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智識寺、荒砥城址のあと、修験道の聖地であった戸隠三社を歩く

長野旅行の2日目は中棚温泉から千曲市にある智識寺(026-275-1120)に向かう。
この寺の縁起は古く、寺伝では天平年間(729~749)に冠着山(かむりきやま)の東麓に創建され、その後の移転あと、鎌倉時代に源頼朝の帰依により現在の場所に移ったとされている。

智識寺

上記画像は室町時代後期に建立されたとみられる大御堂(国重文)である。
本尊は平安時代末期に造られた木造十一面観音立像(国重文)だが、残念ながら中に入ることは出来なかった。

智識寺を出て上山田温泉街に入り、途中で左折して急坂を登っていくと千曲市城山史跡公園となっている荒砥城(あらとじょう)跡(026-275-6653)に着く。

荒砥城跡

この城は、当地一帯を治めていた村上氏の一族である山田氏により、大永4年(1524)に築かれたと伝えられ、郭(くるわ)が連なるように並んでいることから「連郭(れんかく)式山城」と呼ばれていて、村上氏の本城である葛尾城の支城としての役割を果たしていたようだ。

葛尾城の城主であった村上義清は、天文17年(1548)の上田原の戦いや天文19年(1550)の戸石城の戦いで、武田晴信(のちの信玄)に勝利し領地を守ったのだが、天文22年(1553)に武田信玄に攻められて葛尾城が落城すると、荒砥城も城主を失い、山田氏は滅亡してしまう。
領地奪還を目指す村上義清に長尾景虎(のちの上杉謙信)が加勢して川中島の戦い(1553~1564)がはじまり、12年に及ぶ戦いを経て荒砥城は上杉氏の治める城となる。
しかし、海津城の副将であった屋代秀正は上杉氏に背き、海津城を出て荒砥城に篭ったのだが、天正12年(1584)に上杉軍に攻められて荒砥城は落城し、城としての役割を終えたという。

荒砥城石垣1

上の画像は本郭(ほんかく)の石垣を写したものだが、画像左にある門に入ると右に折れて狭い道になっている。
下の画像は門に入った出入り口付近を撮ったものだが、石垣で視界が狭められて、小さな城ではあるが簡単に攻め落とされない工夫がなされている。

荒砥城石垣2

天候に恵まれて、本郭に登ると千曲川の雄大な流れと上田市方面が良く見えた。西には遠く北アルプス・後立山連峰の山も望むことができたのもラッキーだった。

荒砥城からの眺め 南

荒砥城から次の目的地である戸隠三山に向かう。11時半ごろに到着したので、早めの昼食を取ることにした。戸隠はそばが特に有名なので戸隠神社宝光社の近くの築山という蕎麦屋に入った。
前日の昼食は小諸そばで、二日連続蕎麦の昼食となってしまったのだが、戸隠に来たら「日本三大そば」に選ばれている蕎麦を食べないわけにいかないと思って予定に入れていた。

戸隠蕎麦

画像ではわかりにくいかもしないが、一口ぐらいの量ごとに束ねて5~6束を一つのざるに蕎麦が並べられて出てくる。これを戸隠では「ぼっち盛り」と呼ぶのだそうだ。
なぜこのような盛り方をするのかについて、戸隠神社のホームページにこう解説されている。
「ぼっちに盛り分けるためには、切れたり折れたりしたそばではうまくいきません。不揃いなそばは、盛り分ける途中ではずされます。見目も味もよいそばだけが、ざるに盛られて供される、いわばハレの料理というわけです。ぼっち盛りは、戸隠そばが神様(権現様)へのお供えや、高貴な方へのおもてなし料理として地域に定着してきたことを物語っているのです」
http://www.togakushi-jinja.jp/shrine/history/togakushisoba/
いつものように大盛りを注文したのだが、蕎麦の香りが楽しめて、しっかりと歯ごたえがあってなかなか旨い蕎麦だった。

ここで少し戸隠の歴史に触れておこう。
平安時代から鎌倉時代にかけての戸隠についてWikipediaにはこう書かれている。
「平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に『三千坊三山』と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

このように、古くから戸隠は神仏習合で修験道の聖地であり、「三千坊」と言われるほどの多くの寺院があったのである。
治承年間(1180年前後)に後白河法皇が編んだ歌謡集である『梁塵秘抄』のなかに、
「310:(霊験所歌六首)
四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。」
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt

ところが、戸隠は戦国時代に武田信玄と上杉謙信との争いの戦火に巻き込まれてしまう。
昭和12年に出版された『長野市郷土資料』にこう記述されている。
「永禄元年(1558)、信玄川中島攻略と信濃一国の掌握を戸隠山中院に祈願す。中院光如坊これを取次ぐ。(その願状はいま神社の宝物)上杉はこれを非常なる脅威とし大いに怒り、永禄2年(1559)6月19日戸隠山を侵す。一山の衆徒、難を鬼無里小川に避く。つづいて武田の勢力北信濃に及び、上杉兵を引く。一山の衆徒帰山。謙信は信玄の勢力を永久に牽制せんとし、永禄7年(1564)8月再び戸隠に兵を出す…」とその後も熾烈な戦いが繰り返されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054730/75

戦火を避けるために僧侶たちは戸隠から避難して、30年間小川郷筏ヶ峰(現小川村)という場所に移り住んだのだそうだが、上杉・武田両雄が死んだのち戸隠に戻ってみるとその荒廃はひどく、大講堂や主要な建物が大破し堂塔は倒れていたと記されている。

江戸時代に入り、徳川家康から朱印高千石を与えられて地位は安定したものの、戸隠山顕光寺は江戸幕府によって日光山御門主輪王寺宮の直支配とされ、修験者は天台宗の僧侶となり、同時に境内の大整理が行われたという。
その結果、山伏が山中で修行を行ない各地の霊山を巡歴する修験者は次第にその色彩を弱めて、山伏は霊山の山麓に定住するようになり、中院、宝光院の門前には院坊が建ち並び、商人や職人などで賑わうようになって、戸隠は修験道場から門前町へと変貌していったという。

では江戸時代に戸隠にいくつの寺が存在したのか。
前掲の『長野市郷土資料』によると、江戸時代初期には、本院(奥の院)12坊、中院24坊、宝光院17坊の53ヶ寺であったのだが、安永9年(1780)に本院・中院と宝光院が対立して寺社奉行に提訴される事件があり宝光院の17坊が追放され、明治の初めに本院の12坊の移転などがあり、最終的には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺となったようだ。

信州戸隠山惣略絵図

江戸時代のいつ頃の絵図であるかは不明だが、『信州戸隠山惣略絵図』という木版画がある。
この絵の中に多くの寺が描かれているのがわかる。良く見ると寺の名前まで記されている。

しかしながら、明治初年の太政官・神祇官の厳達により神仏混淆が禁じられ、僧侶は復飾還俗を命じられ、仏像、仏具、仏画、経典、山伏道具から、塔やお堂などが徹底的に破壊されて寺院は廃され、戸隠山顕光寺の奥の院、中院、宝光院は戸隠神社奥社、中社(ちゅうしゃ)、宝光社と改称されたのである。

戸隠神社宝光社鳥居

食事を終えて、近くの戸隠神社宝光社に向かう。

戸隠神社宝光社石段

最初の鳥居のさらに奥には、杉の古木に囲まれて、270余段の長い石段がある。正直なところ、この石段を登るのはきつかった。

戸隠神社宝光社社殿

登りきると荘厳な社殿が建てられている。この建物は戸隠神社の中では最も古く、文久元年(1861)に建てられたものだという。
案内板の説明には、
「神仏習合の面影を残す寺院建築の様式を取り入れた権現造で、拝殿周りは宮彫師北村喜代松の彫刻による見事な龍・鳳凰・麒麟・唐獅子牡丹・象の木鼻・十二支などで飾られている。
 間口は5間、奥行7間、屋根は入母屋造、妻入、銅板葺である。この奥行の深い構造は社殿建築では極めて例が少なく貴重な遺構と言える。」
と書かれているのだが、この建物がもともとは寺院の建物であったことを意図的に伏せている表現になっている。廃仏毀釈が起きてからもうすぐ150年になるのだから、そろそろ明治政府がやったとについて国民に真実を伝えてほしいところである。

戸隠神社宝光社社殿彫刻

案内板に紹介されていた社殿の彫刻は確かに見ごたえがあった。
『週刊長野記事アーカイブ』の記事によると、宝光社社殿の麒麟の彫刻が、キリンビールのマークの出所になったという説があるようだ。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0638-1.html

戸隠神社中社鳥居

次に中社(ちゅうしゃ:026-254-2001)に向かう。
とりいの後ろにある大きな杉が、樹齢800年とも900年とも言われるご神木の「戸隠の三本杉」である。

戸隠神社中社狛犬

なかなか迫力のある狛犬なので思わずシャッターを押した。

戸隠神社中社社殿

社殿(上画像)で参拝を済ませた後「戸隠神社宝物館」に入る。
鳥居の額や御神鏡や掛軸などいろいろな展示があったが、運慶作と伝わる毘沙門天像の頭部があり、頭頂部から真っ二つに割られたような傷痕があるのを見て釘付けになってしまった。撮影禁止なので紹介することは出来ないが、こんな素晴らしい仏像を、そのままの姿で残して欲しかったと思うのは私だけではないだろう。

信州戸隠中院拡大

上の画像は先程紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近を拡大したものだが、鳥居の近くに多くの寺があったことが確認できる。

先ほど、明治の初期に戸隠には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺が残ったことを書いたが、これらのうち35の施設が宿坊として今も営業していることが次のURLを見ればわかる。
http://togakushi-jinja.jp/stay/index.html

旧徳善院 極意家神殿庫裏

この中でただ一つ、昔の外観に近い状態で残されているのが「宿坊極意(旧徳善院)」である。
この建物は文化12年(1815)に再建されたもので、平成17年に国の登録文化財に指定されているのだが、先ほど紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近の拡大図の右端に『徳善院』としっかり描かれている。


次は奥社に向かう。車は参道の入口の駐車場に停めるしかないのだが、人気スポットであるだけに観光客が多かった。

戸隠神社奥社鳥居

上の画像は参道入口の鳥居だが、ここから隋神門まで約20分歩く。美しい緑に囲まれて、小鳥の囀りを聴きながら歩くことは楽しい。

戸隠神社奥社隋神門

これが隋神門だが、明治の廃仏毀釈の前はこの門は仁王門と称していた。
当然寺を守るために、かつては2体の金剛力士像が安置されていたのだが、この像は善光寺の近くの寛慶寺という浄土宗の寺に移されて長野県の県宝に指定されているようだ。「長野市文化財データベース」にその写真が出ている。
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1033.html

戸隠神社奥社参道杉並木

隋神門を過ぎた辺りから見事な杉並木が続いている。これらの杉の樹齢は400年から1000年あるというが、長い間人々の戸隠信仰が続いてきたからこそ、この素晴らしい景観が守られてきたのであろう。

戸隠山奥院拡大

再び『信州戸隠山惣略絵図』を拡大して奥社の参道あたりを見てみると、この杉並木のあたりに多くの寺院が描かれている。
これらの寺院がどういう経緯でなくなったかをネットでいろいろ探していると、岩鼻通明氏の『観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌』という論文が目に留まった。そこにはこう解説されている。

