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乃木将軍は「愚将」であったのか

明治37年(1904)5月1日、留守近衛師団長であった乃木希助中将が宮中に参内し、翌日に第三軍司令官に任ぜられた。第三軍の任務は、ロシアの極東進出の最先端であり最大拠点でもある旅順の奪取にあった。参謀長には陸軍切っての砲術の権威と言われた伊地知幸助少将が命ぜられている。

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日清戦争に勝利したわが国は、下関条約で遼東半島、台湾、澎湖諸島などを獲得したのだが、遼東半島は露独仏の三国干渉により遼東半島は一旦清に返還されたのち、ロシアがその三国干渉の報酬として清から奪い取ったことはこのブログで既に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-312.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

そしてロシアは遼東半島の旅順の地に難攻不落の要塞を築き、旅順港を太平洋艦隊の根拠地とした。
この旅順要塞があるために日本海軍はこの港には近づけず、またロシアの太平洋艦隊はこの湾内に閉じこもったまま出てこない。日本海軍は三たび旅順港閉塞作戦を敢行したがうまくいかず、陸軍に強く要塞攻略を要請してきたのである。

既にロシアはバルト海にあるバルチック艦隊を日本海に送ることを公表していたので、海軍としては出来るだけ早く太平洋艦隊を全滅させ、その上でバルチック艦隊を迎え撃たねば海戦での勝ち目はない。もしロシアに日本海の制海権を奪われれば、陸軍も海軍も糧食・弾薬が尽きて、日露戦争でわが国が勝利する可能性はなくなってしまう。
わが国がこの戦争に勝つためには、旅順要塞を陥落させたうえで、陸上からの砲撃によりロシア太平洋艦隊を撃ち沈めることが求められていたのである。

5月26日に乃木、伊地知ら第三軍司令部が新橋駅を出発し、一行は6月5日には遼東半島の塩大墺に上陸し、それから約1か月余り第三軍の主力は旅順の敵と対峙したのであるが、敵地に乗り込んでみると、そう簡単にはこの要塞を攻略できないことがわかってきた。

菊池寛は『大衆明治史』で、こう解説している。
「第一、旅順の前衛陣地ともいうべき金州南山を攻めたところが、その防備や築城が予想外に良くできていることが分かった。陥落はさせたが、わが死傷四千五百という大きな犠牲が雄弁にこれを物語っている。この分では旅順はクロパトキンが『これを陥すには、欧州最強の陸軍でも3ヶ年はかかる』と豪語しているように、想像以上に堅固に出来ていることが測定された。これまで、参謀本部で描いていた攻撃計画が、重大な変更を加える必要に直面したのである。
第二には、砲弾の不足であった。第二軍は金州南山で予想に数倍する砲弾を費消してしまったので第三軍としてはこれに莫大なる砲弾を貸してやっているのである。勿論、内地の砲兵工廠は全力を挙げて製造しているのだが、とても間に合うものではなかった。砲弾の不足は日露戦争の旗艦を通じての慢性的現象だったのである。
第三には、常陸丸、佐渡丸の撃沈が、第三軍にとって大打撃を与えている。攻城材料を満載した常陸丸はウラジオストック艦隊のゲリラ戦で沈められ、佐渡丸はどうやら撃沈は免れたが、大切な地図も攻城計画も焼き捨てなければならなかった
だから乃木軍は、その攻囲の出発から悪条件の下にあったと言える。6月26日、左翼第11師団が、旅順の前衛陣地に最初の砲火を浴びせるまで、乃木軍は地味な守備陣地の構築に専念していたのである。…」(『大衆明治史』p.305-306)

東鶏冠山北保塁

では、旅順要塞とはどんな建造物であったのかを確認したくなった。『泰弘さんの【追憶の記】です…』というサイトで、旅順周辺の戦跡絵葉書の写真が多数紹介されている。上の画像は旅順要塞の代表的堡塁である東鶏冠山北堡塁の外観で、下の画像がその内部である。
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28251829.html

東鶏冠山北堡塁内部

岡田幹彦氏の『乃木希助』に東鶏冠山北堡塁の概要が書かれていた。
「…形状は大体長方形、長い方の一辺が約百メートル、短い方が約七十メートル。この堡塁を厚さ一、二メートルのコンクリートで固めた頑丈な胸墻(きょうしょう:胸壁)が蔽っている。この胸墻こそ、当初第三軍の打ち出す砲弾をことごとくはじき返す魔物であった。
 この堡塁の周囲には、幅六メートルから十二メートル、深さ七ないし九メートルの壕(ごう)が掘られている。壕内には恐るべき仕掛けがあり、側壁には軽砲、機関銃が備えられ、敵兵が壕をわたり堡塁内に突入せんとするときなぎ倒せるようにつくられている。また水の入っていない壕底には鉄柵や鉄条網が設置され、敵兵が壕内を駆け回るのを遮断するしくみになっている。さらに堡塁の外側には電流を通じた鉄条網がはりめぐらされ地雷が埋められるとともに、塹壕が掘られそこにも兵士が配置されていた。
 堡塁内には野砲八門、速射砲九門が備えられていた。またここにはコンクリート造りの小兵舎、地下室、地下道まで作られている。

