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慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。

慈眼堂

石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。

慈眼堂の向かって左には、近世以降の天台座主らの廟所になっていて多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。あまり詳しく見なかったのだが、桓武天皇、後陽成天王、後水尾天皇や、徳川家康、新田義貞、紫式部、和泉式部などの供養塔もここにあるそうだ。

滋賀院門跡

慈眼堂から右に進むと下り坂が続いてすぐに滋賀院門跡(077-578-0130、大津市坂本4-1772)が見えてくる。

案内板には寺の由来をこう解説している。
「元和元年(1615) 慈眼大師天海(1536~1642)が、後陽成上皇より法勝寺(京都北白川に在り六勝寺の一つで歴代天皇ご授戒の寺として四箇戒場の一つでもあった)を下賜されこの地に移築されたもので、明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜り江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住まっておられた寺である。
 外観は堂々たる穴太衆積みの石垣に白壁がつづいており滋賀院御殿といわれる名に恥じない威容を見せている。
 御殿については明治11年(1878)11月の火災のためすべて灰となったが、現在の建物は山上より三塔それぞれ最高の建築を移築し、明治13年5月に復旧したものである。」

滋賀院石垣

慈眼堂から滋賀院門跡に入ると、どこに立派な石垣があるのかよく分からないのだが、境内をそのまままっすぐ進むと右に門があり、そこから塀の外に出ると、立派な石垣を見ることが出来る。

比叡山のお堂の基礎の石組を担当した石工の集団が穴太(あのう)村の者であったことから「穴太積み」と名付けられたのだが、その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にある。
戦国時代以降、築城時の石垣づくりなどで穴太衆が重用されたというが、今では坂本で1軒のみがその技術を承継しているだけだという。
コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのだが、石垣は石の隙間から余分な水分を逃すので形が崩れにくい。この石垣は造られて400年近くなるのだが、今も均整のとれた美しさを保持している。

拝観を申し込んで中に入ると、狩野派や渡辺了慶の襖絵などがあったが、内部は撮影が禁止されていたので画像で紹介できないのは残念だ。
滋賀院門跡 庭園

宸殿の西側に、小堀遠州が3代将軍家光公の命により作庭した南北に細長い庭園があり、国の名勝に指定されていて写真撮影も可能なのだが、どうせ写真を撮るなら紅葉か新緑の季節に訪れたいところである。

鶴喜そば

11時を過ぎたので、早目の昼食をとることにした。
昼食は、享保元年創業の老舗・「鶴喜そば」(滋賀県大津市坂本4-11-4、077-578-0002)に決めていた。大正時代に建てられたレトロな建物で平成9年には国の登録文化財にも指定されていて、そんな場所で食事をしてみたかったからである。
おろし蕎麦の大盛りをオーダーしたが、すぐに食べ始めてしまってメニューの写真を撮るのをうっかりして忘れてしまった。
蕎麦はコシがしっかりしていて喉越しが良く、食後に頼んだそばアイスも旨かった。

西教寺総門

食事を終えて次の目的地である西教寺(さいきょうじ:大津市坂本5-13、077-578-0013)に向かう。
上の画像は西教寺の総門だが、坂本城のものを移築したものだと言われている。

西教寺の歴史はかなり古く、この寺の案内板の記述によると、
「…聖徳太子が仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。
 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念仏の根本道場として、西教寺を再興された。
 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、『天台宗真盛派』の本山となった。
 昭和16年(1941)に天台宗三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を『天台真盛宗』と公称して独立、今日に至っている。」とある。

Wikipediaによると、西教寺は天台真盛宗の総本山で末寺は全国に400以上あるのだそうだ。天台系の三つの宗派の違いについては、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)は密教色が強いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いのだそうだ。この違いは、この西教寺の中興の祖と言われる真盛上人(1443~1495)の「戒律」と「念仏」の両方を重視する思想の影響が大きいのだという。

西教寺石垣

本堂に向かう階段を歩くと、お城のような立派な石垣を見ることが出来る。もちろんこの石垣も穴太積みである。

西教寺本堂

これが西教寺の本堂。享保16年(1731)に改築されたもので、国の重要文化財に指定されている。本尊は平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像(国重文)で、後陣には平安時代の木造聖観音立像(国重文)があるのだそうだが、延暦寺に向かう予定なので拝観することは諦めた。拝観すれば客殿(国重文)の仏間にある木造薬師如来坐像(国重文)や、庭の石灯籠(国重文)など、この寺も重要文化財が目白押しだ。

今回西教寺を訪れた目的の一つは、この寺にある明智光秀とその一族の墓をこの寺の案内板にどう書かれているかを確認することであった。

明智光秀の墓

案内文の前半には、元亀2年(1571)に織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったのだが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊(庫裏)を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えたことが記されている。
しかし問題は、明智一族の墓に関しての記述にある。案内板にはこう書かれていた。

「(光秀が庫裏を増設し仮本堂を完成させて)以来、(西教寺)と光秀との由縁はふかく、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
 天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。…」
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であるとは断言していない点に注目したい

明智光秀

Wikipediaによると光秀は山崎の合戦に敗れて、坂本城を目指して落ち延びる途中の天正10年(1582)6月13日の深夜に京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で農民・中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣溝尾茂朝に介錯させて自害したとされているのだが、光秀の周りには10名以上の家臣がいたはずだ。なぜ農民が竹槍のような武器で家臣らに気付かれずに光秀を襲うことが出来たのか。鎧を着用したはずの光秀がなぜ農民の竹槍で致命傷を負ったのか。
また、この農民が暗闇の中で刺した相手をなぜ光秀だと認知できたのか。
主君の首を渡さないのが家臣の務めであるのに、なぜ光秀の首が農民の手に渡ったのか。普通なら、主君を襲おうとした輩はその場で家臣によって切り捨てられるのが普通ではないか…。
通説で語られる光秀の死については、どう考えても不自然すぎるのだ。
そもそも秀吉が首を検分したのは6月16日で、旧暦だから真夏の暑い時期である。腐敗が進んで顔が判別できる状態ではなかったのではないか。
農民が拾った首を、光秀の首だとして差し出したか、秀吉が光秀の首だということにしたのかはわからないが、いずれにしても、光秀は山崎の戦で敗れた段階で政治的には死んだも同然であり、秀吉にとっては、首実検はどうでもよかったということもあり得る話なのである。

