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徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き

江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。

このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が相次いで起こっている。

具体的な事件を説明する前に、当時の列強の動きを記しておこう。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』から、徳富蘇峰の著した『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の文章をしばらく引用する。

「…(イギリスとオランダは) 1619年(元和5年)6月12日、にロンドンに於いて、両国防禦条約を締結した。これはイギリス・オランダ両国各自の東インド商会が、共同してモロッカ諸島の貿易を営み、香料の3分の2はオランダ人、3分の1はイギリス人の所得とし、両商会より各10隻の戦艦を出して、防御艦隊を組織し、もってスペインポルトガル両国の艦隊に当たり、その植民地を侵し、両国の利益を拡張するためであった。
その結果、平戸はいよいよ両国艦隊の根拠地となった。かくて元和6年7月、両国艦隊10隻のうち、おのおの4隻ずつ、平戸に入港した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/127

自国の利益拡大の為に勝手に平戸を軍事拠点にされて、いきなり戦艦を送り込まれたわが国にとってはとんでもない話なのだが、その元和6年(1620)に平山常陳(ひらやまじょうちん)なる人物が船長を務める朱印船が、日本人船員の外ポルトガル人とスペイン人を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、イギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されるという事件が起きている。(平山常陳事件)

この事件の顛末は徳富蘇峰の同上書にも記されているが、Wikipediaなどにも概要がまとめられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%B8%B8%E9%99%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

イギリス平戸商館は「日本入国を禁じられている宣教師を乗船させた」として朱印船の積荷を没収してしまったのだが、平山常陳らは「乗っていたのは宣教師ではなく商人である」とし、積荷の没収を「海賊行為」であるとして長崎奉行に訴えた。
双方の言い分が対立し2年がかりで調査が行われた末、証言により朱印船に2名の宣教師が乗っていたことが判明し、元和8年(1622)7月13日に長崎で平山常陳と二人の宣教師が火焙りとなり、朱印船の船員12名が斬首されている。

この事件は、徳川幕府のキリスト教徒に対する不信感を決定づけるものとなり、平山常陳らが処刑された翌月の8月5日には、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑される事件が起きている。世に言う「元和の大殉教」だが、わが国のキリスト教の歴史の中で最も多くの信徒が同時に処刑された事件なのだそうだ。

元和大殉教図

この処刑の様子を実見した者がマカオで描いたという「元和大殉教図」が、イエズス会本部であったローマのジェス教会に保管されている。
ネットで見つけた画像を拡大して紹介しておくが、処刑されたのは宣教師や信徒であり、女性や子供が多く描かれているのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員が処刑されたからだという。

イギリス・オランダ勢力とスペイン・ポルトガル勢力との覇権争いは我が国だけで起こったことではなく世界各地で行われていて、当時海外にいた多くの日本人もこの争いに巻き込まれたことも書かねばならない。

以前このブログでも紹介したことがあるが、藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』にこんな記述がある。

「翌年(元和7年:1621)7月、両国(オランダ・イギリス)の艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった
しかし、もともと友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、7月27日付けで、幕府(2代将軍:徳川秀忠)は突然『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う…禁令を発した。」(『雑兵たちの戦場』p.275-276)

このように徳川幕府は日本兵の派遣を拒絶したのだが、オランダが諦めたわけではなかったのだ。その翌年にオランダは17隻の艦隊を派遣し、千百人の日本人傭兵やマレー人の傭兵を集めてポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めているのだ。

このブログで何度か記したとおり、この時期には日本人商人以外に海外に奴隷として売られた日本人が数多くいて、彼らは勇敢に戦うと評価されて、それぞれの国で傭兵として好んで使われていたことを知らねばならない。

