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シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。

島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、カピタンのほか十数名のオランダ人が住んでいたのだが、閉じ込められていたという表現の方が正しいのかもしれない。

シーボルト

のちにオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたドイツ人のシーボルトが著した『日本交通貿易史』という本が、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されている。この本の第7章に、オランダ人が平戸から出島に居住されられた時のことが記されているので紹介しておこう。文中のル・メールはオランダ商館長である。

1641年5月11日、ル・メールは商館とともに平戸を発して長崎に至るべき命令を受けて、同月21日にこれを実行せり。出島という小島はその数年前にポルトガル人のため国立監獄の如きものとして築かれたるなるが、今はオランダ人の居住のために指定されたり
 彼らここに到着するや、またしても甚だしき侮蔑を受けたり。余は彼らの正統なる抗議を1642年総督ファン・ヂーメンが将軍の老中に宛てたる陳情書中に言いたるとおり、正しく翻訳して次に出だすべし。
『我らは長崎に到りしとき、ポルトガル人の住みし出島を居住地として指定され、ここにて監視され、何人とも話するを得ず、ポルトガルよりもなお悪し様に待遇せられ、何か悪事をなし日本国に取りて危険なる人物の如くに取り扱われしは。これ吾人を侮蔑し吾人に大損害を与えつつなされたるにて、吾人はこの島の借賃として5500両を徴めさせられたるが、これ、わが貿易の甚だしき損害なり。』
『右出島にて、また船の舷上にて神の奉仕を禁ぜられたるは我等を悒鬱(ゆううつ)ならしめ、また我らが古来の自由自主に反するなり。陸上にても舷上にても、我らの死者は海中に沈めねばならず、日本の土地はオランダ人には恵まれず。我が船舶は長崎に投錨するや、厳重に捜査せられ。船上の帆は封印せられ、櫂・舵は揚げられて、再び帆を張らねばならぬその日の確定するまで、陸上に蔵め置かる。船が検査を受けて荷卸しもすめば、我らの荷物および士官たちは検査官のため、何の訳なくに、犬の如くに棒にて打ちのめされ、そのため色々の悶着も起こることあり。我らは船の上において、そこに流鼠されたる如く、検査官に予めもうしいれずば、他の船にも陸地にも行くこと叶わず。』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/95

ある程度誇張もあるのだろうが、オランダ人が長崎奉行から相当ひどい扱いを受けたことは読めばわかる。そのような扱いを受けながら、出島の賃借料を5500両も払わされたというのだから、オランダ人も我慢の限界だったのだろう。

オランダ領インド総督ファン・ヂーメンが江戸幕府の老中に宛てたる陳情書として長崎奉行に提出した文書の最後にはこう書かれていたという。

されば我らは日本より立退くか、またそこに留まるか決せざるべからず。いずれにせよ我らは次の年に地位高き人物に数個希珍物を添えてこれを長崎に送りて、将軍ならびに各高官閣下に敬虔なる訣別を陳べ、もしまた昔年の如き自由にて用命を受くる様にてもあらば、なお永く日本に往来して、我恭順なる恩謝を効すべし。…」

また、総督は長崎奉行に対してはこのように伝えたという。
もし陛下にして自国に於いてキリスト教国人に貿易を許さざる心積もりならば、我らはこれを諒として之に応ずべく、帰去・更来の準備は既に成り居るなり
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/96

このような書状を提出したということは、ここまで書いてもわが国から譲歩を引き出すことが出来ず、このような待遇が続くのであれば、オランダは日本を去る覚悟があったということであろう。

オランダ総督の陳情書は江戸に送られず長崎奉行で処理され、オランダ人の待遇も以降はかなり改善されたようだ。そして陳情書を出した翌年の1643年はシーボルトの前掲書には「オランダ人が出島にて経験せし利潤最も多き年のひとつにて、貿易史上の白眉とも言うべきなりしが。」と書かれている。
要するに、長崎奉行はオランダに充分な経済メリットを与えて、オランダをわが国に止め置こうとしたのである。