 まさに科学技術と築城術の粋を尽くした人工の極致ともいうべき恐るべき防備と強大な戦力を備えた近代的城塞であった。この一個の堡塁の戦力だけでも驚くべきものがあるが、旅順はかくの如き本格的防御陣地たる堡塁及びこれよりやや防備の劣る砲台を幾十となく幾重にも築いた世界無比の要塞であったのである。
 日本側はこれほど鉄壁の防備を誇る旅順要塞の内状を少しも察知し得ないばかりか、…敵戦力を大幅に低く見誤ったのだから話にならず、難戦苦戦を免れなかったのは無理もない。兵力四万七千、備砲約五百門のロシア軍に対するわが戦力は余りにも少なく、第一回総攻撃が五万、第二回が四万四千、第三回は第七師団が投入されたため少し増えて六万四千、火砲は後に少し増加されたものの約三百門にしか過ぎなかった。おまけに日本軍は常に砲弾不足に悩まされた。…」(『乃木希助』p.103-104)

旅順要塞地図

次のURLに旅順要塞の地図が出ているが、東鶏冠山北堡塁は全体の中のわずかな部分にすぎない。こんな大規模で堅牢な城塞に籠城している敵と戦うという認識もなく、わずかの兵力・火力でわが日本軍は戦いに臨んだのである。
http://holywar1941.web.fc2.com/kindai2/kindai-nitiro4.html

そし8月19日早朝に第1回総攻撃が開始され、第三軍の二百余門の大砲は2日間にわたり火を噴いた。そして3日目に歩兵部隊の進撃が開始されたが、砲撃で破壊されたと想定していた堡塁は依然として健在であり、守兵はほとんど無傷であったという。

日本軍は敵陣からの銃砲劇をかいくぐって堡塁に突入しようとし、8月22日には盤龍山東堡塁および西堡塁を奪取し完全占領に至るも、24日には砲弾が底をついたため、乃木は無念の涙をのんでやむなく攻撃中止を命令している。
この第1回攻撃では総兵力5万余中1万6千人もの死傷者が出たという。この攻撃以降多くの犠牲者を出して失敗したことから、「乃木は無能だった」とする説が拡がったのだが、岡田幹彦氏は前掲の著書でこう反論しておられる。

乃木希助 高貴なる明治

「まず第一にあげられるべきことは、…参謀本部の旅順軽視である。児玉を始め幕僚らは旅順要塞の恐るべき実体を何一つ知らず、これを短期の強襲作戦で陥落しうると誤断したことである
 第二に旅順を軽視したがゆえに、参謀本部は要塞攻撃の本格的研究及び準備を怠った。それゆえ第三軍司令部は要塞攻撃を開始してから欧米諸国の攻城教範の翻訳に急いでとりかかる始末であった。
 第三に兵力の絶対数不足である。第三軍は少なくとも十万以上の兵力を必要としたが、その半数ほどしかなかった。実際の第三軍の猛烈な戦闘ぶりからいえば、後に加えられる第七師団をはじめから投入していたなら、第一回総攻撃のとき旅順を落していたに相違ない。…
 第四に兵力の不足以上に重大な問題が、砲弾の不足であった。…それに加えて攻城砲の砲撃力の弱さである。このときもっとも口径の大きい砲で十五センチだが、この砲弾では、一、二メートルの厚さのコンクリートの胸墻を全く破壊できず空しくはね返されたのである。」(同上書 p.112-113)

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、日露戦争に砲兵司令部の高級部員として出征した佐藤鋼次郎が著した『日露戦争秘史』が公開されているが、この本の第2章から第3章を読むと、当時のわが国の参謀本部の考え方は「歩兵万能主義」が主流で、砲兵の力に依存しないで、「如何なる要塞も陣地も強襲にて攻略し得るもの」と考えられており、また旅順要塞の調査はかなり杜撰で近代的な攻城戦法を理解せず、要塞戦に必要な準備がなされなかったばかりか砲弾もわずかしか渡されなかったことが述べられている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942283/20

8月30日に今後の要塞攻略方法についての会議があり、その席で乃木は正攻法への切り替えを主張した。そして塹壕を掘り進み、安全な攻撃路を作り、堡塁の近くに突撃陣地を構築する突貫工事が始まったという。
また9月14日には28センチ榴弾砲が到着した。大本営では、旅順要塞の頑丈な胸墻を破壊するためには口径22センチ以上の大砲が必要との結論に達し、当時各地の主要な海岸に備え付けられていた榴弾砲を旅順に送ったのである。
10月26日に第2回総攻撃が始まり、まず28センチ砲18門が一斉に火を噴き、次いで中小200余門が、東北正面の諸目標を目がけて火を噴いた。この砲撃は4日間続いたという。

30日に歩兵部隊が投入されたが、旅順要塞の堅固さは日本軍の予想をはるかに上回り、奪取し得た堡塁は2つだけだったという。31日には再び砲弾が欠乏したために攻撃中止が命じられている。
この戦いに参加した日本軍44千人のうち死傷者は3800人。ロシア軍は32千人の内死傷者は4500人だという。
砲弾不足で再び敗北したにもかかわらず、乃木が正攻法に転じた効果が出て、死傷者も死傷率も大幅に改善したのである。

