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石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて

毎年桜の咲くころになると、桜の名所やその近辺の社寺を訪ねるブログの記事を書いてきた。今までは旅行記事の直前に連載記事を終えるように調整ができていたのだが、先月来書き始めた鎖国のテーマが意外と長くなりそうなので、しばらくは重たいテーマから離れて、滋賀県の湖東の桜を訪ねる小旅行のレポートをさせていただくことにする。車で行かれる方のために、今回もカーナビで登録できるよう、私が訪れた場所の住所と電話番号を付記しておく。

石山寺 仁王門

自宅を早めに出発して、最初に訪れたのが滋賀県大津市にある西国巡礼第13番札所の石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1:077-537-0013)。
寺伝では、天平19年(747)に聖武天皇の命により良弁僧正が開創したという古いお寺だ。
滋賀県の桜の名所としては結構有名なので、開門時間の朝の8時を目指して向かったのだが、少し早めに駐車場に到着した。駐車場から歩いてすぐに、東大門(国重文)がある。

石山寺の参道の桜

開門となり東大門をくぐるとしばらく参道が続き、参道に沿って多くの桜の木が植えられている。桜並木を過ぎると右手に、やや急な石段が続き、それを登りきると、石山寺の名前の由来でもある硅灰石(けいかいせき:国指定天然記念物)の奇岩・怪石があり、その石の向こうに国宝の多宝塔が見える。

石山寺 硅灰石

左には蓮如堂(国重文)があり、近くの桜がちょうど満開であった。この建物は仏事だけでなく神事にも用いられてきたのだそうだ。

石山寺 蓮如堂

更に進むと、滋賀県最古の木造建築物で国宝の本殿がある。天平時代建てられた本殿は承暦2年(1078)に焼失し、今の本堂は永長元年(1096)に再建されたものだそうだ。

石山寺 紫式部

本堂の一角に3畳ばかりの薄暗い「源氏の間」があり、紫式部が『源氏物語』の構想を練り筆を起こした場所と伝えられている。石山寺のHPによると『石山寺縁起絵巻』には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」ことが記されているのだそうだ。

石山寺 多宝塔

本堂の横から石段を登ったところに、さきほど奇岩の向こうに向うに見えた多宝塔(国宝)が目前にある。この多宝塔は建久5年(1194)に、源頼朝の寄進により再建されたもので、屋根の曲線美の優美な姿が印象に残った。

石山寺鐘楼

多宝塔から石段を下ったところにある鐘楼(国重文)も源頼朝の寄進とされ、均整のとれた美しい建物である。

石山寺の境内は広く、月見亭、宝物殿や3つの梅園や回遊式庭園の無憂(むゆう)園など見所は結構あるのだが、宝物殿の開館は10時なので入ることを諦めた。

石山 貝塚標本

石山寺の駐車場の周辺で、昭和15年(1940)に縄文時代早期(約6~7千年前)の淡水貝塚が発見され、石山貝塚と命名されている。かつては貝層がむき出しになっていたのだそうだが今はコンクリートで覆われてしまって、近くの石山観光会館内に剥ぎとった貝塚の一部が展示されているだけのようだ。

次に向かったのは東近江市にある百済寺(ひゃくさいじ: 滋賀県東近江市百済寺町323:0749-46-1036)。石山寺から44kmで、名神高速を用いて30分程度で到着する。

この百済寺は、愛知郡愛荘町の金剛輪寺、犬上郡甲良町の西明寺の3つの寺とともに「湖東三山」と称される天台宗の寺院だが、いずれも応仁の乱や織田信長の焼き討ちによって衰退し、江戸時代以降復興した寺と言われている。3つの寺ともかなり広い境内を持ち、特に紅葉が有名で、秋には多くの観光客で賑わうのだが、桜もまた多いと聞いていたので、今回の旅程に入れていた。