しかし、オランダ人の待遇が改善されたとはいえ、狭い小島で自由のない生活を強いられていたことには変わらなかった。

desima.jpg

シーボルトは前掲書にこう述べている。
商館の入口の前には厳重なる布令をうち、門番は長崎市街連絡をさえぎり、オランダ人は緊要なる理由なく、奉行の許可なくば門より出づるあたわず。日本人はオランダ人の家に宿泊すべからずして、そはただ公娼にのみに許さる。これに加え我らは国事犯人の如くに出島の内に厳かに監視され、日本人は彼らと日本語にて、しかも保証人(政府の隠密)なくば話しするを得ず、また彼らの家を訪問するを得ず。奉行の下人は倉庫の鎖錀を預かりて、オランダの商人は我が所有物の持ち主とも言い難き状況にありたり。しかるにオランダ人はすべてこれ一時の事柄にて、しばらくすれば過ぎ行くべきものならんとてこれを堪え忍び、長崎奉行、少なくもその下僚は、時々それを然かあるべきことの様に欺瞞して、オランダ人の希望を堅くせしめ。意気消沈し、不満に堪えざるに至れば、思い設けぬ貿易の利潤を啗(くら)わしてこれを励ますによりて、彼らはいつもつも今よりはよき時の来るべきを望みて、物質的利益もて自らを慰めたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/100

このレベルでオランダ人の待遇が改善されたとは思えないのだが、長崎奉行は、彼らが不満を持ちそうなタイミングで儲けの良い取引をさせるなどして、うまくオランダ人を操っているつもりであったかもしれない。しかしながら、彼らは何度も不満を漏らしながらも、わが国との貿易で結構儲けていたのである。

シーボルトの前掲書にはこう記されている。
出島を通して日本となせし貿易は、この如き制限ありしに関わらず、長き年月オランダ領東インド会社に著しき利益を致し、金の輸出、銀の輸出も制限に制限を受けたれど、日本の銅は全インドを通じて価値騰貴したれば、日本銅の豊富なる輸出はこの損害を利潤にかえなしたり。銅の輸出は銀の自由に充分に輸出されし時代に於いても銀の輸出よりも利益有りたるが如く、今もなお輸入を棒銅に代えることは貨物を高価に金銭その物にて支払うよりも利益多きなり。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/101

オランダがわが国から輸入したのは銅と樟脳が大半だったのだが、シーボルトによると、わが国から輸出される銅の品質が評価されて世界で高値で取引されるようになり、オランダはその銅で儲けていたのである。

adam-smith.jpg

日本の銅をヨーロッパに持ち込んだのはオランダの東インド会社であるが、住友グループ広報委員会のHPに、1776年に刊行されたアダムスミスの『国富論』の第1編第11章に、日本の銅のことが書かれている部分が紹介されている。

「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない
http://sumitomo.gr.jp/magazine/feature02/index.html

18世紀には日本の銅の品質の良さが世界で知られていたわけだが、いくら高品質でも少量では、ヨーロッパの銅価格を動かすほどの存在にはなりえない。ということは、わが国は世界の銅相場を動かすほど大量の銅を海外に流出させていたということになるのである。
では、どの程度の取引がなされていたのであろうか。

日本伸銅協会のHPによると、「1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況でした」と解説されている。
http://www.copper-brass.gr.jp/shindouhin/history.html

江戸時代の銅輸出実績

独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が作成した「銅ビジネスの歴史」というレポートが公開されていて、わが国の銅の需給状況の変遷が詳細に纏められて、ネットで公開されている。
その第2章「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」のp.54の表2-4に「江戸時代の銅輸出実績」が出ていて、元禄10年(1697)の銅輸出量はそれまでの年と比べて突出しており、890万斤(5340トン)もの輸出がなされていることがわかる。
http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2006-08/chapter2.pdf

主要2銅山の生産推移

一方、わが国の銅の生産はどうであったか。
同じレポートのp.53の表2-2に「主要2銅山(足尾銅山、別子鉱山)の生産推移」が出ているが、この2つの銅山を合算した生産量は、1688~1701年の14年間で29,962トン、1年平均で2,340トンに過ぎなかったことがわかる。
元禄期の日本人は、オランダや中国が運んできた商品に飛び付き、その支払額はわが国の銅の生産能力を遥かに超えていた
のである。

JOGMECの同レポートによると「17世紀後半から18世紀前半までは、日本が世界第1位の銅生産国であったと推測できる」(p.54)とあるのだが、再生産が不可能な天然資源である銅を、国力の限界に近いところまで輸出して海外との交易を行なっていたわが国が、「鎖国令」のもとで国を鎖していたと考えることはおかしなことだと思う。

新井白石

拡大するばかりのオランダや中国との貿易を現状のまま放置しているとわが国の貴重な資源が枯渇してしまうことを怖れて、この取引に制限をかけようとしたのが新井白石である。

