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島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル

前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。

実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたことが重要なのだ。

宗教に限らず思想についても言えることなのだが、特定地域の住民の多くが外国勢力に強く憧れを持ち、自国がその勢力に征服された方が良いと考える程洗脳されていたとしたら、その外国勢力にもしわが国を侵略する意思がある場合には、その地域住民を味方に付けることで容易にその目的を果たすことができる

前々回の記事で紹介したイエズス会のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰を読むと、わが国は関ヶ原の戦い以前から、スペインが我が国を侵略する意思を持っていたことを認識し、警戒していたことがわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

ヴァリニャーノ

またイエズス会東インド管区の巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰にも、日本人はフィリピンのスペイン人が日本を侵略する意図を持っていることを深く疑っているので、フィリピンから日本に修道士を送るなと警告している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

しかし、スペインはわが国を侵略する意図があることを疑われていたにもかかわらず、徳川時代に入ってからも、無断でわが国の沿岸を測量したり、禁止をしても宣教師を何度も送り込み布教を続けるので、江戸幕府がさらに警戒を強めたことは当然の事であった。

出島

一方ポルトガルについては、スペインのような過激な行動をとることがほとんどなく、はじめのうちは江戸幕府もそれほど警戒していなかった。
しかし、元和9年(1623)にポルトガル船が宣教師を入国させようとしたことが発覚してしまい、その船の大捜索が行われて一切の文書が開封され、キリスト教に関係する書類や十字架などはことごとく海中に投ぜられたという事件があった。
その後幕府は長崎に出島を造らせ、寛永13年(1636)年5月以降はポルトガル人をこの島に隔離し、ポルトガル人が出島に架かる橋を渡るのは年2回に限ることとして管理を強めたのである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/150

その翌年に島原の乱が起こり、ポルトガル人は賊徒に援助を与えたとの嫌疑により、寛永16年(1639)に全ての通商を禁止されるに至ったのであるが、幕府がポルトガルを疑ったことは正しかったのだろうか。

以前このブログで、スペイン人は幕府の禁教令を無視して、フィリピンのマニラから宣教師を何度も送り込もうとするので、江戸幕府は寛永14年(1637)にマニラ征伐を企て、寛永15年(1638)の冬に遠征軍を出すためにオランダから船舶を借りるべく末次平蔵に交渉させ、オランダもその計画に乗り掛かったことを書いたことがある。
ところがこの計画は、幕府がマニラ征伐を企てたその年に島原の乱が起こったために、遠征軍を出す事が立ち消えになっているのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html
読者の方から、島原の乱の黒幕は実はスペインで、幕府軍のマニラ征服を中止させるために仕組んだ可能性がないかというご意見を戴いたのだが、結果としてスペインにとって望むべき結果になったのであり、確かにその可能性はありそうだと思って国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で戦前の本を探してみる。

フィリップ4世

昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』によると、スペインと島原の乱の賊徒がつながっていたことを匂わせている。
1632年7月8日、フィリピン太守タボラがフィリップ4世に送った手紙で、日本にはキリスト教処刑反対を叫んで内乱勃発の兆しがあるということを報告し、『彼等(日本人)には人を軽侮する念と自負心とがある、少しくらい革命の起こるのも悪いことではない』と述べているを見ても、1637年に起こった島原の乱が決して一朝一夕に起こったものではなく、常にルソンのスペインと相呼応して計画されたものであることが知らるるであろう。島原の乱についての詳細はここに説かないが、この乱が如何に大仕掛けであり、如何に徳川幕府をてこずらせたかは、3万以上の者が殺戮されているのを見てもわかる。乱後、幕府のキリスト教に対する態度が、いよいよ峻烈を極め出したのもむしろ当然で、この乱の起こる2年前の1635年2月16日、スペイン王フィリップ4世は、早くも日本の空気を察して、宗教宣伝者の日本渡航禁止の勅令を出した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/116

