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義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア

義和団は北京や天津だけで暴動を起こしたわけではなく、清の朝廷が彼らを義民として庇護したことからたちまち勢力範囲を拡げて、満州地区にも波及していった。

かねてから満州全域への進出を狙っていたロシアは、建設中の東支鉄道(東清鉄道ともいう)保護を名目にシベリア方面と旅順から大軍を送り込み、1900年7月13日から満州侵攻を開始したのだが、このタイミングに注目したい。

前回まで2回に分けて北京の公使館区域が義和団と清兵に囲まれて、柴五郎らが籠城戦を戦ったことを書いたが、ロシアの満州侵攻はその最中の出来事なのである。
北京に20万人ともいわれる義和団が入城して6月に公使館区域を取り囲み、清国が列国に宣戦布告したのが6月21日。8ヶ国連合軍が天津を占領したのが7月14日。そして連合軍が北京に到達し総攻撃を開始したのが8月14日だ。清国にとっても他国にとっても、こんな時期に満州に兵を送るような余裕はなかったであろう。

IMG_6087.jpg

宮脇淳子著『世界史からみた満州帝国』にはこう記されている。
「ロシアの東清鉄道敷設は、1897年夏、ハルビンを起点にはじまっていた。工事開始直後から、土地の強制収奪に反対する農民の自衛組織と、鉄道建設によって生活の糧を奪われる運送業者が、ロシアに対するゲリラ戦を展開していた。
 満州に移住した中国人たちの郷里、山東で起こった義和団運動の報が1899年秋に伝わると、工事妨害の小競り合いは、清国正規軍もまきこんだ外国人排斥の大暴動に転化し、教会がおそわれ、鉄道の組織的破壊がはじまった。このときロシアの陸軍大臣クロパトキンは『願ってもない好機だ、これで満州を押さえる口実ができた』とウィッテに語ったという。
 こうして東清鉄道の保護を謳った177000のロシア軍は、6方面からいっせいに満州に侵攻した。そのはじまりとなった『アムール川の流血事件は、偶然その地に語学留学中であった日本軍人石光真清(いしみつまきよ)の手記にくわしい。ロシア軍は、7月、ロシア領ブラゴヴェシチェンスクに住んでいた清国人3000人を虐殺してアムール川に投げ込み、さらに対岸の清国領の黒河鎮(こっかちん)と愛琿(あいぐん)城を焼き払い、避難する市民を虐殺した。ロシア軍はこれから、8月にチチハル、9月には長春、吉林、遼陽、10月には瀋陽を占領したのであるが、各地でロシア軍によるすさまじい殺戮がつづいた。」(PHP新書『世界史からみた満州帝国』p.136)

M37P29amurukawa.jpg

この『アムール川の流血事件』は、当時の日本人ならほとんどの人が知っていたのだと思う。旧制第一高等学校の寮歌のひとつに『アムール川の流血や』という歌があるそうだ。
次のURLに歌詞全文とその解説が出ているが、この歌詞はロシア軍を多数の清国人を虐殺したこの事件のことを描いている。たとえば2番までの歌詞はこのようになっている。
「1.アムール川の流血や  凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は   怪雲空にはびこりつ
2.コサック兵の剣戟(けんげき)や 怒りて光散らしけむ
二十世紀の東洋は 荒浪海に立ちさわぐ…」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/M37P29amurukawa.html

旧制の第一高等学校(一高)は現在の東京大学教養部の前身だが、この歌を作詞したのは当時一高生であった栗林宇一で、事件の翌年である明治34年(1901)に、一高の第11回寮祭の記念の歌としてこの歌が披露されたという。このような寮歌が唄われたということは、この流血事件を知った多くの学生が、ロシアのひどいやり方に憤慨したからであると思う。

