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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

330px-SirClaudeMacdonald.jpg

柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

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No title
しばやん さん
 毎回拝読させてもらっております。知らないことを次々と、忙しく勉強させてもらっております。また、内容、論旨ともに敬服であります。
 さて、「文明国」の軍隊の本性ということですが、
田中秀雄氏の編集・解説「もうひとつの南京事件―日本人遭難者の記録―」~解説と解題~によれば、支那の地には「屠城」という行為がある、とあります。
以下引用 P-248
「「屠城」とは何か?
 歴史上の中国の都市はすべて城塞都市である。町が城壁によって囲まれている。城=都市には人々の生命、財産が集積されている。戦乱が起きれば、この都市は最強の砦であるとともに、最大の攻撃目標である。攻略の終わりとともに敗兵は掠奪して去り、勝兵はここぞとばかりに掠奪、虐殺、放火、強姦を市民に対して為すを許される。勝利ゆえの賞与のようなものである。これが中国の伝統である。城壁に取り囲まれた城内は阿鼻叫喚の巷に変貌する。逃げ場はない。城内の市民の生命、財産は兵隊の自由な裁量に任される。「城を洗う」といわれるまで生きる者なく、掠奪するものがなくなるまでこの「屠城」は続けられる。
 三冊目に取り上げるのは、中国のその「屠城文学」の代表作ともされている『揚州十日記』である。
 南京から揚子江をおよそ百キロばかり下ったところに揚州の町はある。この揚州城が明の末期一六四五年に、清の兵隊に襲われて市民が虐殺、強姦、放火、掠奪されたという事件を、辛くも生き残った王秀楚という人物が記録したものである。十日間におよそ八十万人が虐殺されたという恐ろしい屠城記録である」と、記されています。
(中略)
しかし読者は思われるかもしれない。この『揚州十日記』に書かれていることは、我々が聞かされている日本軍の暴行記録とも寸分違わないものなのではないだろうかと。
 そうなのである。なぜそうなるのかといえば、前述したように中国の伝統としての「屠城」が城砦攻略の後に行われるのが当然である以上、南京攻略後の日本軍の軍服を脱ぎ捨てた兵隊の処断(合法)や捕虜暴動の鎮圧行為のすべては「屠城」行為とみなされてしまうのである(しかし、『南京漢口事件真相』で森長次郎氏が書いているように、正規兵と匪賊の区別がはっきりしないのが「支那の兵隊」なのである)。引用終了・・余計な部分まで引用してすみません。
 すると、「文明国の本性」と「屠城」は同じようなもの(当時の国際水準)に見えます。
 支那でも、負けたらやられるんだという認識だったかもしれません。こうしたことに無縁だった品行方正な日本では、想像もつかないことだったのでしょう。
 綱紀の正しい日本軍の兵が、「馬蹄銀(一個?銀の塊)」を持ち帰った、綱紀が乱れていると告発する新聞『万朝報』もあったのです。幸徳秋水らの記者は厳しく追及しているようです(wikipedia 義和団の乱)。この軍叩きは国内一部でうけしたんでしょう。
「純真な日本」には、痛々しいものがあります。
 北清事変は「あまちゃん日本」、「やられても、やりかえさない安心日本」として、支那の地で「侮日」評価のスタートでもあるような気がします。
 長くて、すみませんでした。
 
Re: No title
まつかぜさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。
田中秀雄氏の「もうひとつの南京事件」は未読です。関心のあるテーマなので、早速取り寄せさせていただきます。

ご指摘の「屠城」という言葉は初めて知りましたが、中国では「勝兵はここぞとばかりに掠奪、虐殺、放火、強姦を市民に対して為す」のが当たり前だったという話は何度か読んだことがあります。具体的な記録が出ているというのは興味深いですね。
私も「文明国の本性」と「屠城」は同じようなものだと思います。「あまちゃん日本」は、いつも簡単に謝罪するので舐められて、侵略してもいないのに「侵略国」にさせられてしまったようですね。

ところで、日本軍が持ち帰った「馬蹄銀」は半端な量ではなかったらしく、モリソンは8月17日付タイムスで「日本は金庫を押さえた。噂によると、これは50万両の銀、つまり62500ポンドであるとのこと」と書き、『北京燃ゆ』p.233では「日本軍が押収したのは馬蹄銀250万両」と書かれている。
本当のところは日本側の記録を確認しないとよく分かりませんが、日本軍は文化財には手を付けさせなかったという点においては、どこかの「文明国」とは違うようですね。




