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全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか

以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。
薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html

薩藩名勝志

このような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際に多くの歴史書ではそう書かれている。

たとえば昭和8年に出版された『岩波講座日本歴史』では、「明治維新となり、神仏分離令も出て、廃仏の気勢は天下に漲った」と書かれていて、それまでは廃寺の準備がなされたとだけ書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/11

昭和16年に出版された維新資料編纂事務局の『維新史』も同様で、「神仏分離の令出づるや藩廳は…総て寺院を廃し、僧侶に悉(ことごと)く帰俗すべきを命じた。是において廃仏の気勢は忽ち藩内に漲り、仏像・経巻等を焼棄し、あるいは破却して、一藩の仏教は殆んど潰滅せんとするに至ったのである。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242382/270

このように普通の歴史書では、薩摩藩の廃仏毀釈は明治元年の神仏分離令以降に始まったことになっているのだが、実際はもっと早くから実行されていた可能性が高いことを最近知った。

仏教遭難史論

薩摩藩の廃仏毀釈を推進したメンバーの一人で、島津斉彬の側近であった市来四郎という人物が薩摩藩の廃仏毀釈を証言していて、その内容が、このブログで何度か引用してきた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に要約されて紹介されている。この証言を素直に読むと、薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期から始まっていた可能性が高いと考えざるを得ない。

羽根田氏が著書の中で、市来四郎の講話をまとめている部分を引用する。
「さて、鹿児島藩には、夙(つと)に平田篤胤の学風が流行したから、仏教排撃の議論が盛んであった。慶応元年(1865)の春頃であったが、私ども友達中の壮年者の諸論に、こういう時勢に立ち至っては、寺院および僧侶という者は、実に不要である。あるいは僧侶も、それぞれ国の為に盡させなくてはならぬ時節になった。先年水戸藩にても、寺院廃合の処分があったのは、眞に英断の処分であった。
 此時にあたり、当藩においても、之を断行して廃すべきであるという事となった。…(市来らが)建白者となり、家老の桂右衛門というに対し、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年者が、ただ口辨をもって坐食しては相すまぬなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分に尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に宛て、仏具は武器に換えることとし、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与するがよかろうという主意で建言した。(家老の)桂もかねて同論でもあり大いに賛成して、じきに忠義*、久光に披露せられた。ところが即日に決断せられ、久光は、拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借るに及ばぬと言われたそうである。即日、桂久武を始め、みな寺院取調べ方を命ぜられたのは、誠に愉快なことであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50
*忠義:島津久光の子で薩摩藩第12代の藩主。藩主在任中は島津茂久を名乗り、維新後に忠義と改名した。
**久光: 島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。幕末の薩摩藩の最高権力者。

そして市来らは寺院の石高や僧侶数を地域別に徹底的に調べ上げたという。
その調査結果は、薩摩藩全体では、大小寺院の総数が1066寺、それらの寺院の石高が 15118石、僧侶数が2964名であったという。
さらに寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで毎年大きな金銀や米の支出があった。彼らの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出は、10万余石にもなると書かれている。
ちなみに幕末の薩摩藩は87万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは間違いがない。

平和な時代であればともかく、外国勢力と戦わねばならない時期が来るかも知れず、戦費の蓄積が急務であったにもかかわらず、薩摩藩に財政の余裕があるわけではなかった。
そこで、もし寺院を破壊すれば、その分だけ寺院関連支出が減るから、藩の財政収支が大幅に改善することは誰でもわかる。だからこそ藩主以下、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。
市来は「寺院を廃して、各寺院にあるところの、大小の梵鐘、あるいは仏像、仏具の類も、許多の斤高にして、これを武器に製造の料に充て、銅の分を代価に算して、凡そ十余万両の数なり」と算盤をはじいている

市来は寺院を破壊した時期をあいまいにしているようだが、市来らが島津久光に廃寺を建言したという慶応元年(1865)には、薩摩藩ではとっくの昔に寺院の梵鐘などを寺院から取り上げていたのである。

前回の記事で書いた「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」が出された3年後の安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていたとの市来の証言がある。ところがこれらの梵鐘を鋳潰さないまま、その年に斉彬公が亡くなられてしまったという。

