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なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか

前回の記事で、ソ連が対日参戦したため満州(現在の中国東北地方)から引き揚げてきた日本人の悲劇の事を書いた。民間人を銃殺したり強姦したりしたソ連軍に非があることは言うまでもないが、日本人としては、関東軍がソ連の対日参戦直前に南方に移動したことが許せない。
なぜ関東軍は、満州国境で民間人を護らなかったのか。

ソ連対日参戦

ソ連が参戦した8月9日に日本陸軍が、最初に発した命令はこのようなものであった。

「大陸命第千三百七十四号
命 令
一 「ソ」連は対日宣戦を布告し九日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未た其規模大ならす
二 大本営は国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備せんとす
三 第十七方面軍*は関東軍の戦闘序列に入るへし隷属転移の時機は八月十日六時とす
四 関東軍総司令官は差当り国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備すへし
右作戦の為準拠すへき要綱左の如し
  左記
関東軍は主作戦を対「ソ」作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す
此の間南鮮方面に於ては最少限の兵力を以て米軍の来攻に備ふ
… 」
*第十七方面軍:昭和20年に朝鮮軍の廃止に伴い創設され、朝鮮方面の守備を主な任務としていた。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1945Tairikumei74_80.html

よく読めばわかるのだが、「対ソ作戦」などと名付けられてはいるものの、関東軍は満州国境を守るのではなく「皇土朝鮮」を守るために第十七方面軍とともに朝鮮半島を守れと命じており、わかりやすく言えば、ロシアの国境から朝鮮との国境付近まで後退することを意味しているのである。そして17方面軍に対して8月10日の6時に関東軍の戦闘序列に入れということは、その日までに関東軍は朝鮮国境付近に移動せよと命じていることと同じだ。

その当時旧満州には約155万人の日本人居留民がいたとされるが、彼らを守ってくれるはずの関東軍がソ連侵攻を前に突如姿を消したことを、彼らはどうとらえたのだろうか。

藤原作弥

子供の頃に満州興安からの引き揚げを体験された元日銀副総裁・藤原作弥氏の『満州、少国民の戦記』(新潮文庫)を取り寄せて読み進むと、興安で実際に起こった『葛根廟事件』の貴重な資料である佐村恵利氏の『ああホロンバイル---元満州国興安総省在留邦人終戦史録』の内容を紹介している部分がある。少し引用させていただく。

満州、少国民の戦記

「同史録によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を、北方のオンドルにひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この『興蒙対策』は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせず敵前逃亡したことと、それにより日本人民間人が随所で大惨劇に遭遇したことが最大の理由となっている
。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともに叛乱を起こし撤退した。」(新潮文庫『満州、少国民の戦記』p.323-324)

このように佐村恵利氏は、引揚者達が関東軍は敵前逃亡したと認識していたことを記しているのだが、藤原作弥氏もまたこのように述べている。

「実は、関東軍は、興安街の民間在留邦人や開拓民よりも一足先に、南方へ撤退したという。かねてから興安街は『防備が手薄になればホロンバイルの草原の中で陸のサイパンになる』と軍事上の危険が指摘されていたが、その怖れが現実のものとなった。興安街在住3500人のうち廃墟の無防備都市からの脱出が遅れた約千人が草原をさまよい、ソ連軍戦車の犠牲となったのである。」(同上書 p.66)

この事件が『葛根廟事件』で、避難のため興安街から脱出しようと歩いているところを、15台のソ連戦車軍団による1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、1,000名以上の日本人居留民が命を落としたのである 。

旧満州では同様な事件が他にもいくつかあり、多くの日本人がソ連軍の犠牲になり、満州からの引揚の途上で約20万人が命を落としたと言われている。
当時の満州は、若い男性が根こそぎ軍に召集されていたため、犠牲になったのは、無防備、無抵抗の老人や婦女子がほとんどであったという。関東軍はそのような事態になることを予測できなかったはずがないだろう。