またオランダは「一揆勢」とのつながりはなかったとしても、ポルトガルが背後にいると幕府に伝えて、ポルトガルに変わってわが国との交易を独占しようと狙っていた可能性も小さくないと考える。とすると、ポルトガルは濡れ衣を着せられただけだったという可能性が高い。

マカオ地図

いずれにせよ、島原の乱ののちに江戸幕府が、100年近く続いた自国との交易を急に制限しようとしたことについて、ポルトガル人は納得できなかったようだ。
特にポルトガルの拠点であったマカオは、わが国との貿易で繁栄していて、わが国との交易が禁止されると経済的に大打撃を蒙ることが確実であった。

徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』で、こう解説している。
「…ここにおいてマカオにおいては、その驚愕大方ならず、如何にしてこの禁令の解除を乞うべきかと評定し、一切貨物を積み込まず、単に使節の船として、4人の主なる使節に、立派なる献上品を携帯せしめ、日本に送ることとした。最近未だポルトガル船から、宣教師を日本に送った事実なく、また島原賊徒に与(くみ)したる事実なく、しかもマカオと日本の通商断絶は、マカオのためのみならず、日本のためにも不利益なるを、陳情すべく派遣した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/152

ポルトガルの使節は1640年(寛永17年)に、長崎に到着したのだが、日本の警備船がその船を取り囲み、一切の船具、武器などは取り去られ、使節のメンバーはほとんどが出島に監禁されてしまったという。

将軍家光の命令書の内容についての『通航一覧』の記録が、徳富蘇峰の同上書に引用されている。一部を新字新仮名で紹介しておこう。
「…かれうた(ポルトガル)渡海御禁制のところ、その趣を書き載せざること、偽謀の至りなり。しかれば、乗り来たる類(やから)、悉く斬罪に行わるべしと雖も、その船を破却し、頭分の者並びに従類はこれを誅戮(ちゅうりく)すべし。この趣を本国へ告知すべきため、下々の輩少々身命を助け、これを追い戻すべし。自近以後、万一船を渡すに於いては、いずれの湊たりというとも見合、死罪に処すべきの旨、これを相含むべきものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/153

このように、ポルトガルの親書に渡海禁制の事が書かれていなかったので、彼らを使節としては扱わず、13人をマカオに帰して、残りの61人は全員が斬首されたという。

ところが、こんな事件があったにもかかわらず、ポルトガルはわが国との交易再開を諦めなかったのである。

たまたま使節のメンバーが長崎で処刑された1640年(寛永17)に、本国で大きな動きがあった。
ポルトガルは1580年以来スペインに併合されていたのだが、スペインのフェリペ4世は増大する戦費の調達の為ポルトガル商人に重税を課し、ポルトガル貴族から権力を奪い、またポルトガルの軍隊を相次ぐスペインの対外戦争に駆り出されたりしたことから、ポルトガル人の間にスペインに対する反感が拡がっていったという。

ジョアン4世の即位

そしてわが国で島原の乱が起きた1637年に、ついにポルトガルの各都市で反乱がおき、1640年のカタルーニャの反乱をきっかけにポルトガルはスペインからの独立を果たし、ブラガンザ公がジョン4世としてポルトガル王に就任しているのである。

ポルトガルがスペインから独立したとのニュースがマカオにも到達し、ポルトガル人は再びわが国に使節を送り込んでいる。再び徳富蘇峰の解説を引用する。

「この報がマカオに着するや、彼らの元老等はこれがために、ひとたび断絶せられたる日本との通交が回復せられ得べしと考え、直ちにポルトガル王に使節を送りてその即位を賀し、マカオ市民の忠誠を致し、而して日本との通商の重要なるを具申し、リスボン(ポルトガルの首府)から、特使を日本に派遣せられんことを請願した
 この請願は聞き入れられ、前回マカオの使節が、極刑に処せられたる苦き経験あるにもかかわらず、リスボンから二艘のポルトガル船は、使節を乗せて、1647年(正保4年)7月16日(西暦)長崎に入港した。その使節の使命の要領は、従来ポルトガルはスペイン王に併治せられだ、今や全く別王に支配せらるることとなった。さればスペインの野心に対して鎖国し、ひいてポルトガルに及んだのは致し方なしとするも、今日になりては、その事情全く変更したれば、改めてポルトガルとは通商を回復せられたしというにほかならなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/154

