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南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。
また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。

通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。

明智憲三郎

最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。

本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせた『惟任(これとう:光秀の事)退治記』で、光秀を謀反人に仕立て上げてそれを秀吉が退治したとの物語を広めて以降、歌舞伎などで演じられ、それをもとに物語が書かれて、今ではその内容が通史にも使われて、それが日本人の常識となっている。
明智憲三郎氏の表現を借りると、今も「秀吉の嘘に日本国中がだまされて」「軍記物依存症の三面記事史観」の闇の中に彷徨っている状態にあるということになる。

以前このブログで本能寺の変について、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 427年目の真実』などを参考に5回に分けて書いたことがあるが、最近調べた事などを付け加えながら、簡単にこの事件の原因を振り返っておこう。

当時のルイス・フロイスの記録や、明智光秀の配下の武士で本能寺の変に従軍した本城惣右衛門が知人に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』*)に明確に記されているのだが、フロイスも明智軍も、この日に命を狙われていたのは信長ではなく、家康だと考えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

老人雑話

また、秀吉や細川藤孝とも交流のあった江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物でも、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという」と記されているのだが、当時のいくつかの記録から見えてくるものは、信長自身が家康を関西に呼び寄せて、機をみて殺害する謀略を考えていたということである。

『本城惣右衛門覚書』の文章と訳文は次のURLにあるが、本能寺襲撃の指揮を執ったのは、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)であり、光秀が先導したのではないことが記されていることはもっと注目して良いと思う。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
この時代の公家の山科言経が記した『言経卿記』によると光秀は戦勝祈願の為に愛宕山に登っており、下山したのは6月1日になってからであったという。丹波亀山城に戻って出陣の準備をし、兵を率いて2日未明に本能寺に辿りつくのは物理的に不可能という説もある。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide083.htm

安土城絵

一方家康は5月14日に安土に到着し、安土城での饗応を受けたのち、信長の命により京都や堺の見学をすることになった。5月21日に安土を出て、本能寺の変のあった6月2日の早朝に、家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出て、信長と会うために本能寺に向かった記録がある (『茶屋由緒記』) 。

また信長は、家康を警戒させないために、関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて京都を手薄にさせ、本能寺には信長を含めてわずかの人数で宿泊していたという。

ところが家康は、手薄な本能寺を明智が討つ計画がある情報を事前に入手していて、信長に対しては警戒していないふりをして信長を油断させ、本能寺を無防備な状態のままとさせて明智の信長討ちを成功させようとした。
おそらく家康と光秀は繋がっていた。光秀は信長より、5月に安土城で家康を饗応することを命じられていたので、本能寺の少し前に家康と密談する機会は充分にあったのである。

では明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか。
それまで光秀は、信長から四国の長宗我部氏の懐柔を命じられていて、重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、信長は急遽方針を変更して天正10年(1582)5月に三男の織田信孝に四国攻めの朱印状を出していた。そして長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていた。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった
のである。

元親記

本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と記されている。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596a
明智憲三郎氏の著書によると、山科言経の『言経卿記』や勧修寺晴豊の『晴豊公記』にも、そのことを裏付ける記録があるようだ。

このような視点に立って本能寺の変を考えると、なぜ家康が光秀や斎藤利三に配慮したかが見えてくる。
もし本能寺の変で光秀が本能寺で信長を討たなければ、家康自身の命が奪われていた可能性が高かった。家康にすれば、明智光秀斎藤利三は命の恩人なのである
だとすると、家康が土岐明智家を復活させたり、斎藤利三の娘を家光光秀の乳母としたことが「謎」ではなくなってしまうのだ。

前回の記事で、山崎の合戦の後も光秀が生きていたと思わせる伝承や文書が、多くの場所に残されていることを書いた。
これらの伝承などは、通説が正しいという前提に立てば、すべて「ありえない」ことばかりだが、通説が正しくない前提に立てば、全てがつながる仮説を立てることが出来る。
しばらくの間、私の推理にお付き合いいただきたい。

光秀は山崎の合戦で死んだのかもしれないが、もし生き残っていたとしても、死んだことにしなければ、秀吉に必ず命を狙われることになる。
だから光秀と縁の深かった丹波亀山の谷性寺や近江坂本の西教寺に、本物かどうかもわからない首を持ち込んで墓を造らせたとは考えられないか。

