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修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて

翌朝は雨が降っていたのだが、せっかく来たので朝食前に龍泉寺(りゅうせんじ:0747-64-0001)に出かける。

龍泉寺1

伝承によると役小角(えんのおづぬ)が大峯山で修業中に洞川に降りて泉を発見し、「龍の口」と名付けて小堂を建て、八大龍王尊を祀ったのがこの寺の起源とされている。

龍泉寺2

龍泉寺の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から清水が流れ出ていて、大峯山に登る修験者達はここで水行して身を清めて、八台龍王尊に道中安全の祈願をして山に入るのだそうだ。

龍泉寺本堂

龍泉寺の本堂は昭和21年(1946)に洞川の大火災時に類焼してしまい、昭和35年(1960)に再建されたものだという。背後の山は龍泉寺の自然林で奈良県の天然記念物に指定されている。

この龍泉寺の境内は今でこそ誰でも入ることが出来るが、昭和35年7月10日までは大峯山内道場として女人禁制であったという。

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏がともに祀られている。また修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった山々で、白山や立山や御嶽山など多くは明治期に女人禁制が解かれているのだが、修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂のある大峯山山上ヶ岳は今も女人禁制で、蔵王堂に繋がる登山道には女人結界門があるのだそうだ。

龍泉寺の自然林の道

天候が悪くて境内から大峯山を望むことが出来なかったのは残念だったが、少し山道を歩きたかったので龍泉寺の境内から自然遊歩道に入った。天気が良ければこんな雰囲気の道を歩いてかりがね橋から大原山の展望台で景色を楽しむ予定だったが、かなり雨脚が強くなってきたので諦めた。

天川大弁財天社

宿に戻り朝食を済ませてから、天川(てんかわ)弁財天神社(0747-63-0558)に向かう。
この神社は白鳳時代に役小角が大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され、最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのが始まりとされ、また弘法大師が高野山を開く前にここを拠点てして大峯山で修業し天川弁財天を「琵琶山妙音院」と名付けて神仏習合の聖地としたという。
南北朝時代には社家18戸、僧坊3ヶ寺、供僧9ヶ院と伝えられており、多くの寺院があったようだが、今はない。

大峯天河社

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、寛政3年(1791)に刊行された『大和名所図会』が公開されていて、巻六に『大峯天河社』の絵が出ているが、これを見ると今の社宇とは随分異なる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/360
さらに、名所図会の「琵琶山白飯寺」の本文には、「正殿拝殿・御厨所・十二の小祠、四個の怪石、三所の清泉あり。寺を妙音院とも号す。観音堂・地蔵堂・薬師堂・行者堂・護摩堂・二重宝塔・僧舎三宇あり。また護良親王寓居の所を御所坊という。即ち来迎院なり。…」と記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/362

またWikipediaには「当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と改められた」と解説されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B2%B3%E5%A4%A7%E5%BC%81%E8%B2%A1%E5%A4%A9%E7%A4%BE
要するに、明治の廃仏毀釈で仏教施設が破壊されて、『天河神社』と改号されてしまったということのようだ。

Wikipediaでは淡々と記されているのだが、このような文化破壊が修験者や庶民の抵抗もなく行なわれたとは考えにくいところである。どのような抵抗があったかをネットで見つけることはできなかったが、明治政府が主祭神を市杵島姫命と勝手に変え、社名を天河神社としたところで、修験者や庶民の信仰が簡単に変わるものではなかった。
だから今も社名には「弁財天」の名前が残り、この神社は厳島、竹生島とならぶ「日本三大弁財天」のひとつとされ、さらに「琵琶山白飯寺」の本尊であった弁財天は、今もこの神社に残されているのである。

天川弁財天曼荼羅図

「弁財天」とは七福神の中の唯一の女性神であるが、楽器を演奏している美しい女性として描かれるのが普通である。ところが、ネットで「天河弁財天」の画像を調べると蛇の姿で描かれている『天川弁財天曼荼羅図』が、前日訪れた長谷寺の能満院に所蔵されているのに驚いた。
女人禁制の大峯山に入山する修験者には、女性は魔物と思って修行に励めということなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/nikogori12/20080713/p2

またこの神社には、室町幕府6代将軍足利義教から圧迫を受けた世阿弥とその嫡男・元雅(もとまさ)が、京都を追われて大和国に住んでいた時に、当社に所領成就を祈願して能面を奉納したという歴史があり、それ以来能面や能装束の寄進などが相次いで、江戸時代初期にはこの神社で能楽が盛んに行われたという。