ソ連軍の満州侵攻

前回の記事で大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』の内容の一部を引用したが、今回はその冒頭の部分を紹介しよう。
「第一 全般概況
一、 満鮮方面対『ソ』停戦は、『ソ』側の絶大なる好意と、関東軍総司令部の努力とに依り、極めて順調に進捗し、8月26日現在、安東、錦州を除く全満及び北緯38度以北の朝鮮に於ける停戦ならびに武装解除は完了し、安東、錦州に於いては随時武器引渡しを実施し得る準備にありて…」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

と、満州に居住していた日本人がどんなひどい目に遭ったかを、何も知らないような書き方をしている。ちなみに、1000人が虐殺された『葛根廟事件』は8月14日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』8月12日なのである。

そして朝枝参謀は、この文書の「第四 今後の処置」の中でこう書いている。

「一、一般方針
既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす

普通に読めば、この大本営参謀は満州の日本人は初めからソ連に献上する方針でいたことになる。だからいちはやく関東軍が南下し、8月11日には朝鮮国境に近い通化に総司令部を構えたのだと理解できる。

関東軍がソ連と戦うつもりはなく、満州国領土と居留民を早々にソ連に差し出したことが史実であることを裏付ける証拠はソ連側にも残されている。

関東軍総司令部が1945年8月26日 にソ連軍に提出した「ワシレフスキー元帥二對スル報告」の中で、「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の經營に協力させ、そのほかは逐次内地に歸還させてほしい。歸還までは極力貴軍の經營に協力するよう使っていただきたい」という正式な申し入れを行っていたというのだ。この文書は元関東軍参謀(作戦班長)草地貞吾大佐が数人の参謀と合議の上取りまとめ、山田乙三総司令官、秦総参謀長の決裁を受けてソ連側に提出したことが、近年の草地証言で確認されているという。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf

ワシレフスキー元帥

またワシレフスキー元帥がモスクワに打った電文(8月20日付)も同様なことが記されている。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。…」

http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/63b131d3e8a160d75230a4c62f6bf71d

このように、関東軍は満州としの居留民をソ連のために差し出そうとしたことは確実な事なのだが、このような史実は戦後のわが国では徹底的に封印され、一部の研究者が論文などで引用しておられるものの、ほとんどの日本人には知らされていない。それどころか、真実とは程遠い内容で伝えられているのが現状だ。

日本の証言

元伊藤忠会長で当時関東軍の参謀であった瀬島龍三氏は、平成14年(2002)に放送された『新・平成日本のよふけスペシャル』というテレビ番組で、インタビュアーの「昭和20年7月1日付けで関東軍参謀になられ、この時期の関東軍のおもな任務は『本土決戦に即応する』ことと『朝鮮の保衛』だったそうですが」という質問に対してこう述べている。

「この時期、日本とアメリカは4つに組んで、太平洋で死闘を繰り返していました。そんな時に、ソ連が満州に攻めてきたならば、日本は腹背に敵を受けることになるので、ソ連を押さえることが『本土決戦に即応する』関東軍の役割でした。外交的には日ソ中立条約を守らせるようにし、軍事的には関東軍がソ連軍に対する警戒と抑止にあたるということです。
 それに、当時の朝鮮は本来の領土、すなわち本土ですから、これの『保衛』も、関東軍司令官の任務でした。保衛とは軍事だけではなく、警察をもってする国内の治安の維持なども含まれていたわけですね。」(フジテレビ出版『日本の証言』p.127-128)

番組の司会の笑福亭鶴瓶や南原清隆あたりではこれ以上の突込みを期待しても仕方がないところだが、瀬島氏は肝腎なことを何も語っていない。
そもそもソ連が対日参戦した時期は、既に広島、長崎で原爆が投下された後でアメリカとの戦いはほとんど勝負がついていた。朝鮮半島には第十七方面軍がいたにもかかわらず、なぜ関東軍が朝鮮国境まで引き下がらなければならなかったのか。関東軍が急に南下したために、多くの日本人が犠牲になったことについて、何も語らないのは卑怯だと言わざるを得ない。

