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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。

キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペインはイギリスとの戦争(英西戦争)の真っ最中であり、国内ではネーデルランド(オランダ)の反乱が続いていて、わが国を攻めるどころではなかったと思われる。

しかしわが国に滞在していた宣教師たちは、秀吉の死を、日本に再びキリスト教を広める好機だと捉えて布教活動を活発化させたことが記録に残されている。五大老の筆頭であった徳川家康は、当時はキリスト教に比較的寛容であったことから、秀吉が出した『伴天連追放令』は有って無きがごとくのようだったという。

日本切支丹宗門史

フランスの日本史家のレオン・パジェスは1598-1599年の情勢をこう述べている。
「…家康は政治的の見地から、異国との通商をかち得んがために、決して(キリスト教に対して)不愛想にはしなかった。政策や一般の取締りを変更したり、太閤様の遺命を蹂躙したことが際立たないように、彼は、正式に認可を与えた訳ではないが、宗教上の事には故意に目をつぶった。そこで京都の付近のキリシタンは、自由になったものと考えて、あるいは天主堂を復興したり、あるいは公然儀式を行なった。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史 上巻』p.25)

徳川家康

このように家康は海外貿易の利権を重んじたために、当初はキリスト教に対して寛大であり、その当然の帰結として、この時期にキリスト教信者が各地で激増したという。

「当時、帝国全土宗門は目覚ましい勢いで拡がりつつあった。数多の宣教師たちは、秘かに旧の伝道所に帰っていた。有馬や大村の領内には天主堂が再興され、各所に新しい信者の団体が出来た。1599年の2月から9月までの8ヶ月間に、約4万人の未信者が洗礼を受けた。」(同上書 p.29)

そして関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600)の頃の情勢については、パジェスはこう記している。
当時、日本にはイエズス会の司祭・修士合わせて109人あり。うち14人は本年到着した者であった。彼等は30か所の駐在所、また伝道所に分散していたが、うち6か所が主要なるものであった。彼等の肝煎りで50か所の天主堂が再建され、5万人の新しいキリシタンが洗礼をうけた
長崎教区の大駐在所には、伝道所の教師を加えて30人の宣教師がいた。…
大駐在所の大村と、それに付属する伝道所には4人の司祭と7人の修士とがいた。国中あげてカトリック教信者で、他国から来て洗礼を受けた者が600人あった。…
5つの伝道所の付属する大駐在所のある有馬には、14人の伝道師がいた。この地は人口7万、全部がキリシタンであった。なお600人の他国者が洗礼を受けた。…
志岐と天草の島では、当時司教のいた志岐の駐在所とこれに付属して3箇所の伝道所があって、6人の司祭と10人の修士がいた。国中あげてキリシタンで、他国者300人が洗礼を受け、諸方の伝道所のあるところに新しい7つの天主堂が建立された。…
肥後では、宇土の大駐在所に、いくつかの伝道所が付属していて、5人の司祭と7人の修士がいた。既に1万人の信者がいたが、更に17千人の新受洗者ができた。…」(同上書 p.37)

この様に九州では、秀吉の死後にキリスト教が急激に広まっていったのだが、この年大阪にも駐在所が2箇所出来、京都にも天主堂と駐在所が出来、近隣各地からも宣教師の要望があったが、新たに派遣する余裕がなかったために、京都、大阪の宣教師を訪問させたことなどが記されている。                                                 
関ヶ原合戦屏風

しかし、豊臣政権下で秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(いわゆる武断派)との対立が激化し、この年の9月15日に美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として、両派が激突した(関ヶ原の戦い)。
この戦いの結果次第で今後のキリスト教の布教に大きな影響が出ることは確実な情勢であり、キリシタン大名たちは、徳川家康を総大将とする東軍につくか、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍につくか、あるいは中立の立場を取るか、相当迷ったはずである。

歴史の教科書などでは「キリシタン大名」といえば、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、高山右近ぐらいしか名前が出てこないのだが、実際はキリシタン大名は驚くほど多かった。

日本基督教史

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で大正14年に出版された山本秀煌著『日本基督教史. 上巻』という本が公開されていて、この本に、当時のキリシタン大名がこの関ヶ原の戦いにどちらの側についたかが纏められているので引用しておく。