光秀だけではない。光秀の兄弟や重臣たちにも言えることだが、もし彼らが生きていたとしたら平家の落人と同様に、身の安全を守るために山深いところに名前を変えて住むことは、充分にありうることだと思う。光秀のものだと伝えられている墓のある岐阜県山県郡美山町は、まさにそのような場所のようだ。

hakusann3.jpg

しかし慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなり豊臣家の力が次第に衰えて、自らの命が狙われるような危険が遠ざかる日が来た。いつまでも山深い場所(岐阜県山県郡美山町)で隠棲する必要もなくなってきたので、今まで使っていた名前の人物(荒深小五郎)は死んだことにして、慶長5年(1600)に白山神社にその人物の墓を造らせ、新たな活動を開始したとは考えられないか。
面白いことに、この地の伝承ではこの人物は、「関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ」となっている。
そして「関ヶ原合戦屏風」には天海らしき人物が描かれているのである。そして関ヶ原以降は家康の近くに居場所を移したことも考えられる。

実際のところ、光秀らしき人物が生きていたと思われる形跡は秀吉が亡くなったあとからのものばかりなのである。
その人物が、岸和田に本徳寺を開基したのが慶長4年(1599)。また比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進されたのは慶長20年(1615)2月17日で、大阪冬の陣の2ヶ月後のことである。そしてその3カ月後に大阪夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家は滅亡している。

南光坊天海

次に南光坊天海に話題を移そう。
面白いことに、天海」という僧侶が歴史の表舞台に登場するのも、秀吉が亡くなったあとからのことである。

徳川家康が「天海」を駿府に招き、初めて公式に対面したのは慶長13年(1608)なのだそうだが、その時に家康は「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたと伝えられている。しかし、実際はもっと早くから家康は天海という人物を知っていたはずである。
というのは、家康は慶長8年(1603)に下野国久下田(栃木県真岡市)に新宗光寺の再興を託し、慶長12年(1607)には比叡山東塔の南光坊在住を命じ、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせているのだが、会ってもいない人物に対して、こんな重大な仕事を次々と命じることは不自然だ。

そして天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作っている
前回の記事で紹介した滋賀院門跡は、天海が元和元年(1615)に後陽成天王から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺であり、日吉東照宮も元和9年(1623)に天海が造営した建物である。

方広寺の鐘

また、天海は大阪の陣で豊臣家を攻撃する口実となった方広寺鐘銘事件は、徳川の正史である『台徳院殿御実紀』巻廿七(慶長19[1614]年7月21日)に天海が関与したことが記されている。
「世に傳ふる所は。此鐘銘は僧淸韓がつくる所に して。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱(いみな)を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに 似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。」
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html

なぜ僧侶である天海が、このように家康の政治に意見することができたのか誰でも不思議に思うところで、この記録を読むと、天海という人物が、豊臣家に強い怨みを持っていた可能性を感じる。 

もちろん、天海という人物が明智家と全く関係のない人物である可能性も小さくないのだが、もしかしてと思わせる事象が偶然にしては多すぎて、ちょっと考えさせられてしまうところだ。

明智光秀

しかし、天海と明智光秀が同一人物だという説の最大の問題は、年齢であろう。
天海の生年がはっきりしていないようだが、没年は寛永20年(1643)で100歳以上の長命であったという。
もし天海と光秀(誕生:享禄元年[1528])が同一人物だとすると115歳で没したことになり、常識的には、この時代にこの年齢まで生きる人物がいたことは考えにくい。また春日局との関連から、天海は斉藤利三(誕生:天文3年[1534])ではないかという説もあるようだが、斎藤利三については6月17日に六条河原で斬首されたと具体的な記録があるので、その可能性は低いし、109歳で没したことになるという年齢の観点からも問題がある。
諸説の中には、光秀の死後に長男の光慶(誕生:永禄12年[1569])が天海を演じたという説も存在するというが、それだと年齢の問題についてはクリアされる。しかし、もしそうだとしたら、そのことを裏付ける記録が残っていてもおかしくないのだが、そのようなものは何も存在しないのだ。
前回の記事に書いたのだが、そもそも天海と光秀とが同一人物であるという説は、明治時代の作家・須藤光輝が最初に唱えたものであり、当時には光秀と天海とを結びつける記録が全く存在しないのである。