前回の記事で、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフが、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人がいたと述べたことを書いたが、『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いた朝枝繁春陸軍中佐も、関東軍参謀の瀬島隆三中佐も、また終戦工作の原案でソ連に可能な限り領土を与えよと書いた種村佐孝陸軍大佐も、いずれもラストボロフ証言でソ連の特殊工作員として訓練を受けたと指摘された人物なのである。ちなみに種村陸軍大佐は戦後、共産党に入党していることを付け加えておく。

いつの時代でもどこの国でも同じことが言えるのだが、自国のためではなく他国のために動こうとする人物が政治や軍隊の中枢に紛れ込めば、国を滅ぼすことはそれほど難しいことではないだろう。
終戦直後のわが国において、わが国の領土の大半がソ連に占領されることを望んでいた者が軍の幹部に何人もいて、終戦工作を立案する立場にいたことを知るべきである
。そして満州にいた日本人は、そういう連中によって領土とともにソ連に差し出されたと言えば言い過ぎであろうか。

スターリン

1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

関東軍はスターリンの言葉通りに、「暴走」して蒋介石の中国との泥沼の戦いに巻き込まれ、その後の日米との戦いで国力を消耗させ、アメリカが広島と長崎に原爆投下した直後にソ連が参戦すると、ソ連に矛先を向けることなく朝鮮半島まで兵を引き、満州をソ連に差出したというのが真相ではないか。

前回の記事で、満州からの引揚者の多くが引揚途上で亡くなり、大変苦労して日本に帰国したことを記したのだが、生き残った日本人の中で少なからずの日本人が大陸に残されたことも書かなければならない。

Wikipediaではこう解説されている
「ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

満州からの集団引上げが1946年の春から開始されて、それにより100万人以上の日本人が帰国したのだが、その後国共内戦が再開したために残された日本人の多くが徴兵されたり、労働者として働かされたという。
その後1949年に共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が誕生し、日本政府は同国と国交を結ばないまま1958年に集団引揚を打ち切っている。
そして文化大革命などの混乱期が過ぎたのち、1972年に日中国交正常化がなされたのだが、日中両政府とも中国残留日本人の問題解決に熱心ではなかったという。

山本慈昭

その後、長岳寺住職の山本慈昭を中心とした肉親の活動により、1981年からようやく中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、6700人以上の日本人が帰国できたのだが、わが国政府の取組みはあまりにも遅かった。
帰国出来たとはいえ、孤児の多くは幼少の頃から充分な教育を受けないまま何十年も経過して壮年となっており、現在でも約9割が未だに日本語が習得できていない状況だという。当然のことながら日本での社会適応力は乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けて、ボランティア団体の寄付金などで生活をしているのが現状なのだそうだ。

中国・樺太残留邦人

厚生労働省のホームページの中国残留邦人、樺太残留邦人の統計が纏められている。
これを見ると残留邦人が問題となったのは中国大陸がほとんどで、特に樺太では残留孤児問題がほとんど存在しないことがわかる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/bunya/engo/seido02/kojitoukei.html

ソ連占領前は南樺太に40万人の日本人民間人が居住していていたのだが、関東軍とは異なり樺太では、日本軍は19日に武装解除命令が出るまでソ連軍とよく戦ったのである。
そして、居留民は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女を優先的に船に乗せて北海道に避難させ、ソ連軍に占領されるまでに10万人以上が船で島外避難に成功している。

大津敏男

その後も樺太庁長官の大津敏男が、樺太住民の生命と安全を守るべく奔走したそうだが、樺太に残留孤児がいないのはそういう努力が実を結んだことによるという。ちなみに、樺太庁長官の大津敏男は、1945年12月30日にソ連軍によって逮捕され、ハバロフスク裁判を経て、ハバロフスクに抑留され、1950年に帰国のあと、1958年に心不全で亡くなったという。こういう人物の名前は永く記憶にとどめておきたいものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%95%8F%E7%94%B7

樺太は満州よりも日本本土に近かったという地の利もあるが、軍隊も役人も、居留民の命を守るために必死に戦った事を知れば、満州における関東軍の異常さが誰でもわかると思うのだ。
日本軍の中枢がソ連と繋がっていて、関東軍は大本営の命令により、満州の土地だけでなく居留民をもソ連に差し出したという真実が、わが国で広く知られる日は来るのだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html