徳富蘇峰はこの戦いについて同上書にこう述べている。ちなみに文中の「耶蘇教」とは「キリスト教」のことである。

オランダ船

「翻(ひるがえ)って見るに、東洋におけるオランダとポルトガルとの競争は、すこぶる激甚であった。すなわち1622年(元和8年)6月、オランダの17隻の艦隊は、9百のオランダ人、千百の日本人、およびマレー人を率いて、ポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めたが、ほとんどその半数は、あるいは、擒(とりこ)にせられ、あるいは死し、空しく失敗におわった。元来、此の挙に日本人の加入したるは、訝(いぶかし)しきの至りだ。そは1621年(元和7年)の布達にて、平戸から日本人の船員を伴い、若しくは軍需品を輸出するを、厳禁せられいたからだ。併しいずれにしても、日本人の参加したる事実は、相違ない
スペインもポルトガルも、耶蘇教徒として、徳川幕府の最も注目したるところであった。
而して幕府はマニラが、スペインの耶蘇教師の本場である如く、またマカオもポルトガルの耶蘇教師の本場たるを熟知した。さればポルトガル人に対しても、しばしば耶蘇教師の輸入について、戒飭(かいちょく)*を加えた。ポルトガル人も、固より之に恭順するを欲せざるではなかった。併しながら耶蘇教師の熱心は、如何ともする能わなかった。彼らはいかなる厳刑、酷罰をも意とせず、否むしろこれを本望として、禁を犯して入り来たった。その一例を挙げれば、
『1625年(寛永2年)マカオの使者は、常例の如く好遇せられた。しかるにイエズス会の司教パセコが、同年12月17日、口之津にて就縛(じゅばく)したるの報達し、彼が使者の一行の中に混して来たる由を聞くや、たちまち霹靂(へきれき)一下、万事休せんとした。しかも彼は禁令発布以前に渡航したる事情、明らかになりたる為め、首尾よく将軍―家光―に謁見を遂げた。』[ムルドック日本史]
とある。蓋しこのパセコは1614年(慶長19年)に追放せられ、翌年商人に扮して、又入国し、而して1626年(寛永3年)長崎において、殉教者となったのだ。これにて済んだが、しかも幕府のポルトガルに対する態度はいよいよ細心を加えてきた。」(『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』)
*戒飭:注意を与えて慎ませる事
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/148

この様に、江戸幕府が禁じていたにもかかわらず宣教師を送り込んできたのはスペインだけでなくポルトガルも同様であったのだ。そして、江戸幕府だけでなくスペイン国王も、宣教師がわが国に入国することを禁止している。
1628年に、スペイン国王のフェリペ4世(当時はポルトガル国王を兼務)も、今後15年間、フィリピンから日本に宣教師が入ることを禁止しているのだが、その効果はなかった。
わが国は寛永元年(1624)にスペインとの国交を断絶していたのだが、彼らはスペイン国王の命令をも無視して1632年(寛永9年)には、11人の宣教師が4組に分かれて、シナのジャンク船に乗ってフィリピンのマニラから入国し、さらに1637年には5名、1642年にはさらに4人の宣教師がわが国に密入国に成功
したという。

彼らが禁を冒して宣教師を送り込んだのは、キリスト教をわが国に広めることにより、わが国に対する干渉を容易とするためなのだが、その結果として多くの日本人が幕府に処刑されることとなった。

再び徳富蘇峰の文章を紹介する。
「徳川幕府耶蘇教迫害のはじめ(1614年[慶長19年])より、1635年(寛永12年)まで、日本人にして、耶蘇教を信奉したために、処刑せられたるもの、無慮28万人にのぼるという。[ムルドック日本史]また以て如何に幕府が、全力を挙げて禁教令を励行したかがわかる。然るにかかわらず、なお宣教師の入国の相絶えざるに於いては、幕府はただ断然日本国を周辺より隔離するのほかに手段はあるまい。鎖国令の出で来たるは、即ち必然の結論と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/149

わが国としては外国の干渉を排除するためにはキリスト教の禁教は不可欠であったのだが、いくら禁止しても商人に扮して宣教師が入国してくるのでは、海外貿易を厳しく制限していく以外に方法がなかったのである

ポルトガルについてはスペイン程ひどいやり方ではなかったので、幕府は、はじめのうちは手加減していたようだが、次第に取締りが厳しくなっていく。

朱印船

まず、寛永8年(1631)に、奉書船制度が開始され、朱印船朱印状以外に老中の奉書が必要となり、寛永10年に(1633)には、奉書船以外の渡航が禁じられるに至った。(第1次鎖国令)

