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家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。

国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818

徳川家康

外様大名に対しては、家康はこう述べたという。
「…大樹天下の政(まつりごと)を統領すれば、我なからん後の事、更に憂(うれい)とせず。ただし大樹の政策ひが事あらんには、おのおの代わりて天下のことはからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…」

第2代の将軍となった家康の嫡男の秀忠による政治が、もし道を外れて多くの人々が苦しむことになれば、誰でもその座に変わるが良い。天下は一人のためのものではなく、すべての人のためにある。誰が天下を治めようとも、人々の幸せに通じるのなら家康はそれを恨むことはないと、なかなか立派な事を述べている。

しかしながら、家康は2代将軍秀忠に対しては、
「天下の政において、いささか不道(ふどう)あるべからず。諸国の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、おのおの代わりて政柄(せいへい)を取るべしと遺言しぬ。もしまた諸国の大名、大樹の命に背き、参勤に怠る者あらんには、一門世臣というとも、速やかに兵を発し誅戮すべきなり。さらに親疎愛憎をもって、政事をみだるべからず。…」
と全く抜け目がない。

金地院崇伝

また、家康は自分の葬儀のことまで詳細に指示したようである。
黒衣の宰相と言われた金地院崇伝(こんちいんすうでん)が残した日記(『本光国師日記』)によると、徳川家康は金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を枕元に呼んで、自分の死んだあとのことをこう述べたという。
「御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候」

すなわち家康は、自分の遺体を駿府城の近くの久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に建て、1周忌の後に日光に小さな祠を立てて関東の守り神として勧請することを指示したという。

そして家康は4月17日に駿府城にて75歳で逝去し、金地院崇伝の日記に記された通り、遺骸は直ちに駿河の国の久能山に移されて、仮殿竣工の十九日夜は、将軍秀忠以下、家康に近仕した家臣をはじめ数百人の葬列が続いて、柩を仮殿に移したという。

4月18日と19日の両日にわたって久能山でとり行われた葬事は、金地院崇伝が吉田神道(唯一神道)によって取り仕切ったのだが、このやり方に南光坊天海が異議を唱えている。

天海によると、家康公の本当のご遺言は、葬儀は吉田神道に偏することなく、山王一実の習合神道にて行うことであったと言うのだが、家康がこのような遺言をしたことは誰も知らず、おそらくは天海の創作であったのだろう。

徳川秀忠

ところが、第二代の将軍の徳川秀忠はこの天海の説を支持したという。
その理由は作家の今井敏夫氏の論文『二つの東照宮・久能山と日光』がわかりやすく書かれていて、全文をネットで読むことができる。ポイントとなる部分を引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「秀忠が天海の言を採り上げた理由には二つあった。一つは駿府の大御所政治の残影を払拭し、江戸将軍政治への一元化である。家康の生存中、秀忠は何事も駿府の指図を仰がねばならなかった。その駿府で側近として権勢を振るっていたのが本多正純である。家康没後の正純は幕府の閣僚に加わることになっていたが、秀忠は内心快く思っていない。秀忠には土井利勝、酒井忠世らのブレーンがおり、正純はむしろ排斥したい存在だった。政治嗅覚の鋭い天海は、この辺りの情勢を読み取り、新実力者土井利勝に運動したのであろう。
 二つには、駿府城主徳川頼宣の存在がある。頼宣は家康の十男で、当時十五歳であったが、晩年の家康が手元において訓育したほどだから、幼少から英邁の誉れ高く、すこぶる出来の良い男である。東海道の要衝を治め、徳川家の精神的象徴となる久能山の霊廟をひかえている。しかも家康廟の造営は頼宣であり、以降、祭祀とその守護にあたることになっている。」

将軍秀忠にとっては徳川頼宣は弟になるのだが、秀忠の嫡男である家光とは2歳しか離れておらず、しかも頼宣は英邁であり久能山の霊廟を守護する立場にある。いずれ家光の強力なライバルになることは目に見えていた。頼宣を早い時期にたたいておく必要を秀忠が認識していた可能性はかなり高そうだ。事実、秀忠は家康死去の3年後に、頼宣を紀州に転封している。 
家康が亡くなったことで、将軍秀忠が幕府の主導権を掌握し、嫡男・家光に跡目を継がせるためのかけひきが、家康の葬儀から始まったということだ。

かくして天海は将軍・秀忠を味方につけた。
そして、江戸城で家康の神号を決める論争が始まった。
金地院崇伝は神号を「大明神」とすべきだと主張し、天海は「大権現」とすべきだとしたのだが、天海は、「大明神」は秀吉を祭祀した「豊国大明神」と同じで不吉であると主張して崇伝を論破し、祭祀の主導権を握ることに成功したのである。

南光坊天海

家康の神号は「東照大権現」に決定され、11月になると天海は日光の地に社殿の建築を開始する。天海が主張していた通り日光では山王一実神道が採用されて、薬師如来を本地仏とする神仏習合で祀られることになった。造営は元和3年(1617)4月の1周忌に合わせて進められ、わずか5カ月ほどで落成したという。 (『元和御造営』)

ここで家康の遺言を思い出していただきたいのだが、家康は「一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ」と指示していたことである。そのために、最初に造営された日光東照宮の規模はかなり小さく、現在残されている豪華絢爛な日光東照宮とは全く異なっていたようだ。
『仮名縁起』の「元和御造営御宮の図」に描かれた拝殿は五間×三間*しかなく、奥宮の家康廟も白木の塔であったという。もし日光東照宮が元和御造営のままであったなら、世界遺産に指定されることは考えられないところだ。
*間(けん):1間=6尺=1.818m

