住吉浜では足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を打ち破っている。
そして正平3年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利側の高師直・師泰兄弟と戦っている。

四条畷に出陣する前に、正行は弟・正時(まさとき)とともに、南朝の吉野行宮に参内し後村上天皇から「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いたが、すでに決死の覚悟は強く、参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その傍らにある如意輪堂の壁板に、一緒に討死すことを誓った143名の名前と辞世(「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」)を書き留めたという。

高師直軍に6万に対して正行軍はわずかに3千。父・正成の湊川の戦いの時と同様に絶望的な戦いであった。
『太平記 巻 第二十六』には高師直軍が雨の様に放つ矢が何本も正行軍に突き刺さったとある。再び、『太平記』の口語訳サイトの該当部分を引用する。
「正行は左右の膝口三箇所、右の頬先、左の目尻深く射られて、其矢が冬野の霜に伏したように折れ懸ったので、矢すくみに立って動かれない。其外の三十余人も、悉く矢の三四本射立てられない者はなかったので、「今はこれまでだ。敵の手に討たれるな。」と楠兄弟が刺し違へて北枕にうつぶしたので、三十二人も思い思いに腹掻き切って、上へ上へと重なり合って死んだ。」

『太平記』を読み進んでいくとわかるのだが、この書物は明らかに作り話である記述が散見されて、歴史書として扱うべき書物ではないだろう。
例えば『太平記 巻第二十三』の「大森彦七が事」では楠木正成が幽霊となって出てくる場面があるが、楠木正成のみならず後醍醐天皇をはじめ多くの怨霊やら幽霊が次々と登場してくるのである。
わが国では古くから、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方があって、『太平記』は南朝の怨霊鎮魂のために書かれたという説が有力である。井沢元彦氏は前掲の著書で丸谷才一氏の『鳥の歌』の次の文章を紹介しておられる。(原文は旧字旧かな)
「…怨霊の活躍を詳しく書いた本が出来たら、怨霊はきっと気分を良くしておだやかに振舞うはずだ。(中略)わたしは、『太平記』の作者の狙いはそこにあったと推定しています
その上で、井沢氏はこう述べている。

逆説の日本史7

「これは卓見であると思う。
怨霊を『ヒーロー』にすれば、怨霊は『気分をよくしておだやかに振舞う』――これこそ、怨霊信仰の根本原則であり、『荒ぶる神』である怨霊を、鎮魂して、すなわち『なだめ』『すかして』無害なものにすること、さらには『善なる神』御霊にしてしまうことこそ、日本文化の最優先課題である
現代は、政治と文化は別のものだが、近代以前にはこの区別はない。不作・洪水・日照りといった天災だけでなく、古代においては戦争のような人災ですら怨霊の仕業とされた。だからこそ、、怨霊の鎮魂は「まつりごと=政」の最優先課題でもあるのだ。もちろん、いわゆる文芸・美術においても同じことだ。つまり、政治(まつりごと)だけでなく、小説や音曲や舞踊や、そればかりではなく絵画や彫刻など、あらゆるものを使って怨霊を鎮魂しようとするのが日本文化なのである。」(井沢元彦『逆説の日本史7 中世王権編』p.71-72)

この視点からすれば、『太平記』が、後醍醐天皇や楠木正成らを美しく描くことは当然のことなのだが、その叙述を、戦前の「皇国史観」が、そのまま史実であるかの如くに飛び付いたということになる。

では、後醍醐天皇の政治とはいかなるものであったのか。
最後まで後醍醐天皇のために戦った北畠顕家が、高師直と戦って討死する7日前に、後醍醐天皇に宛てて長文の「奉状」を送っている。井沢氏はその内容を紹介したうえで、こう解説している。

「中身は『諌書』つまり諌めの言葉で、6か条に及んでいる。

 (1)減税をし、国家財政が破綻に陥らないようにつとめるべきだ。
 (2)身分のない者にみだりに官職を与えるべきではない。
 (3)代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園はみだりに取り上げたり、武士に与えるべきではない。
 (4)贅沢な行幸(この場合は観光旅行の意)や宴飲(宴会)はやめるべきだ。
 (5)政治が朝令暮改で一貫しない。これでは民が心服しない。
 (6)御政道の評判を落とすような連中は一切遠ざけるべきだ
。」

と、絶対権力者の天皇に対する言葉としては、極めて思い切った激烈な調子で語られている。そればかりか、この『奉状』は『もしこの言葉が受け入れられないなら、私は世を捨てて山に隠れるしかない』とまで言っている。」(同上書 p.59)