11月26日に第三回総攻撃が開始された。
歩兵部隊は次々に突撃陣地から胸墻をよじ登って堡塁内に突入したが、ロシア軍は全力で防戦した。
この攻撃では、地下道を掘り堡塁の地下に爆薬を仕掛ける戦法が初めて試みられたが、東鶏冠山北堡塁では胸墻の一部の爆破に成功し、日本軍はその爆破口から突進したが、堡塁内のロシア軍の反撃はすさまじく、機関銃を乱射し手榴弾の雨を降らせて、ここでも攻撃は挫折した。

同日夕方5時、各師団の攻撃が失敗に終わったことを知った乃木は、中村覚(さとる)歩兵第二旅団長の熱心な意見具申により、夜間に刀および銃剣を以て敵陣に攻め込む奇襲を決意し、目印の白い襷(たすき)をかけた3千人の全将兵にこう訓示したという。
「今や陸には北遼に敵軍の大増加あり、海にはバルチック艦隊の来航近きにあらんとし、国家の安危ほとんどかかって我が攻囲軍の成否如何にあり。この時にあたりこの独立隊突撃の壮挙を敢行す。予は死地に臨まんとするこの隊に対し、嘱望の実に切実なるものあり。諸氏が一死を以て国恩に報ずるは、まさにこの時にあり。ねがわくば努力せよ。」(『歩兵第十五聯隊日露戦役史』明治42年刊)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774483/78

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白襷隊は午後9時より松樹山方面の敵陣に突入したが、ロシア軍は火砲、機関銃、小銃などにより決死隊を撃退し、白襷隊は中村隊長が重傷を負って倒れ、約2千の死傷者を出して敗退したという。

しかし、この決死隊はロシアに甚大な衝撃を与えたという。岡田幹彦氏の前掲書に、ロシア側の記録が引用されているので紹介したい。
「…実にこの精気に強き分子たる日本軍が精気の弱き露軍を屈服せしめたるなり
余は敢えて屈服という。されど1905年1月1日の開城を指すに非ざるなり。その前年の暮、即ち、11月26日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ
この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことはもはや従来の露国文学には、その適切なる修飾語を発見するを得ず。ただ敵味方合して五百余門の砲台は殷々として須弥崑軸(しゅみこんじく:天地の意)を振わしたりといわんのみ。しかもその天地の震動に乗じ、数千の白襷隊は潮のごとく驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊、・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。
余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く。屈服。
」(『乃木希助』p.130-131)

司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、第三軍司令官の乃木を無能と言い、白襷隊の突撃を兵の無益な消耗と評したが、果たしてそうであったのか。
兵士の死傷者が多く出た原因は司令官ではなく、近代攻城戦をどう戦うかを知らず、乃木に充分な兵力と火力を与えずに戦地に送り込んだ参謀本部にあったはずだ。
充分な武器や火力がなかったから白襷隊という戦いを挑むしかなかったのだが、このロシア軍将校はこの白襷隊が「白襷を血染めにして抜刀」して闘う姿を見て、そこまでして国のために命をなげうつ日本兵の愛国心の強さに「顔色を変え」、精神的に「屈服」したということだろう。

司馬の小説では旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更したと描かれているが、これは史実ではないと思われる。目標を203高地に変更したのは乃木自身のようだ。
司馬遼太郎の小説の影響で、戦後では乃木は愚将であったというのが国民に広く浸透してしまっているのだが、そもそも兵士というものは、無能な司令官の下で命を懸けて戦えるものではないだろう。
なぜ乃木の死後に乃木神社が作られたのか。世界が日露戦争における乃木の働きをなぜ賞賛したかをもっと考えるべきではないかと思う。

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

祇園祭の「祇園」とは
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-14.html

二つの祇園祭の関係
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-15.html

祇園祭山鉾巡行と神幸祭を見に行く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html

戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-25.html

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

七夕の由来
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-42.html

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Comment
武士の情け
乃木は決して口にしなかったが、陸軍兵士は森鴎外の白米兵糧補給が原因で脚気を患っており乃木指揮下の戦死者のうち7割以上が病死であった。
敵将ステッセルとの水師営の会見に見るとおり乃木は日本古来の武士道古武士である。森鴎外は武士道を知らぬただの成り上がりであったので、乃木が言い訳せず戦死者追悼と遺族への謝罪のみを表明するのをいいことに、自分の補給失敗責任を自白することなく韜晦して文筆生活へ逃げ込んだのである。士道不覚悟は森鴎外であった。
新宿焼身自殺事件について
さゆふらっとまうんどさんのブログへ書き込みました。
http://sayuflatmound.com/?p=1944#comment-11860

>さゆふらっとまうんどさんが新宿焼身自殺の事件を動画であげられております。
>https://www.youtube.com/watch?v=SZeTZp14Rhk
>川口さん2014/06/30 07:33

彼の大和魂を見ました。
靖国招魂場に筆頭で祀られている「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」吉田松陰の言葉を捧げます。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される。