Wikipediaの「海舶互市新例」にこう解説されている。

「当時は鎖国中であったが、オランダと清とだけは長崎で貿易が行われていた。当然、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年*4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば、わずか60年間で金239万7600両・銀37万4200貫**が国外に流出しており、そして100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅についても、45年間で11億1449万8700斤**に及んでいた。…
白石は、これを野放しにしておけば、あと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまう、と懸念して貿易制限を提案する。その後紆余曲折の末、1715年(正徳5年)、海舶互市新例(長崎新令)を定めた。」*宝永6年:西暦1709年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B
*宝永6年:西暦1709年
**1貫:3.75キログラム  1斤:600グラム

Wikipediaの上記記事によると、この海舶互市新例によって、江戸幕府は年間の貿易枠を次のように定めたとある。わかりやすいように単位をトンで併記しておく。
清  国:年間30隻、取引額は銀6000貫(22.50トン)
オランダ:年間2隻、取引額は銀3000貫(11.25トン)

ところが、その後わが国の銅の生産量が大幅に減少していったため、この貿易枠がさらに削られていったのである。

江戸幕府の銅輸出許可割り当て

先程のJOGMECのレポートのp.54に江戸幕府の銅輸出の許可割り当てが出ているが、ピークの1697年には5340トンもあった銅の輸出が短期間で8割方カットされていることがわかる。しかし、それは銅の生産量が激減したことが背景にある。

先程紹介した主要2銅山の生産推移を見てみると、18世紀の終わりには足尾銅山の銅がほとんど採れなくなり、19世紀には銅の生産を中止していることは重要なポイントである。

この時代にわが国の産品で海外に輸出できる商品は貴金属と樟脳ぐらいしかなかったのだから、銅が採れなくなれば、貿易額が縮小されることは当然のことであった。
言葉を変えて言うと、わが国は、いわゆる「鎖国」後も、相手国はオランダと中国の2国だけではあったが、国富・国力の限界に近い水準まで貿易を行なっていたのである。

オランダ船の入港

もしわが国が徳川家光の時代に「鎖国」を選択せず、その後も独立国家を維持できていたとしても、貴金属の生産量で貿易量が制限される点については同じことで、普通の商品売買においては、貿易を自由にできるようにしたところで貿易高が大幅に拡大するわけではないのである。

前回の記事で、「鎖国」という言葉が本格的に使われるようになったのは幕末期で、18世紀までは「鎖国」という言葉すらなかったことを書いたが、つまるところこの言葉は、「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に広められたと考えて良い。
わが国はオランダを除く欧米列強から見れば国を鎖していたのかもしれないが、わが国全体としては、家光の時代からずっと「鎖国」をしていたという表現が適切であるとは思えない。

しかしながら、日本史の教科書や通史には、江戸時代の「鎖国令」以降、世界の銅相場を動かすほどわが国の貿易高が拡大したという史実がどこにも書かれていない。わが国の一般向けの教養書では「江戸幕府は鎖国令を出して外交・貿易を制限し、世界の中で孤立していった」的な通説に矛盾する史実はほとんどが無視されていると言って良いのだが、その理由はどこにあるのだろうか。

このブログで、幕末の欧米列強は明らかにわが国を侵略する意図を持っていたことを何度か書いてきた。その意図を隠して彼らの為したことを正当化させるためには、わが国が問題国であり、その国を開国させることに義があったという物語を描こうとするはずだ。同様に明治維新を成し遂げたメンバーが彼らの改革を正当化するためには、江戸幕府が無能であり、討幕することに義があったと書こうとするだろう。

「鎖国」から「開国」につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にし無能とする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとって都合の良い歴史であって、戦後の長きにわたりわが国の学界やマスコミや教育界は、この視点に立った歴史叙述を無批判に受け入れ、拡散してきたとは言えないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合悪い史実を封印し、都合の良い歴史を編集して国民に拡散する傾向にある。したがって、勝者が広めようとした歴史叙述を学んでも、それが真実であるという保証はないのだ。
真実は、勝者が広めようとした歴史と、封印しようとした歴史の双方をバランスよく学び、その違いを知ることによって、少しずつ見えてくるものではないだろうか。
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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シーボルトと日本の開国
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
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シーボルトはスパイであったのか
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
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Comment
日本の銅が世界の経済に影響与えてるとは知りませんでした。現在の教科書では、自分から調べるか教えてもらわないと分からない史実がかなりあるのが不気味です。戦後の教科書を真面目に勉強すればするほど、戦勝国や反日勢力の偽瞞さ、いい加減さが見えなくなる悪循環が恐ろしいです。そういえば江戸時代に朝鮮通信使が、ニワトリを盗もうとして捕まったという記録があるそうですが、教科書に載る事はなさそうですね・・・
Re: タイトルなし
としさん、コメントありがとうございます。