天川大弁財天社能舞台と本殿

明治初期の廃仏毀釈で一時期衰えたようだが、その後に能楽の奉納が復活し、今も毎年7月17日の例大祭には、能舞台で観世座の奉納が行なわれているのだという。画像の左が本殿で右が能舞台である。

tenkawa39.jpg

そして、例大祭の行なわれる日には、本殿の中央にある弁財天像が御開帳されるそうだが、この像が、廃仏毀釈に詳しいminagaさんの『がらくた置場』で紹介されていて、普通の女性の顔をしている。また、60年に1度開帳される裏弁天と呼ばれる像もあるが、その像も同じサイトで紹介されているので両方のURLを紹介しておく。
御開帳仏 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007toba/tenkawa39.jpg
裏弁天像 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2006to//tenkawa32.jpg

南朝黒木御所跡

この神社の駐車場の近くに「南朝黒木御所跡」と書かれた石碑があった。
南北朝時代の貞和4年(1348)に南朝皇居のあった吉野山が足利勢の大軍に攻められて焼き払われた時に、後村上天皇はじめ皇族がこの天川に逃れて来たのだそうだ。

天川村役場のHPにはこう解説されている。
「天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に『天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず』としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。」
http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightseeing/tenkikawa/ten.html

黒木の御所としていた河合寺は戦いの果てに炎上してしまったのだが、天川郷の人々は果敢に戦ったと伝えられているという。そののち後村上天皇らは難を避けて西吉野の賀名生(あのう)を皇居とし、皇族の多くはこの天川に残ったと言われている。天川村近辺には南朝の史跡がいろいろあるようで、今度この近くに来た時にいろいろ巡って調べたいと思っている。

丹生川上神社下社正面

天川弁財天神社から次の目的地である丹生川上神社下社(0747-58-0823)に向かう。ここは、宿の主人から勧められたので立ち寄ることにした神社である。

「丹生川上」という地名は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』などに数多く記録が残されている。
最も古い記録は神武天皇の東征時に関する記述である。
「天の香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば、敵は自然に降伏するだろう」という天神のお告げがあり、その通りに平瓦などを制作したのち、天皇が「丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。」(講談社学術文庫『日本書紀 上』p.99)とある。「丹生川上」という地は神代から、祈りをささげるべき聖地であったのである。

また『続日本紀』巻第三十四(光仁天皇)のテキストを「丹生川上」で検索すると、たとえば、宝亀7年(776)6月に黒馬、宝亀8年5月には白馬、8月に白馬を奉納して祈禱をしていたことがわかる。雨乞いには黒馬、晴れを乞うときには白馬を丹生川上神社に奉納する習わしであったようだ。
http://j-texts.com/jodai/shoku34.html

これだけ由緒のある「丹生川上神社」であるのだが、応仁の乱以降は朝廷も資金的な余裕がなくなり、祈禱が行なわれなくなって神社は衰微してしまうのだ。

吉野地方には現在3つの「丹生川上神社」があって、それぞれ上社、中社、下社と呼ばれているが、『日本書紀』『続日本紀』などの記録に残されている場所がどれであるのかについて、江戸時代からずっと議論されていたようだ。

丹生川上神社地図

Wikipediaによると、江戸時代前期にはこの丹生川上神社下社に比定する説が有力となり、
「宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%B8%8B%E7%A4%BE

しかしながら、古代の記録に出ている「丹生川上神社」が3社のうちどこなのかという論争が、明治に入ってから再燃し、「寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)『応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事』に記す丹生川上神社の四至境域に合致しない」との指摘や、「東吉野を流れる高見川が古代の丹生川である」との説が出て、今も結論が出ていないようである。いずれの神社も神代に繋がる神社であることにしたいのだろうから、むしろ、結論を出さないことを望んでいるのではないだろうか。

丹生川上神社下社の黒馬と白馬

一の鳥居をくぐると、境内で白馬と黒馬が飼われていた。

丹生川上神社下社2の鳥居と拝殿

まっすぐ進んで石段を登ると二の鳥居があってそして立派な拝殿がある。

拝殿で参拝すると本殿はかなり離れた高い場所にあり、本殿と拝殿とはまっすぐ続く長い階(きざはし)で繋がっている。
この階の入口には障壁が設けられており、一般の参拝者は昇段することが許されていないようだ。

丹生川上神社下社

拝殿の裏にまわってこの階を撮影したが、長谷寺の登廊のようで、なかなか見ごたえがあった。階の周りには太いスギが林立し、また拝殿の左には樹齢500年と推定されている堂々たるケヤキの大樹があり、この神社のご神木とされている。