出典:幕末ガイド 吉田松陰
http://bakumatsu.org/men/view/67


高杉晋作については別途参照:例
http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html
Re: 武士の情け
『近代デジタルライブラリー』で乃木のことを記した本は数え切れず、戦後は乃木愚将論が大手を振ってまかり通っていることが気になります。軍人の中に日本人の英雄や世界の英雄があっては困る勢力があるのかと、勘繰りたくなります。
Re: 新宿焼身自殺事件について
記事の趣旨とは関係ありませんね。
ネットで見ると、焼身自殺した人は日本人ではないとの書き込みが圧倒的ですね。
いずれにせよ吉田松陰や高杉晋作の名前を出すようなレベルの事件ではないでしょう。
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司馬遼太郎氏の影響!?
やっぱり、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』&『殉死』の影響は大きいのでしょうね。

乃木将軍は、旅順要塞について少ない情報しかなく、(日本陸軍が要塞戦を経験していない!?)ある意味、言葉は悪いですが、第3軍を率いるという“貧乏くじ”を引かされる、歴史的な宿命だったのでしょう。

旅順要塞を最終的に陥落させたのは児玉源太郎総参謀長の指揮だと思っていました。それが史実ではないとの研究もあるようで・・・司馬ワールドファンの一人としては・・・です。

乃木将軍の参謀長だった伊地知幸助少将についてですが、この方は私と同じ鹿児島の出身の方です。(ちなみに鹿児島には伊地知姓が多い。)

私の母は昭和10年代の生まれですが、当時の学校教育で乃木将軍は“英雄”として登場しているのではないかと思います。母は「乃木将軍」の歌を今でも記憶しています。
Re: 司馬遼太郎氏の影響!?
小説は実名を使って物語を書きますが、書いている内容は史実に基づきながらも、相当部分創作が入っています。私も大学時代に『坂の上の雲』を読んで感動しましたが、乃木将軍は愚将だと刷り込まれてしまっていました。
戦前・戦中は、ご指摘の通りわが国でも乃木将軍は「英雄」でした。英雄とされるだけの理由があったはずですね。

乃木希典と吉田松陰は兄弟弟子
ブログ「高杉晋作と徒然なる旅を」の ◎松陰先生月間・その1/玉木文之進さん をご紹介。
http://baisho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-cb90.html

(転載開始)
司馬遼太郎先生の名著『世に棲む日々』のその三分の一は
吉田松陰先生のお話でしたね。
・・・その『世に棲む日々』の中で、強烈な存在感を放つ一人が
先生の叔父さんにあたる玉木文之進ですね。
玉木さんは吉田松陰の父、杉百合之助の弟で、杉家から出て
玉木家(大組40石)を継ぎました。

看板の向うにその旧宅の屋根が見えます。
・・・
玄関は広々として、あがったところすぐが初代「松下村塾」です。
ここで松陰先生が学んで、時には半殺しの憂き目にあったところ!
玉木文之進さんはスパルタ教師でしたが、松陰先生の忍耐力は
その教えの賜物なんでしょう。

玉木さんは有能な藩士でしたが、部下がおこした不始末のために
免職となり、それで自宅で私塾を開いて近所の子供たちを教え
たりしていたそうです。
これが松下村塾のおこりでした。
こちらの常駐ガイドさんが教えてくださったのですが、
玉木文之進さんに教えてもらった人に、乃木希典がいたそうです。
当時、下関からここまで3日をかけて通っていたとか!
やはりモーレツな教育だったらしく、のちに明治の軍神とよばれた
乃木将軍、玉木先生の影響大だったようですね。
(転載終わり)
Re: 乃木希典と吉田松陰は兄弟弟子
Wikipediaによると玉木家は乃木家と親戚だったようですね。

16歳の時に学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、萩まで徒歩で赴き、玉木文之進への弟子入りを試みたのですが、その時玉木は父の許しを得ることなく出奔したことを責め、その時は源三の弟子入りを拒絶したのだそうです。

その後は玉木家に住むことを許されて、農作業を手伝う傍ら学問の手ほどきを受けたのだそうです。

確かに吉田松陰と兄弟弟子ということになりますね。
玉木文之進の教え
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」ブログの 修身(12) 父と子 にあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/29414419.html
・・・
この日、無事にお参りを済まして、家に帰ってからのことであった。
「梅太郎は、何を祈った」と、父がたずねた。
「はい、皇室のみさかえを祈り、殿様の御無事を願いました」
「うむ。なるほど。では、大次郎は」
「私も、第一に皇室のみさかえを祈りました。それから、自分が本当の日本国民になることをお誓いいたしました」
「本当の日本国民とは、どういうことか」
「臣民として道を守り、命を捧げて陛下の御ために尽くすのが、本当に日本国民だと、玉木のおじ様が教えてくださいました」
「うむ、それを神様にお誓いしたのか」
百合之助は、我が子ながら大次郎は、あっぱれな魂の持主だと心ひそかに感じ入った。
大次郎とは、だれあろう。のちに寅次郎と名を改め、
おじ吉田大助の家を継いで、吉田松陰先生とあがめられるようになったその人である。
(第五期(昭和十六年)初等科修身四より)
日本人らしい生き方 乃木大将から学ぶこと
同じブログ記事からご紹介。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31326119.html

・・・日露戦争後によく歌われた歌に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした方もある」というのは乃木大将のことを歌ったものでありました。