出島

翌年第1次鎖国令が再通達され(第2次鎖国令)、長崎に出島の建設が開始された。
そして寛永12年(1635)には、中国オランダなどの外国船の入港を長崎のみに限定し、東南アジア方面への日本人の渡航も、日本人の帰国も禁じられることとなった。(第3次鎖国令)
また寛永13年(1636)には、貿易に無関係なポルトガル人と妻子をマカオに追放し残りのポルトガル人を出島に移して隔離した。(第4次鎖国令)

鎖国

出島では、一切邦人との雑居を禁じただけでなく、この出島から本地に接続している橋を渡ることが許されたのは、年に二度、すなわち入港と出港の時のみに限られたという。
そして寛永16年(1639)には、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、この年から嘉永7年(1854)の日米和親条約締結までの期間を、わが国では「鎖国」と呼んでいるのだが、この「鎖国」という言葉が広く使われるようになったのは明治以降の事であり、この当時の東北アジア諸国においても「海禁政策」が採られており、わが国だけが国を閉ざした訳ではないのだ。

江戸幕府がポルトガル人を追放したために、せっかく完成した出島は無人状態となってしまったのだが、寛永18年(1641)にオランダ東インド会社の商館が平戸から出島に移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人がこの地に住むようなったという。

しかしながら、ポルトガルはわが国との交易をここで諦めたわけではなかったようだ

ジョアン4世

1640年(寛永17年)にポルトガルはスペインから独立してブラガンサ公・ジョアン4世がポルトガル国王に就任したのだが、マカオのポルトガル人はこれを機にこれで日本との交易が再開されることを期待したという
彼らは直ちに新国王に使節を送ってその即位を祝福するとともに日本との通商の重要性を説き、その再開のために本国から日本に向けて特使の派遣を請願している。

この請願が認められて、首都のリスボンから使節を乗せて2艘の船が出港し、正保4年(1647)に長崎に入港したのだが、江戸幕府は、この船を、九州大名より徴発した5万人で包囲し、追い払っている

この時に、江戸幕府が長崎奉行に対して用意した奉書が、徳富蘇峰の同上書に紹介されている。
「一 日本国数年御制禁の処、南蛮より度々伴天連を指し渡し、きりしたん宗門に引き入れ、日本人数多く滅ぼし、その上徒党を結び、新儀を企てるにつき、御誅罰の事
 一 宗門に事寄せ、邪術を以て異国に於いて国を取る例これあり。日本に対してもその志深く候よし。ころび候南蛮伴天連、この地に於いて白状について、いよいよ偽謀至極と思し召され候こと
一 この両条により、かの国より渡海船かたく御制禁のこと…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/156

Beerstraaten,_Battle_of_Scheveningen

私も長いあいだ、江戸幕府の「鎖国」政策が「引きこもり」のような印象を持っていたのだが、この様な経緯を知ると江戸幕府の判断も納得できるのである。もし江戸幕府が「鎖国」という選択をしなければ、わが国はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地争奪戦に巻き込まれて、相当国力を消耗していたことに違いないだろう。1652年にはイギリス海峡の制海権をめぐってイギリスとオランダとの戦争が開始しているが、この二国の戦いは18世紀の終わり近くまで延々と続いたのである。(第1次~第4次英蘭戦争)

西洋列強が「大航海時代」とよばれる時代にキリスト教宣教師を先兵にして世界中を侵略し、現地人を奴隷にし、それぞれの文化を破壊したことを書かずして、この時代を叙述することにそもそも無理があるのだと思う。
戦後になって、西洋社会にとって都合の良いように描き直された日本史の歴史叙述が、全面的に見直される日は来るのだろうか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
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徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
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家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html



関連記事
Comment
しばやんさんのブログは、
非常に面白く読み応えがあり、とても勉強になります。
Re: タイトルなし
大伴細人さん、嬉しいコメントありがとうございます。とても励みになります。

若い頃は教科書やマスコミの解説などを疑うことがなかったのですが、40代の頃から疑問を感じるようになり、調べれば調べる程、おかしな歴史を押し付けられていることがわかりました。
このブログを初めて5年半になりますが、ここまで続けられたのは読者の皆さんのおかげです。
いつまでネタが続くかわかりませんが、これからも頑張りますので、時々覗いてみてください。
奉書船
武家様文書の慣習を上手く利用したものだと感心しました^^
天下御免の大御所朱印状を実質無効化するには、これしかないでしょう。

