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家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣

前回の記事で、キリスト教に寛容であった徳川家康が、慶長17年(1612)に、幕府直轄地に対して急に禁教令を出して、翌年にはそれを全国に拡大して、長崎や京都にあった教会が破壊され、慶長19年(1614)には、多くのキリスト教徒が国外追放されたことを書いた。

キリスト教の弾圧は豊臣秀吉の頃が最も激しかったとの印象を持っていたのだが、家康の時代にはどうだったのか。

以前このブログで紹介した、大正14年に出版された山本秀煌(ひでてる)著『日本基督教史 下巻』に、家康の時代のキリシタン迫害の事例が纏められている。

きりしたんころびの図

幕命により切支丹奉行となった大久保忠隣(ただちか)の事例から紹介しよう。
「京都の松原一帯の地方は切支丹信者の淵藪であって切支丹町と称した。迫害の苛酷であったのもまた、この街が最も甚だしかったのである。忠隣はこの地の男子を悉く駆逐して、のちその妻子を捕え、これを米俵の中に入れ五所結にして首ばかりだし、一見その人を認め易からしめてこれを五条河原に算盤積みにしたのであるが、下層に置かれた婦人は気絶する恐れあるために、再びこれを駢列し(並べ)、一昼夜大雪寒風の中に曝露し、のち終に棄教せざる者を殺し、松原一帯は空地となるに至った。尋て伏見、大坂および堺の地に迫害を及ぼし、犯禁者六拾餘名を焼殺したが、皆欣然として刑につくという有様であった。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/127

山本氏は「犯禁者六拾餘名を焼殺した」と書いておられるのだが、この話は寛文5年(1628)に記された『吉利支丹退治物語』や寛永16年(1639)に記された『吉利支丹物語』に出ている話である。
『吉利支丹物語』の原文テキストは山本氏の著書にも引用されているし、『吉利支丹退治物語』は京都大学の蔵書検索により下のURLで読むことが可能だ。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i094/image/01/i094s0040.html
仮名の文章は読みにくいが、河原に積んだ時点で多くの信者が転び(棄教し)、50~60人程度が残ったが、周囲に薪を積んでさらに棄教するように圧力をかけると「今までこたへて候へ、はやくころばせて下され候へと、いろいろくどきつれて申によって、わらいわらいたわらより出だされけるとかや」とあり、最後は米俵から出されたことが記されている。山本氏が「六拾餘名を焼殺」したと主張する根拠は『吉利支丹物語』には見当たらないのだ。

岩波文庫のレオン・パジェス著『日本切支丹宗門史上巻』には「違背者に対して、特に脅迫や苛酷な屈辱的な取り扱いをなし、愈々という場合に、追放させることにしたが、但し殺すことだけは禁じた。」(p.333)とあるので、私は、山本氏が京都で「六拾餘名を焼殺した」と記しておられるのは誤りではないかと考えている。

キリスト教信者に対する取締りが厳しくなって、近畿地方をはじめ全国各地より追放された外国人宣教師や、有力なる信徒は長崎に向かい長崎奉行に愁訴嘆願したのだが、当時長崎奉行であった長谷川藤広は、有馬氏の所領でキリスト教を積極的に弾圧したという。
しばらく、山本秀煌氏の前掲書を引用させていただく。

慶長19年8月(1614年9月)家康の上使は長崎へ至り、速やかに内外宣教師を追放すべきことを命じた。よってこれを三艘のジャンクへ分乗せしめ、一艘をフィリピンへ、二艘をマカオへ送った。そのマカオへ赴く船には、耶蘇組(イエズス会)の宣教師70名と日本の信徒数十名とを乗せ、フィリピンへ赴く船には、各派の宣教師30名、俗僧2人および日本信徒数十名を乗せた。しかもなお、日本の内地に潜伏して追放を免れた宣教師は42名の多きに達したのである。…また同時に追放された日本人の信者の多くは貴族の男女であった。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/134