江東64屯

Wikipediaに解説されているが、かつてアムール川の東側に広さ3600㎢ににおよぶ中国人居留区があり、中国黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側一帯に64ヶ所の村落があり、江東六十四屯(こうとう・ろくじゅうしとん)と呼ばれていたそうだ。
1858年に締結された愛琿(アイグン)条約で、清の領土であったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%85%AD%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B1%AF

曠野の花

宮脇氏の著書に名前が出てきた石光真清という人物は日本陸軍の軍人で、たまたまアムール川沿いのブラゴヴェシチェンスクをロシア留学の地に選んだのだが、すぐ近くで清国市民が大虐殺されるこの事件が起こり、その後に東亜の戦乱に巻き込まれ、ロシア革命後は再びシベリアにわたって諜報活動に従事することになる。
彼の手記が中公文庫に収められており、4冊中の2冊目『曠野の花』の「アムール河の流血」に、この大虐殺に参加したロシア人の知り合いから聞いた話が記されている。

石光真清は7月16日の出来事をこう記している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人狩りが一斉に行われ、約3千人が支那街に押し込まれ、馬に乗った将校が「ロシアは清国の無謀な賊徒を討伐することになった。お前たち良民はここにいると危険だから安全な土地へ避難させてやる。討伐が済んだら元の家に帰るが良い。…」とふれ歩き、大勢の清国人を引き連れて黒龍江(アムール)沿いに向かう

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石光真清の文章をしばらく引用する。
「(将校は)到着すると直ぐ河岸に集め、静かにしろと命令しました。そして銃剣を構えた兵隊がぐるりと取り巻いて……取巻いてと言っても河岸の方をあけたままで、じりじりと包囲を縮めて行きました。将校が馬を走らせて指揮していました。勿論抜剣して……命令に服さん奴は撃ち殺せと怒号していました。えらい騒ぎでした。命令に服するも服さないもあったものではありません。どうしてと言ったって、なにしろ銃剣や槍を持った騎兵が退れ退れと怒鳴りながら包囲を縮めて、河岸へ迫ってゆくのですから堪りません。河岸から人間の雪崩が濁流の中へ押し流され始めたのです。わあっという得体の知れない喚声が挙がるともう全部気狂いです。人波をかき分け奥へもぐり込もうとする奴もいれば、女子供を踏み潰して逃れようとする者、それを騎兵が馬の蹄で蹴散らしながら銃剣で突く、ついに一斉に小銃を発射し始めました。叫喚と銃声と泣声と怒号と、とてもとても、あの地獄のような惨劇は口では言えません。二隊に分けたと言っても全部で二千名近い人間を一束にして殺そうというのです。…子供を抱いて逃れようとした母親が芋のように刺し殺される。子供が放り出されて踏み潰される。馬の蹄に顔を潰された少年や、火の付いたように泣き叫ぶ奴等が、銃尻で撲り殺される。先生先生と縋り付いて助けを乞う子供を蹴倒して、濁流ヘ引きずり落す。良心を持っている人間に、どうしてこんなことが出来るのでしょう。良心なんてない野獣になっていたのでしょうか。子供の泣き顔を銃尻で潰す時に、自分の良心も一緒に叩き潰してしまったのでしょう。…」(中公文庫『曠野の花』p.39-40)

そして8月に入ってロシア軍は、露満国境を徹底的に掃討しようと企て、3日に黒河鎮に上陸し、たちまち城内を確保し火を放って焼き払い、逃げ遅れた市民を片端から虐殺して火炎の中に投じ、次に愛暉城を包囲し、ここでも逃げ遅れた市民をことごとく虐殺して、火を放って焼き払ったというという。
清国の官吏は数日前に逃亡し、軍人も撤退してしまっていた。市民のうち裕福な者だけが財物をまとめて逃げたのだが、約3万人の市民の大部分が自分の家々に踏みとどまっていたそうだ。しかし黒河鎮の人々が虐殺された話が伝わると、一斉に斉斉哈爾(チチハル)公路を南に向かって避難し始めたのである。