市来四郎はいつ梵鐘などを鋳潰したかについて明確には述べていないのだが、次の部分を読めば、江戸幕末に鋳潰したことはほぼ間違いないだろう。

300px-Nariakira_Shimazu.png

「…斉彬公も、詔に対し幕令に随い、梵鐘を引き揚げて、寺院の廃止を実行せられたのである。故に鹿児島藩の寺院処分は斉彬公から出たのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/54

仏具類、即ち梵鐘などは、兵器に鋳換えたのもあり、天保銭の料に用いたのもあり、天保銭に鋳換えるには、松平越中守が、寛永通宝を鋳造の時の訓諭などを引用して、衆生済度の主意に基づき、実際の餓鬼を救うなどと言いふらした。兎に角も、一大事変であるにもかかわらず、別に故障もなく行ったのは、むしろ怪しまるる程である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

このように、市来は梵鐘などを鋳潰して、兵器だけではなく天保銭の原料にしたと証言していることは注目して良い。もちろん、当時においては通貨の発行権は徳川幕府にしかなかったので、市来の証言を普通に読めば薩摩藩は寺院の梵鐘などを溶かして贋金を作っていたことになる
天保銭は100文で通用し、製造コストは原料代と工賃込みで1枚10文前後だったというが、薩摩藩の場合は、集めた寺院の梵鐘を原料にしたのならば、もっとコストは低かったはずだ。

琉球通宝

薩摩藩は、藩の支配下にあった琉球の救済を名目に、文久二年(1862)に江戸幕府から3年の期限付きで鋳造を許可された「琉球通宝」の製造と併行して、天保銭を大量に密鋳したようだ。

Wikipediaの「琉球通宝」の解説によると、それまで薩摩藩は錢貨鋳造の経験がなかったので、島津斉彬は天保通宝鋳造経験のある人物を呼び寄せたことが『斉彬公御言行録』に記録されているという。そして文久三年(1863)の薩英戦争までに「琉球通宝」を30万両を鋳造し、戦後も日々7000両余鋳造したとされているが、それ以外に天保銭を大量に密鋳したのならば、討幕のための相当な軍資金が捻出できたはずである。
こういうことは公式には記録されずに秘匿されることなので、密鋳を裏付ける文書が存在するわけではないが、「薩摩天保」と呼ばれている密鋳銭が今も大量に存在している事実がある。

JpnTm018SatumaOukakuGyoukanTou.jpg

「薩摩天保」は本物の天保銭と比べて鉛の含有量が高くて黒みを帯びて品質も良くないそうだが、通貨コレクターの間では人気があり、今では本物の天保通宝よりも薩摩藩の贋金の方に高い値段がついているのは皮肉なものである。
http://1st.geocities.jp/mrf454_pp/HTML/iTempo.html

ところで、幕末に天保通宝を密鋳した藩は薩摩藩だけではなかったようだ。
Wikipediaによると明治時代に引換回収された天保銭は、本物の製造枚数を1億枚以上も上回っていて、2億枚程度が幕末に密鋳されていたと推定されている。
密鋳に関わっていた藩は薩摩藩のほかに、水戸藩、久留米藩、福岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩、仙台藩など10を超える藩の名前が判明している
という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E9%80%9A%E5%AE%9D

大乗院

市来四郎の廃仏毀釈の証言に話を戻そう。
市来によると、まず城下の寺院を「処分」したと述べている。最初に「処分」したのは、大乗院という真言宗の大寺で、その支坊、末寺が境内に十以上あったが、これらが「悉く廃毀された」とある。
城下寺院の処分が終わると、各郡村の寺院に移ったが、全てが終わるのに三四年も費やしたのだそうだ。

そのあと、神社の神仏混淆の分離にとりかかっている。市来の証言を読むと昔の神社がどのようであったかが分かって興味深い。

「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
と、4千以上の神社で神仏混淆でなかった神社は一つしかなかったというのは驚きだ。