徳川幕府はこのポルトガル船を、九州大名から徴発した5万人にて包囲したという。

江戸幕府から長崎奉行に渡された奉書にはこう書かれていたという。
「一 日本国数年御禁制のところ、南蛮よりたびたび伴天連(宣教師)を指し渡し、きりしたん宗門に引き入れ、日本人数多くほろぼし、その上徒党を結び、新儀を企てるにつき御誅罰の事
一 宗門に事寄せ、邪術を以て異国に於いて国を取る例これあり。日本に対してもその志深く候(そうろう)よし。ころび候南蛮伴天連この地に於いて白状について、いよいよ偽謀至極と思し召され候事
一 この両条により、彼の国(ポルトガル)より渡海船かたく御禁制の事。…」
彼の船渡海御停止たるのあいだ、この外は何事を申立て候とも、かって以て御承引あるまじき事
右の通りに候あいだ、自今以後いよいよ彼の国より、日本渡海の船御制禁候旨、仰せ出だされ候。この趣具(つぶさ)にこれを相含め、帰帆を申しつくべきもの也。
正保四年丁亥七月十三日」

南蛮船

この奉書に書かれているように、江戸幕府はポルトガルがキリスト教を布教することによりわが国を侵略する意図があることを疑っていたわけだが、その根拠を「ころび候南蛮伴天連この地に於いて白状」したことによるとしている。この棄教した「南蛮伴天連」が誰であるかは今となっては知る由もないが、ポルトガルが独占していたわが国との貿易利権を奪い取るための謀略があったのではなかったか。

島原の乱前後の歴史を調べていくと、戦後の長きにわたり学校やテレビ番組などで広められてきた歴史叙述の多くが嘘である事が見えてくる。
戦前の教養書などでは、普通に記されていた史実が、現在の教科書などではほとんどが無視されているわけだが、その理由がどこにあるのかを考えることも必要だ。

このブログで何度も書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史叙述というものは、勝者にとって都合よく書き替えられ、勝者にとって都合の悪い史実は無視されたり、時には史実が捻じ曲げられて叙述されるものである。
特に戦後に入ってからわが国の歴史は、戦勝国にとって都合よく書き替えられ、戦勝国やキリスト教にとって都合の悪い史実はほとんど記されていないのが現状である


別の言い方をすると、真実をありのままに書くと西洋が世界を侵略する動きにわが国も巻き込まれ、西洋諸国によって多くの国民が奴隷にされ、わが国の多くの文化財が破壊され、さらに、このような欧米諸国による世界侵略が20世紀まで続いていたことに触れざるを得ない。そのことを今の日本人の多くが認識すれば、「日本だけが悪い国であった」という偏頗な歴史観が日本国内で通用しなくなることは確実だと思うのだが、そうなると困る勢力が、国内外に今も存在しているということなのだろう。

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Comment
歴史は現代との対話ですね。
あまりにも恐ろしいことですが、先人の経験を活かして
今を乗り切って進まねばならない、と感じました。
Re: タイトルなし
かめいとうさん、コメントありがとうございます。
いつの時代も歴史を学んで、先人たちがどんな苦労をしてきたかを知って同じ過ちを繰り返さないようにすべきなのですが、戦後のわが国では真実を教えられていない上に、外圧に弱い政治家や官僚が多いことが心配です。
読み逃げですいません。
応援のクリックと拍手☆
Re: タイトルなし
いつもありがとうございます。

時乃★栞 さんのように古文書が読めるようになりたいです。会社をリタイアしたら是非勉強したい分野です。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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