最後に結論めいたことを言わせてもらうと、明智光秀はおそらく山崎の合戦を生き延びた。
そして豊臣秀吉が亡くなったあたりから活動を開始し、家康を陰で補佐していたのではないか。
光秀が生きていて家康に意見具申できる立場であったなら、方広寺鐘銘事件や近江坂本の復興などは、天海が光秀と同一人物でなくとも、光秀の考えを天海という僧侶に代弁させるなり、必要資金の大半を家康が出してその実行を命じれば済む話であるともいえる。
あるいは徳川幕府が、光秀から得た知恵は、死んだ人物の名前を出せないために、天海の名前を用いて記録したということも考えられる。

僧侶には家康の政治顧問は務まらないとの意見もあるが、光秀が生きていたのなら家康に意見を述べることができた可能性が高い。また家康が光秀から政治に関する知恵を真に必要としたのは豊臣家が滅亡する頃までであり、本物の光秀が死んでからは天海の政治顧問としての出番は多くはなかったと考えれば、光秀が長寿である必要もなくなる。

南光坊天海は明智光秀と同一人物であったという説は、個人的には面白いとは思うし完全否定をするつもりはないのだが、天海が光秀と同一人物でなくとも、すべての事象が合理的に説明可能なので、私は、この説が真実である可能性は低いと考えている。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-237.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html



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Comment
丁寧な考察をありがとうございます。南光坊天海と同一人物であってもなくても、生きていた可能性は高そうですね。あちこちに墓や痕跡があるのは自分が狙われない様にするためだとすれば納得いきます。
唯一残された肖像画に書かれている
「仏門に入り去った」という記録が何となく南光坊天海をイメージしてしまうのですが、いずれ何らかの資料が見つかっておかしな通説が否定される日が出てきそうな気がしてきました。何処まで本当か分かりませんが、南光坊天海が僧になる以前を周囲に語ろうとしなかったらしいのですが、これもまた不思議ですね。
これからもこちらのブログを拝見させて頂きます。何か気になる事や考察して欲しい事が出てきた時は、またよろしくお願いします。
Re: タイトルなし
としさんから難題を頂いたときに、どう書くか随分悩みました。とりあえず坂本に行って、旅行の記録として少しだけ触れてお茶を濁す程度のつもりでしたが、2回に分けて結構長いものを書いてしまいました。調べていると結構面白くなって、探究心が湧いてきました。

史料が少ないので、誰が仮説を立てるにせよ、ある程度想像が入らざるを得ませんが、通説もひとつの仮説に過ぎません。しかし通説では、説明できない史実が多すぎるので、通説が誤っていると考えた方がよさそうですね。

このブログも書きはじめて5年近くなりました。いつもネタ切れを心配しながら書いていますが、たまに課題を頂いた方がありがたい時もあります。常に期待に応えられるかどうかわかりませんが、時々は面白いものが書けるかもしれません。


わくわくしながら読ませていただきました。自分の中ではもはや光秀は生きていたということで完結した感じです。
Re: タイトルなし
ならばさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

調べるのに少し苦労しましたが、その甲斐がありました。
信長には既に敵は居ないような状況でしたしね。同盟関係を結んでいた徳川家の存在はいずれ災いになると信長は思っていたのかもしれません。家康暗殺計画を明智に命じたが出来ませんと言われて足蹴りにされた所をフロイスが目撃してたのでしょうかね?フロイスの日本史にも現場を見たと書き残していますよね。あとは先生が書かれてる通り家康暗殺の為に本能寺を手薄にして警戒心を解いたはずが、信長自身が策に嵌められて自害したんでしょう。
恐らく明智は家康に暗殺計画を話してたんだと思います。
僕も明智は天海を名乗って家康に尽くして残りの人生を全うしたんだと思います。
Re: タイトルなし
歴史さん、コメントありがとうございます。
ルイス・フロイスが、信長が光秀を足蹴にしたのを見たわけではありません。フロイスの「日本史」にはこう書かれています。

「これらの催し物の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが…、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長が立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが…」(中公文庫p.144-145)