廃仏毀釈

また市来は仏像の処理についてはこう述べている。
「…仏像の始末については、石の仏像は打ち毀して、川の水除けなどに沈めた。いま鹿児島の西南にある、甲突川の水当のところを仏淵と呼ぶ。すなわち当時、石仏像を沈めたところである。木仏像は悉く焼き捨てたのである。また大寺の堂塔とか、大門とかを打ち壊すに、大工、人夫等どもが負傷でもすると人気に障るから、大いに注意して指揮した。…
 その頃の巷説に、昔の人は大寺だの仏像だのと造立して金銭を費やし、丹誠を尽くしたもので、それだけの効験があるものと思ったが、今日打ち毀してみれば何のこともない。昔の人は、大分損なことをせられたものだなどと言い、仏というものは、畢竟(ひっきょう)、弄物のようなものであったという人気になった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

市来らはこのようにして寺院や仏像などを破壊していったのだが、その時期については述べていない。しかし、通説の叙述のように、明治維新後に拡がった「廃仏毀釈の嵐」によって、寺院や仏像が破壊されたというのはありえないことだろう。
もし通説が正しいとすると、安政5年(1858)に、島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘だけを武器製造局に集めた後に、慶応元年(1865)に全寺院の調査を開始し、明治維新後の神仏分離令(1868)を待って、寺院の仏像仏具や建物を毀し始めたことになり、天保銭の密鋳は認めず、「琉球通宝」鋳造時にも寺院の梵鐘には手を付けなかったこととなり、どう考えても不自然すぎる。
市来四郎は島津斉彬の時代に梵鐘を溶かして天保銭を作ったと証言しているのだから、おそらくこの時代に、すべての寺院の梵鐘だけではなく金属製の仏像が集められて鋳潰され、木造の仏像や石仏などの破壊も同時になされたのだろう。

羽根田氏の著書にはあまり追究されていない部分だが、薩摩藩の徹底した廃仏毀釈については、その経済的動機を無視してはいけないと思う。仏教界の腐敗があったにせよ、それが廃仏毀釈の原因のすべてではなかったはずだ。薩摩は廃仏毀釈で財政支出を大幅に削減し、さらに通貨偽造で荒稼ぎができることを計算した上で、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。

このブログで何度も書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実は歴史叙述から外されて、為政者にとって都合のいい記述だけが編集されて国民に広められる。
幕末の段階で寺院の梵鐘や仏像を集め鎔かして贋金づくりをし、その資金で明治維新を果たしたというような、明治維新後の中心勢力となった薩摩藩にとって都合の悪い史実の数々は、明治以降の長らく歴史の叙述から削られてきたと思うのだが、この時代に限らず、勝者にとって都合の良いキレイごとばかりの歴史叙述では、本当に何があったかを知ることは難しい。
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【ご参考】
このブログで、廃仏毀釈に関してこんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html







関連記事
Comment
斉彬の「順聖院~」という戒名
薩摩藩における廃仏毀釈は、他藩とは比較にならないほどに苛烈だったことは知っていました。確かに、鹿児島県内の寺社は名称が神社に徹底的に変更されています。また、以前お寺の門のところにあった石仏なども、首を切られたり、腕を切られたりしているものが今でも県内各地にあります。

今回のしばやんさんのブログで、薩摩藩の廃仏毀釈は明治政府の神仏分離令以降に始まったのではなく「薩摩藩の徹底した廃仏毀釈については、その経済的動機を無視してはいけないと思う。」ということで、薩摩藩の廃仏毀釈について地元の人間ながら知ることができました。

市来四郎の証言では、安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていたとのこと…。

ただここで気になるのは、斉彬は亡くなった後、正式に「順聖院殿英徳良雄大居士」という「戒名」がつけられており、藩士からも、その没後「順聖院(じゅんしょういん)様」と呼ばれていたという記録があります。

斉彬没後の薩摩藩の最高実力者(国父)の島津久光の文久2年のいわゆる「率兵上京」も藩士は、亡き「順聖院様」の御遺志ということで、まとまっているようなので、そこのところがどうなっているのだろうかと思う次第でした。

〔追加〕文久3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号授与がなされ、現在は鹿児島市内にある照国神社の祭神となっています。
Re: 斉彬の「順聖院~」という戒名
鹿児島のタクさん、情報ありがとうございます。