乃木大将は日露戦争後、凱旋されて故国の土を踏み、東京では熱狂的な歓迎を受けましたが、明治天皇には「陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す」と自らの責任を詫び、むせび泣いたのです。だからこそ乃木大将は残された命を戦死した将兵の魂を慰め、遺族と傷病兵のために出来る限りの援助を捧げました。

その乃木大将を学習院長に任じたのは明治天皇でした。そして、皇孫であります後の昭和天皇の教育を託しました。
日露戦争後、日本は大国ロシアに勝ったことに浮かれ、贅沢に浮かれ慢心していました。乃木大将はそういう風潮を憂い、学習院の児童3000人を集めてこのように訓話しました。
「驕りに傾くのはお国の将来のために嘆かわしいことであります。どうか、皆さんは質素剛健の徳を積んで、どこまでもお国を滅ぼす最も恐ろしい敵である奢侈(しゃし 贅沢)と戦う覚悟をもってもらいたいものです」・・・
修身の授業(2)  「公徳を守る 乃木大将」
前に同じ。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/23459785.html

・・・乃木希典大将が学習院長であったとき、大将はつねに生徒に、
少しでも人の迷惑になるようなことをしてはならないといいきかせました。
そうして、自分も決して人の迷惑になるようなことをしませんでした。
ある日、大将は電車に乗って上野へ行きました。
ちょうど雨降りで、大将の着ていた外套は雨に濡れていましたので、車内で人から席をゆずられても、
ただていねいにお礼をいうだけで、腰をかけようとはしませんでした。
大将についていた人が、外套を持ちましょうかといいましたが、それも断って、
ずっと上野まで立ったままで行きました。
・・・
忘己利他武士道菩薩武士の大和魂
吉田松陰乃木希典高杉晋作西郷隆盛山岡鉄舟勝海舟前原一誠桐野利明坂本竜馬・・・

同じブログからご紹介します。
「乃木希典大将はなぜ名将なのか、日本人には知って欲しい。」
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31013274.html

日本史上、親しみを込めて「さん」づけで呼ばれる英雄は多くはありません。
「さん」づけで呼ばれているその一人が西郷隆盛です。そして、もうひとりは明治から昭和の三十年代頃まで「さん」づけされていた乃木希典です。明治から国民が真に愛したのは伊藤博文でも坂本龍馬でもなく、西郷さんであり、乃木さんでした。
・・・
日露戦争後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は金子堅太郎子爵に「旅順砲台は今日世界の学術機械を応用した堅牢無比の砲台で、ヨーロッパやアメリカの軍隊ではこれを陥れることは思いもよらぬ。この難攻不落の旅順を陥れるのは世界でも日本の兵隊のみである」と言わしめたのです。
その難攻不落の旅順を落とした乃木大将が「日露戦争の英雄」として、長野師範学校で講演を求められた時のことです。
乃木大将は演壇には登らず、その場に立ったまま、「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と、ひとこと言ってから絶句し、止めどもなく流れる涙を、延々と流しました。
これを見た生徒と教師らも、ともに涙を流し、慟哭したといいます。
乃木大将自身、息子二人も戦争で亡くしていましたが、それには一切触れず、少しも己の功を誇ることなく、多くの将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する乃木の姿に人々は感動したのです。
明治時代から学ぶ
同じブログからの記事です。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/29392546.html

明治時代から学ぶ

明治37年5月、日露戦争の戦地でのこと。
歩兵第三連隊の第八中隊でロシアの捕虜の見学者を募ったところ、
あまり兵卒が希望しませんでした。
不思議に思った中隊長自ら問い質してみると、
金子亀作という一等卒がこう答えました。
「自分は在郷のときは職人であります。軍服を着てからは日本の武士であります。
どこのどういう人かは知りませぬが、武士であるものが敵ながら運拙く捕虜となって
彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、
気の毒でたまりませんから自分は見学に行って捕虜を辱めたくはありません」
この金子一等卒の心ばえに感動した中隊長は
「全く同感である。武士は相身互い、ゆえに捕虜見学に行かないことに決定する」
と申し伝えました。
見学を希望した兵卒達も、金子の言葉を聞いてハッと我に返って、
言われて見ればそうだったとたちまち同意しました。
これは、皆がそうしたものを心の底に持っていたからこそでした。


また、
当時日本軍はロシア軍の後方かく乱のため、ロシア国境近くの鉄道を爆破せんとして
捕らえられた横川省三、沖禎介の二人は自ら銃殺刑を望み、
所持金の全てをロシアの赤十字に寄付すると申し出て、
並みいる武官を感動させました。
二人のこの堂々とした態度は当時のフランス、スイス、支那の新聞にも載り、
世界の人々に感銘を与えました。
処刑の執行官であったシモーノフ大尉は、昭和9年12月、横川の遺族を盛岡に訪ね、
遺児に対面して号泣したといいます。
・・・
乃木大将から学ぶこと
これで乃木希典を結びます。全文転載をお許しください。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/27530903.html

