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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。
清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。

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まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄道がその後ロシアの対満侵略の経路となり、日露戦争を導く重要な役割を果たすことになった
東支鉄道は清国内に設置されたが、その土地も収入も免税とされ、その所有地はロシア側が絶対的かつ排他的な行政権を有するものとされていたという。

またドイツは、1897年に山東省で2名のドイツ人宣教師が殺害されたのを口実に、膠州湾を占領し、翌年にロシアと内応して膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を獲得している。
ドイツの膠州湾占領を見たロシアはすかさず艦隊を派遣して、遼東半島の旅順と大連を占領し、1898年には遼東半島全域を租借地として獲得している。このことは、3年前に露・独・仏の三国干渉によりにわが国から遼東半島を取り戻した清は、その干渉の報酬として遼東半島をロシアに差し出したことになる。

またフランスはロシアと提携して清を圧迫し、1898年に広州湾の租借権を得ている。
三国干渉に参加しなかったイギリスも、同年に九龍半島と威海衛の租借権を得ている


列強の勢力範囲

このように清国は自国の領土をやりたい放題に列強に蚕食されているのだが、清の政治家はなぜ抵抗しなかったのかと誰でも思う。

菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。
「…康有為一派を中心とする光緒帝の進歩的な国政改革の企てはあったが、西太后はクーデターによって光緒帝を幽閉し、朝廷の実権は守旧的な諸王大臣によって占められてからは、もっぱら以夷制夷(いいせいい)の古いやり方一本で、その日その日をゴマ化している有様だ。そのため、列強の侵略に対して、中央地方を通じて、猛烈な排外、仇教の風が起こったのも当然であった。」(『大衆明治史』p.226)

以夷制夷とは「夷を以って夷を制す」ということで、中国が周辺民族対策に用いた伝統的政策である。それは、外敵同士を戦わせることで、自らは何もしなくとも外敵の圧力をそごうというものだが、そのような政策が出来るのは、自国が外敵と対等以上に戦う力があることが前提になることは言うまでもない。

外敵同志を戦わせるつもりが、いつのまにか自国の中を外国人勢力が跋扈するようになってしまったのだが、そのようなことを庶民が好ましく思わなかったは当然であろう。
1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を唱えて排外活動を始め、それが見る見るうちに清国全土に拡がって行ったのである。

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彼らの排外活動とは具体的にはどのようなものであり、なぜ短い期間にそれが拡がったのだろうか。再び菊池寛の文章を引用する。

義和団というのは、一種の宗教的な秘密結社であって、彼らはみな集まって拳棒を練習して、その術に長じていたので拳匪(けんぴ)とも言われている。神術を得れば、槍も鉄砲も傷つけないと信じていて、呪文を唱えながら勇敢に戦うのである。
 彼らの唱える『仇教、滅洋』の口号は、外人の横暴に憤慨していた当時の支那民衆をうまく捉え、勢力が増大するとともに、諸所の教会堂を焼き、宣教師、教民を虐殺した。しかも、保守派で占められていた朝廷が、これらの暴徒を義民として庇護するや、義和拳匪は北支一帯に蔓延し、遂に天津居留地を攻撃し、北京の各国公使館区域を包囲するに至った。これが北清事変の発端である。」(同上書 p.226)

要するに西太后は、テロ活動に走る義和団を取り締まるのではなく義民とみなして、彼らによって国権を回復しようと図ったのである。そのために、急速に義和団が膨張し、過激化していったということだ。

そして1900年6月10日には20万人ともいわれる義和団が北京に入城している。当時北京には日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギーの計11ヶ国の公使館があったというが、それらの公使館のある区域が暴徒に取り囲まれてしまい、北京に至る鉄道や通信網までが破壊されて、約4千人の人々が孤立無援の状態になってしまった

「日本陸戦隊の外に、各国は各々7~80名位の陸戦隊を持っていたので、外国兵全部で430名ばかりだが、これでは兵力は絶対に足りない。支那側は拳匪のほかに、官兵も加わり甘粛提督董福祥の兵3万も北京を包囲しているので、城門から一歩も踏み出せなかった。殊に、イギリスのシーモア中将が、各国陸戦隊2千余名を率いて、天津から救済にやってきて、途中で拳匪にさんざんにやられてからは、北京は全く孤立無援に陥ったのである。
 日本公使館の杉山書記生が支那兵に殺害され、またドイツ公使が支那当局と交渉に赴く途中で殺されるなど、事態は完全に悪化し、各国の救援隊が大挙してやってくるまで、60日間も籠城をし続けなければならなかったのである。」(同上書 p.227)

日本公使館の杉山書記生が殺害されたのが6月10日、ドイツ公使が殺害されたのが6月20日。そして6月21日に、清国は列国に宣戦布告している。

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Wikipediaによると、当時公使館区域には外国人925名と中国人クリスチャン3000名ほどがいたのだが、各国公使館の護衛兵と義勇兵はあわせても481名だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

6月19日に24時間以内の国外退去命令が出され、翌日から攻撃が開始されている。
わが国の籠城者の中に、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴五郎中佐(北京公使館付武官)がいた。
籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦にあたって実質総指揮を担ったのは柴五郎であったという。