百済寺 桜

境内には確かに桜の木が数多くあり、満開時にはこの門前の桜が素晴らしいはずなのだが、まだつぼみが開いていなかったのは残念だった。

寺伝によるとこの寺は、聖徳太子の発願により、高句麗の僧・恵慈(えじ)を導師に百済僧・道欣が推古天皇法興元年(590)に創建したと伝えられており、近江最古の寺の一つと考えられているようだ。この一帯には古代より、渡来人が多く定住していた地域であり、寺号からしてもこの寺が渡来人と関わりがあった可能性が高そうだ。

平安時代には僧坊が300あったという大寺院だったが、何度か火災に会い、特に天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭ったと記録されている。

近代デジタルライブラリーで『信長公記』巻六が公開されており、百済寺の焼き討ちに関する記録を誰でも読むことができるので紹介しよう。
「近年鯰江之城百済寺より持続一揆同意たるの由被及聞食 四月十一日 百済寺堂塔伽藍坊舎仏閣悉灰燼となる哀成様不被当目」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/103

少し補足すると、織田信長の侵攻を受けて観音寺城から逃れた六角義賢(ろっかくよしかた)らを鯰江(なまずえ)城の城主・鯰江貞景(なまずえさだかげ)が迎え入れたため、信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛、柴田勝家、蒲生賢秀(がもうかたひで)、丹羽長秀により鯰江城を囲んだのだが、4月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして信長軍がこの寺を焼き払ったと伝えられている。
この時にこの寺の堂塔・伽藍・坊舎・仏閣の全てが灰になり、哀れな様は目も当てられなかったと『信長公記』には書かれているのだが、信長勢は鯰江城の六角義賢らと戦わなければならなかったのに、百済寺焼き討ち後、兵を引き揚げたのは何故なのか。
調べると、柴田勝家が鯰江城を攻略して六角義賢を降参させたのは、百済寺焼き討ちから5ヶ月もあとの9月4日の事なのである。となると織田軍は敵軍を倒す事よりも、自陣を構えた百済寺を焼き尽くすことに熱心であったことになるのだが、自陣に火をつけることを「焼き討ち」と呼ぶことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

このブログでも紹介したが、当時宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』を読むと、宣教師たちが大名や信徒たちに寺を焼くことを教唆していたことが具体的に記されており、永禄10年(1567)に東大寺大仏殿に火をつけたのは三好三人衆側の警備に当たっていたキリシタン武士であったことが明記されている。
もしかすると百済寺も東大寺と同様に、偶像崇拝を禁じるキリスト教を奉じる武将が織田方に多数いて、警護あたっていたメンバーが宣教師の教え通りに火をつけたのではないだろうか。この時代に数多くの寺が「焼き討ち」に遭って焼失してしまっているのだが、私はこの時期にキリスト教が布教されていたことと関係があるのではないかと考えている。

百済寺はその後、寛永11年(1634)に天海僧正の高弟の亮算が入山して百済寺の復興に着手し、彦根藩の支援もあって現在の山門、仁王門、本堂などが再建されたのだが、以前の規模とは全く比較にならない。

喜見院(きけんいん)で拝観の受付けをし、喜見院の庭園を観賞したのち長い石段を上っていく。昔は石段やなだら坂の周囲には300を数える寺坊が存在していたというが、今は喜見院と本堂と門だけが残されている。広い境内に桜の木は結構あるのだがつぼみはまだ固かった。

百済寺 仁王門

ようやく大きな草鞋のかかった仁王門に辿りつく。普通の寺の金剛力士像は門の外側に向いているのだが、この寺では門を潜る者を睨むように向かい合っている。
また、門の右側に咲いている黄色い花は「みつまた」といい、この寺の境内に数多くの花を咲かせていた。

百済寺 本堂

さらに階段を上ると、本堂(国重文)がある。この本堂は仁王門とともに慶安3年(1650)に再建されたものである。
かつての本堂は現在よりもさらに山手にあって、大きさは現本堂の約4倍もあり、近くには五重塔もあったという。いずれも信長勢に焼かれてしまったのだが、この時、高さ2.6mもあるご本尊の十一面観音像(平安時代)など多くの寺宝は、奥の院不動堂に避難して難を逃れたのだそうだ。