丹生川上神社下社ご神木

このご神木の前には立札にこう記されていた。
「大昔より涸れたことのないご神木の恩恵を受け、四方に伸びた枝に茂る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉はさがら錦絵のようで、見る人のこころを捕えて離さない。
今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か一つだけ願いをかけてみよう、思わぬご利益に預かることができるかも。」

古代から水の神として名高いこの神社の境内を覆う、見事な枝振りのケヤキの大樹の幹に手を触れながら、私も少しばかり元気をもらったような気がした。
(つづく)
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.htm

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html



関連記事
Comment
素敵な旅ですね
こんばんは。いつもお世話になっております。
しばやん様、さすがのチョイスでございます。素敵な場所ばかりですね。
天河神社の夏の例大祭では、神楽の後に般若心経が読まれて驚きました。奉納能は京都の片山先生がお務めになってます。
この神社の社号標(画像にあります)の裏に、「前鬼鬼童 建之」と刻まれてます。役小角に仕えた前鬼後鬼夫婦の五人の子供を祖先とする五家が下北山村に明治の修験道禁止令まで修験者用のお宿を営んでいたとか。169号を下ると前鬼橋という橋があります。(熊野へはこの道を使います。ここ、雨だとよく通行止めになります・・・)
この辺り一帯はとても興味深いものが山のようにありますね。南下したくなってきました。
Re: 素敵な旅ですね
つねまるさん、早速読んでいただきコメントまで頂いて感謝です。

つねまるさんは奈良のこともよく御存知ですね。天川弁財天の社合標の話は初めて知りました。情報ありがとうございます。
この神社の秘仏である弁天像は左手には密教の法具を持っているようにみえます。神仏習合時代はどのような祈りの世界があったのかと興味を覚えます。

奈良は古いものが古いままに残されているところが良いですね。熊野はかなり以前にバスツアーで行きましたが、自分の車でゆっくりと周ってみたいです。南朝の歴史を辿ってみても面白いかもしれません。

聖護院
我が家の先祖の墓は、坂本の西教寺にあります、と申し上げたと思うのですが、キリスト教徒としての先祖の墓は、聖護院から山の上へ登ったところにあります。新島の墓なども周囲にあります。
修験の話題がありましたので、京都の修験の道場が聖護院だということで。あまり繋がりませんでしたでしょうか、お許しください(笑。
Re: 聖護院
聖護院は山の近くではないので新島襄の墓を調べると、鹿ケ谷に「同志社共同墓地」があって、新島八重のお墓と並んでいるようですね。

京都で生まれ育ちながら、聖護院をまだ一度も拝観していないことに気が付きました。調べると、今も大峯入山修行が行なわれているようですね。しっかり記事と繋がっていますね。

子供の頃は「聖護院」というと「八つ橋」というお菓子をすぐに連想してしまっていました。一度も訪問してこなかった理由が、そこらあたりにあるのかもしれません。
間違いました
ごめんなさい。頭に「若王子神社」をイメージしながら「聖護院」と言ってしまいました。

墓地へ行く時は、若王子神社の境内を通ります。山中には、同志社の墓地の他、キリスト教や神社やお寺のお墓が雑然と並んでいます。
Re: 間違いました
若王子神社というと哲学の道の途中にある神社ですね。その奥にお墓があるとは知りませんでした。

哲学の道というともう少し北にいくとホタルが観賞できる場所があるようです。今年はその季節は過ぎたと思いますが、あの辺りはまだまだ自然が残されていますね。
丹生の名のつくお社
こんばんは。何度もごめんなさい。
丹生川上神社下社、白黒の神馬さんがかわいいですね。飼育が大変でしょうに。ありがたいことです。改めて拝見するにつけ、素晴らしいお社だったなぁと。
こちらの本殿のように禁足地があることを、時々「見せてくれたらいいのに」と愚痴を仰る方もいらっしゃいますが、見えないものがあることがいいのだと思ったりしております。

うふふ。今月、久々に169号線を南下します。しばやん様のように地元のお宿で地元の味を堪能して、帰りは野菜や果物を積み込んでー。
上社さんには半年ぶりです。それと、吉野の森林王のお名前、今回はちゃんと拝見しようと思います。
Re: 丹生の名のつくお社
おはようございます。

禁足地は私も同意見です。誰もが近寄れたら、「ありがたさ」がなくなってしまいますね。

つねまるさんもいろんなところに行っておられますね。

川上村に行ったときに上社には行かなかったのですが、きっと良い神社だと思います。
そこまで行かれたら、金剛寺には是非行って見て下さい。ここも道が狭いですが、つねまるさんなら大丈夫です。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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