籠城は8月14日まで続いたのだが、籠城組の食料や弾薬はそれまでどうやって調達したのか、また彼らが生きているということをどうやって連絡したのかと誰でも疑問に思うところだ。

菊池寛の文章を続けよう。
「…米や麦が真先に無くなってしまった。そこではじめは食糧を半分に制限したが、やがて粥になり、その粥も1日2回になり、最後には青草をかじり、犬猫や鼠まで見つけて食べる始末である。馬も流弾で仆れるものから食べ、二百頭いた馬も、ほとんど食い尽くしてしまった
 …
 拳匪たちは、れいの呪文を唱えては、城壁を乗り越え、勇敢に攻めてきたが、やがていくら呪文を唱えても、鉄砲の弾丸には敵わないと分かってからは、あまり無茶な突撃はせず、城壁と土嚢を境として睨みあいの状態が続いたのである。
 …
 1ヶ月も対峙していると、そこに一種の情が湧いてきて、
『お互いに、御苦労なことだな』
 といった応酬が交わされるという始末である。
 何しろ対手は金に目のない支那人であるから、馬蹄銀という支那の大きな銀貨をそっとやると、西瓜や卵などを持ってくる。そのうちには、鉄砲を売りに来る者まで現われてくる。そこで一計を案じた籠城組は、彼らに金をやって密偵を募り、外部との連絡、殊に天津にある列国の主力軍との連絡を計ろうということになった
 二十余回、こうした密偵を派遣したが、皆失敗したが、最後に張徳麟という男が首尾よく使命を果たして帰ってきた。」(同上書 p.228-229)

張徳麟という人物は、この時には名前を名乗らなかったのだが、7月23日に柴五郎はこの男に暗号文書を渡して天津にいる福島少将に届けてその返事をもらってくることを依頼したところ、8月1日にしっかりとその役割を果たして帰ってきたのである。

「当時、北京天津間の通信途絶して久しく、北京籠城軍は全滅ではないかとの悲観論が行なわれていたが、籠城軍健在との報は、天津の各国人を勇躍させたのである。そのための救援軍の派遣も、これからテキパキと決まり、日本軍を主体とする強力な連合軍が、北京に向かうということになったのである。」(同上書 p.230)

柴五郎
 
北京籠城を体験した人物がいくつかの手記を残しているようだが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、柴五郎本人が口述し明治35年(1902)に出版された『北京籠城』という本が公開されている。
例えば、外部との連絡に成功したことは、次のURLのページ以降に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774462/72

張徳麟という人物は、その時は名前も告げず金も受け取らずに飄然と去っていったそうだが、義和団の変が終わったのちに、民政官をしていた柴中佐の許を訪れたのだそうだ。
その時、何故日本軍の密使を勤めたかと動機を訊ねられて、彼はこう答えたという。
「自分は義和団の一人として事変に参加したが、戦争が長引くにつれてだんだん疑問が湧いてきた。支那がこうして列国の外交団を苦しめているのは、つまり全世界を対手に喧嘩をしているようなもので、いまにこれはヒドイ目に合う。これは何とか早く収まりをつけねばならぬが、それには一番信頼のできる日本軍を助けるのが早道だと考えたからです」(同上書 p.231)

この人物はその後もわが国に協力し、昭和11年には観光のために来日もしたのだそうだが、詳しいことは分からない。しかし、張徳麟という人物がいなければ、籠城したメンバーが健在であることがわからず、救出行動が遅れて助からなかったと思われる。

絶望的状況にあった4千名の救出しようにも、各国の思惑は様々であったようだ。菊池寛はこう書いている。
「それまでは各国とも本国から大軍を呼び寄せて、北京を救い、名誉とともに賠償の甘い汁を吸おうと思って、互いに牽制し合って、策動を続けていた。しかし北京の危機は一日の急を告げている。最短日間に、最大限の兵力を支那に運び得るものは、正に日本を置いて外に一国もないのだ。人一倍野心もあり、支那に最も近いロシアでさえ、その極東兵力を旅順や大連から派遣するには一定の限度があって大したことはできない。」(同上書 p.232-233)

少し補足すると、イギリスはボーア戦争、アメリカは米比戦争を戦っていたために、大量派兵ができないという事情があったようだ。
また、わが国の籠城者のなかで公使館一等書記官であった石井菊次郎氏の回想によると、この時のロシアは、他の列強国がわが国に救援要請することをことごとに妨害したのだそうだ。ロシアは満州を狙っていたので、北京の籠城組が殲滅された方が好都合だという考えであったという。

しかし、籠城組が生存しているとの知らせは英国などの世論を刺戟し、各国は短期間で派兵の可能なわが国の出兵を強く促してきたという。
ところが、わが国は三国干渉でひどい目にあっているので、出兵したあとでまた文句をつけられてはたまらない。
何度も慎重な態度を示したが、イギリスから4回にわたっての出兵要請がなされるに及んで、遂に列国の希望と承認のもとに第5師団の派兵を決定している

では籠城していた各国人はいかにして救出され、救出の後に各国の兵隊はどんな行動をとったのか。
驚くような話がいろいろあるのだが、次回に記すことにしたい。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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