久能山から日光へ、家康の遺体が本当に運ばれたかどうかはよくわからない。死後1年も経過して、かなり腐敗していただろうから、運んだとしても遺髪とか爪のようなものであったのかも知れないが、『徳川実記』には、「久能の宮の奥で神秘の事を取り計らった」と記されているそうだ。
そして元和3年3月15日に久能山から日光に向かって霊柩を運ぶ1300人もの行列が出発し、4月8日にその霊柩は日光東照宮の奥院に埋葬され、14日に御神霊を仮殿に移し、17日に正遷宮の儀式が執り行われたという。

しかしながら日光東照宮はその18年後に荘厳な社殿への大規模改修が行われることになった。なぜ建築して日の浅い東照宮を建て替えるに至ったのか。

その経緯が、先ほど紹介した今井敏夫氏の『二つの東照宮・久能山と日光』にわかりやすく書かれている。
再び引用させていただく。
「久能山東照宮は1年7ヶ月を要して完成した。屋根は桧皮葺(のち銅版葺)ながら、概観は壮麗。細部にわたり彫刻・絵画・色彩金箔を施し、本田の左右・背面は黒漆で仕上げ、その華麗さは目を奪った。にわか造りの元和の日光東照宮とは比べものにならない。東照宮は御三家の尾張、紀伊、水戸にも勧請され、続いて上野寛永寺、南禅寺金地院、仙波喜多院、坂本日吉にもそれぞれ豪壮・華麗な社殿が造営された。天海にすれば、自分が支配する日光東照宮が元和創建の社殿では見劣りがしてならない。そこで大造営をしたいが、まだ秀忠や崇伝が健在であり、『日光に小廟を建てよ』という家康の遺言は無視することはできない。しかし、寛永9年秀忠が没し、翌10年には金地院崇伝も亡くなると、もはや家康の遺言や当時の真相を知る者がいなくなった。
 三代目家光は自分を将軍にしてくれた祖父家康を崇敬すること甚だしく、…そんな家光の性格を見抜いて、天海は日光東照宮の大造営を勧めたのである。家光は当然のこと、幕府首脳も徳川政権の力強さを天下に知らしめす一大事業を行う必要があった
。かくして寛永大造営は、天海、家光、幕府首脳のそれぞれの思惑が一致したことから興されたのである。」

かくして日光東照宮は、わずか1年5ヶ月という短い工期で、五間×三間の小さな拝殿から豪華絢爛の建造物に生まれ変わったのである。
『日光山東照大権現様御造営御目録』という文書に、この寛永の大造営の総工費が「金56万8千両、銀百貫匁、米千石」であったことが記されていることが日光東照宮のホームページで紹介されている。
http://toshogu.jp/shaden/

日光東照宮

現在のお金でいくらになるかは、数百億円から数兆円まで諸説があるが、『日光山東照大権現様御造営御目録』の総工費には、大工や職人らの人件費をどこまで織り込んでいるかよく分からない。
『日本史まるごとHowマッチ』という本に、建物建築費2,500億円・内外装人件費3,500億円・内外装材料費2,000億円で合計8000億円と試算されていることが次のURLに紹介されている。動員されたのは大工・木挽き職人170万人、雑役280万人と書かれているが、この数字が正しいかどうかは見当もつかない。
http://d.hatena.ne.jp/fushikian15301578/20121001

しかしよくよく考えると、数千億円程度ならば安いと考える人がいてもおかしくない。
平成23年のデータだと、日光市を訪れた観光客は862万人。うち日光に宿泊した観光客は276万人なのだそうだ。観光客が平均3千円、宿泊客が平均15千円を日光市で支出したとすると、毎年673億円が日光市のホテル・旅館、社寺、商店、飲食店などの収入になる。日光東照宮が、ほぼ400年にわたって日光周辺の繁栄に貢献してきたことは間違いがないことだ。
日光神橋

ところが、今のわが国の公共事業にはどう考えても無駄だと思われるものが少なくない。
次のURLに、学者・ジャーナリストからなる「21世紀環境委員会」が『無駄な公共事業100』を選定し公表しているが、1件で数千億円にも及ぶ案件が満載だ。工事の中には地元は殆んど潤わず、建築を受注した業者ばかりが潤うような案件がいくつかありそうだ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm

高級官僚の天下りポストを作るために、閑古鳥の鳴くようなハコモノを建てたり、車がほとんど通らない道路を建設することに、今までどれだけの多くの血税がつぎ込まれてきたことであろうか。文化的に魅力の少ない地方が少々便利になった程度では、都会から観光客を呼べるはずがないのだ。
地方が潤わないような工事に税金を使うくらいなら、地方の貴重な文化財の価値を失わないようにすることや、地方にわが国の最高の職人を集めて、将来の国宝となりうる建造物をいくつも建造することに支出する方が賢明ではないか。
今のわが国に歴史的価値のある文化財が豊富なのは、過去の為政者が、風光明媚な場所にそれぞれの時代の最高の建築物や絵画などを後世に残そうとしてきたことが大きいのだと思う。そのような姿勢が、今のわが国に少しくらいあっても良いのではないだろうか。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
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教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
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