忠臣であった人物からここまで書かれている後醍醐天皇が、名君であった可能性はほとんどなかったと思われる。本来なら後醍醐天皇を支えるべき側近であった万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)や千種忠顕(ちくさただあき)も出家をしてしまった。後醍醐天皇から離れて行ったのは武家だけではなく貴族もそうであったという事実は重要である。
ところが、たとえ後醍醐天皇の性格に問題があったにせよ、楠木正成・正行は親子二代にわたって最後まで忠義を貫き通した。だからこそその忠誠心が際立つのである。

戦前の教科書では、後醍醐天皇にとって都合の悪い史実が書かれることがなかったと思うのだが、戦後の教科書では『櫻井の別れ』の物語が消えて、建武元年(1334)8月に二条河原に掲げられたとされる『二条河原の落書』が大きく載せられている。

Wikipediaに全文が出ているが、一部を紹介しよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8

「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)…」

このブログで、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは権力者が都合よく書きかえるものであり、戦後の日本では戦勝国にとって都合の良い歴史が広められていることを書いてきた。戦後の教科書から『櫻井の別れ』が消えたことも、その典型例なのだと思う。

戦前の教科書で『櫻井の別れ』が教えてきたのは、天皇家に対する忠誠心と言う薄っぺらなものだけではなかったと思う。
楠木父子は後醍醐天皇の政治については、北畠顕家と同様に不満もあっただろう。にもかかわらず、後醍醐天皇の忠臣であり続けたのは、おそらくは「自らが価値あるものと信ずるものを、自分が犠牲になっても、将来の為に守り通す」というという精神であったと思う。
その精神は、領土領海を守るため、豊かな自然を守るため、伝統や文化を護るため、固有の技術を守るためにも必要不可欠なものだと思うのだが、この精神が今のわが国のリーダーたるべき政治家や官僚や言論人から失われていないことを祈りたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ








【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。
良かったら覗いて見てください。

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-198.html

毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-185.html

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html
関連記事
Comment
産湯と一緒に赤子を流す
一週間ほど前に、
東京の街中でホトトギスの声を聞きました。
小さな森があって、そこから聞こえていました。
谷中の墓地あたりですよ。

私は少年時代に野鳥観察が趣味だった頃があって、
「ホトトギスの声なんか、けたたましいだけで少しも美しくない」
と感じていました。
なんで詩歌に山ほどホトトギスが現れるのか、理由はサッパリわかりませんでしたねえ・・。
そこに、
池田弥三郎「日本故事物語」がいい説明をしてました。

「こういう暗い悲しい話が、かつての日本人の生活につきまとっていたのだが、その根本に、鳥の声が人の魂を招き寄せるという考えがあった。ホトトギスの声など、五月のものいみに籠もってひたすら魂の沈静につとめている人々に、どれほど恐怖を与えたことだろう。ほととぎすの声を恐れ、聞くまいとする習慣が、長い間には、逆に、その声に注意を向け、それを待つようになって、美意識を生んでくる・・」

>またも降り来る五月雨の 空に聞こゆるほととぎす
誰かあわれと聞かざらむ 哀れ血になくその声を

余韻のある、いい終わり方でありますなあ・・。

>戦前の教科書で『櫻井の別れ』が教えてきたのは、天皇家に対する忠誠心だけではなかったと思う。
楠木父子は・・忠臣であり続けたのは、おそらくは「自らが価値あるものと信ずるものを、自分が犠牲になっても、将来の為に守り通す」というという精神であったと思う。

食うに精一杯なのは、なにも戦後の混乱期だけじゃなかったことですし・・・、
戦後の親たちは心静かに考えてみるべきでしたねえ・・。
Re: 産湯と一緒に赤子を流す
たつやさん、コメントありがとうございます。
とても励みになります。

東京にはホトトギスの鳴き声が聴けるのですか。我が家の近辺ではスズメとカラスが大半で、羨ましい限りです。

「櫻井駅跡」は国史跡になっているのですが、ほとんど訪れる人はいませんし、地図にも国史跡であることが何も書かれていないのに驚きました。

戦後に、日本人の価値観が激変しましたが、戦前には「祖先が代々大切にしてきたものを、大切にして未来に残す」という考え方があり、そのためには「自分が犠牲になっても良い」という精神があったと思います。わが国にこれだけ多くの多くの文化財が残され、地域に数多くの伝統文化が継承されてきたことなどは、その精神と無縁ではなかったと考えています。

戦後に急速に広まった、「自分さえよければよい」「何でも金で解決すればよい」という考え方は、いずれ日本の伝統文化を破壊してしまいます。どこかで、日本人が昔の生き方の良さを再認識する日が来ればよいのですが…。      
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル