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明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった

前回まで、奈良県の修験道の聖地などを周ってきたことをレポートしてきた。
修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。
修験道神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきたのだが、それが明治維新後に激変することになったのである。

山の宗教

仏教学者・五来重氏の著書『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)で、熊野信仰の解説の中の文章を引用させていただく。

「熊野は、神々の信仰の非常に卓越した修験道の霊所でした。したがって本地仏はあるが神として拝まれており、その結果、近世に入ると紀州藩の宗教政策もあり、神道を表に立てるようになります。
 ふつうは江戸時代に入っても、神社にはそれぞれ別当*がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれる、というのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中ごろから神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなるわけです。」(『山の宗教 修験道案内』p.9)
*別当:神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺を神宮寺と呼び、その寺の社僧の長を別当と呼んだ。別当は神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていた

shugendou_x1.jpg

今では山伏の姿を見ることがめったにないのでこのような記述を読んでもピンと来なかったのだが、明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたという記述を読んで驚いてしまった。

愛知県清洲にある日吉神社の宮司・三輪隆裕氏はこのように述べておられる。
私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。…日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。」
http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66

「修験の先達」というのは山伏のことだが、明治の初めには山伏が17万人いたというのはどう理解すれば良いのだろうか。
内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になるのだが、これは半端な数字ではない。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf

その山伏が、慶応4年(1868)の神仏分離令に続き明治5年(1872)には修験禁止令が出されて、山伏の活動が禁止されだけではなく、信仰に関する建物や文化財の多くが破壊されてしまった。

内山永久寺 大和名所図会

前回まで5回に分けて書いた奈良旅行のレポートで、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたことを書いたが、いずれの寺も修験道の聖地であった。このような明治維新期の宗教政策が、山伏達に多大な影響を与えたことは間違いないのである。

山伏

では江戸時代の山伏達はどのような仕事で生計を成り立たせていたのであろうか。
和歌森太郎氏の『山伏』(中公新書)にはこう書かれている。
「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。
…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた。」(『山伏』(中公新書)p.21-22)

大峯天河社

ところが、近代化への道を急ぐ明治政府にとっては、このような山伏は不要であったようだ。
「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治5年9月15日の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。そうして、およそ18万人もいた山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあったのである。」(同上書p.23)

和歌森氏の著書では、山伏の数は18万人とあるが、正式な統計がないのでどちらが正しいかはよく分からない。いずれにせよ、現在よりも山伏の数が桁違いに多かったことは同じである。
では具体的に政府からどのような布達が出されたのであろうか。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

重要なものだけ内容を簡単に意訳しておく
◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤することを定めている。

◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと

◎明治5年(1872)9月15日 太政官第273号 いわゆる「修験道廃止令
修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。

「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなったのだが、さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。

◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。

◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。

◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す

◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること

具体的にどこまでが取締りの対象でなっていたかは定かではないが、明治以降山伏の収入が激減したことは言うまでもないだろう。

なぜここまで明治政府は山伏を徹底的に叩いたのかと誰でも思うところであるが、その理由を論じる前に、江戸時代に「山伏」の評判がどのようであったかを知る必要がある。

天保14年(1843)に江戸幕府が禁奢令を出し、当山派修験道の本山である醍醐寺三宝院から末徒に出された御触書にこのようなことが書かれていたという。
「『諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡』とはじまり、文中に『不如法之僧徒多有』『貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候』『略服美服ヲ着シ』などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index227.htm

龍泉寺2

もちろん真面目に修行し励む山伏が多数いたとは思うのだが、一部のメンバーが評判を落とすような行動をとると、すべてのメンバーに悪評が及ぶことはいつの時代にも良くあることである。しかし、多くの場合はそのような悪評は意図的に広められて、特定勢力を徹底的に叩くために利用される。
明治政府は、中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした。そこで形成されたのが「国家神道」で、その基盤となる尊王思想を普及させ、神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められたのだが、そのためには神仏習合の山伏や修験道は不要な存在であって、山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具ともども強引に修験道を消滅させようと考えていたのではなかったか。

以前このブログで、戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の宣教師やキリシタン大名が寺社や仏像等を破壊し焼却した記録が残されていることを何度か書いてきたが、明治初期にも同様なことが起り、全国規模で激しい「廃仏毀釈」が行なわれたのである。

明治期に広められた「国家神道」は現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭・政・軍が一体化した国家体制であり、国家自体が「一神教」の教団と化したようなところがある。
一神教の熱心な信徒は過去において、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名のもとにテロ行為や他国の侵略や異教文化の破壊をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。このような原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や文化破壊を行ないながら、自分の行為を正しいと信じて疑わない信徒が少なからず存在する点にある。

しかしながら、本来の日本の神道は、自然現象を敬い八百万の神を見出す多神教であり、明治期の国家神道とは根本的に異なる。そして江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。

和歌森太郎

和歌森太郎氏は前掲書でこう書いておられる。
村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった。」(前掲書 p.172)

厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。

公式には明治5年9月に山伏はいなくなったのだが、その後も峯入り修行の指導者としての山伏が存続した。
また、ネットで調べると、最近では一般人で山伏姿になって山伏体験をする人も増えているという。体験者のブログを読んでいると、自然の霊威を感じて心底から感動したという記録が多く、森羅万象に神が宿るという日本古来の自然観を私も体で感じたい気持ちが湧くのだが、残念ながら、この脚力で難所をいくつも登りきることは難しそうだ。

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【ご参考】
このブログで、戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教徒による文化破壊について何度か書いてきました。当時日本に来ていたイエズス会の宣教師の記録にも、わが国に残された文書にもかなり具体的に書かれています。
興味のある方は覗いてみてください。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html



関連記事
Comment
山伏は難しいです
こんばんは。今日もお勉強になります。
熊野の山伏というと、熊野御幸が途絶えた後に、熊野三山の維持等の勧進の為に諸国行脚をした熊野山伏と比丘尼ばかりが思い浮かびます。
亡者のひとつ鐘の阿弥陀寺と補陀落渡海の補陀落山寺が、那智山の七つの本願寺院のうちの二寺でしたので。
修験道を調べるとまた、紀伊半島を南下してしまいますね。

狂言の山伏は、柿を盗んだり(柿山伏)、蝸牛の真似をしたり(蝸牛)、実に人間味溢れています。
狂言が「狂言」と記された初見は、14世紀半ばの大内氏の周防国仁平寺本堂供養の時なのですが、演目が「山臥(=山伏)説法」。内容は不明ながら、この頃既に山伏が里に降りて身近な存在になっていたのかな、と思いました。
能には、悪霊を祈祷する山伏がワキとしてよく出てきます。その際、どこの山の某、と名乗るのも面白いです。

あ、また記事からそれたお話をつらつらと。失礼致しました。
Re: 山伏は難しいです
つねまるさん、ありがとうございます。
さすがに古典芸能に詳しいですね。勉強になります。

紹介いただいた狂言においても、山伏は庶民にとって、身近な存在ですね。
今は、どこに行っても、地域の人々がバラバラになりつつありますが、地域が平和で豊かになることを祈ることが地域のためにも必要ではないでしょうか。

山神
初めて投稿致します。
各地を歩き回られて静岡県以西の神社境内に、
「山神」あるいは「山之神」と彫られた自然石を見かけられたと思うのですが如何でしょう。
大分昔、縄文人集団が大陸から渡ってきた天皇家先祖一族によって滅ぼされ、天皇家の神を全国に広めていったが、縄文人の霊の祟りを恐れ「山神」の碑を置きしめ縄を掛けて霊を封じ込めた、と読んだ記憶があります。
私も一族の歴史を調べる為東海、近畿を歩き神社が在ればお参りをし、殆どの「山神」が拝殿前上手側に在る事を確認してきました。東日本以北には無いものと思っていましたら、一昨年あるボランティア活動で石巻に行った時、蛇田地区の神社境内に「山之神」が祀ってあり、松島市内の川端に「山之神」「水の神」の碑も在ったのにはびっくりしました。蛇田の地名由来は蝦夷を討伐する為上陸した時蝦夷が攻めてきたのを蛇が涌いて撃退した逸話に由来すると。(おぼろげながら)
これからも各地の神社や里を行かれるでしょうから「山神」碑にも気を留めては如何でしょうか。
Re: 山神
一色正人様、コメント頂きありがとうございます。

「山の神」という言葉は何度か聞きましたが、「山神」あるいは「山之神」と彫られた自然石が静岡県以西の神社境内にあるということは、恥ずかしながら今まで気が付きませんでした。
不勉強なのでよく分からないのですが、「静岡県以西の神社境内」には大抵あるのでしょうか。また石巻の神社は「静岡以東」であるにもかかわらず、「山之上」の碑があったので驚かれたという事なのでしょうか。

山の神は、人間の生活や生産活動に欠かせない水と関わりがあるので、全国的に祀られているものとばかり思っていました。神武東征と関連があるというとすると面白そうですね。
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自然の霊感
大自然に神がおわすは日本人やインディアン、インディオなど
も持っている自然と共に生きる民族のみと考えています
白人はとうに消してしまったかキリスト教のせいなのかも知れません
大自然の息吹=神なのかも
Re: 自然の霊感
インカ帝国もアステカ帝国もスペインに滅ぼされてしまいましたが、いずれも太陽神を崇めていましたね。

人類にとっては、これから先、自然との共生を考えることが今後ますます必要な時代になってきたと思うのですが、自然と共に生きる民族の宗教が、いつか見直される日が来るかもしれませんね。
修験者の数
はじめまして。
戦国期の修験寺院を調べていたところ、明治に17万人いたというブログに出会い、出典を知りたくなって検索を続け、こちらに辿り着きました。
和歌森氏の著書にも18万人とあったのですね。
どこかに根拠となる史料があるのでしょう。

でも、ご指摘の通りさすがにこの数字は大きすぎます。仏教徒と神道信者を併せると日本の人口を超える統計もあるように、修験をやっていた村人もしくは村の先達とでもいうような人を合算しているような気がしました。
江戸のいつ頃かは不明ですが全国の村数は6万~7万だったそうです。村といっても大小ありますし、大きな村の字集落はそれだけで1村級の戸数があった所もありますので、そういった村や字の数も18万くらいになるのでは、などと思いました。

余談ですが「山神」塔は沖縄を除く全国にあると思います。山の神が春になると里に下り田の神になり、秋にまた山へ戻る。という民俗は全国で見られるようです。他に山仕事をする人々も山神信仰をしていました。この場合は神社など無く、ただの石碑か石祠です。農家の裏山にあることもあります。
また、明治の神道破壊によって大山祇神に書き換えられている所もあるでしょう。私は関東在住ですが、風土記稿と照らし合わせると、山神社が消えて現在は大山祇神になっている所が、気がついただけでも複数あります。

長々と失礼致しました。
Re: 修験者の数
TNさん、コメントありがとうございます。

愛知県清洲にある日吉神社の宮司を勤めておられる三輪隆裕氏のブログを読んで、17万人という数字が出てきたのに驚き、いろいろ調べると和歌森太郎氏の18万という数字を見て納得してしまったのですが、ご指摘のように「修験をやっていた村人もしくは村の先達とでもいうような人」が入っている可能性があるのかもしれません。いずれにせよ、当時は職業別の統計などはありませんので、確認することは難しそうですね。

明治の「神道破壊」の話は興味深いですね。参考となる書籍などがあればご教示いただければありがたいです。
お返事賜りありがとうございました。

神道破壊は私的な表現です。
神道の中央集権化のような統制によって変わってしまった様相をどう表現すればよいのか言葉を知らないもので…。
お気に触りましたらご容赦くださいませ。
Re: タイトルなし
「神道破壊」という言葉が適切かどうかはもかく、ご指摘の通り、明治政府の宗教政策は、仏教だけでなく神道をも変質させてしまいましたね。
神道の原点は古来の民間信仰と儀礼の複合体で、岩や滝にまでも神や神聖なものの存在を認めるアニミズム的な宗教だと考えていますが、明治政府は、万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治するのに都合の良い宗教に変えたという側面があることは否定できないでしょう。
神道は私ももっと勉強しないといけません。
修験者の数
修験者の数は、聖護院や醍醐寺が把握しているはづです。古文書も残っていますから。羽黒修験や国東修験石鎚修験は、どこが統括していたのかは知りませんが、少なくないと思います。天台修験に関する資料は、龍谷大学に多いという話は聞いたことがあります(国会図書館には所蔵されていない聖護院の刊行物があります)。
Re: 修験者の数
具体的な数字を書いておられる学者がおられるので、どこかに根拠となる文献があるはずなのですが、どこにあるのでしょうか。

修験道にも多くの宗派がありますから、それぞれの宗派の修験者を加算したのかも知れませんが、よくわかりません。そこまで調べるとなると重たいので、会社をリタイアしてからの楽しみに残しておきます。
修験者の数
下記のサイトに、17万人の典拠が示されています。
ご参考までに。

http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-16ab.html
Re: 修験者の数
情報ありがとうございます。

中山太郎氏の『日本巫女史』(1929年刊)が初出だと書かれていますね。

国立国会図書館デジタルコレクションで探しても、この本は公開されていないようですが、それにしても廃仏毀釈から年月が経ちすぎています。

和歌森太郎の18万人説は、別の根拠があるのでしょうね。
修験者の数
実は、小生、大峰山には一度も登頂したことがない、山伏なのですが、昨日、鈴懸を洗濯していて、ふと、こう思いました。修験者つまり山伏は鈴懸を着る。鈴懸は、慶長年間から今日に至るまで、京都の林勘という呉服屋が製造しています。他の呉服屋も鈴懸を縫製していたとしても、林勘は、神仏判然令当時の修験者の数は、知っているのではないでしょうか?
http://hayashikan.server-shared.com/
Re: 修験者の数
山伏をしておられるかたは、この話題に関心があることは当然ですね。

修験道には宗派もあります、当時の流通コストを考えれば、林勘という京都の呉服屋が全国の山伏の鈴懸を製作していたことはおそらくなかったと考えますが、もし、独占的に制作することが認められていたととしても、受注生産ではないので修験者数を記録してはいないと想像します。

山伏をしておられるのなら、身近なところで御存知の方がおられるかもしれませんね。
中山太郎は信用ならない人物だったとの批評があるし、和歌森太郎もさして業績の人物ではない。ましてあなたはその2者のことさえ知らなかったではないか。
そもそも、信頼性のある一次資料・二次資料からの出典などなにひとつないのだから、17万などという数字には信ぴょう性がない。
なぜそのような数字を頭にもってきて議論を始めるのか、そういう話の組み立て方自体が理解に苦しむ。

サンカや山人などをまとめて17万という推定をした可能性もあるが、彼らは定住地を持たないという点から統計的な調査など不可能である。
Re: タイトルなし
裁判における証言がすべて真実ではないように、歴史的出来事の当時の当事者の記録にも本人にとって都合の悪いことは記録に残されないか、真実を歪められて書かれていることがいかに多いかをこのブログで数多く紹介してきました。一次史料、二次史料が無いから信用できないというのは単なる思考停止にすぎません。
廃仏毀釈に関する個々の記録は数多く残されていますが、そもそも破壊された寺の数や山伏の帰俗に関する統計資料は存在しません。明治政府が都合の悪い記録を残さないのは当たり前のことです。存在しないなら、既に確認されている真実と矛盾しない仮説を立てるしかないでしょう。
私は日吉神社の三輪宮司の17万人説と和歌森太郎氏の18万人説を紹介しましたが、私はその人数に特にこだわっているわけではありません。私の記事の趣旨は人数よりも、山伏が急減した背景と、その後の山伏がどうなったかにあります。
人数にどうしてもこだわるなら、ちなみに、現在の寺院の数は77千、僧侶の数は367千人です。(『宗教統計調査結果』H26.12.31)また明治初期に約10万ヶ寺あった寺院の数は5万ヶ寺になったと言われています。明治政府により修験道が禁止され、多くの修験道寺院が廃絶されたのですから、17万人説はあり得る数字だと私は理解しています。

中山太郎については著作を読んだことがありませんが、中山太郎や和歌森太郎の業績について、人の批評だけを根拠にこき下ろす姿勢は恥ずべき行為だと思います。そこまで書かれるなら、あなた自身がそれ以上の研究の徒であることを、あなた自身の論文で読者に納得させてください。それができないなら、失笑されるのはあなたです。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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