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石光真清の文章を続けよう。
「…従って斉斉哈爾公路には蟻の行列のように、二万幾千人の避難民が家財を持って殺到した。大半が未だ付近にうろうろ犇(ひし)めき合っている時分に、早くもロシア軍は城内に火を放ち、渦巻く猛煙の中で大虐殺の修羅場を展開したのである。
 ロシア軍は城内に取残された市民を片端から虐殺したばかりではない。勢いを駆って市民の避難路へ追跡攻撃を始めた。既に清軍の影もなく、武器ひとつ持たぬ彼ら避難家族の大群を目がけて射撃したから堪らない。その惨状はブラゴヴェヒチェンスクや黒河鎮における虐殺に劣らなかった。…
 こうしてブラゴヴェヒチェンスク対岸の清国の都市村落はことごとく焼払われ、その住民は徹底的に殺された。…」(同上書 p.45-46)

かくして江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、ロシアが軍事的にこの地を占領したのだが、ロシアはその後も、満州に居座り続けるのである。
ちなみにネットで「江東六十四屯」をキーワードに検索を試みると、中国系のサイトが随分たくさんヒットし、写真や記録などが数多く残されているようである。

余談だが、その後清国は何度かこの地の返還をロシアに要求しているもののロシアは応じず、清国が滅亡した後も同様で、江沢民総書記とエリツィン大統領の時代に、中華人民共和国は正式にこの地に対する主権を放棄することを承認したのだそうだ。
しかしながら、中華民国(台湾国民政府)は法律上は江東六十四屯に対する主権をまだ放棄しておらず、中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今でも中国領として表示されているという。

このロシアの満州進出に脅威を覚えたイギリスは、義和団事件で日本軍が勇敢に戦い、規律正しかったことを評価し、ロシアを牽制するためにわが国に接近しようとした。
当時のわが国は、ロシアと妥協してその侵略政策を緩和させるべきだという日露協商論(伊藤博文、井上馨ら)と、日本と利害を同じくする英国と結んで、実力でロシアの南侵を阻止すべしとする日英同盟論(桂首相、小村外相ら)の二つの考えがあったが、日露協商交渉は失敗に終わって明治35年(1902)1月に日英同盟が締結されている
この同盟は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものであるが、2年後の日露戦争の時はこの同盟があることによって、イギリスは表面的には中立を装いつつもロシアと同盟国であるフランスの参戦を防止させ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等でわが国を支援したのである。このイギリスの支援がなければ、わが国が日露戦争で勝利することは難しかったのではないかと思う。

この日英同盟締結の交渉を推し進めた小村寿太郎らは、ロシアは満州占領だけでは満足せず、次に韓国を侵略することは必至であると考えていたのだが、その後のロシアの動きを見てみよう。

日英同盟を締結した2ヶ月後にロシアは3回に分けて満州から撤退するという満州還付条約を清国と締結し、第1回目の撤兵は実施したものの、翌1903年4月に二度目の撤兵を行なうという約束を実行せず、むしろ奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、さらに森林保護を理由に韓国の龍岩浦(りゅうがんほ:鴨緑江河口)を軍事占領している

ryuganpo.gif

次のURLに、5月8日付の『東京朝日新聞』の記事が掲載されている。
http://ww1-danro.com/sib/ryugampo.html

朝鮮圧迫せらる  露国が撤兵期日前後において朝鮮境上に著しく増兵したることは疑わざる事実なるが、さらに信ずべき筋より聞き得たる所によれば、本社京城特派員の露兵入韓の報道以後において、大東溝に露兵来着の報ありて先月来宿舎の用意道路の掃除をなし準備を整えおれり。 而して鴨緑江の左岸なる龍岩浦と名づくる一朝鮮部落には既に若干の露兵進入したり。 また安東県よりも、数日中に二千人の露兵義州に入るべしとの報道地方官に達したれば、同地にてはこれがために甚だ混雑を極め居れリ。 露国人がかかる多数の軍隊を鴨緑江左岸に入るるの趣旨那辺にあるかは明白ならざれども、露人のいう所によれば、義州の東南数里にある白馬山の森林を伐採しかつこの地方の要害を占領すると同時に、鴨緑江口に運輸通信部を設け何等かの運動を開始せんとするものの如し」