このご本尊は御開帳の時しか観ることができないのだが、『観仏日々帖』にその画像が紹介されている。
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
また今年の3月から8月末まで、本尊の左右にある如意輪観音半跏思惟像と聖観音座像が公開されていて、観ることができたのはラッキーだった。

次に向かったのが金剛輪寺(こんごうりんじ: 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874:0749-37-3211)だ。
この寺は天平13年(741)に、聖武天皇の祈禱寺として行基が開山し、嘉祥年間(850)に延暦寺の慈覚大師が来山し天台宗に改められたと伝えられている。応仁・文明の乱以降の争乱や織田信長の近江侵攻と佐々木、六角氏の滅亡により多くの坊舎を失ってしまったが。湖東三山の中では最も多くの文化財を残している寺なのだそうだ。
織田信長勢に百済寺が焼かれた天正元年(1573)にこの寺も焼かれた記録があるようだが、焼かれたのは本坊や総門で、本堂および三重塔はさらに数百メートルも奥にあるために、見落とされて、焼失を免れたという。
しかし、織田勢がこの寺を焼いたことについては『信長公記』には全く何も書かれていないのである。戦場でもないのに織田勢がなぜ火を放ったか、原因を明確に論じている記録がないのになぜ『焼き討ち』という呼び方をするのだろうか。単なる『放火』と呼ぶべきではないのか。

金剛輪寺 庭

金剛輪寺の総門をくぐりしばらく進むと、左に本坊明壽院(みょうじゅいん)がある。ここの庭園が、桃山、江戸初期、江戸中期に作庭された三つの庭から構成され、国の名勝に指定されているという。この庭の紅葉は「血染めのもみじ」と呼ばれて有名なのだそうだが、桜の木はわずかしかなかった。やはり、訪れるべきは秋のようだ。

金剛輪寺三重塔

明壽院を出て、かなり長い参道を登って行くと、室町時代後期に造営された二天門(国重文)があり、それを抜けると国宝の本堂とその左手に重要文化財の三重塔が見えてくる。

kongorinji01s.jpg

三重塔は室町時代前期の建立で、長らく荒廃していたのを昭和53年に解体復元工事がなされて、その優美さを取り戻したという。修復される前の三重塔の写真がminagaさんのサイトにあるが、江戸時代の天保期からこのような状態であったのだろうか。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_kongorinji.htm

金剛輪寺本堂

国法の本堂も室町時代前期の造営と考えられており、内部は外陣・内陣・裏堂に分かれていて、内陣には平安時代から鎌倉時代にかけて制作された数多くの仏像が並んでおり、10体ばかりが国の重要文化財に指定されている。裏堂にまわると、客仏が立ち並んでいるのだが、平安時代の木造十一面観音像や慈恵大師坐像は国の重要文化財に指定されている。

わが国の多くの寺が明治の廃仏毀釈で苦しんだのだが、この寺もかなり苦労したことは間違いないだろう。アメリカのボストン美術館が所蔵する金銅造聖観音坐像は、金剛輪寺本堂に安置されていた像であることがわかっており、また東京都港区・根津美術館の刺繍曼荼羅図もこの寺の旧蔵品であったことがわかっているという。
明治4年(1871)の太政官布告で寺の領地を国が接収したために収入が激減し、少なからずの寺院が生活の為に宝物を売ることを余儀なくされてしまった。この事は、過去このブログでいくつかの事例を書いて来たので、興味のある方は覗いてみてしていただきたい。

あびこ屋

丁度お昼の時間になったので、地元で創業70年のあびこ屋(0749-37-2016)という日本料理店に向かった。
ネットで事前に調べて選んでいたのだが、きれいな個室で最高の料理を頂くことができて大満足だった。都会の高級料亭に引けを取らないような料理がリーズナブルな価格で頂ける店があるのはうれしい限りだ。

あびこ屋 うなぎ料理

メニューの中からうなぎ御膳を選んだのだが、うなぎは外はカリッと焼かれて中はふかふかでとても旨かった。また機会があれば、この店を訪れたいと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。


戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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