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「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。

では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問に思っていた。

この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日本を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日本を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。
『八幡愚童記』によると、蒙古は日本を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。

弘安の役ルート

高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年)五月三日だ。太陽暦にすると5月29日で台風が上陸する可能性はほとんどない時期だ。
また、江南の役で敵軍が暴風雨に襲われて壊滅状態になったのは八月一日(太陽暦の8月23日)だ。なぜ、こんなに時間をかけているのだろうかと誰しも疑問を持つ。文永の役では合浦を出発して対馬や壱岐で戦いながらも17日で博多に着いているのだ。連合軍がもたついている間に台風のシーズンに突入してしまったということではないのか。

今まで「弘安の役」については、日本軍はほとんど戦わずして「神風」が吹いて勝ったとばかり思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ。調べてみると「弘安の役」においても、鎌倉武士たちはこの時も良く戦ったことが国内外で記録されている。

今回は、教科書や通史に書かれていない「弘安の役」の実態についてまとめてみることにする。参考にしたのは前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』と『元史』『高麗史』である。

「文永の役」の後、元のフビライはすぐに再征を決意し、博多湾岸の戦闘から三ヶ月半たった建治元年(1275)の二月に日本に使者を送っている。その使者たちは鎌倉に到着するや、全員斬首され曝し首に処せられている。

また幕府は、同年の三月から博多湾沿岸から長門にかけて「石築地 (石塁) 」という石垣の要塞の建築を九州等の御家人たちに命じている。もちろん、元との戦いを想定してのことだ。

元寇防塁

また元も同様に日本遠征の準備をしており、弘安元年(1278)の八月に元・高麗・(旧)南宋三国の作戦会議を開き、東路軍、江南軍の規模と、両軍が壱岐で合体した後に日本を攻めることが決定されている。

翌年に元は南宋を滅ぼしてさらに版図を拡大し、フビライは弘安二年(1279)に再び日本に使者を送るが、書状が京都に送られるも朝廷は受け取りを拒否し、この使者も斬首されたことが記録に残っている。

弘安四年(1281)に、フビライは日本遠征の命令を出した。 両軍が壱岐で落ち合うのは予定では六月十五日だったのだが、東路軍はかなり早い五月三日に合浦を出発した。東路軍は至近にある巨済島で二週間ほど錨を下した後、五月二十一日に対馬に上陸し攻撃を開始している。

『八幡愚童記』にこの時の東路軍のうち高麗軍の狼藉ぶりが記されている。
「また弘安四年五月二十一日、蒙古の賊船おそひ来たる、このたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵等を駆具して凡三千余艘の大船に、十七八万の大衆のりつれてそ来ける、其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民さゝへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こゑを聞つけて、捜りもとめて捕けり、さりけれハ片時の命ををしむ世のならひ、愛する児をさしころしてにけ隠れするあさましきありさまなり、此高麗の賊、捕へきほととりて宗像の沖にこきよす、蒙古大唐の船ともは、対馬にはよらず、壱岐島につく、されともらうせきせず、…」

高麗軍は、対馬や壱岐の人々を虐殺し、赤子の泣き声を聞きつけて彼らを探し求めていくので、住民は仕方なく愛するわが子を刺し殺して逃げ隠れたと言うのだ。蒙古人や漢人にはそのような狼藉はなかったらしい。

東路軍は江南軍との合流を待つことなく、六月五日単独で博多の侵攻を開始した。これを迎え撃つ日本軍は、博多に鎮西軍が4万人いた。

元寇の博多侵攻図

蒙古襲来に備えて築造した「石築地(石塁)」は高さが2メートルを超えるものであった。その長さは延々20km近くあったそうだが、モンゴル軍を威圧するには堅固な防備となっていた。敵軍は博多湾の正面からの上陸をやめて、比較的防備の薄い志賀島と能古島に停泊し、志賀島で両軍が衝突する。
弘安の役防塁