あくまでも伝聞として書かれていますが、そもそも家康を饗応する打ち合わせを密室でやることは不自然です。この時に家康の暗殺の手筈が光秀に指示されたのではないかということを明智憲三郎氏をはじめ多くの人が指摘していますが、一旦は光秀は家康暗殺に反対したために足蹴にされたとする説は説得力がありますね。

光秀は恐らく生きていて仏門に入ったと考えていますが、天海と同一人物であったと断じる程の史料は乏しいような気がします。
歴史
お返事有難う御座います。
しばやんさんのブログは前から拝見させて貰っていてとても同感出来ます。これからも楽しみにしています。

フロイスの件ですが、フロイス自身が目撃してたわけではないんですね、うる覚えで書いてしまってすいません大変勉強になります。
本能寺の変の発端も斎藤利三の親類にあたる長宗我部氏を侵略しようとしてた織田に対する抵抗だったんですかね。
しばやんさんも言っておられるように明智秀満、斎藤利三の主導で事件を起こしたのが不可解ですよね。実は本能寺にも秀吉との戦にも始めから光秀は参加をしていなかったのでは?と思えてきます。
Re: 歴史
歴史さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

いつの時代もどこの国でも、「歴史」というものは、勝者が自らの正当性を主張するために編集されたものであり、勝者にとって都合の悪いことは書かず、事実を捻じ曲げてでも都合の良いように書こうとするものだと考えています。

時の権力者とは利害関係の乏しい人々が書き記した記録はもっと注目すべきだと思うのですが、わが国の歴史学者は権力者の書かせた歴史を重視する傾向があるようです。これでは真実の一面しか見えてこないのではないでしょうか。
明智と徳川はお隣さん
初めまして。

本能寺の変について、初めて説得力のある説明を読んだ気がします。

地図を見ると分かりますが、明知と松平郷は20kmくらいしか離れていません。隣どうしなんですよね。

明智光秀と徳川家康は意外に親近感を持っていたのかもしれません。
Re: 明智と徳川はお隣さん
べっちゃんさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

いつの時代も勝者が、勝者にとって都合の良い歴史に書き換えているので、勝者が「公式記録」に書き残させた内容が真実であるという保証はありません。日本の学者は「公式記録」を重視しすぎており、それでは何が真実であるかが見えてこないのではないでしょうか。

明智光秀と徳川家康の関係については、土岐郡明智町の明知城は光秀の明智氏は関係なく、光秀の明智氏は、可児郡明智町の明智城が居城であり、松平郷とは、離れているという説明がネットででていますが、真偽のほどは割わかりません。。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1392299663


伊勢氏と松平氏の関連につてもっと研究が進むと良いですね
しばやん様、お返事ありがとうございます。

三河 松平一族 ~徳川将軍家のルーツ (洋泉社MC新書)によると、松平家は意外と室町幕府の中枢、それどころか皇室とも室町時代中期からつながりを持っていたことが分かります。

松平家は室町幕府の権威を利用して、一色・吉良・今川といった鎌倉期以来の御家人勢力を侵食しようとします。

三河や近江の年貢を室町幕府に届ける役割を果たしていた松平氏は、室町幕府の金庫番である伊勢氏とつながりが深かったはずで、徳川家康が後北条氏を助けようとしたのは、松平氏が伊勢氏の力を借りて三河に根を張った経緯から当然でしょう。

とすると、東海地方の足利一族を徳川家を使って倒した織豊政権にとって、北条氏(伊勢氏)は次の敵となり、、徳川家康は目の上のたんこぶに早変わりしたのかもしれません。
Re: 伊勢氏と松平氏の関連につてもっと研究が進むと良いですね
べっちゃんさん、コメントありがとうございます。

私の知らない分野ですので、気のきいたコメントはできませんが、いろいろ調べたら面白そうですね。
記事に出来るかどうかわかりませんが、ちょっと勉強してみます。
年齢の事でこの仮説を否定しようとする人いるけど、昔の平均寿命が低かったのは幼児死亡率が高いからであって、それが平均寿命を押し下げてた最大の要因でしょ。当時の記録にも90超えの長寿の人は普通にいたし、長寿遺伝子持ってた人はそれぐらい生きることも可能なはず
Re: タイトルなし
本当に109歳まで生きた可能性はゼロではありませんが、常識的には厳しいと考えています。
親子2代で「天海」を名乗った可能性も含めて、いろんな説があってもおかしくありません。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
勝手な歴史研究家
何の根拠もないですが、私の見解です、