奉書の署名花押する責任者は何処かな~と思って検索したら事務官レベルの奉行衆ではなく、閣僚クラスの老中だったようで、成程成程です。

上位者の発給文書で著名花押を判物といい、
印判(朱印or黒印)が押されたものを印判状といいます。
で、書状の中身が安堵関係や権利関係であっても、そこに法的効力は発生しません。
というのは、書状には効力発生の時期である年月日が記載されてないからです。
これはワザとじゃなく、武家様文書全般の書式です。
おそらく家康が発給した朱印状も従来の慣習に倣い「年月日」が記載されてなかったはずです。(あるいは年度記載なしで月日のみ)

では何時から効力が発生するかというと、事務手続きを文書化した「奉書が書かれたの年月日をもって権利の効力発生」とします。

家康の朱印だろうが、直筆であろうが、奉書が発給されない限り事務手続きが執行されない為、法的効力はありません。

時の支配者・その土地の支配者が大判振る舞いで発給した朱印状や判物というのは、なかなか曲者なんですよ(・∀・)ニヤニヤ
もらった方は「安堵してもらえた♪ヽ(*´∀`)ノ」と喜ぶが、実際は待てど暮らせど奉書が来ないので「履行されない空証文」なわけです。

家康のことだから、海外の商人たちを一時的に満足させるために朱印状を与えたのかもしれません。
武家の文書様式を知らなければ、朱印状さえあれば何時でも履行されると錯覚するでしょうから。

面白いですね~(*´pq`)村クリと拍手★
Re: 奉書船
時乃★栞 さん、興味深いコメントをありがとうございます。
朱印状に日付がなければ法的効力がないということは初めて知りました。

「奉書船制度を開始した」と言う文面を言葉だけ理解していましたが、時乃★栞 さんのコメントでより深く理解することができました。感謝です。

しかし、さすがに古文書の事は良くご存知ですね。私はまだまだ勉強不足で、現代語訳されたものを読むレベルですが、筆で書かれたものを読めるようになりたいものです。
>朱印状に日付がなければ法的効力がない

判りやすい例えだと、時代劇で良く出る「お墨付き」ってやつです。

朱印状と奉書はSETのもの。それが【本来の原則】です。

ですが、「朱印状そのものが権威」である場合もあります。
それが「御朱印衆」や「朱印船」などです。

たとえば豊臣政権から拝領した朱印状に対しても、徳川政権は権利継続を認めていました。
どの政権であれ「公儀が発行した朱印状」のステータス維持のためです。

ところが年代が下るにつれ「権威ある朱印状」を認めたままだと政治情勢によっては不都合になる事態が出てくる。
そこで「朱印状と奉書はSET」の原則論を出して「朱印状の権威を損なうことなく、奉書の発給でコントロールする」わけです。

調べ直したら江戸期の老中奉書には年度がなく月日のみ。
城の修築許可証には年月日記載と、内容によって年度を入れる入れないがあったようです。
奉書船の場合が、年度入りか無しかは判りませんでした。

古文書は自分が読んでいるのは翻刻版の方です。
変体漢文と旧漢字が曲者ですが、慣れれば何とかなりますよ^^;
Re: タイトルなし
時乃★栞 さん、私の知らないことを教えて頂き感謝です。

江戸幕府もなかなかうまい統治をしたものですね。

こんなブログを書き始めて、博物館などに行くことが多くなりましたが、古文書の展示などで何が書かれているかを知りたいと思いつつも、何も読めずに先に進んでいます。時乃★栞さんなら、かなり読むことができそうですね。

もっとも博物館に時間をかけすぎては、いつものように1日で6か所以上周るような旅行はできないと思いますが、わたしも会社をリタイアしたら、古文書を読むための勉強をしたいところです。
下から3番目の出島の画像、なんという名称の錦絵かわかりますか? ちょっと調べておりまして...よろしくおねがいします!
Re: タイトルなし

記事に明記しなくてすみません。
「寛文長崎図屏風」です。

次のURLに全体の画像があります。
http://www.nmhc.jp/teacher/kashidashi/school_07.html
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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