関連記事
Comment
しばやんさん。いつも楽しく読ませて頂いております。
自国の国益よりも他国の国益を優先する輩はいつの時代にも居ますよね。
現代でも、日本のことよりも、アメリカ、中国の顔色伺う輩の多いことに「今も昔も変わんないな」と思います。
私個人として、中国の脅威もさることながら、やっぱり注意すべきはアメリカで、こんなふざけた国に、いいように振り回されている現政権も注意すべきですね。
しばやんさんの、近代における共産党の日本への影響についての論文は非常に勉強になります。
これからも、楽しみにしております。
8月時点の関東軍の構成
漫画家の、おざわ ゆきさんの作品に「凍りの掌」があります。
彼女のお父様が、シベリア抑留されていたことを、聞き書きなさった作品です。
お父様は、昭和20年1月の大学在籍中に徴兵され、満州北部に送られたそうです。
到着したときには、関東軍本隊は南方へ送られて既におらず、国境地帯には、兵隊とは名ばかりで、武器も持っていない彼らが守備隊として取り残されたとのこと。
いままで、「関東軍が南方に送られたあと、徴兵された老人と若者が守備隊に狩り出された」とは聞いていたので、満州国にいた人たちを集めたのだろうと思っていました。
わざわざ日本国内で徴兵したての人たちを、満ソ国境地帯に送っていたとは思いもしませんでした。
http://www.amazon.co.jp/%E5%87%8D%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%8E%8C-%E3%81%8A%E3%81%96%E3%82%8F%E3%82%86%E3%81%8D/dp/486225831X

関東軍として南方に転戦した方の手記(移動年は記載されていないが、おそらく19年中に移動)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_379_1.pdf#search=%27%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D+%E5%8D%97%E6%96%B9+%E7%A7%BB%E5%8B%95%27

17歳で、航空兵として満州で終戦を迎えた方
http://shounen-hei.blogspot.jp/2010/02/blog-post_16.html

昭和19年の時点で、本来の関東軍は既にいなかった。自分たちのように早期徴兵された少年と老人ばかりだったという証言
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec05/cont00/docu193.htm

「当時の満州は、若い男性が根こそぎ軍に召集されていた」=「関東軍の一部に組み込まれている」ということですから、関東軍は民間人を守らなかったというのは、関東軍とは名ばかりで、武器も渡されず、直前までも民間人だった人が、関東軍には沢山いたことも原因の一つだと思います。

私の父親は樺太生まれです。その長兄である叔父は、終戦からそれほど前ではない時期に、30代後半で応召して満州に送られたとのことです。
終戦の日のあと、一度は実家のある樺太に帰還することができたのですが、樺太を占領していた部隊が、「ソビエトに刃向かった軍人である」という判断をして、再び樺太からシベリアに送られたそうです。昭和24年に舞鶴に帰国したときには、自ら立つこともできなかったとのこと。
「軍籍にある」ということが、捕虜とする根拠だったとしたら、関東軍を移動させた後に、満州中の民間人男性を徴兵し、満州以外の土地からも大学生や男性を集め、ほぼ丸腰のままで満州に送るという判断が、なぜ行われたのかが疑問に思えます。
Re: タイトルなし
立川さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

おっしゃる通りですね。江戸時代以前にはさすがにほとんどいなかったと思いますが、ひどくなったのはやはり昭和時代からなのだと思います。今も世界中に、スパイが活動しているのでしょうが、現在のわが国は『スパイ天国』などと言われているようです。