「 西軍に属せる者。  藩翰譜、三河風土記、切支丹大名記による
美濃岐阜の城主、  織田秀信。  信長の嫡孫三法師
肥後宇土の城主、  小西行長。  関ヶ原にて奮闘
丹波福知山の城主、 小野木縫殿。 丹後田邊の城を囲み細川藤孝を攻む
筑後久留米の城主、 毛利秀包。  輝元の叔父、大津に京極高次を攻む
筑後山下の城主、  筑紫廣門。  大津を囲み、京極高次を攻む
対馬列島の領主、  宗 義智。  その陣代柳川某伏見攻撃に加わる
阿波徳島の城主、  蜂須賀家政。 その子至鎮東軍に従う
豊後佐伯の領主、  毛利高政。  本姓森大阪城に在りて濱の櫓を守る
元の府内の領主、  大友義統。  九州豊後に至り故旧を集めて東軍と戦う

東軍に属せる者
近江大津の城主、  京極高次。  大津城を守るのち開城
信州高遠の城主、  京極高知。  関ヶ原にて奮闘す
伊賀上野の城主、  筒井定次。  同上
豊前中津の城主、  黒田長政。  同上
同  長政の父、  黒田孝高。  九州において西軍に属する諸城を降す
下野宇都宮の城主、 浦生秀行。  居城において上杉に当たる
田邊城主忠興の嗣子、細川忠隆。  関ヶ原にて奮闘す
丹後峰山の城主、  細川興元。
陸奥弘前の城主、  津軽為信。  上杉軍を牽制するの任に当たる
肥前唐津の城主、  寺澤廣高。  関ヶ原にて奮闘す
日向飫肥の城主、  伊東祐岳。  九州において島津氏を撃つ

中立の態度を取りし者 
丹波篠山の城主、  前田玄以。  その長子右近秀似は西軍に属せしと言う
肥前大村の城主、  大村喜前。  本国にあり
肥前有馬の城主、  有馬晴信。  本国にあり
若狭小浜の城主、  木下勝俊。  本国にあり
五島宇久の城主、  五島純玄。  その伯父玄雅なりという説あり。

以上列挙するところによって観れば、東軍に与せるキリシタン大名はその数においても戦闘力においてもはるかに西軍に属せるそれに勝っていた。さればこれをもって禁教令の遠因と為すのは根拠なき妄説と言わざるべからず、而して西軍敗戦の結果、織田信秀、毛利秀包、筑紫廣門、木下勝俊は改易もしくは遠流、大友義統は死一等を減じて常陸へ流され、小西行長、小野木縫殿は梟首せられた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/226

宣教師らは、キリシタン大名が東軍に付くにせよ、西軍に付くにせよ、どちらかが敗れることによって、敗れた側のキリスト教布教の基盤の多くを失ってしまう可能性がある一方、勝利した側には加増されることぐらいのことはわかっていただろう。どちらが勝利するかわからない場合は、一方に偏り過ぎずリスク分散を図るのが鉄則だと思うのだが、関ヶ原の戦いでキリシタン大名が見事に3つのグループに分散したことは、偶然であったのか、それとも宣教師たちの関与があったのかはよくわからない。

この戦いにおいて徳川家康が率いる東軍が勝利し、家康は、西軍に加わった大名を徹底的に厳しい処分を下している。改易 (領地を取り上げる)、転封 (国替――領地を他に移す)という方法で、家康が西軍大名の全員から取り上げた領地はおよそ90家、590万石にも及んだという。例えば毛利輝元は大阪城にとどまっていて関ヶ原の戦いには加わらなかったのだが、それでも8ヶ国・120万石の領地の大部分が取り上げられ、長門・周防の2ヶ国・36万石に減らされている。

小西行長

西軍に加わったキリシタン大名については先程引用した『日本基督教史. 上巻』に記されている通りだが、なかでも小西行長の運命は、武将としては悲惨なものであったようだ。

「関ヶ原の役、西方総敗軍の日、行長の兵もまた潰ゆ。行長遁れて伊吹山中に匿(かくれ)る。人あり此の落ち武者こそは西軍にその人ありと知られたる小西行長の成れの果てで在ると聞き、小西殿とは異国、本朝に名を轟かしたる名将ではないか。勝負は時の運で負けたりとて恥ずべきではない。然るに、何故この場合いさぎよく自殺せずして、かく見苦しき様にておはするぞいう。行長聞きてわれ…耶蘇の門徒にて天主の教を尊信するのであるが、この宗は自殺を重く戒むるをもってかくながらえて居るのだが、如何せん四面皆敵に塞がるれば逃げ行く方もなし。いざ速やかに我に縄かけて領主に引渡したまえとて、キリストの教えに悖って自殺するよりも、キリスト教の為には寧ろ甘んじて武士にあるまじき恥辱をも受けんと決心して捕虜となったのはいと憫なる次第である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/230