そんな小さなことでくよくよするな。
明治の名将はでっかいぞ。
・・・・・・

子供のころ遊んだ「だるまさんがころんだ」。
「だるまさんがころんだ」と鬼は十を数えますが、
ある地域ではこれを
「のぎさんはえらいひと」と数えるらしい。

また、ある人が乃木大将に
「武士道とは如何なるものでありましょうか」と尋ねたところ、
「武士道は言葉ではない」
と答えた。・・・・・・・

戦前の日本人は乃木大将の中に「明治の精神」を見出し、
それを見出した時に乃木大将への愛惜の情となっていったのかも知れません。
乃木大将は日本人が最も好む名将であると思っています。
・・・・・・

乃木大将は幼名を「無人」と言いましたが、
これを「泣き人」と言われるほど、体が弱く、泣き虫であったといいます。

真冬の一番寒いある日、
「寒い」
と口にした希典をいきなり井戸端に連れて行き、
頭から冷水をかぶせた父。
父・希次は容赦なく厳しかった。

江戸麻布の長州の支藩・長府藩邸に希典と住んでいた剛直な父・希次は、
藩政の問題をどうしても見過ごせずに、意見を上申したことから、
「閉門謹慎の処分」を受け、長府へ帰国を命じられてしまいました。

長府に戻った希典は集童場に入り、文武の勉強に励みますが、
虚弱な身体で武芸を続けるのは無理だと思い、
将来は得意な学問で身を立てることに決めましたが、
ついには父に反対され、希典は家を出てしまいました。

家を出た希典が行ったのは萩の玉木文之進の家でした。
玉木は吉田松陰の叔父であり、松陰を厳しく鍛え上げた人でした。
しかし、玉木は父母にそむいて家出した希典を「武士にあるまじき行為である」と叱りつけて、
入門させませんでした。
それを玉木の妻が憐れんで引きとめたため、
希典は何とか玉木家の世話になることが出来ました。

しかし、希典には学問は一切教えず、来る日も来る日も畑仕事を手伝わせるだけでした。
これが、一年も経たないうちに虚弱な希典の身体が見違えるほどに逞しくさせました。

希典は晴れて玉木に入門を許され、
以後、四年間、玉木に師事することになりました。
そして、希典は萩の明倫館に通うようにもなりました。

すでに松陰は安政の大獄で刑死していましたが、
玉木は希典に松陰の直筆である「士規七則(しきしちそく)」を与え、
松陰の精神である武士の心得や天皇への忠義、人のあり方を伝授しようとしました。
希典は玉木を通じて松陰を生涯の師とするようになりました。

また、父・希次は息子・希典のために一冊の本を筆写して希典に与えました。
それが山鹿素行の「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」でした。
山鹿素行は江戸前期の儒学者、兵学者で、
当時多くの儒学者が明(清)を中華として傾倒しているのを批判し、
万世一系の天皇を戴く日本こそ「中朝」であると「中朝事実」を書いたのです。

松陰の「士規七則」も、山鹿素行の「中朝事実」がもとになっています。
乃木大将も松陰と同じように「中朝事実」を生涯、座右の銘として、
戦場に行くときはいつも肌身離さず持っていたといいます。・・・・・・


時代は明治に入り、西南戦争の時、
西郷隆盛を首領とする薩摩軍一万三千が熊本城を包囲した。
乃木は歩兵第十四連隊を率いて小倉を出陣し、
夜行軍の果てに熊本城北方で薩摩軍と遭遇しました。
戦闘は凄まじい白兵戦となり、さすがの乃木も一時撤退を決意。
その際、天皇陛下から授かった大事な連隊旗を敵に奪われてしまいました。
軍旗喪失という軍人にあるまじき失態をしてしまい、
乃木は面目なさのあまり、自ら何度も死地に入り、
薩摩軍の正面に立ち敵弾に当たって死のうとしますが果たせませんでした。

これを知った明治天皇は
「乃木を殺してはならん」
と前線から乃木を外すよう命じました。
明治天皇は乃木の責任感の強さに深く信頼の念を寄せられていたといいます。

後年、乃木大将は明治天皇の後を追って殉死を遂げる際、
この軍旗喪失への謝罪を遺言の第一にしたほどでした。


乃木将軍が日露戦に出征する前日、自宅で送別の宴をした時、
招かれた親類縁者には静子夫人の手料理が出されました。
送別の宴半ばに、乃木将軍は夫人へ遺言を言い渡しました。

「さて、勝典、保典、及び自分の三人とも戦場へ向った以上、生きて還る事は先づあるまい。
三人のうち誰が真先に討死をしても、戦争が終るまでは葬いをしてくれるな。
何れ三人の遺骨が揃った処で、親子三人一緒に柩を出してくれ。よいか」

夫人は動ずる色もなく、「はい、仰せを守ります」と言った。

この夫妻の態度には同席の親族の人々は密かに涙を呑んだといいます。
しかも、この日は南山の激戦の日でした。
この時、日本軍の死傷者実に約4300名。
この中に乃木将軍の長男・勝典がいました。
敵弾のため重傷を負い、野戦病院に担ぎ込まれましたが、まもなく息をひきとりました。
乃木将軍の出発と僅かに1日違いでした。
・・・・・

