湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話

今は御母衣湖の湖底に沈んでしまったのだが、以前は「飛騨の白川郷」と呼ばれ、合掌造りの家々が数多く建っていた「岐阜県大野郡荘川村」というのどかな集落が、庄川のさらに上流に存在していたという。
沈む前の荘川村の写真が次のURLにいくつか紹介されている。
http://www.westsho.jp/syoukawa/db/feeling/index.html
また、次のURLでは水没前の航空写真と水没後の航空写真が紹介されている。
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf
庄川上流に東洋一のダムの建築計画が持ち上がったのは昭和27年(1952)のことだ。
当時のわが国は高度成長期の入口にあり、産業界から電力供給増加について強い要望があり、そのために国内の多くの河川で水力発電の開発が盛んに行われていた時代である。
庄川上流に大貯水池を設ければ下流のダムの水量を増加させながら、年間の流量を調節できる。しかしそのためには、荘川村の3分の1にあたる240戸が水没してしまうことになり、住民1200人に故郷を捨てる苦渋の決断をしてもらわなければならなかった。
そして水没することになる家の多くは白川郷と同様に合掌造りの建物であり、またこの村は標高700mの高冷地でありながら、質・収穫量ともに第一級の米どころであり、反当りの収穫高は濃尾平野と変わらなかったというから、人々の生活も豊かであったようなのだ。
地元の人々は昭和28年(1953)に「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し、その年の10月には東京の電源開発本社の前で「御母衣ダム絶対反対」という襷をかけた陳情団を送り込み、高碕達之助総裁に会わせろと要求すると、総裁本人が出てきたという。
「死守会」の書記長であった若山芳枝氏はその時の高碕総裁の言葉を著書にこう記している。

「日本の国の資源は雨と高い山である。バケツ一ぱいの水を山の上に持っていくには相当の努力がいる。上から落とすことは容易である。雨を降らせてくれる神様によってその雨を利用して電力をおこし、そのために国の産業が発展する。雨を無駄にすれば河川は洪水となる。雨は利用すればよいもの、捨てておけば悪いものだ」
「皆さんの苦痛は金銭のみではかえられない。第一に故郷を失い、すべてを無くされることについてこれをどうしてあげるかということで私も頭を悩ましている。多数の人たちのため感情を殺しなさい、と言えぬところが一番苦しむ点である。私も六十八になりこの仕事は最後の国に対する御奉公だと思っている。」(『ふるさとはダムの底に』)
また若山氏は、同じ著書で次のように高碕総裁の印象を記している。
「この総裁のコトバには不思議な力があった。先程とは全く打って変わった何かしら温い空気が死守会員の胸に流れ始めたのである。」
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html
しかし地元民は「故郷を守りたい」という純粋な思いを放棄するわけにはいかなかった。
強力な反対運動が続いて膠着状態が続いていたのだが、昭和31年3月4日に荘川村を電源開発の藤井栄治副総裁が突如訪れて、5月8日の死守会総会での会見の約束を取り付けている。
そしてその5月8日に藤井副総裁が再び荘川村にやって来た。若山氏の著書によると、この日の会場の雰囲気は、反対派の「殺気が感じられたほどであった」そうだが、一人で壇上に上がった藤井副総裁はこのように切り出したという。
「なんとかダムをつくらせてくれと、みなさんから承諾いただくまで、私は1週間でも10日でも動きませんと」
「私も命をかけて参りました」
壇上の藤井副総裁の鬼気迫る説得に死守会の面々は沈黙したという。
藤井が別室で休憩している時間に、このまま対話を続けるか、決裂させるかで賛否両論が飛びだしたが、死守会会長の建石福蔵氏から、相手側から「覚書」をもらうという意見が出て、メンバーの同意が出たので建石会長と若山書記長らが学校の校長室に移動して、校長に文章作成を要請したことが次のURLに書かれている。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post04.html
後に『幸福の覚書』と呼ばれるようになった次の文書は、学校の便せんに手書きで書かれたものだという。
「覚書
御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我が社は責任を以て樹立し、之を実行するものであることを約束する。
昭和31年5月8日
電源開発株式会社 副総裁 藤井栄治
御母衣ダム絶対反対死守会 会長 建石福蔵殿」
いくら出費しても相手方が「以前より幸福でない」と言いだしたら更なる出費を余儀なくされることになる内容であり、今の企業なら普通は出せない内容の文書だと思うのだが、この覚書を交わしたことで、「死守会」が次第に歩み寄ろうとするようになったという。
昭和34年(1959)年に入ると補償交渉が成立して新天地に去る人が多くなり、会員の相当数が現地に残っている内に、円満に交渉が妥結したという証として、11月22日に「死守会」の解散式を行う運びとなった。

この会に東京から参加した電源開発の高碕総裁は、湖底に沈む集落を最後に見たいと言って、ふと立ち寄った光輪寺の桜の巨木に遭遇した。高碕はこの桜を「水没から助けたい」と死守会書記長の若山さんに語ったという。ダムに土地を奪われた村人たちが故郷を偲ぶよすがにしてほしいとの思いからであった。
老桜の移植を心に決めた高碕だったが、多くの専門家に相談しても、古い巨木の移植は難しいと何度も断られたようだ。しかし高碕は諦めず、当時「桜博士」と呼ばれていた笹部新太郎という人物を訪ねた。当時高碕は電源開発総裁の職を辞していたが、なんとしてでも桜の命を守りたいという高碕の心に打たれて、笹部は心を決めたという。
笹部は早速荘川町を訪れて、光輪寺のほかに照蓮寺という寺にも桜の古木があることを発見し、万が一1本が枯れてももう1本が助かればとの思いから、2本を同時に移植することを提案している。