私のブログは、自分自身が長い間自虐史観に洗脳されてきたことの反省もあり、その洗脳を解くきっかけになった出来事や、その背景などを紹介して、読者の方々がわが国の歴史の通説に疑問を抱くきっかけになればという思いで書いています。

今の教科書や通説をいくら勉強しても、その洗脳状態を解くことは難しいと思いますが、この状態を脱するためには、日本人の多くがこのような歴史を受け付けなくなるほど、真実を広めることが必要なのでしょう。ネット社会はそれが可能な時代なので、いずれは、日本人の洗脳が解けることを少しばかり期待しています。
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Re: Jew
N.W.Oさん、沢山の記事を読んで頂いた上に、コメントまで頂きありがとうございました。

ご指摘の問題については関連性を指摘する人も多く、同じユダヤ人の中でもいろいろな考え方があって当たり前であり、歴史叙述においては特定人種をひとかたまりにして議論することは避けるべきだと考えています。彼ら全員が政治結社で繋がっていて組織的に動いていたのであれば話は別ですが、そういう論証が出来るとは思えません。

歴史を動かした特定思想の持ち主とそのグループにユダヤ人が多かったという事は言えるでしょうが、それ以上のことは書くべきではないと考えています。
Communism
早速のお返事ありがとうございます。
VENONAファイルで、米国内部に共産主義者が入り込んでいたことが明らかになったように、当時、日本の内部にもどれだけ入り込んでいたのか興味がありまして、しばやんさんのところに辿り着きました。
これだけの見識をお持ちで、共産主義に関する記事なのにユダヤのことが一切出て来ないことに驚き、知らぬ筈はないと思い質問させて頂いた訳ですが、やはり考えがあってのことだったのですね、理解しました。

ハンドルネームに陰謀めいた用語を流用してしまいましたが、私自身はユダヤ系の政治結社にまつわる話を真に受けている訳でなく、論証が出来るとは思えないのも同感です。
「特定人種をひとかたまりにして議論することは避けるべき」というお考えは同感ですが、政治結社や陰謀論はさて置き、事実のみに基づいて議論すべきだと私は思っておりますので、誰が何のために共産主義なるものを編み出したのか、核心に触れずして考察することは難しいです。
共産主義が世界中をあれだけの狂気と大混乱に陥れた理由ですが、モルデカイ・モーゼ氏の著書「日本人に謝りたい」によると、「ユダヤ教の宗教的呪縛力」としか説明がつかないそうで、これは特に日本人には難解な説明であると思います。

しばやんさんの御前で恐れ多いのですが、事実に基づいて挙げるとしたら、マルクス、レーニンを始めとした共産党指導者の大多数、米国ルーズベルト大統領、原爆を造った化学者の大部分と、広島に投下したエノラ・ゲイの機長、GHQ内のニューディーラー派から日本国憲法の発案者に至るまで、これらに共通するのは言うまでもなくユダヤ人ということです。
です。
ノーベル賞とダイナマイトの発明で有名なユダヤ人、アルフレッド・ノーベルの遺志を継いだノーベル財団はユダヤ系組織にて運営されていますが、その受賞者のユダヤ人が占める割合が突出しているのはよく知られていることですね。あの「ハル・ノート」を日本に突き付けたコーデル・ハルが「ノーベル平和賞」受賞者とは、出来レースとしか言いようがありません。
欧州の大部分の国ではホロコーストを否定することは犯罪になるそうですが、犠牲者数を疑うことも再検証することも許されないように仕向けたシオニストの常套句は「反ユダヤ主義者」であり、被害者であることを最大限に利用して差別主義者のレッテルを貼ることですが、これはどこかの隣国に似てますね。

しばやんさんの書かれた記事は余りに膨大なため、全てを読破するのは大変なことですが、これからも勉強させて頂くつもりですし、新しい投稿も楽しみにしております。またコメントすることがあるかも知れませんがよろしくお願い致します。
Re: Communism
N.W.O さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

第二次世界大戦はコミンテルンの戦略を抜きには語れないとの印象を持っていますが、この思想に共鳴した者は人種を問わず世界中にいましたし、わが国もその点は例外ではなく、軍部はかなり共産主義思想に汚染されていました。

特定人種が同じ政治思想を持ち世界を動かしたと考えることにはかなり無理がありますが、特定政治思想を持った世界的組織が、世界を動かしたと描くことは可能だと考えています。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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