高麗史』を読むと、日本軍の奮戦ぶりがよくわかる。
「六月、…日本兵と合戦し、三百余級を斬す。日本兵突進し、官軍(東路軍)は潰え、[洪]茶丘(東路軍司令官)は馬を捨てて走る。王万戸、復た之を横撃し、…日本兵、乃ち退き、茶丘は僅かに免る。翌日、復び戦いて敗績す。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』p39) と、高麗軍から見ても、両軍合い乱れての激戦だった。

『八幡愚童記』によると、「(六月)六日より十三日に至るまで、昼夜の間に合戦して、打ち殺した蒙古は千余人…」と、日本軍が頑張った記録が残っている。草野次郎という武士が舟二艘に夜討ちをかけて、敵軍の船に乗り移って敵兵の首を取って引きあげてきた。恩賞目当てとは言え、それから後も竹崎季長など東路軍に夜討ちをかける武士が後を断たなかったとのことだ。

弘安の役絵詞

志賀島でモンゴル軍を食い止めて、九州本土に一歩も踏み込ませなかったことが、後の東路軍の軍事行動に大きな影響を及ぼすことになる。六月十三日を過ぎると、東路軍は博多湾を引き上げて壱岐に向かう。

敵軍が博多を引き上げた理由は、『高麗史』には明確に書かれている。
一つは東路軍で疫病が発生しており、病死と戦死とあわせて三千人を超えていたこと。 もう一つは、江南軍を待たずに侵攻を開始したが、江南軍と壱岐で合流する約束の六月十五日が迫っていたからであった。

江南軍と合体し体制を立て直して再度出撃する予定であったが、予定の十五日に江南軍は慶元の港(現在の寧波[ニンポー])を出港もしていなかった。江南軍の出港の遅れは、作戦の変更もあるが、出発直前に総司令官の阿刺罕(アラハン)が病に伏し、司令官が交代するというアクシデントがあったという。
江南軍の主力部隊が出航したのは六月十八日だった。ようやく七月初旬に両軍は平戸島の近海に集結し軍船の数は4400という数だったと記録されている。

しかし、両軍は何故かこの場所を1ヶ月近くも動かなかった。先に日本軍と戦った東路軍と江南軍との間で意見交換がなされ、疫病に罹った将兵の回復を待ったものと思われるが、この点については元にも高麗にも記録には残されていないようだ。それにしてもこの日数は長過ぎた。この大軍がようやく動き出すのは七月の末のことだった。
そんな中、七月三十日に暴風雨が吹き始め、運命の八月一日(太陽暦の8月23日)を迎えることになる。

『高麗史』にはこう書いてある。
「八月、大風に値 (あ) い、蛮軍(江南軍)皆な溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為めに塞(ふさ)がりて、践(ふ)みて行く可し。遂に軍を還す。」

元や高麗の記録によると、全軍十四万のうち、三万数千名は無事に生還しているので、すべての船が破壊されたのではない。

生き残ったものの船を失ったために帰れなかった兵士も少なからずいた。八月五日から七日まで日本軍による掃討戦で千人近くが捕虜となり、日本軍は博多の那珂川付近で全員の首を斬ったという記録が残っている。

弘安の役に吹いた「台風」は確かにタイミングが絶妙であった。後世に「神風」と呼ばれるのもわかるのだが、三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、モンゴル連合軍の作戦失敗や江南軍の出発の遅れもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。

すなおに『元史』や『高麗史』を読めば日本軍の頑張りが良くわかるのだが、日本を「神国」と思いたい人が多いのか、日本人に日本軍の活躍を教えたくない人が多いのか、「元寇」に関する教科書の記述にはあまりに緊迫感がなさすぎる。

わが国の国難とも言える状況下に政治家やマスコミにほとんど緊迫感が感じられないのは、元寇に限らず日本が侵略されそうになった時の歴史の真実を、しっかりと教えられていないからではないだろうか。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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