昭和35年(1960)11月15日から巨桜の移植作業が開始された。いずれも樹齢400年を超え、重量は光輪寺の桜が約35t、照蓮寺の桜が38tととんでもない重さであり、それぞれの木を距離にして600m、高低差50mまで引き上げねばならない。そのために新しい道路までが作られたという。
大きすぎては運ぶことが出来ないし、切りすぎてもいけないし、樹木に傷をつけてもいけない。地下100mも伸ばした根を何処まで切り、枝を何処まで切るかというバランスを誤れば移植はうまく行かないのだそうだ。12月24日に移植工事が完了したのだが、いくら難工事であったにせよこの木が移植先で活着しなければ何の意味もない。当初は無残に枝や根を切り落とされた桜の木を見て、村人の反応はかなり冷ややかだったという。
年が明けて待ち望んだ遅い春が荘川の地にもやってきた。そして待ちに待った若芽が、こもの目をついて出始めたという報告があった。2本の桜は枝を伸ばし、日を追うごとに元気を増し、かっての美しさを取り戻そうとしていた。
昭和37年(1962)6月12日に水没記念碑除幕式が行われ、電源開発関係者と桜を移植に携わった人々や、元村民ら500人余りが桜のもとに集まった。
この式に参加した「桜博士」の笹部新太郎氏は、自著『桜男行状』にこう書いておられるという。
「見渡すかぎり、山は削られ川は埋められまさに山渓あらたまるというべき索漠たる風景を前にして、これらの人たちは老若を分かたず、申し合せたように誰もかもみな、この僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声を上げて泣いていた。」
また、挨拶に立った高碕達之助も眼鏡の下を指で押さえて、感激に唇を震わせながらこう述べたという。
「昭和27年10月18日基本計画の発表を見た時から、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています。」
また、高碕はこの桜をこう詠ったという。
「ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに」

2本の桜は「荘川桜」と命名され、昭和41年には岐阜県の天然記念物の指定を受けて、いまも春には美しい花を咲かせてくれている。
満開の季節には多くの観光客が訪れるのだそうだが、このような経緯があったことも是非知ってもらいたいものである。

「御母衣ダムサイトパーク」の右側の建物の中にシアターがあり、このダム建設の交渉から荘川桜の移植までの出来事をまとめた「桜守の詩」という18分の映画があるので観賞してきたが、なかなかいい映画で感動してしまった。
この建物の左側には、荘川桜の美しい写真などが展示されている。2階に上がれば、御母衣ダムの外観を見ることが出来る。

多くの住宅は湖底に沈んでしまったのだが、いくつかの建物は移築され、今も見ることができる。

上の画像は高山市の「飛騨の里」に移築された「旧若山家住宅」で国の重要文化財に指定されている。
下の画像は横浜「三溪園」に移築された「旧矢篦原(やのはら)家住宅」でこれも国の重要文化財だ。


荘川桜があった照蓮寺は高山市堀端町に移築されているが、この本堂は国の重要文化財に指定され、中門と梵鐘は岐阜県の重要文化財だ。もう一つの桜のあった光輪寺は関市清蔵寺町に移築されたという。
御母衣ダムサイトパークから荘川桜までは9.3km。15分程度で到着する。

手前の桜が、高碕総裁が一目見て移植したいと考えた光輪寺の桜で、奥の桜が照蓮寺の桜である。

この2つの桜の大樹の間に、先ほど紹介した高碕達之助の歌碑が建っている。
「ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに」
何度もこの歌を口ずさんで、私も胸が熱くなった。
この歌を残した高碕達之助は、水没記念碑除幕式の翌年に病に倒れ、その翌年(昭和39年)の2月24日に帰らぬ人となった。高碕は充分に枝を拡げ咲き誇る荘川桜を見ることは叶わなかったのである。
高碕の葬儀の時に、棺には荘川桜の小枝が手向けられたという。

昭和45年3月に、県内外に散在していた女性たちが声を掛け合って水没地の元住民による『ふるさと友の会』が結成され、平成10年頃まで毎年のこの桜の元に集い、多い時には400人ものメンバーが集まったという。
また当時荘川村の中学校の教員であった林子平氏の回顧談を読むと、地元で高碕氏の7回忌から27回忌まで年忌法要を行なったのだそうだが、この桜が蘇生したことを荘川村にいた人々が喜び、高碕氏がこの桜を残してくれたことにいかに感謝したかがよくわかる。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html
故郷を失った人は誰でも悲しいものだと思うが、少しでも故郷のものが残っていれば嬉しい、懐かしいと思うに違いない。高碕はそこまで考えて荘川桜の移転を決断したのだと考えるのだが、高碕が念願していたとおりにこの桜は、荘川村にいた人々にとって故郷を偲ぶよすがとなり、そしてかけがえのない宝物となったのである。
最後に高碕達之助氏の言葉を記しておきたい。
「進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。
だか、人力で救える限りのものは、なんとかして残していきたい。
古きものは、古きが故に尊い。」(文芸春秋 第40巻 第8号より)
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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