慶長19年10月に宣教師やキリシタンを乗せて長崎を出航しフィリピンに向かった船には、元の播州明石城主の高山右近や丹波亀山城主の内藤如安が、家族と共にいたという。
彼らを追放し終ると、江戸幕府から山口駿河守直友が旧有馬領に赴き、長崎奉行長谷川左兵衛とともに大々的なキリシタン検挙を断行している。

日本切支丹宗門史

旧有馬領の口之津の事例について、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史上巻』にはこう記されている。
「70人の者が、良く信仰を守った。…(11月)22日の朝、彼らは、首に綱をつけて引きまわされ、新手の拷問にかけられた。34人は、両足を板の間に挟まれて酷くしめつけられ、上から踏みつけられた。若干の者の骨は砕けてしまった。ある者は弱って信仰を捨てた。…
 最後に、一切殉教はださない、これは皇帝の命令に反すると触れたにかかわらず、大きな手本を示すために、最も信仰の堅い者17人が選ばれ、11月22日に斬首された。…」(岩波文庫『日本切支丹宗門史上巻』p.351)

この時期に全国各地で、驚くほど多くの殉教者が出ており、たとえば『切支丹の書斎』というHPにはその事例が詳しく解説されているが、江戸時代初期の殉教者がこんなに多いとは思わなかった。
http://homepage2.nifty.com/gioan-awk/christian.htm

しかしながら、その頃の豊臣家の御膝元の大坂においては、徳川家康の禁教令が徹底されていなかったようだ。そこで、少なからずのキリシタン武将たちが各地から大阪に集まるようになったという。この点について、山本秀煌氏は同上書でこう解説している。

「…諸国の浪士、天下のあぶれ者等は多く大阪の地に隠匿して、天下の変を待っていたのである。浪士の主なる者を挙げれば、主人長政をうらんで黒田家を立退いた後藤又兵衛基次の如き、その父と不和であった細川忠興の次子長岡輿五郎輿秋の如き、南部信直の家老にして主人と不和を生じ南部家を退出せる南部左衛門の如きがこれであった。…家康の切支丹禁教令も徹底せず、この地方にあるキリスト教徒は比較的安穏であった。されば他の地方において禁教令の為に苦しめられた切支丹武士もまた多く大阪付近の地を遁避所となし、全国各地より此処に来る者も少なからざるものであった
 当時大坂と江戸との関係は日に月に緊張し来たり、早晩破裂すべき勢いであった。大坂方はこれらの浪士や切支丹武士を扶持して、有事の日に利用せんとて、をさをさその準備に怠りなかった。家康が大坂の老臣片桐且元に対して、大仏鐘銘に関する難題*を提出した時『この頃秀頼公を憑(たの)み来る浪人に扶持すべしとの披露するがゆえに、日本国中のあぶれ者大坂、堺に充満して、あるいは夜討、強盗し、あるいは往還の旅人を悩ます。これ何の用ぞや』と言ったのはこれらのことを指摘したものであろう。他の浪士のことはさておき、切支丹に関係ある者について述べてみれば、ここに大坂方が最も着目せる二人の切支丹武士があった。先の証の城主高山右近友祥南坊と浮田秀家の老臣明石掃部介守重とがそれである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/137
*大仏鐘銘に関する難題:慶長19年(1614)7月、方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康が重臣の本多正純を通じて異議を唱えた事件のこと

高山右近

高山右近については、徳川幕府がフィリピンに追放したことを先ほど記したが、豊臣秀頼は右近が前田家を追われたことを知ったのち、右近に親書を送って大坂城内に迎え入れようとしたが間に合わなかったという。

山本秀煌氏の著書に、秀頼が高山右近に宛てた親書の大意が記されている。
彼家康は、故太閤生前の盟約に背き、政権を返還せざるのみならず、暴悪にも、我家に弓を挽かんとする状顕然たれば、不日に征討の軍を発し、彼の罪を問わんとす。御身は軍事に老練のことゆえ、偏にこの軍の総指揮に当たらんことを頼む、勝利の暁には日本全国の天主教徒に随意に信仰を差免すべければ、早々その地を脱出して入城せられたし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/138