私も、明智光秀=天海さんを提唱しています。

私の組解く歴史はこうです。

1−信長による家康への京都接待役に光秀が任命される(歴史的事実)。
2−信長に光秀の近江領土及び、接待役を解任される(歴史的事実)。
3−その時に家康から、謀反をけしかけられる(勝手な予測)。
4−その事実を秀吉配下武将の情報網にかかり、秀吉が知る(勝手な予測)。
5ー秀吉が光秀の動向を見ながら、毛利側との和睦や中国大返しの下準備を始める(勝手な予測)。
6−明智光秀が本能寺の変を起こす(歴史的事実)。
6a-光秀軍は信長の遺体を本能寺で探すが、見つからず(歴史的事実)。
※6b-もしかしたら、本能寺の変は、光秀は実行したものの、信長は本能寺内の抜け道を使い抜け出したが、そこへ待ち受けていた秀吉配下の武将が助けるが結果的に信長を殺し、信長の遺体自体を無きものにしてしまう。・・・メチャクシャ暴走してるけど、秀吉軍の他の知略から言えば、有り得る話(勝手な予測)。
7−秀吉が張っていた京都での情報網より、本能寺の変を知る(勝手な予測)。
8−道義を立てるため、光秀から毛利側の使者をたまたま捕まえ本能寺の変を知った定義にする(歴史的事実)。
9−秀吉が毛利との和睦を実行する(歴史的事実)。
10−中国大返しを実行する(歴史的事実)。
11−山崎の合戦にて、秀吉が勝利する(歴史的事実)。
12−光秀は生き伸びるが、秀吉軍に捕まり、捕虜となる(勝手な予測)。
13−光秀は戦いの後、落ち武者狩りにあった程とする(歴史的事実)。
14-清洲会議で秀吉が信長軍内で台頭する(歴史的事実)。
15-秀吉軍は、柴田勝家を討ち、秀吉が事実上、信長軍の後継となる(歴史的事実)。
16−その間に家康は、甲斐・信濃を攻略し、家康も秀吉軍とは別に台頭する(歴史的事実)。
17−秀吉と家康が小牧・長久手の戦いで、秀吉側は有力武将が討ち死にし、戦いでの家康強さを秀吉軍は改めて実感する(歴史的事実)。
18-秀吉軍は、これ以上の犠牲を避けるため、家康に講和を持ちかけ、休戦する(歴史的事実)。
19-秀吉は、朝廷より関白の地位を受ける(歴史的事実)。
20-秀吉は、再三の使者を使い、家康に大阪上洛を促すが、拒否を続ける(歴史的事実)。
21-秀吉は、実妹朝日姫を離婚させ、家康の正室とし、上洛を促すが、更に拒否されたため、実母の大政所までも人質をし、上洛を促す(歴史的事実)。
22-家康は秀吉の上洛を受け入れ、上洛を果たす(歴史的事実)。
23-家康は、大阪城登城前夜、秀吉の弟の秀長邸に宿泊する(歴史的事実)。
24-その秀長邸に宿泊していると、突然秀吉が密かに訪れ、翌日の登城謁見時に諸大名の前で従臣を誓う(歴史的事実)。
24a-この前夜の秀吉は突然訪問し、家康に、本能寺の変の共謀の話を持ちかける、もちろん家康は否定するが、秀吉は、その際に隠していた光秀と光秀の息子を家康に引き渡す約束をする(勝手な予測)。
25-家康は大阪城秀吉謁見時に、諸大名の前で、従臣を誓い、陣羽織を所望し、忠誠を誓った(歴史的事実)。
26-光秀と、光秀の息子を家康に引き渡す(勝手な予測)。
27-秀吉の天下となる(歴史的事実)。
28-秀吉の死後、家康が天下人として名乗りをあげ、天下を取る(歴史的事実)。
29-家康は、光秀の器量を知性を大いに買い、闇に葬るのは、惜しく思い、光秀を天海と改める、その後、光秀の知略を受け継ぐ光秀の息子を天海として、引き継がせ幕府の政治的関与を行ない、光秀と関係の深い血筋である、お福(春日局)を家光の乳母とし、徳川幕府政権を後生にわたり、後押しする一派を形成する(勝手な予測)。