「明治維新の宗教政策により神仏習合が禁止され、明治4年に戸隠山顕光寺は戸隠神社と改められ、…一山衆徒は僧形を捨て神職となり社中と称し、また戸隠講聚長を名乗るようになった。しかし1000石の領地は没収され、神社の参道と境内以外は国有地となったため、奥社の社中はそれぞれ里坊のあった中社と宝光社へ移転した。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/33/5/33_5_458/_pdf

抵抗はそれなりにあったとはおもうのだが、戸隠では比較的スムーズに神仏分離が行なわれたようだ。岩鼻氏の前掲の論文にはこう記されている。
「戸隠においては…修験道的色彩は早い時期から希薄となり、農民信仰の移行が速やかに進んでいた。
…このように修験道的色彩が薄れていたため、他の山岳宗教とは異なり、神仏分離や明治5年の修験道廃止令の際にもさほど大きな混乱は生じなかったものと考えられる。実際に戸隠の場合、その対応はスムーズであり、いち早く戸隠山顕光寺から戸隠神社へと変換し、自ら仏教関係のものを撤去したために廃仏毀釈の被害はほとんど受けなかった
 他地域の山岳宗教集落では伯耆大山寺のごとく寺院のまま存続したために廃仏毀釈によりほとんどの院坊が廃絶し、山岳宗教集落としての機能を失った例や共同体内部での神仏分離をめぐる対立により機能が衰退した例が多くみられる。ところが、戸隠においては、社家の栗田氏が対立し離山した以外は、社中の共同体的結合は強固であり、山岳宗教集落の存続に大きく寄与した。」

このようにして戸隠の人々は、生き残るために神仏分離を受けいれて、自ら仏像などを捨てたということのようである。
以前このブログで書いたが、奈良県吉野の金峯山寺の蔵王堂は明治初期に神社とされたのだが、明治19年に仏教施設として認められたものの、山頂にあった多くの寺が失われた。
また同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったし、多くの宿坊は衰退して失われていったのである。戸隠が明治政府に抵抗していれば、もっと多くのものを失っていたことだろう。

杉並木をしばらく歩くと石段があり、ここからの登りはかなりきつかった。

戸隠神社奥社

ようやく奥社に辿りついて参拝を済ませてきたが、コンクリート製の神殿は雪崩の多いこの場所ではやむを得なかったのだろう。調べると明治以降4度も雪崩で奥社の本殿が倒壊してしまっている。現在の本殿は昭和53年(1978)に奥社本殿・休憩所が雪崩で流失したため、その翌年に岩盤をうがちコンクリート製の神殿を中に納める方式で建てられたものだという。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0627.html

戸隠は時間をかければまだまだ観る所がありそうだが、予定の時間を過ぎたので帰途を急ぐことにした。

コットンスノー

この日の宿は、戸隠からは少し距離があるが、白馬村落倉高原のコットンスノーというペンションを予約していた。

コットンスノー夕食

夕食にはオーナーが育てた無農薬野菜や地元の食材をふんだんに使って、美味しい料理が食べきれないほどのボリュームで出てきた。パンもオーナーの焼いたパンというこだわりが嬉しい。前日から和食ばかりだったので、洋食の宿を選んだのだが正解だった。

建物はやや古いが、食事を楽しみながら気さくな奥さんとの会話も弾んで、旅の疲れが吹き飛んだ。
<つづく>
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【ご参考】

明治の神仏分離で修験道の聖地は徹底的に叩かれ、千年以上の歴史のある聖地を守るために、大変な苦労がありました。
興味のある方は覗いてみてください。

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html

修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-396.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html



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Re: 長野
上田市にある生島足島神社はブログを書き始める数年前に訪れましたが、あの頃は旅行ガイドに書いてあったところを漫然と周っていただけで、あまり印象が残っていません。写真を2枚だけ撮っていましたが、土間が御神体とは面白いですね。

その時の旅行では別所温泉で泊まって、善光寺や安楽寺などの寺を巡ってきましたがあの辺りもとても良いところでした。
信州にはこれからも行きたいところがいろいろあります。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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