Akashi_Takenori.jpg

また明石掃部(かもん)介守重は、宇喜多秀家の軍師的存在だった武将で、屋敷に宣教師を住まわせて保護するほどの熱心な切支丹であったそうだ。秀頼は彼の招致に成功し、兵士2000を授けたという。
他にも、細川忠興の第2子長岡與五郎與秋、内藤如安の子、高山右近の長子およびその郎等、大友宗麟の子供など、キリシタン武士3千人がいたという。

大坂城にはキリシタン武士ばかりではなく、宣教師も集まってきたそうだ。イエズス会2名、フランシスコ会2名、アウグスチノ会1名の宣教師、および日本人宣教師2名が大坂城の中にいて、彼らは城中にあって信徒の告解を聞き、その士気を鼓舞することなどに務めていたという。

大阪城1

このように大坂城に多くのキリシタン武士や宣教師が集まったのは、決して秀頼がキリシタンを信奉していたからではなかったようだ。ではなぜ彼らが大坂方に加担したのだろうか。山本秀煌氏は著書でこう解説しておられる。

「…彼らは、淀君の熱心なる仏教信者にしてキリシタンを忌むこと甚だしく、嘗て家康に切支丹禁止を請求したこともあり、秀頼もまたキリシタン宗に冷淡であったのを熟知しておるから、この際秀頼がキリシタン宗自由たるべしとの条件を以てキリシタン武士を招致したとはいえ、戦勝の暁に至り果たしてその約束を履行するや否やは疑問ではあるが、既に禁教令を布いてキリシタンを圧伏しつつあった徳川氏の政策に比すれば幾分の望みなきにあらず、彼れ宣教師らが秀頼に加担しその戦勝を祈り、キリシタンの前途を開拓せんと試みたのは勢い已むをえざることであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/142

800px-Osaka_no_eki_winter.png
【Wikipediaより】

しかし、大坂冬の陣で集まった豊臣方の総兵力は約10万人で徳川方の半分にすぎず、集まった武将は徳川の世になって没落した大名や、その浪人たちがほとんどであり、兵力の差は歴然としていた。
とは言いながら、高い石垣や外堀や塀や櫓で二重三重に守られた大坂城はそう簡単に落とせるものではなく、このままでは戦いが長引き損害が大きくなるので、家康はひとまず講和をすることとした。その講和の条件として、大坂城の外堀を埋めることが書かれていたという。

大阪城の石垣

講和が結ばれてから、徳川方は大阪城の外堀を埋める工事を開始し、ついで内堀を埋める工事も行っている。これは明らかな講和条件違反なのだが工事は完成し、そのために大坂城は丸裸同然となってしまう。これでは勝ち目がないとして大坂城を去る者が出たため、豊臣家の戦力は7万8千人にまで減少してしまう。

800px-Osaka_no_eki_summer.png
【Wikipediaより】

そして翌慶長20年(1615)4月に、再び大坂城を中心に戦いが始まる。(大坂夏の陣)
外堀と内堀を埋められては大坂城での籠城戦で勝つ見込みは乏しく、豊臣方は城から出ての野戦に臨まざるを得なかった。
激しい戦いが1か月以上続き、大坂方の真田幸村の率いる軍が家康の本陣に迫る場面もあったものの、兵力の差は如何ともし難かった。大坂城三の丸が内通者により放火され、徳川軍は城内に突入。大坂城は燃え上がる炎に包まれ、秀頼も、その母の淀君も城内で自害したと伝えられている。

大坂城天守閣に行かれたら是非見て頂きたいのが、大坂城の落城の様子を描いた屏風絵「大坂夏の陣図屏風」。そこには徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり略奪を働くところや、女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。

大坂夏の陣図屏風

濫暴狼藉(らんぼうろうぜき)」と言われた、戦場での奪掠行為はこの時代では付き物であったと思うのだが、こういうことをしっかり書いている歴史書は少ない。いつの時代もどこの国でも、権力者にとって都合の悪いことが公式記録に残されることはないと考えるのだが、わが国の戦後の歴史書の多くは公式記録を重視しすぎてはいないか。戦前の史書の方が、当時の様々な史料を紹介していて面白い。