わが国にも『スパイ防止法』が必要ですね。


Re: 8月時点の関東軍の構成
ラングドック・ラングドシャさん、コメントありがとうございます。

お父さんはシベリアで4年間も大変な苦労されたのですね。それでも生きて帰られてよかったです。

私の父は、肺病で徴兵に合格しませんでした。10年前に他界しましたが、あまり戦争の話を聞くことが出来なかったのが残念です

もしラングドック・ラングドシャさんのお父様が健在でしたら、シベリアや樺太の体験の話を、是非書き残して欲しいです。

わが国のマスコミも歴史学者も、ソ連の犯罪を国民に伝える努力が不足しています。出版物も少なすぎるように思います。
ネットで一部の方が体験談を書いておられますが、もっともっと体験された方の文章が読みたいです。紹介いただいたURLの記事もあとで読ませていただきます。貴重な情報をありがとうございました。
樺太
書き方が悪くてすいません。シベリアに抑留されたのは父の兄です。連れて行かれたときには、たぶん37歳くらいだったのだと思います。
父は、引き揚げまでの2年ほどを、ソビエト占領下の樺太で過ごしたそうです。30年近く前になくなりましたが、本当にいろいろ聞いておけばよかったと思います。
戦前には、住んでいた町に頼母子講があって、積立金で一年に一夫婦を代表として、千葉の成田山へお参りに送り出していた。一年に一回お土産で貰う米屋の羊羹は、内地の味がして美味しかったなどと、開拓地ならではの話をしていました。
酒が入ると、ロシア語でカチューシャを歌ったりしていましたが、占領時の話は、ほとんどしませんでした。
持ち出し禁止になっていたのを、苦労して持ち帰ったという樺太の写真もあるのですが、最後に残ったきょうだいになる、90歳の父の姉である叔母に見せても、もう記憶には残っていないようです。

それにしても、多くの人が無事に引き揚げができたのは、本当に当時交渉に当たった方々の努力によるものだと思い、ありがたいと思います。
その陰で、炭鉱等で働いていた半島出身の方々は、そのまま樺太に取り残されたそうです。
ソビエトが帰国させたのは日本人だけで、独立国となった韓国とは国交がないという理由で、彼らは帰国をさせなかったとのことです。
その後、この残留した人たちのことは、いろいろ政治的に利用され続けているようです。いま検索したら、こんな本がありました。

サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか 新井佐和子 草思社  1997
http://www.amazon.co.jp/サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年-新井-佐和子/dp/4794207980

この本を知るきっかけとなったブログ。引用が多く、とりあえず問題点は解りました。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/09/post_14.html
こんばんは。いつもお世話になっております。
小さい頃に、中国残留日本人孤児の方々の肉親へのメッセージ番組をテレビで見た記憶があります。

パパ、ママ、と聞こえた言葉は、今も耳に残ります。
初めは親兄弟と再会出来ていたのに、年月を経て次第に身元判明に至る方が減り、何の手がかりも掴めずに離日されるようになっていた気がします。

私の両親が「遅すぎる!」とテレビの前でいつも怒って泣いていました。

帰国されても母国に馴染めず、日本を離れる方のドキュメントも見ましたが、同じ日本人のはずなのに、と一層悲しくて腹が立ちました。

しばやん様の記事を拝見して、この政策も喉元過ぎたので忘れられてしまったのかなと思いました。
Re: 樺太
ラングドック・ラングドシャさん、すみません。きちんと書いてあるのを勝手に誤読してしまいました。失礼しました。

樺太に韓国人が残った話は知りませんでした。情報ありがとうございます。

戦争の話は、私の父も母も話したがりませんでしたし、私も長い間「日本軍が悪いことをした」と洗脳をされてきたので、若い頃は聞きたいとも思いませんでした。

高度成長期に私の親の世代は実家を離れて働く者が増えて家族が分断され、私の世代も地域の人々がバラバラになり、戦争を経験した世代は田舎で閉じこもってしまったので、私前後の世代以降は戦争の真実を聴くことが十分に出来ていません。

戦争の体験を書きつづった本は決して多くはありませんが、少しずつ読んで勉強したいと思っています。
Re: タイトルなし
つねまるさん、コメントありがとうございます。

国策の為に満州の開拓に送られた人々は本当に可哀そうです。日本軍に見捨てられて、ソ連兵に多くが虐殺され、大陸に残された日本人に救いの手が伸びたのがあまりにも遅すぎました。日本人であるのに、親族が名乗り出なかったために離日した方はさぞ悲しかったことでしょう。