Wikipediaにはこう書かれている。
「光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。」
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、墓の前の案内文が光秀の墓であると断言できないのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

3フロイス日本史

ところで、本能寺の変の時に、近くにある南蛮寺にいたイエズス会のルイス・フロイスは通説とは異なることを書いている。光秀の首は刀で農民に刎ねられて本能寺に運ばれたというのだ。
「…信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、すべての首級を同所(本能寺)に持参するようにという命令が出されていたからで、それらを供えて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りとなると、堪えがたい悪臭が立ち込め、そこから風が吹き寄せる際には、我らの修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。…
 哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲にかられ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿*に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.174-175)
*三七殿:織田信長の三男である織田信孝。

フロイスは明智の首を見た訳ではなく、人から聞いた話を書いているだけだ。真実を書いていると思われるのは、信長の死のあとで本能寺に大量の首が集められていたという部分だけだと思う。

明智光秀の最後についてネットでいろいろ探っていくと、奈良大学の河内将芳教授のブログの記事が見つかった。河内教授は次のURLで、当時の人々が記した日記や書状に光秀の死がどう記されているかを調べておられる。これらを読むとどこにも「竹槍」の話がどこにも出てこないのである。
http://ameblo.jp/kawauchi1/entry-11902065396.html
特に秀吉の書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とあるそうなのだが、殺されて首を刎ねられたのと、首を拾われたのとでは全く話が違うし、拾われた首が光秀のものであることはますますあり得ないことだと思う。主君の首を家臣がそのまま放置することなどは、どう考えてもありえないことではないか。

明智憲三郎氏のブログによると、秀吉が本能寺の変のあった天正10年(1582)に大村由己(おおむらゆうこ:秀吉の御伽衆として仕えた)書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているが、それから40年後に小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した『太閤記』にはじめて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と書かれている。そして、現在通説となっている「竹槍で刺された」ことを始めて書いた書物が、元国学院大学の教授・高柳光寿氏が著した『明智光秀』(吉川弘文館1958)なのだそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/7de110e16fc3c3477cd00e1f15460996

もともと史料の少ない時代を、勝者が編纂した正史や勝者が意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、さらに、戦国史の泰斗とまで呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつのまにか定着し、それが日本人の常識になってしまっている。
このような事例は他にも多数あってこのブログでいくつか紹介してきたのだが、勝者にとって都合の良いように書かれた史料に頼って編まれた歴史書などに頼っていては、正しい事実認識が出来るとは思えないのだ。

百姓に拾われた首が光秀のものではないことは、おそらく秀吉自身も本当は分かっていただろう。とすれば光秀は生きていたのではないか考える人もいる。
今回の記事の最初に、家康の政治顧問であった南光坊天海の廟所である慈眼堂を紹介したが、この天海こそが明智光秀ではないかという説が存在する。
次回にその説について、もう少し考えてみることにしたい。
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Comment
南光坊天海
西教寺が、聖徳太子の開創によるものであるとは知りませんでした。最初は奈良仏教のお寺だったということですね。ということは、一乗止観院よりも前からあったということでしょうか、勉強になりました。

それにしても南光坊天海が実は明智光秀だったとは興味ふかい説ですね。次回記事を楽しみにしています。
Re: 南光坊天海
寺の来歴として伝えられていることは、箔付けで創作されることが良くあることなので、どこまで信用できるかどうかはわかりません。日本書紀などで書かれていない限りは、そのまま鵜呑みにできないと考えています。

南光坊天海の廟や墓が明智光秀の墓に近いのは坂本に行ってはじめて知りました。以前本能寺のことを書いた際に書きかけてやめた経緯がありますが、次回の記事で少し触れてみたいと思います。
以前、南光坊天海=明智光秀説について取り上げて欲しいとお願いをしたとしです。小学生の頃、明智光秀というと陰気で卑怯な事をする人だと思っていましたが、斎藤利三を稲葉一鉄に返さなかった話や側室を持たなかった話を知ってからは、イメージが変わりました。インターネットを見ていたら、家康は伊賀越えの後、明智光秀に援軍を出すつもりだったのではないかという推測もあるようです。ここにも明智光秀=南光坊天海説について書かれていますのでURLを載せておきます。
http://bsi.fc2web.com/mitsuhide/tenkai.htm
Re: タイトルなし
読者の方からのリクエストで記事を書くのは今回が3回目ですが、自分の考えをまとめる良い機会になるのでありがたいです。

わが国の歴史叙述は公式資料にこだわりすぎていて、学者の多くは、勝者にとって都合の良いように書かれた記録をそのまま真実であるかのごとく叙述するので、そのためにリアリティの乏しい歴史叙述がほとんど固定化されてしまっています。この時代の歴史については、わが国の大半の方が秀吉が垂れ流した情報に騙されているのだと思います。

「謎」の多い歴史叙述には、多くの場合は史実の歪曲があると考えていますが、そのことを裏付ける多くの記録が抹殺されているために、関連する史料を見つけることはなかなか容易ではありません。

当時の史料が少ないので、満足していただけるものが書けるかどうかわかりませんが、今週末までに纏めてみるつもりです。


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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