例えば徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第12 家康時代 中巻 大阪役』(昭和10年刊)で、こう記している。
「大阪落城については、随分屠殺や奪掠(だつりゃく)の醜態を演じた。
 『敗走者及び追撃の武器の音、戦勝者の無礼なる叫び、婦女の高き叫喚、小児の絶望の涕泣(ていきゅう)、街上に血の河流るるさま、火に焼かれ、鉄砲に傷つけられたるものの発する呻き声、および広場、また街路を狂者の如く急ぎ、敵および炎より遁(のが)るる光景は、ただに戦敗者にのみならず、戦勝者にても、一片人情を存するものに取りては、恐るべき観物(みもの)なりき。』
これは耶蘇(イエズス)会の宣教師パードレらが1615年――1616年の報告書の一節だ。
 『五月十日。将軍昨日伏見城へ御入(おいり)云々(うんぬん)。女童部(おんなわらべ)共取(とらえ)て陣衆帰る。浅間敷(あさましき)。』[義演准后日記]
如何に戦勝者が、婦女を奪掠したかは、これにてわかる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223807/294

では、この大坂の陣の間にキリスト教会はどう動いたのだろうか。秀頼がキリシタン武将や宣教師を集めようとした事実はあるが、教会全体としては中立の立場を貫いたようである。

レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』にはこう記されている。
この戦争中、また内府(家康)様の死ぬまで、教会は実に静穏であった。諸侯の多くは、両軍のいずれかに属して常に戦場にあった。領国に留まっていた者も、勝利者の例に倣って行動を見合わせ、キリシタンに対しては眼を閉じていた。宣教師とキリシタンとは、周到にもこの時期を利用して、伝道と信仰とに受けた損害を回復した
 若干の宣教師たちは、日本に留まっていた。即ちイエズス会員29人、ドミニコ会員6人、フランシスコ会員6人、それにアウグスチノ会員1人であった。なお数人の俗間司祭がいた。1615年には若干の修道者が帰来した。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史 上巻』p.400)

当時、宣教師たちは多くは長崎にいて、長崎では教会が復活し、ミサも行なわれるようになったという。この地が、全国に多数いた追放者の避難地となったことは言うまでもない。

その後、江戸幕府によって再びキリスト教への弾圧が強化されるのだが、その話は次回に記すことにしたい。
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【御参考】
徳川家康が金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させたのは慶長18年(1613)だが、その直後に仙台藩主伊達政宗が、家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣している(慶長遣欧使節)。
なぜこの時期に伊達政宗が使節を送ったのかを考えると、政宗に天下取りの野望があったことが、教皇に奉呈された日本のキリスト教徒の連書状を読めばわかる。興味のある方は覗いて見てください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html



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Comment
>山口駿河守直友

彼がキリシタン奉行になってたのは知らなかったです。
九州の事情に詳しいから任命されたんだと思います。
関ヶ原前後に島津との交渉の窓口を務めていました。

大坂の陣は史料を調べた事はなくて、小説で読んだ程度の知識しかないので、来年の大河が楽しみでもあります^^

ブログ村と拍手ぽち
Re: タイトルなし
さすがに時乃★栞 さん、いろいろな武将の名前やその生涯を良くご存知ですね。

山口駿河守直友どこかで「切支丹奉行」という字があってそう書いたと思っていたのですが、もう一度確認したところその表現は見当たらず、私の勘違いだと思われますので、「キリシタン奉行」という肩書きの部分は削除させていただきます。

ご指摘いただき感謝です。
真田幸村について
いつもブログを拝見させて頂いてます。大坂の陣と言えば、真田幸村の名前が出ますが、実際の所どのような生涯送り、そして評価をされていたのでしょうか?管理人さんから見た真田幸村についての実像の分析を暇な時にでもお願いします。
Re: 真田幸村について
いつも読んで頂き、ありがとうございます。

戦国時代の部将はあまり詳しく勉強してこなかったので、あまり面白そうな記事が書けるかどうかはわかりませんが、一度チャレンジしてみたいと思います。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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