日露戦後、日露戦争時に難攻不落の旅順を落とした「英雄」として、
乃木大将は長野師範学校で講演を求められました。
この時、乃木は演壇に登らず、
その場に立ったまま、
「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」
とひとこと言って絶句し、
涙を流し続けました。
これを見た生徒や教師らも、共に泣いたといいます。

乃木という人間は、少しも功を誇ることなく、
多数の将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する、
その姿に多くの人々が感動したのです。

明治四十年、そんな乃木大将を明治天皇は学習院長に任じます。
翌年には裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院初等科に入学されました。
明治天皇が乃木大将を学習院長に任じたのは、
皇孫の教育を託せるのは乃木以外にいないとお考えになったからでしょう。

月日も経ち、乃木大将が学習院長として最後のお別れの講義を小学生にされたときに、
乃木大将が「日本はどこにある?」と生徒に質問されました。
三、四人が「東洋の東側」「緯度何度」といった地理的な返事をしたのを聞かれて、
乃木大将は「それぞれに間違いはない」、
そして、自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだよ」
とおっしゃって、静かに壇上を降りて学習院を去って行かれたといいます。


大正元年九月十三日、乃木に最後の時がやってきました。
午後八時、明治天皇の御遺体を乗せた車が宮城(皇居)を出発した合図である号砲が放たれると、
自宅にて乃木は古式に則って切腹、
明治天皇の後を追って自決しました。享年六十四歳。
妻・静子もともに自刃しました。
・・・・・・

吉田松陰や幕末の志士たちと同じように乃木大将も楠木正成を深く崇敬していました。
楠木正成の息子・正行(まさつら)と別れた「桜井の駅」には、
今日、乃木大将の揮毫による「楠公父子訣別之所」の碑が建っています。

無謀な作戦と知りつつ、尊王の大義に殉じるべく、湊川へ赴いた正成の生き方は、
多くの幕末の志士たちに感動を呼び起こし、彼らの行動の源泉になりました。
この「楠公精神」こそが明治維新を成し遂げ、大国ロシアにまで勝ち、
そして日本の独立を守った原動力そのものでありました。

乃木大将が貫いた天皇と国家に対する最後の奉公の姿、
それは「己を虚しくして大義に殉じる」 明治の精神の輝きであり、
我々はこのような祖先の血を引き継いでいるのです。

今を生きる日本人に乃木大将は問う。
「日本はどこにある?」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

乃木大将が学習院院長の時に、学習院初等学科学生に与えた訓示。

1.口を結べ。口を開いて居るような人間は心に締りがない
2.眼の注ぎ方に注意せよ。始終キョロキョロしているのは、心の定まらない証拠である
3.敬礼の時は先方をよく注視せよ
4.自分の家の紋所、家柄、先祖の事はよく聞いて忘れぬ様にして置け。先祖の祭は大切であるぞ
5.男子は男らしくしなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶ様では駄目だ
6.決して贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない
7.人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰る様にせよ
8.寒中水で顔を洗うものは幾人あるか。湯で洗う様ではいかぬ
9.寒い時は暑いと思い、暑い時は寒いと思え
10.破れた着物を其の儘着て居るのは恥だが、そこを継ぎをして縫って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない。
11.恥を知れ。道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣に劣る
12.健康の時は無理の出来る様に体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら医者の云う事をよく聞け
13.洋服や靴は大きく作れ。格好などかまうな
14.学習院の学生は成るだけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、体の丈夫なものは成るべく軍人にならなければならぬ。けれども生まれつき体の弱い者もあり、又種々の事情でなれぬ者もあろう。是も仕方がないが、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、あるいは国の害になる様な人間は死んで仕舞った方がよいのである。



Re: 乃木大将から学ぶこと
たくさんコメントを頂きましたが、乃木のいい話はいろいろあります。美化し過ぎていると思う事もあります。出来過ぎた話は、出典がどこにあるかを調べることも大切です。当時のどの書物のどこに書かれているか、確認できますか。

それと、自分の言葉をほとんど書かずに、他のブログのコピペを一方的に何通も送りつけるようなコメントは、正直言って迷惑です。この種のコメントは、今後は適宜削除させていただきます。
司馬遼太郎は戦後GHQに迎合した小人愚者である
小人が君子を語ることはできない。それを証明するに必要十分な量の文献紹介です。

またおよそ歴史を観るには同時代人の心をもって観なければならない。すなわちわれわれ自身のご先祖様たちがどのように観ていたかを感応心得しなければ歴史の真実は観得ないのです。故きを温ねて新しきを知る、の知るとは知識ではなく覚知のことです。釈尊が大慈悲で教えたもうたとおり。
Re: 司馬遼太郎は戦後GHQに迎合した小人愚者である
司馬遼太郎が小説を書き出したころには占領軍はいなかったので、「GHQに迎合した」ということにはなりませんが、司馬自身が軍隊にネガティブな考え方であったか、軍隊にネガティブなマスコミ世論に迎合したかのいずれかなのでしょう。
ご指摘の通り、昔のことを現在の価値観で解釈することは間違いで、当時の記録を調べて、当時の考え方で大きな歴史の流れを読むことが肝要です。
司馬遼太郎のこと
司馬遼太郎氏は、自身も学徒出陣で、陸軍戦車部隊に入隊しており、大きな戦闘には遭遇しなかったようですが、生前、明治憲法による徴兵の義務を果たしたことは、自分の「誇り」であるということを、晩年に本人が書いたエッセイで述べています。・・・『この国のかたち』(司馬著)