No title
しばやん 様
 たしかに、大量の銀塊を戦利品として持ち帰ったことは、アジア歴史資料センターの史料で読めます。
 若い方は戦利品は当時認められていたといことをご存じないようなので、 ご参考まで、この場をお借りして紹介させてください。
 ***
失敗の中国近代化 ~アヘン戦争から南京事件まで~
別宮暖朗 著

北清事変 P-190
「紫禁城や官衙の接収にあたったのは日本軍であった。紫禁城では、珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔った。官衙の銀蔵から、二百四十万両の銀貨・銀丁も接収した(第二回ハーグ万国平和会議で陸戦規定が決まるまで、交戦中敵国の官有動産の接収については発見軍隊の当然の権利であった。私有財産についても道徳的に芳しくないとみられていただけである)。」
 また、 
天津軍司令部 1901‐1937  古野直也 著  国書刊行会
P‐80
 陸軍大臣から大蔵大臣に対しての報告書・・
これは精密な文書であるが要点を記すと
「歯獲銀塊等調書 御通報ノ件」
一、銀塊参百六拾七万弐百六拾八両五分九厘七毛
右は北京、通州、天津、順天府ニテ雨獲セルモノ(清国軍隊及ビ役所ノ公金) ニシテ壱両ニツキ品質ニヨリ上物壱円参拾銭、壱円、八拾銭トス。
一、通貨七万五千百七拾円八拾五銭参厘
一、支那銭壱万弐千百五拾七吊九百文
合計 金四百六拾壱万八百六拾参円弐拾壱銭参厘
右の内 金弐百七拾参万千四百六拾五円七拾壱銭 明治三十三年度国庫納付ズミ
   金百七十七万九千参百九拾七円五拾銭参厘 明治三十四年度国庫納付ズミ    金拾万円     未納 整理中

 田島砲兵大尉は清国駐屯軍野戦兵器廠に残留し、残務整理中である。銀塊品位の鑑定評価(贋造銀塊も多い)は相場の変動もあり難しかったであろう。しかしこれだけ巨額な貴金属が個人の手に入らず、すべて国庫に納入された。交戦相手の首都周辺で予想外に大量の現金を押収したが、これは情報を入手した公使館付武官柴五郎中佐の功績とされている。

 さらに、日本軍の軍紀厳正の理由について、
天津軍司令部 1901‐1937 古野直也 著  国書刊行会

陸軍省は清国駐屯軍(明治三十五年九月十八日)の編成で、軍楽隊を入れたのだが、
P‐67
「これらの編成に軍楽隊まで入れたのは、列国に負けまいとする意気ごみであろうか。三十名のフルバンドで編成され、欧米列国の音楽隊に伍して恥じない技倆であったといわれている。各国軍の招宴には日本軍楽隊も参加して「蒼きドナウ」のワルツ演奏に汗を流し、華やか軍服の各国の士官達は夜の更けるまで踊ったという。日本は文明国なのだ、そしていささかも彼らに負けてはならないという、東京政府の意気ごみが感じられる。思えば三十数年前成立した日本政府は、徳川幕府が結んだ不平等条約を引き継ぎ、六百万両におよぶ対外負債を返済しながら、近代国家を夢みて努力したのだ。この六百万両の中には四国艦隊(英仏米蘭)に対する長州藩の賠償金まで入っていた。いまだに抱えている不平等条約の下で、我が国が一流国家であることを、北京、天津で列国に示さればならないのだ。陸軍はこの点に最も神経を使ったと思われる。兵舎の建設も百万円以上の大金を投じた」
 ***
 日本は中国大陸で略奪した。北清事変でも同じだと主張するいう若者は私の周りにいるだけではないと思いますが、・・
 長くて、すみません。
 


  

Re: No title
まつかぜさん、貴重な情報を紹介いただきありがとうございます。

アジア歴史資料センターの資料検索をつかったことがなかったので、これから使わさせていただきます。
しかし手書きの文字は正確に読むのが難しそうですね。

確かに、戦後の歴史教育に問題があり、わが国が悪いことを前提に物事を考える人が多すぎますね。

わが国が北清事変で馬蹄銀や食糧を鹵獲したことは、今のハーグ陸戦条約に照らしても問題ありません。

「第53条:一地方を占領した軍は、国の所有に属する現金、基金及び有価証券、貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及び糧秣その他すべて作戦行動に役立つ国有動産のほかは、これを押収することができない。

しかし、各国が為した行為は、禁止されていることが今では明文化されています。
「第56条:市区町村の財産ならびに国に属するものといえども宗教、慈善、教育、技芸及び学術の用途に提供される建設物は私有財産と同様にこれを取扱うこと。
前述の様な建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止され、かつ訴追されるべきものとする。」
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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