Wikipediaで調べると、島津斉彬のお墓は、鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡にあるようですね。福昌寺は島津家の菩提寺で南九州の最大の寺院だったとのことです。
解説には「福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていた。しかし、島津忠義の妻・暐姫(島津斉彬の長女)が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定した(72世時)。この時に歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったりした」とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
Re: 薩摩の真宗弾圧&偽金造り
地味なテーマですがお付き合いいただき感謝です。

佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』では、薩摩藩は1066あった全ての寺院を処分したと書かれています。
詳しくは『神仏分離資料』に出ているはずです。
ご指摘の通り、真宗は信者の団結が強く、両本願寺が富山藩の廃仏毀釈を抗議したのを受けて、明治3年12月に、地域の管庁の判断で廃仏毀釈を進めることを禁止しています。(岩波新書『神々の明治維新』p.95)
本願寺の廃仏毀釈についてはこんな記事も書きましたので、覗いて頂ければありがたいです。信者はここまでして、寺の破壊を防ぎました。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

『偽金づくりと明治維新』という本がある事は知りませんでした。情報ありがとうございます。
この記事で書いた市来四郎は島津久光の側近だったようで、彼の証言を読んだ感想として、かなり強引に梵鐘や仏像を集めたのではないかと考えています。
大変詳細な歴史分析が参考になります。と言いつつ、当方は歴史素人で、こちらの深い内容のブログの理解が難しいのですが、分からない者なりに発見も多々あり、拝読させて頂いております。誠にありがとうございます。


ウィキペディア〝市来四郎〟によりますと、
〝安政4年(1857年)に斉彬の密命により琉球に渡りフランスとの交渉に当たる。目的はフランスから戦艦を購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。〟

という内容は琉球通宝とも関係があるのでしょうか。また、フランス戦艦を購入しようとしたきっかけや戦艦購入を決断する背景やきっかけに
何があったのか…。当時の外国勢とのやりとりの中で経済的理由の他、島津斉彬の真の目論見も垣間見えましょうか…。

ちなみに島津家の家紋が十字というのも少し気になっています。

***

廃仏毀釈に至った平田学は維新の20年ほど前から始まっていたことも加味すると、明治以降の廃仏毀釈は最も激しい時期として歴史に残っている…のでしょうか。

素人がいらぬことを書きました。失礼致しました。



Re: タイトルなし
私も歴史の素人ですので詳しいことはわかりませんが、幕末の慶応3年(1867)に薩摩藩はフランスではなくイギリスから軍艦春日を購入していますね。
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=1680

市来四郎が文久2年(1862)10月に琉球通宝鋳造掛になった頃から15年もあとのことなのですが、薩摩藩は万延元年(1860)以降17隻も蒸気船を購入し、主に貿易船を買い入れたようですが、諸藩の中で蒸気船を最も多く買い入れることが出来たのは、ニセの貨幣鋳造と無関係ではないと考えます。
次のURLに薩摩が買った蒸気船のリストがありますが、軍艦が「春日」のほかにもあるかはよく分かりません。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakumatsu/kansen.htm#sa

島津家の十字は、蒙古襲来絵詞にも描かれているそうですから、キリスト教とは関係がないようです。

廃仏毀釈は明治の初期が一番激しかったというのはその通りです。
薩摩 神仏分離で検索したら
ここが出ました^^

専門外の時代なので知らなかったです^^
これまで
『島津関連の由緒ある寺院は、やけに調べ辛い判りずらいなぁ』
などと呑気に構えておりましたが、そういうことだったのか^^;
呼称を神社名に替えて難を逃れた寺院だけが現在も残っているということなんでしょうね。
個人的には「呼称変更の裏ワザ」を発案したのが誰なのか気になりますけど、まぁ歴史の底に隠れているんでしょう。

>**久光: 薩摩藩大10代藩主の島津久光。

?^^;
御存知とは思いますが、久光は藩主じゃないです。
島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。

このあいだ、大河ドラマで家茂が出てたので何となく調べたら島津茂久は家茂からの偏諱だったのが意外でした。
家茂の頃は慣例通りの偏諱がある程度に幕威があったんだなぁと^^
明治後の忠義は「忠」が数パターンある島津氏通字の一つです。