彼は、いろいろな自身の著作やTV番組で「“昭和の戦争”は、明治の戦争とは違うのではないか。」と述べており、明治期いっぱいは、江戸時代以降の“武士道”精神が正しく、十分残っていたが、昭和はそうではなかった。

明治期に日本人がもっていた現実主義、合理主義の考え方が、昭和になってすぐの頃には、もう衰弱した状態だったとも述べています。そのことは、行き過ぎた“精神主義”であり、誤った“武士道”の結果であると述べています。

いずれにせよ、司馬が終戦の時に感じたのは、「本当の日本・日本人」は、こんな国・人々ではなかったのではないか・・・。というところから出発しているようです。(これは彼の多くの著作物やTV番組でもべています。)

彼は、生前もその死後も、いわゆる「右」の人々からは左過ぎると評価され、「左」の人々からは右過ぎると呼ばれており・・・また、「自分は小説家であり、歴史研究者ではない」ということはいたるところで表明しているので、彼の立ち位置が極端だったとは、私自身は思いません。

歴史を正確にというか、究極の客観的にみるのは難しいことだと思います。難しいというより、言い過ぎを許していただければ無理だと思います。されども、その点、しばやんさんがいろいろな“史料”を探し、それを分析しながらこのブログを書かれているのはすごいと私は思っています。

長くなってしまいましたが、最後に新渡戸稲造があの有名な著作『武士道』(日本語訳)の中で、次の一節を記しています。
「(将来)軍隊組織が、武士道をおのれの都合のよいように利用するかもしれない。国家や権力者が“忠義”という言葉を使うときほど危険なときはない。悲しいかな武士道。かなしいかなサムライの誇り・・・。」
Re: 司馬遼太郎のこと
歴史を客観的に見ることは、私も無理のような気がしています。死んだ本人に聞かなければわからないことがいくらでもあり、それらを後世の人が分析していろんな意見が出ることは仕方がありません。

私が気になるのは、自分の意見を通す為に、明白な史実に目をつぶり、適当に史実を捻じ曲げる識者が少なくないことです。司馬の小説では、乃木の描き方に違和感があります。

私も戦争は嫌いですが、乃木があの戦いに勝てなければ、いずれ日本海の制海権をロシアに奪われて、日露戦争の勝利はなかったでしょうし、日露戦争に敗北していれば、日本列島の一部はロシアの領土になっていたのだと思います。日露戦争は自衛の戦いであり、国家や権力者がその忠義を利用したものではなかったのではないでしょうか。

誰も戦争で命を落としたくないですが、誰かが命がけで戦わなければ、自国を守れないし郷土も家族も守ることができない。その思いで戦った兵士たちのことは、日本人の記憶にとどめるべきだと思っています。
乃木将軍は名将だった。
v-8
乃木将軍は、貧乏くじを引いてしまったのだ。
旅順の堅い護りを前もって情報収集しもせずに攻撃したのが多大の犠牲がでた要因。それに、切迫した期限切りの制約があり、速攻でいくしかなかった。
Re: 乃木将軍は名将だった。
乃木将軍に、貧乏くじを引いたという意識があったかどうかはわかりませんが、ご指摘の通り最大の問題は参謀本部の情報収集不足と判断ミスと兵力不足にありました。
そのハンディを乗り越えて、勝利に導いた乃木は名将であることを世界が認めていたのですが、戦後の風潮でおかしな議論がまかり通っています。
司馬の卑怯な所がフィクションじゃないと匂わせて、批判から逃げ切れない時にフィクションと体裁を取り繕う所である
とある作品で歴史人物を出した時、その家系の子孫から人物像が違うという批判に対して、反論出来ない場所でその発言をせせら笑った所である
彼は自分の史観に凝り固まり、創作を史実と受け取る人間の多さに正直辟易する

無名の歴史人物の一人にスポットを当てるのは良いが自分の都合よくフィクションを史実的に扱う為に正当な評価が与えられない人物が多い
乃木にしても中岡にしても創作娯楽の司馬史観を捨てて、改めて再評価される機会が与えられてほしい
Re: タイトルなし
ご指摘の通りですね。
近現代史で実名で登場させる以上は、小説家といえども真実を追究する姿勢が必要だと思います。そうでなければ、「誤った歴史観」が定着してしまいます。ベストセラー作家が多くの読者にひろめた人物像は、そう簡単にはひっくり返りませんから。

乃木将軍は貧乏籤をひいた
前にも書きましたが、旅順港の要塞は大変なものであったのですね。日本軍は要塞の実体を知らずに、やみくもに攻撃した結果のおびただしい被害だったわけですね。
Re: 乃木将軍は貧乏籤をひいた
根保孝栄・石塚邦男さん、コメントありがとうございます。

写真で見てもすごい要塞です。やみくもでは勝利はできませんが、勝利するために多くの犠牲を避けることはできませんでした。
しかし、この勝利が無ければ、日露戦争で勝利することは難しかったでしょう。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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