私も随分昔にテレビで見た記憶がありますが、わが国が残留邦人に冷たかったのはなぜだったのかを、もっと深く追求して欲しいところです。
日独合作映画『新しき土』
はじめまして。昨日からしばやんさんのブログ、食い入るように読み漁っています。自分は小津安二郎・原節子が好きで戦前の白黒映画を見てたのですが、終始エレガント、ニューマニズム全開で、ラスト唐突に満州に移民していく国策映画があります。『新しき土』もそうです。衣裳、所作、道具から裕福なインテリ層が制作していると思います。しばやんさんのブログ見ると、たしかに日本の中枢、インテリ、軍需産業のブルジョワにアカがいたかもしれません。
Re: 日独合作映画『新しき土』
イバラードさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

私の学生時代には、経済学といえばマルクス経済学の教授が大半を占めていましたし、大学近辺の古本屋には昔のマルクスやエンゲルスなどの全集などがびっしりと並んでいました。私の親の世代は、相当程度共産主義思想が拡がっていたことは、古本屋に並んでいた本を思い出せば直感的にわかります。
しかし、当時の地方では相当生活が苦しくて娘の身売りなどがあった時代であったことも重要で、貧富の差が拡大してマルクス思想が急激に広がる素地があったと思います。

戦前の映画がテレビで放映されることはほとんどなくなりましたが、昔は時々テレビで観たりビデオを観たりして楽しんでいました。『新しき土』という映画は観た記憶がないのですが、たまには古い映画を観てみようかと思います。
プレスコード
しばやんさんの親世代と同じく、自分の母親1945年生まれもいまだ共産主義思想です。母は職場の公務員労組でオルグされてましたね。組織に入ると日本人はオルグされやすい。陸軍組織もそういう性質はあると思います。

話は変わりますが、自分の叔父にカナダ移民2世で佐世保基地にGHQ通訳として来日、日本人の叔母と結婚し帰化した者がいます。今90才くらい。叔父さんはプレスコードに関係していたかもしれません。
Re: プレスコード
「オルグ」という言葉は、学生時代に民青の連中が良く使っていました。ちょっと懐かしいですね。いまの学生でも使っているのでしょうか。
公務員でも高度成長期の頃に労組でオルグをしていたのですね。省庁によってレベルの差はあったのかもしれませんが…。

以前私のブログでGHQの検閲官として働いた横山陽子さんのことを少しだけ書いたことがありました。『諸君』の記事によると「彼女の父が現金で500円しか現金で給料がもらえなかった時代に18歳の時の横山さんの最初の月給が450円で、上級になったときは家族が養えるくらいの3000円をもらい、昭和23年に結婚して仕事を辞めるころには8000円も貰っていたし、辞めてからも差額を3か月頂いた」とあるので、検閲官という仕事は非常に待遇が良かったことがわかります。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html
良かったら覗いてみてください。
朝鮮半島
 朝鮮半島にもたくさんの日本人がいたわけですが、残留孤児が話題にならないのは、なぜですか。ちょっと調べてみましたが、結局朝鮮人は日本人の存在を許さなかったと言う事でしょうか。
 いつも素晴らしい記事を拝読しております。ありがとうございます。

 山本五十六と吉田茂について、何か見解がありましたら、そのうち記事にしていただけると嬉しいです。なぜ吉田は改憲を目指さなかったのか。群の創設を嫌がったのか、興味があります。
Re: 朝鮮半島
Cherry Blossoms さん、コメントありがとうございます。

朝鮮半島では、日本人はかなりひどい目に遭ったようです。
次のURLは読まれたかもしれませんが、正論 2005 年 11 月号 『引揚民間人を襲った掠奪・暴行・殺戮の嵐』という論文が引用されています。
「北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38 度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。
(中略)
 吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17 になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。」
http://resistance333.web.fc2.com/html/japan_korea_merger2.htm#3

二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から2か月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮28人で一番多かったわけですから、あとは推して知るべしですね。

山本五十六と吉田茂でCherry Blossomsさんの満足のいく記事が書けるかどうかは分かりませんが、もう少し時間を頂いて、いつかチャレンジしたいと思います。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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