いま鹿児島県伊佐市の中世~戦国期郷土資料を調べて記事にしているところで、その中の逸話に出てた寺院を調べるのに検索かけてたら、廃寺回避のために神社に呼称変更したことが判り、データ再確認で念のために薩摩の神仏分離を検索したら・・という次第です^^

歴史って、どこで繋がってるか判らないものですね。
ランキングと記事へ拍手☆
Re: 薩摩 神仏分離で検索したら
時乃★栞さん、コメントありがとうございます。

久光の記述の誤りのご指摘も感謝です。久光は藩主であったと勘違いして、完全に誤読していました。訂正させていただきました。

廃仏毀釈に興味を覚えたのがきっかけで、このブログを書き始めましたが、こういう記録は明治政府は残させなかったのか、参考文献が少ないですね。羽根田文明氏の本が見つからなければ、この記事はとても書けませんでした。しかし、この分野で時乃★栞さんの調べ物と繋がるとは、世の中狭いのです。

廃寺回避のために神社に呼称変更した寺があるというのも興味深いですね。ブログの記事に書かれるのを楽しみにしています。

記事^^
こちらです
http://siori20120901.blog.fc2.com/blog-entry-1058.html
神仏分離について詳しい記事と云う事で、しばやん様の記事を拙記事にて紹介させて頂きました^-^

それと薩摩には、明治の神仏分離で廃寺になったけど、神社で復活した元寺院もあります。
平松神社(元は竜水山心岳寺で島津菩提寺・福昌寺の末寺にして曹洞宗)
祭神は島津四兄弟の三男・島津歳久公と殉死者たち

全国的な知名度は低い歳久公なんですが、御当地薩摩では「戦の神」として絶大な人気を誇ってたんです^^;
なにせ「心岳寺詣り」は「鹿児島三大詣り」の一つで、西郷隆盛も郷中教育の一環として心岳寺詣りをしてました。

いまのところ自分が知ってる事例は、これくらいですね^^
島津関連を調べてて、たまたま見つけたってパターンなので他に似たような事例があるかまでは把握してないです。

この記事に補足できるような特殊パターンを見かけたら、お知らせしますね^^

Re: 記事^^
拙ブログを紹介いただき感謝です。

「三国名勝図会」は明治になって出版された60巻20冊の和装本で、有難いことに『近代デジタルライブラリー』で公開されています。目次が不親切なので、私のように地名を知らない者が目的の記事を探すのは大変ですが、時乃★栞さんなら、大丈夫でしょう。明治初期になくなったお寺のことが書かれているはずです。

鹿児島県や宮崎県はまだ行ったことがありませんが、会社勤めをやめたら是非行って見たいところです。
神仏習合
日本全国、江戸時代まではほとんどの寺社が神仏習合になっていましたので、維新の廃仏毀釈で神社のほうだけ残ったケースが多かったということでしょう。

維新前は、たいてい同じ境内にお寺とお宮があったようです。というか、今でも両方残っているところはたくさんあります。浅草寺と浅草神社(三社神社)が今も同じところにあるようなものです。(ここの場合は今は一応別の宗教法人になっているかもですが) 

お宮は地域の氏子が維持してきましたが、昔からの地域共同体がだんだん崩壊してきていますので、今は維持がむつかしい時代かもしれません。昔は地域の氏子代表のような人たちがお宮に集まって、そのなかの一人が毎年順繰りに総代となって、地域のことを相談して決めていたようなのですが、戦後全国に公民館を作ったのは、GHQがこれをつぶすためだったとか。

これに対してお寺はこれまでだと一応檀家を持つことで維持してきているのですが、今後無宗教の葬式などが増えるとどうなっていくことかと思いますね。
Re: 神仏習合
一読者さん、コメントありがとうございます。

多くの地域で寺や仏像などは破壊されましたが、「神仏分離」の言葉通りに、寺と神社を切り分けたところも数多くありますね。

ご指摘のように、戦後の経済政策で昔からの地域共同体がだんだん崩壊してきました。私の子供の頃の記憶では、寺も神社も地域共同体の中心的存在でしたが、今はその姿を失っている地域が殆んどだと思います。