自殺を戒めるキリスト教を奉ずるが故に切腹できず、捕えられた行長は市中引き回しののち京都の六条河原において三成・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に斬首され、そして、徳川方によって首を三条大橋に晒されたという。

では行長の家族や家臣たちはどうなったのか。引き続き、『日本基督教史. 上巻』の文章を引用したい。
「関ヶ原の敗報至るや、家臣等これ(行長の子)を広島に送り、毛利氏に帰宅してこれが保護を乞うた。しかるに、毛利輝元は西軍の総大将として12州の大兵を擁し、大阪城にありながら、上方勢破るると聞くや、狼狽為すなく、一戦をも交えずして、直ちに家康に降参し、その領地広島に退いて、恭順の意を表し、戦慄恐懼措くにあたわずといった風で、ひたすら意を用いて家康の恩命に接せんことを嘆願しつつあった折だから、家康の意を迎えるに急にして、…卑劣にも行長の遺孤(子供)を欺き、…安全の地に移すと声言して、広島をつれ出して、家臣をして道にてこれを殺害せしめた。そうしてその首を家康に献じた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/232

一方東軍に加わったキリシタン大名は、家康からその功を賞せられ、例えば黒田長政父子は豊前中津180千石から筑前525千石と大幅に増封され、以後福岡を居城として小西行長に代わりキリスト教の保護に努めた。また浅野幸長、寺澤廣高、京極高次、京極高知も増封されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/235

では、関ヶ原で中立の態度をとったキリシタン大名はどうなったのか。
Wikipediaによると、前田玄以は、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行っている。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかったことで、丹波亀山の本領を安堵されたようだ。
また有馬晴信は、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵されたという。
大村喜前の場合も、西軍の小西行長の宇土城を攻めたことが、本領安堵につながったようだ。

南蛮屏風

キリスト教宣教師たちにとっては、関ヶ原の戦いで布教基盤の多くを失ってしまう可能性があったのだが、キリシタン大名が東軍、西軍、中立派にうまく勢力が分れた上に、中立派を装っていた有馬晴信と大村喜前が、同じキリシタン大名である小西行長の居城を、関ヶ原の戦いの直後に攻撃したことが幸いして、結果として大きなダメージを受けずに済んだのである。
彼らは、天下分け目の戦いの後でも、九州地域におけるキリスト教が優勢な状況を維持することができたのだが、このような彼らにとって望ましい状況が、多くのキリシタン大名がそれぞれの判断で行動した結果なのだとすると、少々出来過ぎた感がしないでもない。
もしかすると、彼ら宣教師の中にこのような結果を生むための戦略を練った知恵者がいて、キリシタン大名の何人かはその指示に従って動いたということではなかったのだろうか。

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Comment
伊東祐兵がキリシタンは初めて聞きました。
もっとも甥っ子とかマンショとか周りにキリシタンが多いのは確かだけど、父の義祐はガッツリ禅宗だったから、あそこも宗教事情は複雑^^
若い子は伊東が没落して大友を頼ったんでキリシタンに感化されちゃったらしい^^;
大友義統は関ヶ原の前、、、秀吉存命中に棄教してます。

蜂須賀親子・・・至鎮が1592年の段階で徳川家康養女と結婚してるんです。
で、その正室が超熱心な法華信者だったから、旦那や嫁先がキリシタンなら揉めたはずですが、その手の話って今のところは聞かないです。

自分は洗礼名が確認できないうちは、身内にキリシタンがいてもキリシタン大名
としてはカウントしないようにしてます。

逆に黒田家は如水が棄教してなかったっぽいんです。
如水が亡くなった時にキリシタンで葬儀を行って長政も参列したって宣教師側の記録があるって書いてるサイトを見ました。

宇喜多家は奥方の豪姫がキリシタンで知られてますが、宇喜多騒動を起こして出奔した宇喜多秀家の従兄弟もキリシタンでした。
この騒動でベテラン家臣に出奔された宇喜多家は大きな戦力ダウンになったんです。