ロシアは龍岩浦を軍事占領した後、7月には韓国に龍岩浦租借条約を結ばせている。我が国は、韓国に強く抗議した結果、韓国はこの契約の無効を声明したが、ロシアはこれを無視し、龍岩浦に要塞工事を起こし、ポート・ニコラス*と改称して龍岩浦の占領の既成事実化を進めて行った。
*ポート・ニコラス:当時のロシア皇帝であったニコラス2世の名前を冠したもの

では、何のためにロシアは龍岩浦を占領したのか。森林ならばロシアのシベリアには無尽蔵にある。何も他国を侵略してまで森林が必要であるわけがない。私には、先ほど紹介したURLの解説が一番納得できる。

当時の軍艦の燃料は石炭であり、後に開発された石油推進の軍艦に較べて、航続距離が5分の1程度しかなかったのだそうだ。当時のロシアは旅順とウラジオストックに軍港を持っていたが、戦闘速度(13ノット以上)で戦艦が移動するためには、石炭庫の積載量は不足しており、ロシアが朝鮮半島に勢力を拡大していくためには、新たな基地の獲得が不可欠であったという。
しかしそのことはわが国からすれば、朝鮮半島がいずれロシアの支配下となることは確実で、そうなれば日本海の制海権がロシアに奪われ、次はわが国がロシアに狙われてもおかしくない、ということになる。

ロシアの朝鮮半島への侵略意図がいよいよ確実なものとなって、明治36年(1903)8月に、わが国は対露直接談判を開くに至った。
わが国がロシアに主張したのは
清韓両国の独立と領土保全の尊重
② 満州を日本の利益外とするなら韓国も露国の利益の範囲外として相互に承認すること。
③ 中立地帯を設けるなら韓国側だけではなく、満韓境界の両側50㌔を中立とすること。
④ 日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること
だったが、ロシア側は満州の独立と領土保全にはふれずに、わが国が韓国に派兵することを禁止し、更に韓国北部を中立化することで、満州におけるロシアの自由行動を安全ならしめようとしたという。

談判は翌年1月まで5ヶ月に及んだが、ロシアは頑として自らの主張を譲らず、その一方で極東のロシア軍には動員令を下し、満州には戒厳令を敷くなど、急ピッチでわが国との戦争の準備を進めて行った。
わが国は1月13日に最終提案を行なったのだがロシアからは何の回答もなく、わが国は2月4日に対露断交と開戦を決定し、2月6日に露国に国交断絶を通告したのである。

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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html


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Comment
歴史は大切ですね
正しい歴史をご紹介いただきありがとうございます。
歴史というものは血も凍るような残虐さの連続ですね。いい歳になっても初めて知ることばかりで驚いています。しかも当時の日本の一般人もよく知っていた事が現在のわれわれの一般的な歴史書にも書いてないとは。干渉しただの、進出してきただの、といったきれい事の記述では全く想像もつかない世界です。
ここまで知ってこそ歴史を現代に生かすことができると思います。
Re: 歴史は大切ですね
ネコ太郎さん、コメントありがとうございます。

おっしゃる通りで、こう言う事を知らないでいては、なぜ明治のわが国の人々がロシアの南下を恐れたのか、なぜわが国がロシアと戦わざるを得なかったのかということを真に理解できるとは思いません。
教科書やマスコミで広められている歴史叙述はキレイごとばかりですが、あまり詳しく書きすぎると、「自虐史観」の嘘が誰でも分かってしまうので都合が悪いと考える勢力が存在するのでしょうか。

戦後になってから多くの史実が歴史叙述から封印されてしまいましたが、そのような歴史叙述をある程度読まなければ本当の歴史は見えて来ないと考えています。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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