公民館の話はどこかで聞いたことがありますが、文書で確認したことはありません。GHQが日本人から「愛国心」を弱めるために様々な事をやりましたので、ありうることだと思います。

寺や神社は地域共同体のなかでほとんどの収入を得て来たのですが、大変な時代になってきました。寺も氏子も老齢化が進み、次の世代に引継げないところが増えているようです。このまま放置すれば、多くの文化財が朽ち、貴重な地域文化や伝統が失われてしまうことを私も懸念しています。
住民自治と神社
コメントのお返し、ありがとうございます。あれからちょっとバタバタしてまして。

日本では明治前までは、基本的に一般民衆の生活は神社を中心とする自治組織によって維持されてきたのですね (江戸のような都会は、町年寄を頂点とする町人の自治組織でしたが)。

明治時代に維新政府がさかんに神社の合祀をやり、つぶした神社の跡地を民間に払い下げました。このことの意味を深く理解していたのは、あの知の巨人、南方熊楠でした。これは住民自治を破壊するものであると政府に激しく抗議しています。

今、毎年毎年たいへんな数の神社が放火されています。私がネットで知っているだけでも、ほんの数年だけでも何百という神社です。最近放火された神社一覧を今見つけましたので、リンクを貼っておきます。
https://sites.google.com/site/kasaimatome/
また終戦直後にも全国的にずいぶんやられています。
Re: 住民自治と神社
一読者さん、コメントありがとうございます。

「明治時代に維新政府がさかんに神社の合祀をやり、つぶした神社の跡地を民間に払い下げた」という話は聞いたことがありますが、具体的な事例をあまり知りません。詳しく書いている書物やホームページなどを御存知でしたらご教示下さい。

新聞などで、時々寺社が放火されたり仏像が盗難されたりしたことが報道されていますが、正直こんなに多いとは知りませんでした。これから田舎の文化財を護ることは大変なことですね。情報をありがとうございました。
神社合祀令と跡地払い下げ
ざっと検索しただけですので、もっと詳細に書いたサイトや本があるかもしれませんが、維新政府の「神社合祀令」についてはこれをご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%90%88%E7%A5%80
あるいは、
http://ohmikairou.org/col312.html

跡地払い下げについて、全国的にまとめたサイトを見つければよいのですが、ざっと見ただけです。
神社の森は神聖な森として長く切られておりませんでしたので、巨木の宝庫でした。こんな例も;
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/2008-07.html

前回のコメで触れませんでしたが、今も、神社そのものへの放火だけでなく、御神体とされて締め縄が張られ、樹齢何百年というような巨木が急に枯れ始めたのでよく見ると、根本に薬を注入したあとがあった、という話も最近ネットでよく見かけます。youtubeなども検索されるとあると思います。
Re: 神社合祀令と跡地払い下げ
情報ありがとうございます。地域によって随分激しく神社合祀が行なわれたのですね。
三重や和歌山の数字には驚きました。

神社の古木がに薬を注入して枯らせる手口は以前読んだことがあります。以前読んだ時の犯人は隣の国の国籍を持つ人物だったと思いますが、とんでもないことですね。
こんばんは。いつもお世話になっております。
横スレになってしまいます。ごめんなさい。

神社合祀については、南方熊楠の書簡がとっかかりになろうかと存じます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.html

いささか暴走気味の熊楠ですが、当時の状況が鮮明です。
書簡をヒントに調べるのも面白いです。

上知令と払い下げは、しばやん様の過去記事と重複致しますが、

「社寺と国有林—京都東山・嵐山の変遷と新たな連携」(福田淳 著/日本林業調査会)
http://www.j-fic.com/books/isbn978-4-88965-226-0.html

財務省HP内「社寺境内地の処埋」
https://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/50years/0101020103.htm

などが、参考になればよいのですが。
Re: タイトルなし
つねまるさん、貴重な情報ありがとうございます。

あまり図書館などに行く時間が無いので、URLを教えていただくのは本当に有難いです。

青空文庫にこんな学術的な論文が出ているとは知りませんでしたし、財務省のHPにこのような文章があるということも驚きです。

何れも長文なので、ゆっくり読ませていただきます。

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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