宣教師側からの働き掛けはあったにしても、それだけで自分の去就を決めるほど武将たちに強い信仰心があったかは微妙な気がします。

拍手
Re: タイトルなし
時乃★栞さん、コメントありがとうございます。

この時代のことはとてもよくご存知ですね。良い勉強になります。

確かに洗礼名があるかないかという点は重要なポイントですね。当時は、宗教心がなくとも、流行を追うようにキリスト教に近づいたり、火薬欲しさにキリスト教に近づいた大名が少なくなかったと思います。

山本秀煌氏はS・R・ブラウンが伝道者養成の為に開いた熟でキリスト教を学んで牧師となり、基督教史家としても著名な方のようですが、キリスト者の立場からこれらをキリシタン大名だと考えている点は興味深いところです。おそらくクラッセの『日本西教史』などで根拠になる記録があるのでしょう。
度々読ませて頂いております。今回も
重要かつ詳細な内容に感動しております。
おそらく、イエズス会から現代の国際金融家との
つながりについてのコメントは
こちらのブログではご迷惑かとは思うのですが…。

今回の記事、関ヶ原の合戦で東軍と西軍と中立派にキリシタン大名の名が
並んでいるのは、宣教師の指示だったのか?というしばやんさまの分析は、
重要なことだと感じました。

昨今の戦争資金調達の立場としてロスチャイルドやロックフェラーの名が
聞こえてきます。近年では国際政治の中でプーチンが和平への道を
探る立場として期待されている話題もあるのですが…。真偽は解りません。

国際金融家らの頂点であろう、シェルバーン伯爵家らを想定すると、
ロスチャイルド(EU)・ロックフェラー(米)・プーチン(露・スイス銀行預金者)
で国際政治の落としどころは、やはり用意周到なのではないか…と。

関ヶ原の合戦の裏戦略と重なり、
雛形のように思えてしまいます。
ずっと同じ手法があるのだろう…と。


一般的な史実から飛躍した解釈はこちらに相応しくない内容ですが、
思わず書いてしまいました。失礼いたしました。
m(_ _)m
Re: タイトルなし
ウタロウさん、コメントありがとうございます。

当時の宣教師の立場からすれば、わが国でキリスト教を拡げていくためには、一方の側にキリシタン大名を配置するはずがないだろうと考えて書いてみたのですが、多くの方に読んで頂き嬉しいです。

現代社会はこの時代よりもはるかに複雑怪奇で、いろんな見方があるとは思いますが、ユダヤ資本がどの程度絡んでいるかは私にはよく分かりません。もし絡んでいたとしても、彼らは証拠を残さないので、断定することは難しいところです。

しかしながら、戦後わが国に広められた「自虐史観」が、わが国に蓄積された富を奪う手段として、ユダヤの意志であるかはどうかはともかくとしてアメリカや中国や韓国、ロシアなどに利用され、これ等の国々がこれからもこの歴史観を維持させようと動いていることは明らかです。

しかしいかに彼らが役者を揃えてわが国に圧力をかけて来ても、日本人が正しい歴史を学び、自虐史観が誤りである論拠を数多く知れば、彼らはいつまでもわが国の富を毟り取ることは出来なくなるはずです。

仮説だけで世界観を述べることは説得力を欠きます。日本人に広められてきた歴史観の誤りを、その論拠となる史実と共に世界に広めていくことが大切だと考えています。




大抵は貿易するために形だけ信仰している場合が多かったようですね。
宣教師にも思惑はあったでしょうが、割って入る余地はなかったでしょう。
Re: タイトルなし
宣教師は、どちらが勝利してもキリスト教勢力が衰えないよう、戦力の分散を図ったのではないかと考えています。
先祖は、毛利藩の目付けでしたが、輝元みたいなロリコンのチキンは大嫌いです。妻がいる30男が、孫ギャル目当てに東広島の児玉さんの館に足しげく通い、それを嫌った父親が、娘を杉さんに嫁がせると、奪った事や、関ヶ原の戦いでは、大阪城に籠っていて、東軍の家康に擦り寄るとか嫌な性格です。
Re: タイトルなし
書く人の立場によって、同一人物はいろいろな書かれ方をするもので、ひどいことが書かれている場合は何らかの意図があってそう書かれている場合が多いので、すべてが史実とは限りません。いつの時代も自己弁護の為に、敵対する人物をこき下ろすことはよくある話です。

慶長の役で捕虜になった姜沆は、『看羊録』の中で敵ながら輝元の人格を讃えています。そういうプラス面も評価したうえで人物をみてはいかがでしょうか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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