根拠として、数万の兵を有し、信長、光秀の首が見つかっていない。さらに、秀吉軍の策略力。
そして、小牧・長久手の戦いの講和時点では、家康が秀吉よりも有利、もしくは、ほぼ同等の関係であったはず。
しかも、秀吉が、いくら実母や実妹を人質に渡したからと言って、家康は服従を誓う義理も無いはず。
さらに言えば、秀吉からすれば、服従する根拠もなく、大阪に登城させ、家康が服従しなく、曖昧な状態を諸大名に見せる事は、今後の政権を取っていく中でも、不利となる。

私が最も疑問を持っている点は、家康の大阪城上洛前日、秀長宅で、秀吉と家康の会話の内容で、その内容やその事実は、存在するにも関わらず、ネット上を見てもあまり大きく出ていない。いくら人垂らしで有名な秀吉でも、何もなしに、家康を服従させる訳にはいかないだろうし、もしもその時に、家康に対し、登城時に服従しなければ、その場で光秀を諸大名の前で引き合わせ、諸大名に対し、家康軍を攻略する大義名分を作る的な事を言われれば、家康は自分にどんな野心があっても、従わざる得ないと思うのが、私の見解です。

また、天海自身が、歴史上功績の記録は多々あるにもかかわらず、彼自身幕府にこれだけ貢献している関わらず、全く素姓が記録にないし、年齢ですら、不明。もし、私の勝手な見解が正しければ、家康含め、徳川家が天海の素姓を明かす事によって、謀反人と証明してしまい、統制に影響を与えます。

どうでしょう?私の勝手な歴史見解、何ぶん素人が知っている歴史を繋ぎ合わせて、1点の疑問点(家康の登城前夜の事実)だけから、推測しています、
もし、秀長邸での事実が詳しく載っているネットとかあれば、教えて頂きたいです。
Re: 勝手な歴史研究家
TAさん、コメントありがとうございます。

当時記録された文書がすべて真実であるとは限りませんので、なるべく立場や視点の違う史料を探して裏付けをとるべきなのですが、存在している史料は限られていますので、結局はある程度仮説を立てながら確認できている史実や史料と整合性がとれているかをチェックしていくしかありません。

調べるのに時間がかかりすぎるのでそこまでは協力できませんが、秀長邸のできごとにもし記録があるとすれば、「東京大学史料編纂所」のHPにアクセスして、古文書や古記録のフルテキスト検索などて「秀長」をキーワードにして引っ掛かる文書や記録を手当たり次第に読んでいくしかありません。ここで見つからなければ、私ならネットで探すことを諦めます。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
ズバリ、光秀と天海は同一人物である‼︎

なんとなく…(笑)😁💦
Re: タイトルなし
この記事は、読者のリクエストに応えて2年前に書いた記事ですが、未だに多くの方に読んで頂いているのは嬉しい限りです。

いつの時代もどこの国でも、歴史叙述は為政者が、為政者にとって都合の良いように書き替えるものであり、正史など公式記録に準拠して編まれた歴史が真実である保証はないということだけは多くの人に知っていただきたいと思ってこのブログを書いています。

また時々覗いてみてください。
漫画を読んで
漫画あずみを読んで南光坊天海の存在を知りました。
わたし滋賀の坂本西教寺から徒歩3分の所に住んでおりますが、
西教寺や坂本の歴史に全然知らなかったのでこの説は大変面白く思います。
Re: 漫画を読んで
坂本の人間さん、コメントありがとうございます。

坂本は古いものがまだまだ数多く残されていて面白いところです。
このブログで坂本に関連して、こんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

春日局は光秀の乳母ではなく家光の乳母ですよ。
Re: タイトルなし
あおさん、ご指摘ありがとうございます。

他の2箇所ではきちんと「家光の乳母」と書いておきながら、何を勘違いしたのかと恥ずかしい限りです。
自分の原稿は自分でチェックするしかないのですが、こんな誤りを発見できなくて、読んで頂いた方に申し訳ないです。

ご指摘部分は修正させていただきました。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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